岩魚飼ふ大雪山の雪解水 長谷川櫂

所収:『蓬莱』 2000 花神社 

長谷川櫂も前書で述べているように、大雪山にすみなす岩魚すなわちオショロコマは、太古の昔に湖が陸に封じ込められてから独自の進化をとげた岩魚と言われている。が実際のところは陸封型だけでなく降海型もいるようである。しかしながらオショロコマの個体数は減少の一途を辿っており、現在は殆どが陸封型とも言われているから長谷川が前書で書いているところも間違っているわけではないのだろう。

大雪山というのはタイセツザン、と呼ぶ。北海道の中心部を貫く峰々(北海道最高峰の旭岳、活火山の十勝岳などなど)をまとめてそう呼びならわし、大雪山という山が存在するわけではない。大雪山は7月ごろまで雪渓が残り、蒼く澄みきった山容はいかにも北海道の山と言った感じがする。

さて、その雪解水で、大雪山は岩魚を飼っているのだと長谷川櫂は述べる。ここには多少の擬人化がある。けれど思えばアイヌの人たちも、山々を男女の神々に見立て、様々な神話を作ったことを思えば、この擬人化は心地よく受け入れられよう。たしかに鈍く照り輝く岩魚のうす翠いろの肌は、神の恩寵に思える。

記:柳元

しづかなる水は沈みて夏の暮 正木ゆう子

所収:『静かな水』春秋社 2002

 句集のタイトルにもなっている有名な1句。多くの人が知っているにも関わらず、敢えて取り上げるのは上手い鑑賞ができるからでなく、夏を迎えると毎年思い出してしまうからだ。
 日が暮れると夏の空は藍色へと変わる。それを映して川や池の水の表情もまた複雑に変わる。「しづかな水」と書かれることで、水には色んな水があること、水の複雑な表情を思い出す。僅かな日差しを反射する「眩しい水」、しぶきを上げて勾配を下る「せわしない水」、水面を微かに波立たせる「ゆるやかな水」、それらより深いところに、夕暮れの藍よりも深くある「静かな水」。様々な水に思いを馳せた最後に「静かな水」に思いを馳せると、安らぎとも、さびしさとも言いえない感覚を思い出す。例えば、小学校から家まで川沿いの道を歩いて帰った時のこと、釣りを終えて道具をしまいながら見た池のこと。
 「しづ」、「水」、「沈」のz音の連なりが水の静けさの深く深くへと誘ってくれる。
 気に留めていなかった感覚をピタリと、しかし余白を残しながら言い当てた1句。

花火 これ以上の嘘はありません 福田文音

所収:黒川孤遊 編『現代川柳のバイブル─名句一〇〇〇』理想社 2014*

 そんなにもはっきり言ってしまうなんて、と驚きで虚を衝かれた。花火という、どう考えても、どう書いても綺麗に映ってしまうような現象を、「これ以上の嘘は」ないとバッサリ断ち切る。その潔さにかっこいい、と思う。

 この「これ以上の嘘はありません」については、読みがいくつか考えられる。花火が嘘であるとして、(花火と、それにまつわるものに対して)否定的な見方をしているようにも考えられるし、花火を嘘としつつも「最上の嘘である」と、嘘の(ような)輝きを褒めている、ともとれる。どちらもが混ざっているようには思うが、私としては前者に傾けて読みたい。
 というのも、これは俳句とは違って川柳である。これが俳句であれば、季語を綺麗に高めようとするのではないかと思う。嘘のようにきれいな花火、と花火に帰ってくるような作り方で。しかし、「花火」のあとに一字空けをして即座に嘘だと否定するのは川柳らしく、季語(としての力)が無効化されている。花火という夏や秋の現象だけでなく、「花火」と発せられた会話や、そう書かれた文章もここに含まれているような感触がある。
 そのため、書いてしまえば美しく「なってしまう」ものに対して、それに何の気を遣うことも、恐れることもなく、美しさを簡単に出して楽しんでしまっている人たちに向けて、そんな嘘ある? と責めているように感じられる(私だけが被害妄想的にそう読んでいるだけかもしれないが)。

 ただ、このメッセージは、同様に、この句自身にも適用されることになるだろう。「これ以上の嘘はありません」と指摘する材料として、嘘みたいに美しくて(俗な表現をするならば)エモい「花火」を持ってきているわけで、この句自体も、その「嘘」の恩恵を受けていることになる。
 しかし、無自覚に発言するのと、それを「嘘」と分かっていながら敢えて使うことには差がある。表面的には同じ「花火」でも、この主体から発せられる「花火」の方が信頼できるだろう。――と書いてから気づいたが、「嘘」と分かっていながら使うのは、本当に信頼できるだろうか。それはずる賢く乗っかっているだけで、むしろ、純粋に無自覚な方が、まだいいのではないか。でも、無自覚な、言ってしまえば暴力的な使用と、それに気づいて「嘘」だと指摘することは、大きく懸隔しているから問題はないのか……?

 とぐるぐる考えるに至る。少なくとも確実に言えるのは、この句を、最初に書いたように「花火を嘘だなんて、かっこいい」だけで終わらせてしまっては、「花火」と同じである、ということである。この句によって何が問題視され、これを言うことでこの句の中で何が起こっているのかを考えていくことが、この句の(誠実な)味わい方なのではないかと私は思う。

 私は、これが川柳であることから、例えば俳句の季語を思い浮かべる。この句の「花火」には「桜」「月」「雪」「風光る」「五月雨」と季語を入れてみても、同じようなことが言えるようにも思う(掲句の、花火であったからこその妙味からは離れてしまうが)。蓄積、と言ったら聞こえはいい表現だが、これも良い良いと言われ続けてきた単語にすぎない。その単語を出すだけで、今まで積み重ねられた良さ、文脈、作品を良いように得られる(得ないようにしようとすると、かなりの困難が付き纏う)。もはや嘘として楽しんでいる節もある。もちろん、そこが良さでもあるから、バランスが大事になってくるだろう。
 俳句に限ったことではないが、何か言葉を発するとき、言葉を使用することで生まれる効果や、言葉と同時に利用しているもの(権力、蓄積など)に、鋭敏に反応していかなくてはいけないと思わせられる作品だった。

*当書には出典等明記されておらず、私も初出が調べ切れておらずアンソロジーからの孫引きになってしまっている。確認でき次第追記したい。

記:丸田

梅雨寒し忍者は二時に眠くなる 野口る理

所収:『しやりり』ふらんす堂 2013

 ちょうど、昨日今日が「梅雨寒し」だろう。
 「忍者」なんて俳句では中々見かけない語だけれど、「忍者は二時に」(ninja wa niji ni)の音の反復が生み出すリズムのよさで、浮くことなく1句の中に馴染んでいる気がしてくる。「梅雨寒し」(tsuyu samusi)「眠くなる」(nemuku naru)の「u」音の連なりもリズムを生んでいるかもしれない。声に出して読むと非常に楽しい。
 書かれてあることは非常に滑稽だ。忍者には深夜2時でも見張り(?)のような仕事があるのだろう。それでも季節外れの寒さに、それとも一定のリズムを刻む雨の音に眠くなってしまう……。
 内容が滑稽なのは勿論、断定の思い切りの良さという表現の面でもおかしみが滲んでいる。だんだん「忍者は二時に眠くなる」というタイトルのB級時代劇コメディーがあるような気がしてきた。

記:吉川

そんなにいい子でなくていいからそのままでいいからおまへのままがいいから 小島ゆかり

所収:『獅子座流星群』砂子屋書房 1998

 永田和宏『現代秀歌』で出会ってからもう四年ほど、良い歌だと思いつづけている。いい子でなくていい、おまえのままがいい、というのもシンプルに嬉しい(子目線で)が、それを急いで言おうとしている母の、切迫した感情に心を引き付けられる。「そのままでいい」では伝わりきらないと思った部分を、すぐに伝えようとして「おまへのままがいいから」と足す。「で」から「が」の、変更に思いを馳せると、いつでも、少し泣けてくる。
 リズムは、定型に近づけて読むと〈そんなにいいこで/なくていいから/そのままで/いいから おまえの/ままがいいから〉くらいになるだろう。ただ「いいから」の連呼と、次々に言い足していく(言い直していく)速さで、〈 そんなにいいこでなくていいから/そのままでいいから/おまえのままがいいから 〉と三分割で読めてしまうなと思う。平仮名が多いこともあり、本当に自分が言われているような(もしくは感情移入して、自分も言っているような)気持ちになる。

 ところで、好きな短歌を紹介しあう企画をある歌会で行ったとき、私はこの歌を紹介した。子供目線でも親目線でも、ありのままを受け入れる/られる温かい喜びと、親子特有の「願い」の胸の締まるような感覚が良い、とその場で鑑賞した。すると、一人が首をかしげて、「私は怖い」と言った。「何度も言ってくる感じが、そうあるように強制してくるみたいに感じて、怖い」。たしかにそうも読めるかもしれない。誰が、どういう表情でどう言っているかという映像が、こうも変わって見えるのは面白いなあとそのとき思った。愛や願いは、ときに拘束にもなる。
 ただ私は、あなたのままでいて欲しいというメッセージを発するときに「そんなにいい子でなくていい」と始まるのは、拘束になるかもしれないことを思いながら、陰ながら無理しないでねと言いたいんだろう、と思う。そこからどんどん愛情や本心が洩れだしてしまう。どうであってもいいんだという深い肯定。
 自分が数年、十数年と成長していったとき、この歌がどう見えるのか、どの思い出が刺激されることになるのかを今から楽しみにしている。

記:丸田

夜の雲に噴煙うつる新樹かな 水原秋桜子

所収:『季題別水原秋桜子全句集』(明治書院 1980)

 ここ一週間ずっと考えてしまう句、なるほど新樹なんだなと分かるようで、自分は逆立ちしてもその選択をしなかっただろう。というよりも出来なかっただろうと思う。

 ほの白い夜の雲に噴煙が映っている。中七で軽く切れて、下五は取り合わせのように作用していると読んだため、新樹がここに来ることに驚いた。というのも、新樹はイメージとして陽光を引き連れるので、光の具合が喧嘩してしまいそうであること。また、うつると言った時点で月光が差しこむ様子が見えて、微妙な色彩と立体感が生まれているのは明らかである。それなのにわざわざ下五でもう一度、光を読み手に意識させる必要があるのか、などと別の語のほうが面白いと考えたからだ。

 ただ、これはイメージからの凝り固まった見方であり、イメージや情報として季語がある以前に、現実の物としての新樹があり、当然のことながら夜にも新樹はあり、そこには匂いや手ざわりもあるのだ。掲句は『ホトトギス雑詠選集 夏の部』(朝日出版 1987)にも載っている端正な写生句である。 歳時記から季語を選んでつける方法では、新樹を持ってくることは出来なかっただろうと、個人的に思った次第である。また、イメージとしての違和やノイズがある分、現実よりリアルな景にも思えてくるのだが、どうなのだろう。

記:平野

鯉涼し水を忘れしごとく居る 森澄雄

『所生』1989 角川書店

鯉が泳いでいる。ゆっくりと鰭に水を打ちつけて前進する。ときおりすっと屍のように浮き上がる。そして気まぐれに沈んでゆく。そこに意思ありやなしや。そういう鯉の容態が、自分の身体的な肌感覚に引きつけられた「涼し」という季語で掲句においては捉えられている。これによって、鯉が涼しげに泳いでいるのだという鯉の泳ぎの容態の形容でありながらも、どこか涼しいという言葉を通して、自分と鯉の身体感覚が接続されるような感覚があるのではないか。鯉が涼しいと感じれば私も涼しく、私が涼しいと感じれば鯉も涼しいと感じるような。「鯉涼し」というのはそういう上五であると思う。

そして、そういう風に鯉と身体感覚がシンクロしたとき、鯉の周りの水がふっと薄れて、鯉がただ一匹、宙に浮かび上がっているような、そしてその鯉自体がわたくしであるような、そんな感覚になる。「水を忘れしごとく居る」というのは、まさしくそういう瞬間をいうのだろう。私たち人間が、普段吸っている空気の存在を忘れているように、鯉もまた水を所与のものとして受け取っているのである。

記:柳元

青嵐あなたにはこゑをもらつた 小川楓子

所収:『天の川銀河発電所 Born after 1968 現代俳句ガイドブック』左右社 2017

 季語と印象的な台詞が取り合わされた1句。
 「あなたにはこゑをもらつた」というフレーズ。私は日常的に声を発するから「こゑ」を得て話すことができるようになった瞬間のことは分からない。けれど「こゑ」を貰ったその瞬間には生まれ変わったかのような瑞々しさがあるだろう。生まれ変わった感覚で感じる世界は瑞々しいだろう、と想像する。
 このフレーズに配される「青嵐」という語は青葉が茂る時期の強い南風のことだ。ただ、夏の生命力を感じさせるだけでなく、青嵐が触れたところから世界が瑞々しくなっていき、青嵐と共に視界が広がるようなそんな印象も受ける。
 「青嵐」、情報のない「あなた」、「こゑ」とこの句からは明確な景色が立ち上がることはない。ただ、茫漠とした視野に青嵐が吹き、そこに「あなた」に「こゑ」をもらった記憶がオーバーラップする。「こゑ」をもらうという掴みどころのない体験を、青嵐を配することで掴みどころのないままに、その感覚を明確に表現しているようなそんな気がする。上手く言えないのだけれど、白紙に線が書き加えられるようなそんな鮮烈な一瞬をこの句に思う。

記:吉川

父に雉啼きゐて濡れてゐない沖 柚木紀子

所収:『岸の黄』角川書店 1990

 父に雉が啼いている映像を、濡れていない沖に繋げていく。初めは像が不鮮明でも、考えていくほどに脳内で光景はなめらかになっていく。脳内で映像が溶接されていくときに発生する微かな閃光のようなものが深く心地いい。

 この句からは多くの映像が見えてくる。そして同時に、それを見せるための工夫も見えてくる。「父」「雉」「啼き」「ゐ」「沖」など i や ki の音による特徴的な韻律。「ゐて」と「ゐない」を一句に同居させていること。「父」と「沖」という二拍分の漢字一字で始まり終える構成、「濡れてゐない沖」という撞着語法的な表現。
 この過剰なほどの修辞等の工夫が、良くも悪くも、景をあやうく立ち上がらせる。それは非常に不安定である。言語が先に走っているような「濡れてゐない沖」とは果たしてどんな波を起こしているだろうか(「濡れてゐない」は雉に掛かっていて、沖が最後にぽつんと置かれているようにも読めるかもしれない)。本当に雉は「父に」啼いているだろうか。登場する父と雉と沖は、私にどう観測されているだろうか(同時に見えているのか、時間差があるのか、現実/非現実なのか)。

 この句についての鑑賞から少し離れてしまうかもしれないが、関連して述べたい。私はこのような過剰に操作されたように見える(表現がどう見えるかに特に集中して作られた)句が非常に好みで、ときにステンドグラスを想う。

 区切られた一部分の硝子の色だけを見ていれば分からないが、隣の硝子との繋がり、さらにはもう一つ遠くの、もう二つ遠くの硝子との繋がりを見て、曖昧な理解とともに視点を引いていくと全体像が見えてくる。理解がそこでようやく至る。しかし、基本的にステンドグラスは、初めからそういう見方はされない。先に全体像が見えていて、よく細部まで目を凝らすと、全体像からは遠く離れたシンプルな色が枠の中にただあるのが分かる。
 俳句も、上から一つずつ読んでいくとは言え、短さとリズムから、ほぼ初めから全体が見えている。そこから一つずつ表現を分析していくことになる。そういう意味ではステンドグラス的な鑑賞をしている。
 が、今回の掲句のようにレトリックが先行しているような句では、全体像がぼんやりとしか見えず、逆に個々の繋がりが先に分かってくる。そして繋がりから、全体像が鮮明に見えてくる。しかしそれは水を泡が上がっていくような自然な「見えてくる」ではなく、必死に見ようとして、個々を統合してようやく「見ることが出来る」あやうい一瞬の全体像であったりする。そのため、見るたびに変わっていたり、深く見ていくほど、簡単に像がほどけていく。
 この全体像が立ち上がり崩壊し立ち上がる特有の感覚に心惹かれる。見ようとしなければ見えない上に、深く見ようとするとかえって見えなくなる世界。
(一応補足として、もちろん、全ての句が多少なりとも表現にはこだわられているだろうし、細かく見れば全体が変わりうるという性質はレトリック先行の句に限るものではない。)

 鑑賞に戻り、最後に、「父」と「沖」が登場している高柳重信の句を紹介しておきたい。〈沖に/父あり/日に一度/沖に日は落ち〉、〈凧あげや沖の沖より父の声〉。柚木の句もそうだが、沖とともに存在することによって、空間を強く意識して父が存在させられているように思う。父という自身にとって強固であるような存在が、沖と並ぶことで、空間に向かって、稀薄になっていくような。しっかりとありつつ、しっかりと無い。雉は、本当に「父に」啼いているのだろうか? 父を通して、その先の虚空に啼いているのではないか? と句をステンドグラスのようにぼんやり眺めていて思う。

記:丸田

手をあげて遠のくものや稲光 川崎展宏

 所収:『観音』(牧羊社 1982)

 三橋敏雄には「手をあげて此世の友は來りけり」(『巡禮』 南柯書局 1980)

 同時期に書かれた句ではあるが、そこに意味はあまりないだろう。それよりも、戦時下に青春期を過ごした作家、または世代に特有の感覚があると思う。それは、自分が生きているのは偶然であり、戦後はついでに生きている余生のようなものだ、という感覚。

 「手をあげて」は天皇陛下バンザイと進んだ人びとの姿とも読める。掲句が発表された当時の読者は、実体験と簡単に結びつくのかもしれないが、現在ではこの読みはともすると読み過ぎになるだろう。どちらが誠実とかいう話ではなく、句を鑑賞することの困難さを感じる。時間的なものが間に横たわっていれば、いるほど。

 戦争と結びつけて考えるならば、遠のいていく仲間の背をただ見送るしかない、そこには哀悼の意が込められているはずだ、と後世に生きている自分は思う。しかし、そんなに甘い感傷ではなく、もっと苛烈な感情があったのかもしれない。

                                    記 平野