朱鷺(ニッポニア・ニッポン) 柳元佑太

朱鷺(ニッポニア・ニッポン)   柳元佑太

石斧(せきふ)もてば觀念論者たる人よ花粉の河のとはの水切

全て虹彩は光の車輪なりや疑ふならば子猫の眼を見よ

濤音は濤より白く濱を打ち英語讀本(リーダー)に未完の冒險譚

朝に夕(け)に思ひ出す、ネモ船長はノーチラス號と共に沈みき

稻妻は靑を媒介とする電流、ダ・ヴィンチ手稿に魚釣のことも

逝く夏の洗ひ晒しのかひなとは汽車を知らざる靜脈鐵路

流星は例へば銳目(とめ)を持つと思(も)ひ阿修羅三面淚眼の晝

鶉溶けて潦なす夕まぐれ前職の源泉徵收票受く

言語野の草木全き紅葉してゐるかあるひはプシュケの火事か

蜜蜂の羽色は薄く黃金がかり植字工の掌に渚廣がる

まひるまのかの繩跳の少女等も繭と化す頃野菜屑煮らる

頬削る泪(なだ)こそあらめその溪に一匹の魚棲まはせむとす

朱鷺(ニッポニア・ニッポン)、戦後の恩惠としての拉麵、その油膜美し

鷹派政治家が料亭で魚を突き今や鼬の形狀とる風

氷且つ火なるは晚年のカント、土星とはとことん無縁の

金木犀とは金曜から木曜へ逆流する犀の群れのことなりき

象の記憶の新築增改築を請け負ふ施工業者のAutumn intern

敏感型皮膚炎(アトピー)の處方箋には天道蟲が祕めてゐる星空を處すとこそ

月の光は稀に凝固の針をなせり電氣冷藏庫から氷取り出す

猫にもながき夢精やあらむ月氷る一ト夜の月の光の中に

ぼくら幽靈(ゴウスト)だつたのだ、幾たびでも叩けば修繕る舊式のテレヴィ

もはやわれら水槽に浮く腦とほぼ異ならずとはにYouTube觀る

花粉てふ花の精子(スペルマ)浴び盡くし鼻炎か極東のアイヒマン達

ポッド湯沸の音聽きいざ腦內の都市を絨毯爆擊しにゆかむ

稅とりたてられ希死觀念も奪はれ、庭の茄子に充足しゆく紺いろよ

輕症い躁より逃れさす輕症い鬱欲してゐたり……土星近く來

葦船に吾を載せしは誰ならむ 吾なりき 明日視る夢のなかにて

水蛭子とは誰れの名なりやまかがやく渚に坐してとはの足萎

暗がりを好んで步む驢馬があり遙か彼方のからすむぎまで

敎育が國家の柱 輸入品カーペットのペガサスの毛皮よ

すすり泣く儀式からずり落ちる 榊陽子

所収:小池正博編『はじめまして現代川柳』(書肆侃侃房、2020)

「儀」の字の右側は、羊の首と、ぎざぎざの刃がついているノコギリの象形で出来ている。

 この句を大きく方向づけているのは「ずり落ちる」という単語である。「すすり泣く儀式」までは、そういう式典もあるだろうとふつうの想像の範囲で収まるが、「ずり落ちる」となると、ただの儀式ではなさそうな気配が立ち込める。

 ずれて儀式からドロップアウトした、その先はどうなっているだろうか。「儀式」が異常そのものであり、そこから脱出できた、ずり落ちて正常な現実に戻れた。もしくは、「儀式」の場自体が正常で、自分自身の方こそが「ずり落ち」て変な方へ行ってしまった。どちらでも考えられる。眠りから覚めるようでもあり、眠りに落ちるようでもある。

 どちらにしても、「儀式」という場から、ずれながら(ずれてから)落ちている。停電したときのようにいっぺんにではなく、徐々にすべりながらである。
「すすり泣く」のが「ずり落ちる」の主体と同一であるかどうかは分からないが、この「すすり泣く儀式」に半身を残しながら自身が去っていく感覚が非常に妙で独特である。短いながらも意識の溶暗が感じられて、対照的に「儀式」の力も強くなっていく。

 この「ずり落ちる」が存分に発揮されたのは「から」のおかげだろう。「儀式から」と儀式を直接相手取ることで、儀式全体と自分が直で繋げられることになった。そして何がの部分を特に言わないことで、「私が」以外に意識、記憶、時間、魂、体の部位、自分に憑いている霊、と色々なものが代入できることになった。まるごと全体、自分に関連するすべてのものごとずり落ちたようにも感じられる。

 どんな儀式なのか、そこから具体的に何が「ずり落ち」たのか分からない状況で、味が出てくるのが「すすり泣く」である。なんだか(主体かもしれない)誰かが悲しそうにしている。それは自発的に悲しくてそうなっているのか、狂信的に洗脳されて自動的に泣いているのか。でもやはり、「むせび泣く」や「泣きじゃくる」など他の言葉と比べると、より寂しそうな、哀しそうな気がする。

 この文章の始めに、儀式の儀という字の不穏さをアピールした。私は直感的に、まずい儀式のなかで意識が飛んでいく句だと思った。いけにえになる人物が、死の直前になって泣いていて、それを見ながら意識が落ちていくような。
 ただ、この「すすり泣く」が、本当に悲しそうなものであるとすれば。初めに触れたように、自分が「すすり泣」かれる側なのかもしれない。この儀式は葬儀のことを指していて、自身は既に死んでしまっており、遺影側から見ている。参加者として来た親しい人物が泣いているのが見える。そして自分はそれを見て安心して、死の世界の方へ戻っていく。そうすると「ずり落ちる」動きも少し分かるような気がする。

 榊の他の句を見ていると、その読みはそこまで当たってはいなそうである。〈歌います姉のぶんまで痙攣し〉、〈残酷は願うものなり伝言ゲーム〉、〈確実に絞めるさんにんぶんの鳥〉など、悪や恐怖が後ろで待っている作品が多くある。
 この「儀式」は、未だ終わっておらず、どこかで行われ続けているのかもしれない。ということは、どこかで誰かが「すすり泣き」つづけているということである。

(「すすり泣く/儀式からずり落ちる」と読んで、すすり泣くことがずり落ちることに繋がる行為だった、というふうに読むことも可能かもしれない。何をしても脱出できない儀式というゲームの中で、すすり泣くことでようやくクリアすることが出来たというふうに。これは「すすり泣く」がただの機械的な行為のレベルに下がってしまうので好きな読みではないが、これはこれで「儀式」が変形して見える一つの読みである。とにかく、この句からは、「何が」よりも先に、「なぜ」が欠けているのである。その構造自体が「儀式」と似ていて、何度読んでもヒヤリと思わされる。)

記:丸田

誕生も死も爽やかに湯を使ひ   高橋将夫

所収: 『俳句』九月号・作品一六句「王道の塵」より

伊の哲学者アガンベンはCOVID-19が死者の尊厳をスキップさせてしまうと嘆いた。人類は死にゆくものの周りにつどい、死ぬまでを見届け、祈り、泣いた。しかし疫病はそのような行程を飛ばしてしまう。入院すると面会は叶わず、遺骨になって戻ってくるまで関与出来ない。疫学的観点からみるとアガンベンの指摘はたぶんに情緒的ではあるが、とはいえいかに人間が葬送儀礼を発達させていたかを明るくしたように思う。

世に生まれ落ちた赤子には産湯を、世から退く死者には湯灌をする習俗がある。ぼくらは湯に言祝がれ、見送られる。産湯は熱湯に水を加えて温度を調整するが、逆に湯灌は水に熱湯を加えて作る。逆さ事と呼ばれる習俗は生者と死者の世界を区別するためにあるが、ひとえに死者の世界を恐れていたがためであろう。ゆえに非合理的な過程を増やしてでも死者を丁重に弔った。

死が科学の対象となり合理的に捉えられる今、かような習俗も減じてゆくだろうが、せめて心持だけでも死への敬意は忘れたくない。掲句は「爽やかに」の清々しさが、宗教を持つ種族としてのホモサピエンス史を燦燦と照らす。

記:柳元

水飯に味噌を落して濁しけり 高濱虚子

所収:『虚子五句集 上』「五百句」(岩波書店 1996)

失って気づくものという叙情の一類型があるが、掲句もその一つだろう。失ったことを知り、嘆いている自分に驚く。自分への驚きはそのまま、心の空所への驚きに繋がる。気づきの「けり」である。「濁しけり」と言うことで、失うと同時に、失ったものの清らかさにも気づくという心の動きが感じられる。掲句は日常にさりげなく叙情を立ち上げるがその手つきがあまりにさりげないため、よほど大きな喪失を以前に経験したのだろうかと想像したくなる。掲句を読んでいると腹も痛くなるのは水飯の饐えた酸味もそうだが、味噌がぼとりと太く重たく糞のように落ちているからだろう。

記 平野

菌山あるききのふの鶴のゆめ 田中裕明 

所収:『花間一壺』(牧羊社・1985)

「菌山」というからには山じゅうにきのこが生えていてほしい。ありとあらゆるきのこが生えていてほしい。みちばたに、崖のうえに、木の下に、川のほとりに、色とりどりのきのこが生えていてほしい。歩いているうちにたのしくなりたい。きのこは菌である。胞子を飛ばし、菌糸をのばし、どんどん大きくなってゆく。わたくしのまわりを覆うように、成長してゆく気配が、いまこのまわりで、たちどころに濃密になってゆく。そこいらにあるということの気配が立ち込めてきて、存在にうっすらととりこまれ、ひらかれて、それに応じることでわたくしの存在はなにとなく希薄になってゆく。

きのう見た夢は何だったろう。不確かさすら心地よい。鶴が出てきた。あるいはわたくしが鶴であったか。とにかもかくにも、鶴、それは覚えている。毎夜みては忘れてゆく夢の積み重なる層があるとしたら、それは数億年後の地表でどんな断面をさらすだろうか。そしてその断面の中で、わたくしがきのうみた鶴の夢はいかなる結晶化をみるのだろうか。石英のようないろをたわむれに思い浮かべてもみる。忘れられゆくものへのさびしさをうち抱きながら、あるく山みちである。

記:柳元

化学とは花火を造る術ならん 夏目漱石

所収:『日本の詩歌 30 俳句集』中央公論社

広く知られるように文人・漱石は俳句をなしており、そのほとんどが熊本の第五高等学校教師だった頃の作である。それらはぼくらからして決して佳句だらけというわけではないが、とはいえそれは漱石がぼくらの時代と読みのパラダイムを異にしていることによるずれが大きいのだから、漱石に責を帰しても仕方あるまい。かえって妙味のようなものは感じられて味わい深いのだし、ぼくにとって漱石俳句はかなりフェイバリットである。

さて、掲句はかなりのところ理知から構成されるものであり、化学とはたとえば花火を造る技術のことだろう、というように少しくおどけてみせる漱石流のユーモアがある。たしかに花火は金属の炎色反応を利用するものであるから化学には違いあるまいが、とはいえ化学という分野を代表すべき技術の対抗馬は他にもあるだろう。石塚友二に〈原爆も種無し葡萄も人の智慧〉なる句があるが、化学を原爆に代表させるような戦後のペシミスティックな化学観と比すと、漱石の化学観はいくぶん能天気に見える。明治の時代にいくら西洋に対していち早く懐疑のまなざしを向けた漱石といえども、この程度には明るく化学を捉えていたことも、なにとなく面白く思われる。

記:柳元

かたくりは耳のうしろを見せる花 川崎展宏

所収:『観音』(牧羊社 1982)

ロープウェイを降りるとそこは緩い傾斜になっていて、木々に囲まれたうす暗さのなかにレンゲショウマが咲いていた。ひょろ長い茎の先に、ほの白く、むらさきがかった花をつけていて「うつむく」という語が浮ぶほど弱々しかった。消え入りそうだった。一匹の蜂がやって来て、花のうちに身を収めるとポロポロ落ちるものがあった。細やかな花びらのようで、可憐なレンゲショウマの姿に気持ちを寄せれば涙に見えた。

下を向いていているレンゲショウマの表情を撮ろうとして、膝を曲げ、スマホともども両手首を返すのだったが、画角に収めてシャッターを押さなくてはならない。押すタイミングを見極めなくてはならない。というわけで角度がついて真下から花を撮れない。そこで工夫した。セルフィーモードに切り替えてレンゲショウマの自撮りを取ることにした。

掲句が口をついて出たのはこの時である。掲句はまなざしのやりとりを詠んでいるのだろう、と思った。かたくりの花は観察者を見ている。もちろん下を向いているため、注がれる視線にかたくりの花が返すのは心のまなざしである。

見せる、には二通りの解釈がある。他の花が目を合せてくれるのと違い、かたくりの花は伏目がちにうつむく、恥ずかしがりやの花だという解釈。もう一つは、おのれ自身の美しさを知り、そっけなく耳のうしろを向けるコケティッシュな花だ、という解釈。どちらを取るかでかたくりの花の印象は大きく異なるが、前者なら「うしろが見える」のほうがふさわしい気もする。ただ、二つの解釈に共通して言えるのは、観察者の視線を意識してそれに対してかたくりの花が立ちふるまっていることである。

ハタチ過ぎの男がひとりで自撮りすることにはなにかしらの痛々しさが絡みつく。耳のうしろの世間という目に見据えられている気がする。レンゲショウマにセルフィーを向けたとき、その痛々しさが蘇った。掲句にも似たような花と観察者の心理の近づきがあるのではないか。句をつくるため過剰に花を見る。そのとき心の目は外を向き、他人の邪魔になっていないか気になる。その一方で自分は句を作っているのだから多少の邪魔は許してくれという傲慢さもある。かたくりの花は、観察者と重なる。

そんなことを考えながら撮った写真のうちの一枚が今回のヘッダーの写真である。こうして見るとレンゲショウマは病臥している者の顔をのぞきこんでいるような、心細げな表情を浮べている。

記 平野

水に映れば世界はきれい蛙飛ぶ 神野紗希

所収:『すみれそよぐ』朔出版 2020

「水に映れば世界はきれい」というのはスケールが大きくかつシンプルな思考の表現だが、「蛙飛ぶ」というミニマルな季語と取り合わせることで景色としてイメージしやすくしている。私の場合、ふと覗き込んだ水たまりに映る空の美しさなどを思う。

「水に映る世界はきれい」ではなく「水に映れば」である点から、水に映っていない世界をきれいとは認識していない可能性も伺える。しかしこの句が水に映る世界へと現実逃避しているような印象を受けないのはやはり「蛙飛ぶ」による。
蛙は水から上がってきておたまじゃくしから変態する生き物であるし、成体となってからは水と陸を自在に行き来する。この句における蛙もまた「飛ぶ」ことで水と陸の境界を超えるような印象を与える。だからこそ掲句は、単に水に映る世界を愛する句であるだけでなく、水に映る世界の美しさをきっかけに実際の世界の美しさへも心を向ける句であるように思う。

俳句ウェブマガジンスピカの作者自身の書いた記事でこの句の初出が紹介されているが(http://spica819.main.jp/konosaki/16032.html)、ミスでなければ「跳ぶ」となっている。「飛ぶ」への変更には、かの有名な松尾芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」へのオマージュがあるのかもしれない。

記:吉川

君の永遠は力試しに費やしてみてほしい 飾り天使のコーラス・ワーク 瀬口真司

所収:『ねむらない樹』vol.7(書肆侃侃房、2021)

 連作「プライベート・ソウル」より。「永遠」という単語の登場からのびやかな歌かと思いきや、ぎゅうぎゅうに詰められた上の句はものすごく速く読むことを要請する。そして上の句をどういう速度やリズムで読もうかと読者が苦悶しているなか、挑発するかのように「飾り天使のコーラス・ワーク」という綺麗で分かりやすい七七が後に控えている。

 まず最初に引っかかることになるのは助詞「は」だろう。費やす、という動詞から考えれば、「時間を費やす」のように「を」が来るのが居心地が良い。「君の〇〇を費やしてみてほしい」、と簡略化すれば意味は滑らかに入ってくる。ここが「は」になっていることで、一旦文が跳ねる印象が生まれる。跳ねるという表現が合っているか分からないが、「永遠」という言葉をより強調しようとして話そうとしているのが分かる。友人と会話するときの「今日面白かった話は~」みたいな「は」に感じる。この一瞬跳ねて強調される感じが、さらになめらかさを阻害する(これは人によって受け取る印象は変わるだろう。こういう取り立てて言う「は」が自然に聞こえる人であればそこまで気にならないかもしれない)。
 なめらかさで言えば、「費やしてみてほしい」という部分も気になる。この勧誘の言い方からすると「君の永遠を(君が)費やしてみてほしい」ということになり、ここは「君は君の永遠を費やしてほしい」くらいでもよかった話である。これがぎゅっと凝縮されて(作者的には「刻んでいる」のかもしれない)、強引に「力試しに」が挿入されている。一見喋っているようであるが、ここには強い調整の力が入っているような気がする。小説の中で、登場人物が小説外の人に向かって話しかけているような妙な感じが。

「力試しに」。「君」にある永遠とはどういうことなのか、本当に永遠があるのか、一瞬に見えかくれする永遠性のことを言っているのか、それすらこちらは分かっていないというのに、永遠を費やすことが「力試し」のひとつになるという。ここでの「力試し」がどれくらいのテンションなのか(例えば、力試しで一問数学の問題を解くのか、力試しで重いものを持ち上げてみるのか……)によるが、そんなことで「永遠」を費やしてしまっていいのか、という漠然とした不安がある。これが、「永遠を費やしなさい」と命令されていれば、そういう物なんだと納得できそうだが、「力試しに」「してみてほしい」とこちらが責任を負う形でさりげなく言われると、なお不安である。
 一体永遠を費やして何が分かるのか。どうなっていくことになるのか。「君」に対して話しかけているこの人物は、既に費やしたことがある何か達観した人なのか、何も知らないのに野次馬やファンのような感覚(うちわで「ウィンクして」みたいな)で言っているのか。

 永遠は費やしても無くなることのないものなのか。

「力試し」という単語を聞くと、私はそこに他者の存在を見る。「肝試し」なら、自分がどれくらい怖がらない心を持っているかという個人の挑戦のニュアンスがある。一方「力試し」となると、他の人が複数いて、その人たちにもさまざまなレベルがあって、自分は今その人たちの中でどれくらいのレベルに位置しているのかを測る、という意味になってくると思う。学力を試すために模試を受ける、のような。
 みんなは、どれくらいの「力」があるものなんだろうか。みんなも、力試しのために、所持している永遠を費やしてきたのだろうか。

 生きている時間を大切にしなさい、とか、永遠なんてものは無い、みたいな言説が、おもいきり捻られた形で現れているように感じる。だから、「力試し」の言い方も、「してみてほしい」の優しいふりをした言い方も怖く感じる。この人物はどんな表情で言っていて、今まで何人にこんなことを言ってきたのか。

「飾り天使のコーラス・ワーク」は、急に短歌のフレーズのように聞こえる。やはり七七の影響は大きい。「飾り」という言葉も、「力試し」とほとんど同じ色である。なんだか、「飾り天使」「天使のコーラス」「コーラス・ワーク」とどの部分を取ってみてもちょっとずつ鋭さがあり、上の句を承けるには随分意地の悪い言葉である。
 下の句は、上の句の背景としてあるのか、意味としてあるのか、象徴としてあるのか、到着先としてあるのか、関係は無いが裏で繋がっている映像なのか、私には分からない。ただ私には、「費やしてみてほしい」と言っている人物の顔がうっすら笑っていることだけが、はっきりと分かった。

 この連作内での次の次の歌〈祈りまで脂まみれになっていく夜景のタワーみずからとがる〉を意識すると、より鮮明に見えてくるものがあると思う。

 かなり難解で挑発的で、速くて、かっこいい歌だと思う。「コーラス・ワーク」の落とし方も、作者の(リズムの上での)(カタカナや語の配置上の)柔軟性を感じる。

 またこの歌の話からは逸れるが、この連作はもっと多い歌数で見たかった。七首しかないとどうやっても窮屈である(短いことを分かっていながらそろえた詠草であろうから、これはこれで見ていて面白かったが)。とくに瀬口の歌は歌数が並ぶことによって生まれる加速や、速度のばらつきによって生まれる浮遊感に特長があると私は思っている。笹井賞受賞者の新作で個人賞は7首というのがなかなか渋いなあというのが紙面に対する正直な感想だった。ふつうに呼ばれた歌人の20首より、受賞者がどんな態度でこれからやっていくのか、それが示される新作の20首の方を私は見たかったかな、と思う。といっても雑誌全体では良企画が盛りだくさんであったため、これからもまた期待して見ていきたい。

記:丸田

星空を歩いて茄子の無尽蔵 谷田部慶

発表:第24回俳句甲子園

「星空を歩」くと言表するときの詩的態度の潔さに感銘した。むろん我々はここで星辰の輝きを頭上に仰ぎながら地を歩み始めるわけだが、氏の表現により天は地に、地は天に転回する。言の葉に鬼神を和する力があるというが、氏の措辞は天地を混融せしめ、あたりは漆黒の闇と星々の輝きに満たされた豊饒な空間となる。歩め、その冷え冷えとした空間を。足裏は銀河の照り返しに明るみ、如何なる星雲を目指しあるくか。

大峯あきら〈虫の夜の星空に浮く地球かな〉橋閒石〈銀河系のとある酒場のヒヤシンス〉生駒大祐〈天の川星踏み鳴らしつつ渡る〉などの先行する銀河在住者の佳句とも響き合いながら、にわかにわれわれは星空の歩行者たる様相を帯びる。

加えて、「茄子の無尽蔵」という硬質な叙情は、ともすれば甘ったるいものに陥る可能性のある「星空を歩いて」という措辞を厳しく律しつつ、消尽することなき茄子の物質性の豊饒さを獲得することによって強度あるテクストへと見事に昇華させる。茄子の深い紺が秘めるものを宇宙へ抽出拡散に成功した取り合わせと言えよう。句全体としての景としても、頭上に星空の広がる茄子畑というアリバイを仕立てていることがこの句の可読性をあげており、ぬかりなき巧みな措辞さばきがある。

生活者としてのインティメイトな魅力はないが、ここには俳句という形式の抱え持つミクロコスモスの可能性そのものがある。

掲句は第二四回俳句甲子園の優秀賞。作者は開成高校二年生の谷田部慶氏。高校生の皆様、お疲れ様でした。

記:柳元