すすり泣く儀式からずり落ちる 榊陽子

所収:小池正博編『はじめまして現代川柳』(書肆侃侃房、2020)

「儀」の字の右側は、羊の首と、ぎざぎざの刃がついているノコギリの象形で出来ている。

 この句を大きく方向づけているのは「ずり落ちる」という単語である。「すすり泣く儀式」までは、そういう式典もあるだろうとふつうの想像の範囲で収まるが、「ずり落ちる」となると、ただの儀式ではなさそうな気配が立ち込める。

 ずれて儀式からドロップアウトした、その先はどうなっているだろうか。「儀式」が異常そのものであり、そこから脱出できた、ずり落ちて正常な現実に戻れた。もしくは、「儀式」の場自体が正常で、自分自身の方こそが「ずり落ち」て変な方へ行ってしまった。どちらでも考えられる。眠りから覚めるようでもあり、眠りに落ちるようでもある。

 どちらにしても、「儀式」という場から、ずれながら(ずれてから)落ちている。停電したときのようにいっぺんにではなく、徐々にすべりながらである。
「すすり泣く」のが「ずり落ちる」の主体と同一であるかどうかは分からないが、この「すすり泣く儀式」に半身を残しながら自身が去っていく感覚が非常に妙で独特である。短いながらも意識の溶暗が感じられて、対照的に「儀式」の力も強くなっていく。

 この「ずり落ちる」が存分に発揮されたのは「から」のおかげだろう。「儀式から」と儀式を直接相手取ることで、儀式全体と自分が直で繋げられることになった。そして何がの部分を特に言わないことで、「私が」以外に意識、記憶、時間、魂、体の部位、自分に憑いている霊、と色々なものが代入できることになった。まるごと全体、自分に関連するすべてのものごとずり落ちたようにも感じられる。

 どんな儀式なのか、そこから具体的に何が「ずり落ち」たのか分からない状況で、味が出てくるのが「すすり泣く」である。なんだか(主体かもしれない)誰かが悲しそうにしている。それは自発的に悲しくてそうなっているのか、狂信的に洗脳されて自動的に泣いているのか。でもやはり、「むせび泣く」や「泣きじゃくる」など他の言葉と比べると、より寂しそうな、哀しそうな気がする。

 この文章の始めに、儀式の儀という字の不穏さをアピールした。私は直感的に、まずい儀式のなかで意識が飛んでいく句だと思った。いけにえになる人物が、死の直前になって泣いていて、それを見ながら意識が落ちていくような。
 ただ、この「すすり泣く」が、本当に悲しそうなものであるとすれば。初めに触れたように、自分が「すすり泣」かれる側なのかもしれない。この儀式は葬儀のことを指していて、自身は既に死んでしまっており、遺影側から見ている。参加者として来た親しい人物が泣いているのが見える。そして自分はそれを見て安心して、死の世界の方へ戻っていく。そうすると「ずり落ちる」動きも少し分かるような気がする。

 榊の他の句を見ていると、その読みはそこまで当たってはいなそうである。〈歌います姉のぶんまで痙攣し〉、〈残酷は願うものなり伝言ゲーム〉、〈確実に絞めるさんにんぶんの鳥〉など、悪や恐怖が後ろで待っている作品が多くある。
 この「儀式」は、未だ終わっておらず、どこかで行われ続けているのかもしれない。ということは、どこかで誰かが「すすり泣き」つづけているということである。

(「すすり泣く/儀式からずり落ちる」と読んで、すすり泣くことがずり落ちることに繋がる行為だった、というふうに読むことも可能かもしれない。何をしても脱出できない儀式というゲームの中で、すすり泣くことでようやくクリアすることが出来たというふうに。これは「すすり泣く」がただの機械的な行為のレベルに下がってしまうので好きな読みではないが、これはこれで「儀式」が変形して見える一つの読みである。とにかく、この句からは、「何が」よりも先に、「なぜ」が欠けているのである。その構造自体が「儀式」と似ていて、何度読んでもヒヤリと思わされる。)

記:丸田

いよいよネと言えばいよいよヨという 松永千秋 

所収: 小池正博編『はじめまして現代川柳』(書肆侃侃房、2020)

 この句の可笑しさは、喋っている二人のその顔の方向にあると思う。

 この「いよいよ」が、どういう局面、状況において出てきた言葉なのか、という一番重要な想像については、読者それぞれに委ねたい。私は古い少女漫画の主人公をいじめるクラスメイトA・クラスメイトBが、主人公を最も追い詰められる方法を考えて、文化祭の当日にそれを決行する気でおり、その日がようやく来た、くらいのテンションで読んだ。とにかく、悪者たちだなとは感じた。「ネ」「ヨ」がありうるのは、私の中では悪者か老人か児童かだった。これをもっと健全な方向に、たとえば同僚と数か月かけて綿密に練ったプロジェクトがついに開始する日が来ただとか、部活の成果を発揮する高校最後の大会当日だとかに読むことも出来るだろうとは思う。ただし、そうなると「ネ」「ヨ」なのが、ふざけすぎて面白いものになってしまう。

 この句では、「と言えば~という」という分かりやすい型が示されている。

 親が子供に、何食べる?と言って、子供が親に、ハンバーグと言う。
 Siriに明日の天気はと言うと、Siriは雨ですと言う。

 思いつくままに型に当てはめてみた(この代入は正確ではなく、それについては後述)。今挙げた二つは、最初の「言えば」要素は「聞けば」に言い換えられる。何食べる?と子どもに聞いて、子供は回答を親に返す。Siriは投げかけられた質問に対して忠実に答える。
 これは、会話している(会話になっている)例である。

「いよいよネ」に対して、「いよいよヨ」。これは果たして会話は成り立っているのか。
 ここで読みが二つに分かれる。最初に述べた、これはどういう状況なのかという想像に関わる大きな分岐である。
 二番目の「いよいよヨ」と言った側が、話が通じている場合(会話できている)と、話をしてはいない又は話が通じていない場合の二つである。

 話が通じていないとなれば、「と言えば」「という」と最初の「言」だけが漢字になっているのも納得ができるような気もする。こちらは確かに言っているので、発言したことが漢字で強調される一方、向こうは通じず機械的に返しているだけなので「という」とニュアンスが柔らかくなっている。入力に対してそれをほとんど変えず出力する、計算器みたいな相手(機械かもしれない)が喋っているようにも見えるし、寝ぼけていて何が「いよいよネ」なのか全くわからず適当に「いよいよヨ」と言っている人間の光景も見えてくる。インコが飼い主の声をバグったようにリピートして発声しているようにも考えられる。

 話が通じていない、という可能性は十分に魅力的だが、この句に関しては私はそちらでは読まず、話は通じているとして読みたい。なぜなら、もし通じていないのなら、「いよいよネ」に対して「いよいよネ」と言っていた方が自然だからである。そういう句なら大量に見たことがある(俗に小泉進次郎構文と呼ばれるものもそんなものだろう。「今のままではいけないと思います、だからこそ日本は今のままではいけないと思っている」的な)。全く同じ言葉を返すことでのおかしさや怖さや機械感の演出。
 もし、友達に突然「いよいよね!」と大声で呼びかけられたとしたら、「いよいよだね」と受けながら返すか、「何が?」と疑問にするか、「うん」と簡単に返すかするだろう。ここで「いよいよヨ」という言葉が出てくるのは、シンプルな反復に見えて、案外そうでもなさそうである。

 話が通じていて、なぜここまで会話っぽくない返し「いよいよヨ」が出てくるのか。それは、最初に述べた、喋っている二人の顔の方向にあると私は考えている。
 ここでまた違う会話を考えてみる。

 (お化け屋敷のなかで二人)A「怖いね」、それに対しB「怖いよ」 
 (旅行を明日に控えて二人)C「楽しみだね」、それに対しD「楽しみだよ」

 どうだろうか。「いよいよヨ」とは違う、会話感が伝わるかと思う。二つの文とも「いよいよ」の雰囲気も、同じような言葉を繰り返すのも同じだが、二人が向き合って会話しているような印象がある。

「怖い」「楽しみ」と「いよいよ」との違い。それは、感情そのものであるか、その裏に感情を持っているものかの違いである。
 怖いに対して怖いと返すとき、「私も」怖い、が成り立ち、同じ言葉が繰りかえされたとしても、それぞれの感性に基づいているから、全く同じではない。恋人同士が「好き」「好き」と言いあっていても、それがきちんと会話になっているように。
 一方「いよいよ」は、それを言った瞬間の感情は直接表してはいない。「いよいよ何かが起こる」、その到来の確実さを言っているだけであり、「いよいよ」起こるからどう思っている、とまでは言い表さない。感情ではなく、事実の言葉である、ということである。
 だから、「いよいよ卒業式が明日に開催される」として、Aさんは悲しく思い、Bさんは嬉しく思うかもしれない。このとき「いよいよだね」とAさんが言うとき、Aさんの顔は悲しそうで、それにBさんが満面の笑みで「いよいよだね」と言うと、これはあまり良いコミュニケーションではない、ということになる。

 つまりこの句は、「いよいよ」という語を用いるときふつう浮かび上がってくるはずの「いよいよ起きるからどう思うか」という感情の部分が隠されたまま、「いよいよ起きる」という空気感だけが反復されることで、およそ会話らしくないものになっているのである。
「いよいよね」と言われれば、その裏にあるたとえば「わくわくするね」という感情を拾って、「わくわくするね」と返すのがスムーズである。このように、繰り返すとしたらその裏にある感情の方なのである。

 ここで序盤に触れた「言えば」の処理に戻る。親が子に何を食べたいか聞く例を挙げ適切な代入ではないと述べた。それは、親と子がお互いの方を向いているからである。親は子に向かって尋ね、子は親に向かって答える。
「いよいよネ」と「言」う、この段階では二人が向き合っているようにも見えるが、もしそうだとすれば、面と向かって「いよいよヨ」と返してくるのはなかなか恐怖である。「そうだね」くらいの返事が欲しくなる。

 この返答の仕方、かつ「言えば」を考えたとき、私の中でくっきりと像をもって浮かんだ光景は、「二人がお互いの方を見ず、真っすぐを見つめている」ものだった。
 よくある学園ドラマの、部活終わりの生徒が屋上や河川敷で二人並んで、「夕日の方を見ながら」話している光景に似ている(学園ドラマみたいな句だとは思っていないが)。
 そうすると、「言えば」は真っすぐに前を向いて言ったもの(でも「ネ」だから会話の上では相手の方を向いている)で、言われた相手は目を合わせているわけではないから相手の感情に答える必要も減り、自分のなかの「いよいよ」を消化しようとして、「いよいよヨ」という不思議な返答になった……と考えることが出来る。
 サン=テグジュペリが「L’expérience nous montre qu’aimer ce n’est point nous regarder l’un l’autre mais regarder ensemble dans la même direction.(経験は教えてくれる、愛とは、お互いを見つめ合うことではなく、ともに同じ方向を見つめることである)」と書いていたのをなんとなく思い出す。一見会話としておかしな句だが、その顔の方向と、深くでの感覚や空気感の共通を考えれば、自然に見えてくる。

 言葉のラリーとしてのおかしさだけを取り上げた句のように見えるが、「ネ」と「ヨ」という終助詞での方向付け、「いよいよ」という言葉の繊細な選択、「という」と開くことによって会話が起こったことを指示するなど、細かく見ていけば正確に作られているなと感じる。
 松永の他の句を見てみても、「死にながら泣くから部屋を出て行って」「どこからでも見えてだあれも見ない家」「これ以上もう父さんは削れない」など、方向や主体の見えなさ(いるとしても感情がまったく見えてこない)に特徴があるように思う。
 二人には「いよいよ」何が起こってしまうのか。そして二人は、どう思っているのか。そしてお互いがどう思っているのかをどれくらいわかっているのか。
 私には、この二人の背中を見ることしかできない。

〇 

 蛇足としていくつか書いて終わりたい。「と言えば~という」の形を見て、瞬時に思い出したのは金子みすゞ「こだまでしょうか」と、〈つま先を上げてメールをしていたらかかとで立っていたと言われる/土岐友浩〉だった。会話には本当に色んな形があり、こだま、山彦、伝言リレー、噂、拡声器……。誰かが何かを「言う」とき、それがどういう形であるのかから想像したい。
 私はよくこの鑑賞コーナーで、主体が機械である可能性や、語られている世界が現実ではない可能性について触れている。一応そういうこともあるかもしれないよ、くらいの雰囲気で書いているが、私自身はかなり本気でその可能性について考えていたりする。「いよいよネと言えば」と書かれていれば、言ったんだなと読むしかない(それが本当であると信頼して読み進める以外手はない)が、もしそれが言ってなかったら。言ったのが宇宙人だったら。

 人によっては、そういう作品世界を急激に(意味もなく)拡げてしまうのは読みとして面白くない、と思われるかもしれない。
 その作品にとって一番いい読みを、と思ってそういう可能性について考えているわけだが、そもそも「作品にとって一番いい読み」とは何なのか。未だに分からない。

 私は中学生のときに出会った一冊の推理小説にはまって、それ以来ミステリに耽溺してきた。そして高校で俳句、大学で短歌、川柳、現代詩に出会った。
 そこで思ったのは、あまりにも「地の文」への感覚の違いがあること。「信頼できない語り手」や「叙述トリック」などの用語があったり、後期クイーン的問題が考えられていたりがそうだが、地の文をそもそも信用してしまっていいのか、登場する主人公の視点、探偵の情報を確かなものとして受け取っていいのか……。
 短歌では私性の問題が前衛短歌以降定期的に話題に上がっているし、石井僚一の「父親のような雨に打たれて」の一件も記憶に新しい。が、それは作者/主体の次元であって、語り手が真の情報を語っているかどうかなどという語りと語り手の問題にまではまだ深く到達していない印象がある(このあたりの短歌の文献をきちんと当たっているわけではないので、実は進んでいるのかもしれませんが)。
 俳句にいたっては、虚構かどうかのような次元で永遠に止まっている(語り手がどうこうに到るほどの文字量が与えられていない/そういうことを企むのは俳句の面白さの範疇を越えている というような雰囲気もあり)と思う。

 短歌も俳句も、テクニック自体はまあまあ飽和しかけてきた今、誰がそれを語るのか(語っている人(作者)の方に重きがおかれる)、という段階になっている(戻っている?)と私は体感で思っている。そんな時だからこそ、逆に語りの部分を考えていきたい。「連作」という機構の力は、そこに眠っていると私は信じている。

 評から離れて所信表明のようになってしまったが、この「いよいよ」の句はそういう点で言えば、語りだけが浮き上がったような形をしている。これを言っているのが誰なのか、何故こんな事を言っているのか、何故そんなことを言い返すのか。
 川柳は、そもそも、すっと主体に同化して読める短歌や俳句とは性質が違う。そこに世界が生の形で(あるいは異常なまでに精密に構築された形で)存在する。その世界が現実なのかどうか、主体は作者かどうか、から話が進むわけではない。その世界を受け入れるかどうかから強引に始まる。どんな声で、どんな顔で、主体は喋って、思って、それを語り手はどう記述しているのか。語り手は迫られて書いているのか、余裕をもって冷笑を浮かべながら書いているのか。
 それらを短詩で考えていくヒントが川柳にあると、私は確信している。
みんなは僕の替え歌でした/暮田真名〉、〈小雪降るときちがう声で言うとき/八上桐子〉、〈手紙ソムリエ手紙ソムリエおまえは幸せになる/柳本々々〉。

記:丸田

沖にある窓に凭れて窓化する 筒井祥文

所収:小池正博編『はじめまして現代川柳』(書肆侃侃房、2020)

 窓化。

革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ 塚本邦雄『水葬物語』

 こちらは液化。
 窓にもたれていると、窓になってしまった。これは一体、どこに要因があるのか。もたれかかってきた人を例外なく取り込んでしまうような驚異的な窓なのか。別に窓になっても良いかもしれない、と主体が油断したからなのか。窓になりそうな凭れ方をしてしまったのか。「沖にある窓」だったからそうなったのか。
 なりたくてなったのか、なりたくないのになってしまったのかで、印象は変わってくる。「沖にある」という入り方から、自ら窓の世界に寄り添おうとしている雰囲気(適当に窓を選んでいないというか)があり、窓化してしまってもそこまで嫌な気持ちはしていないのでは、と推測している。

 窓化という語のパワーに惚れてこの句を引いたが、句としてはやや粗いように思っている。先に引いた塚本の歌であれば、「すこしづつ」がかなり効いており、実際に無い光景のはずが、本当にピアノが滴ってぐにゃりと液化していく様子が想像できる。一方窓化は、どういうふうに窓化するのかが全く想像できない。主体は人間だとして、体の一部分が物理的に窓に形状が似ていくことを指しているのか、精神的な面で窓になっていくのか、透明という特質が伝染って透けてくるのか、まるきり窓に変身してしまうのかが、分からない。そこが分からないのもまた良さで、とも思うものの、ここにもう少し具体性があるほうが個人的には好みだった。
「液化してゆく」に対し「窓化する」とある。「する」、とはその経緯がすっかり省略されている。ゆっくり窓になったのか、一瞬にして窓になったのか分からない。

 ここで思うのは、これが一瞬にして窓、だったらつまらないなということである。確かに、その方が窓っぽく、「窓化する」と間を省いた言い方にも合ってくる。ただ、それなら「沖にある」はのんびりし過ぎている。突然変異的に、押入れを開けたら異世界に繋がっていた的なことなら、その窓がどこにあろうとさほど変わらないと思う。「沖」があまりに雰囲気でしかなくなってしまう。
 この「沖にある窓」を選んで、さらに眺めるだけでなくて「凭れ」た、その時点で、かなり思考は「窓化」しているように思われる。かなりゆっくり窓化した、それを窓側でも主体側でも許しあっていた、とそのような空間を想起した方が、「沖にある」が効いてくるのではないか。

 川柳を読んでいて度々思うことだが、(もちろんストーリー性のあるものもあり、長律で展開までつけるものもあるが)それが奇想であり、その出発点であればそれでいい、そして単語選びやその接続が独特であればまた良い、という心で作られた作品がかなり多い気がしている。短いためその後まで言えないからそうなっているというのは十分承知しているが、そういう飛び道具的なものは個人的にそこまで記憶に残らない。どちらかというとこの筒井の句もそういう句になると思われるが、「沖にある」が最後までそう読ませるのをとどまらせてくれた。窓化という単語の発明のみに終わっていない、その窓化が行われた空間と時間、そして「その」窓と主体の関係性を思わせるきっかけが用意されている、優しく飛んだ句であると思う。
 読みようによって駄句と良句に分かれる、その幅が(俳句や短歌よりも)非常に大きいのが(良くも悪くも)川柳だと私は思っている。少なくとも川柳の鑑賞においては、できるだけその句が良くなるように、という気持で読んでいきたいと思っている。

 窓化したあと、主体はいつまで窓であるのか。もし戻るのなら、どうやって戻ったか。窓になる時と逆向きに戻ったのか、違うものを経由して戻ったのか。戻らないなら、主体はどんな気持ちでいるのか。周りから誰かが見ていないか。
 まだ色を塗っていない塗り絵のようで、まだまだ多くの可能性が考えられる。過剰に読み過ぎるのも良くないかもしれないが、この句については、読み過ぎるほど「窓化」がより良くなっていくのだろうと確信めいた感覚を抱いている。

記:丸田

大晦日のエスカレータに 乗せられ 堀豊次

所収:黒川孤遊編『現代川柳のバイブル─名句一〇〇〇』理想社、2014*

「乗せられ」の反転のさせ方が光る一句。
 おそらく、エスカレーターに自分から乗っているにもかかわらず、「エスカレータに」運ばれているようだと考えた、という読みがシンプルだろう。一応、「乗せられ」は誰か他の人に押されてエスカレーターに乗ってしまった、という風に読むこともでき、そう考えると若干テイストが変わってくる。エスカレーターの中でぽつんと自分の発見が浮き上がってくるものと、他者によって無理矢理自分がエスカレーターに巻き込まれてしまうもの。ただ大晦日ほど人が集まっていれば、押されて乗ってしまうことは容易に起きそうだから、後者の読みだと「 乗せられ」があまり効かなくなってくるため、やはりシンプルな読みの方が合いそうだ。

 この句が何故か新鮮に思えるのは、エレベーターとの感覚の違いからだと思われる。どちらも自分から乗るものではあるが、エレベーターは連れていかれる感が強い。エスカレーターは乗っている最中も自身は歩くことが出来るし、箱型のエレベーターよりも運んでくれる感は少ない(個人的に)。もしこの句が「エレベーターに 乗せられ」だったら、たいして驚くものは無かった。もしかしたら、エレベーターよりもエスカレーターの方が、私たちはナメてかかっているのかもしれないとも思ったりした。
 ちなみに、私の地元は田舎であったため、町にエスカレーターは一基しかなく(農協にあった)、他の町に行ったときも、エスカレーターでさえドキドキしながら乗っていた。だから小学生のころの自分がこの句に出会っていたら、何を当たり前のことを(そりゃ「乗せられ」るものだろうと)、と思ったかもしれない。それを思えば、近くにデパートがあったり電車の駅があったり、そういう都市、都会の生活になじんでいる人の方が、この句に対する驚きは大きいのかもしれない。

 蛇足ではあるが、個人的に「大晦日」以外のことも考えたくなる。生活感あふれる「大晦日」もいいが、もしこれが「天国のエスカレータ」であったり、「まひるまのエスカレータ」であったりしたら。それこそ最初に述べた通り、「乗せられ」が発見としての反転ではなく、乗せられることの恐怖に変わっていくことになるが、それはそれで面白そうである(そう書いていて気付いたが、大晦日であることによって、エスカレーターに乗りながら年を越してしまう可能性も匂わせられているような気がする。時をまたぐエスカレーターに乗っているような。大晦日のそんな時間まで動いているエスカレーターがあるかどうかは怪しいが、そういう時間というエスカレーターにも乗せられているような感覚も、なんとなくこの句を良い雰囲気にしているように思う)。

 webサイト「週刊俳句」にて、樋口由紀子さんがこの句から「考えてみれば、人生は『させられ』の連続である」と述べている(2011年12月30日)。自分は自分で生きているかと思ったら、実は生きさせられているのかもしれない。そういう当たり前と思っていることが逆転するときの、寒気がするような不安と気持ちよさが、この句の一字空きに詰まっているのかもしれない。

*初出は、筆者は確認できていないので、この句が収録されているアンソロジーを置いた。上述した樋口さんの確認によると 「天馬」2号(河野春三編集発行 1957年)収録とのこと。

記:丸田

黄昏のふくろう パセリほどの軽蔑 小池正博

所収:小池正博 編『はじめまして現代川柳』(書肆侃侃房、2020)*アンソロジー

 黄昏のふくろうと、パセリほどの軽蔑、の衝突。美的だと思った。
 読者のことを信頼しきっているようにも、挑戦してきているようにも見える。

 このふくろうと軽蔑は、どれくらいくっついているのか、離れているのか。
 ふくろうが、何か(人間とか、世界とか)に対して軽蔑しているのか、何かがふくろうを軽蔑しているのか。それによって「パセリほど」の威力が変わってくる。
 離れているとしたら、ふくろうと軽蔑は全くの別の話となり、句の上で急に合体したことになる。そうなると、一枚の絵を見るような読み方が良いのかもしれない。

 何かぼやぼやとした鑑賞文になってしまったが、こういう句の鑑賞は非常に難しい。コラージュ作品を見ているような。ある絵とある絵が切り取られて同じ場所に引き合わされたとき、そこにどれだけ意味を付与していくべきなのかが、作品を見ているだけでは分かり切らない。そこは評者の領分となるのかもしれないが、私はこういう句に対しては意味が無ければ無いほど面白いと思ってしまうタイプで、どうしても口がもごもごしてしまう……。

 それで言うと、「パセリほど」には意味があるような気もしている。例えば俳句で言うとパセリは季語で、〈摩天楼より新緑がパセリほど/鷹羽狩行〉、〈抽象となるまでパセリ刻みけり/田中亜美〉などがある。本当に小さいどうでもいいもの、という感覚ではあるが、それにしてはどこか可愛げ(緑で、あの小ささにして食材に彩を与える……)である。どこかそれは、「ふくろう」から導かれた気がする。「黄昏」と「軽蔑」というやや強い感じの単語に挟まれるようにして、やや可愛げな「ふくろう」と「パセリ」。
 だから何かがあるわけではないが、「パセリほどの軽蔑」とすることで575から逸れてしまう分の韻律が、その挟まれた可愛さに似通うような気がする。

 見ただけで切れるようなシャープさと、甘い黄昏のやわらかさが妙な味わいを演出している心地いい句である。
 川柳には分かりやすく語りやすい面白い句と、語りにくい不思議な句があるが、そのどちらもを積極的に作っている作家がいるのがさらに面白い。今回挙げた小池正博もその一人で、〈君がよければ川の話をはじめよう〉〈たてがみを失ってからまた逢おう〉がある中、〈気絶してあじさい色の展開図〉〈変節をしたのはきっと美の中佐〉などがある。
 いや、「君がよければ」も実際はよく分かりはしないし、「あじさい色の展開図」を語りつくせるような気もする。分かる/分からないの前提からいちいち考え直さなければならなくなるような、川柳の圧に、今は無言で酔っていたい。黄昏のふくろう…………。

記:丸田

半日もあれば愛せるゆでたまご 石部明

所収:小池正博 編『はじめまして現代川柳』(書肆侃侃房、2020)*アンソロジー

 半日あったら愛せるとは言うものの、わざわざゆでたまごを愛するのに半日分未来に予約を入れるほどではなさそう。その微妙なゆでたまごとの距離感が可笑しい一句である。

 このフレーズがどうやって出てきたのかを考えるために、主体が質問された状況を想定するとしたら、その質問は例えば「ゆでたまごは好き?」ではいけない。好きかどうかを聞かれたら、好きか嫌いかどちらでもないになる。愛しているかと聞かれても、愛している/愛していないになってしまう。
「半日も」が出てくるには、時間や程度が聞かれていることになるだろう。「ゆでたまごを愛すことになるとしたら、どれくらいの時間が必要?」と聞かれるのが一番自然なような気がするが、その質問自体変てこな質問である。
 誰かに尋ねられた返答ではないとしたら、ゆでたまごをひとりぼんやりと見つめて愛せるなあ……と思ったという、それはそれで変な発想である。

「半日も」。「半日も」がずっといい意味で引っかかる。「半日もあれば愛せる」という言い方は、半日足らずで愛すことが出来て、それはかかっても半日だ、「ましてそれ以上の時間はゆでたまごを愛すのに必要ない(、半日でもかかりすぎくらいだ)」くらい言っているように聞こえる。
 ぱっと見だと、ゆでたまご愛に溢れるかわいらしい句のように見えるが、意外とそうではない。ゆでたまごなんかにこんな発想をしている滑稽さの方に重きが置かれていて、微妙にゆでたまごへの(気の利く)悪意のようなものまで感じられる。でも、なんだか憎めない。これはこの主体の雰囲気から来るのか、「ゆでたまご」から来ているのか……。
 こういう句を目にすると、自分だったらどう作るだろうかと考える。「半日をかけて愛してゆくたまご」とか、「一年をかけて愛したゆでたまご」とか、「ゆでたまご愛しつづけること半日」とか。これらの改作例を考えてみると、上五中七の素直さと意地悪さの両方を兼ねた表現の魅力がさらに分かってくる。

 石部明の川柳に現れる、他に言おうとしていることの気配の、豊かさ、面白さに驚かされる。〈縊死の木か猫かしばらくわからない〉のような、単語や光景の単純なパワーで圧している句もいいが、私は、〈朝方の鳥かごにまだ鳥がいる〉、〈そのあとに転がる青いくすり瓶〉、〈やわらかい布団の上のたちくらみ〉などのような、静かに振舞っているが、言わんとしていることたちが後ろでこちらを睨んでいる句が非常に優れていると思う。

 ゆでたまごの句とは関係ない話になるが、所収として挙げた川柳の本は、日車や半文銭から八上桐子、柳本々々、暮田真名まで収録されている非常に豊富な良アンソロジーになっている。アンソロジーといえば『現代川柳の精鋭たち』(北宋社、2000)があるが、既に手に入れづらい本になってしまっている。今回こうしてライトで且つ潤沢なアンソロジーが出たことを、いち川柳ファンとして嬉しく思う。ぜひともおすすめしたい。

記:丸田

バスが来てバスにゆだねるの刑 石田柊馬

所収:『現代川柳の精鋭たち』(北宋社 2000)

 「百句」中一句。先日、〈バスが来るまでのぼんやりした殺意/石部明〉に触れたが、同じくバスの一句。非常に滑稽な作品だと思う。バスが来て、それに乗ってしまっては、(自身で降りたい場所で降りるという自由は残されているにしても)バスに体を委ねなければならない。それを「刑」と捉えている。どこが面白いと思ったかを考えると、それを「刑」としたことではなく、「ゆだねるの刑」の言い方が大きい。この「刑」を誰かに処すとしても、自分に課すのだとしても、「ゆだねるの刑」はどこかふざけているような、牙の抜かれたような可愛さがある。「ゆだねるの刑~~」と伸ばして声に出すとますますその感が高まる。
 このような句は、ふつうの日常の現象を違う視点で見つめ直した、新しい認識で捉えた、というところに重きが置かれがちで、この句も、バスに乗ることを刑とした、そこだけで一句は出来てしまうはずだ。たとえば、「バスが来てバスにゆだねるという刑」など。こうすると一気に「刑」のシャープな切れ味が強まる。
 それを考えると、「ゆだねるの刑」は脱力させるような気の抜け方がある。そのため読み方としては、「バスが来てバスに/ゆだねるの刑」と77のリズムに寄せて読むのがより合っているだろうと思う。「バスが来て/バスにゆだねる/の刑」としてしまうと、先ほど述べた「刑」の着地・認識のシャープさが際立ってしまって、「ゆだねるの刑」の言い方と合わなくなってしまう。

 石田の他の句に、〈シンバルを十回叩けば楽になる〉があり、この句は可愛さのなかにぞっとする怖さがある。〈糸電話 鞍馬天狗はひとりでいます〉なんかは、素直に笑える面白い不思議な作品。「バスが来て」の句も、その時の気分によって笑えたり、怖くなったりするのかもしれない。次、自分がバスに乗るときに期待である。

記:丸田

よろしくね これが廃船これが楡 なかはられいこ

所収:『現代川柳の精鋭たち』(北宋社 2000)

 ジブリの映画『魔女の宅急便』で、キキが「私、魔女のキキです。こっちはクロネコのジジ」と言っていたのを思い出す。「よろしくね」の言い方から、「これが廃船これが楡」というのも、そのくらいのテンションで述べられたのだろうと推測できる。初読時は友達紹介をしているのだろうと思ったが、それにしては「これが」という表現が引っかかる。「これが」で思いつく状況として、「これは日本語で何というの?」というような外国語話者に質問されたり、子どもに名前を質問されているときなどがぱっと想像できる。要は、「これは何?」と聞かれて、「これが」と返答している、という状況。それなら「これが」も自然になる。
 しかし、この句では、一字空けをしているとはいえ、「よろしくね」からさほど時間が空いていないように思われる。挨拶の後、質問されて答えているというよりは、挨拶の延長として同じ人が喋り出しているように感じられる。

 そこで魅力的な謎、不明点として、どこで喋っているのかが分からないことがある。質問の返答なのであれば、「これが」は自然だが、キキのような場合であれば、「これが」は近いものを指していることになるだろう。であれば、「廃船」と「楡」をすぐに指せる場所とはどこなのだろう、と想像させる。楡の近くに廃船が放棄されているのか、廃船の近くに楡が植えられて育ったのか。そもそも外にいるのか室内にいるのか。ノートに廃船と楡の落書きをしていて、自分からそれを見せているのか(この句の場合、指すものが実際に目の前にあった方が迫力があるように思うから、この読み方は魅力的ではないが、「よろしくね」はしっくりくる)。キキのような場合なら、おそらく廃船と楡の近くである外で喋っているし、外で喋っているのなら外で「よろしくね」が起きたことになる。どの年齢の人と人が出会ったのかは分からないが(人ではない可能性も十分にある)、まだ「よろしくね」の関係である人物に向かって、「これが」「廃船」・「楡」だと説明する状況を、自分の経験の中に持っていない。不可解である。

 私が一番気にかかっているのはその部分である。この状況を想像しにくい=想像しにくい状況を作ったこと、がこの句の魅力であろうし、「これが」の連続で敢えて型っぽくすることで単語勝負に持って行った戦っているところが読みどころでもある。しかしそこが若干、灰汁のように引っかかっている。「これは何」と聞かれて返答している状況でも、キキのように紹介している状況でも、それが自然になるように無理矢理場面を想像することは可能であるが、それが読者に過度に負担をかけているように感じる。それが魅力なのは十分に分かっているが、作者が句を作るために「廃船」と「楡」という詩的な単語で飛ばしていったがために、単に作品内の世界で終わらず、作品外の作者の手つきでこちらが困っている、という節が強い。

 これは川柳や俳句や短歌に課せられた問題だと思うが、短いがあまりに、すべてが突然やってくる。表現も、言い方も、単語も突然である。いくら写生の作品であっても、突然それについて話しはじめ、それについて語り終える。そして短いがあまりに、作者の手つきというのがどうしてもそこに透ける。
 掲句に関しては、作者の手つきも混ざりあっているところが妙味であろうが、私にとっては、それによって作品世界がぶれて、乗り切れない部分があるなと感じた。ただ、「廃船」と「楡」という単語の距離で勝負するぞという気概は好みだった。

 楡といってすぐに思いだせる短歌に、

  楡の木となりある夜あなたを攫ひに来ると言はれて待つはさびしきものを/永井陽子
  鋭い声にすこし驚く きみが上になるとき風にもまれゆく楡/加藤治郎
  毒舌のおとろえ知らぬ妹のすっとんきょうな寝姿よ 楡/東直子
 *

があり、(短歌ということも一因としてあるのかもしれないが)楡はなんとなく性的な空気感であったり、〈わたしーあなた〉の線に登場しやすいイメージが勝手にあった。こういう単語勝負の作品はその語がどういうふうに想起されるかに左右されやすいが、私の中で、「廃船」と「楡」、「よろしくね」は、透明な悪意でまとまって、胸の中で暗く結晶している。

*引用は順に『樟の木のうた』1981、『サニー・サイド・アップ』1987、『春原さんのリコーダー』1996。

記:丸田

バスが来るまでのぼんやりした殺意 石部明

所収︰『現代川柳の精鋭たち』(北宋社 2000)

 バスが来るまでぼんやりとした殺意を抱く。抱く、というほどでもないかもしれない。ぼんやりと頭のなかが、体が、殺意でいっぱいになっている。バスが来たあと、この殺意はどうなったのだろう。消えたのか、忘れたのか、違う気持ちに変化したのか。その殺意は「ぼんやり」と言いながら、たしかに「バスが来るまで」はあったという事実に、ひやりとするものがある。バスがもし永遠に来なかったらと思うと、更に……。

記︰丸田

未来から過去へ点いたり消えたりしている電気 普川素床

所収︰『現代川柳の精鋭たち』(北宋社 2000)

「ユモレスク」中の、広がりのある一句。内容についても韻律についても、言いまくる。私だったら、未来か過去の一つ、点くか消えるかの一つで済ましているように思う。この句は全部言っている。言わなければ、言えなかったのだろう。
 この句の不思議なところは、「現在」が消えている(ように見える)ことだと思う。例えばここで、「未来へ過去へ」だったら、現在を中心に、未来と過去があり、現在から違う時間に向かって電気が明滅していると取れる。それならスムーズに読める。(犬が、過去に向かって吠えている、というような作品をどこかで見たことを思い出す。)
 ただこの句では、未来出発の過去到着であり、現在はスルーされている。もし、これが「電車」であれば、現在も同じように通過していくのだろうと想像ができるが、これは「電気」である。「点いたり消えたり」の二つの動作に、通過のイメージは考えにくい。点く瞬間と消える瞬間があって、その動機として未来や過去があるだけであり、なんの意味も与えられていない、点いている/消えている現在は、ほぼ無視されている。ここが、不気味に感じる。
 韻律を大きくはみ出すことを厭わず、ここまで全部言っているのに、現在が書かれていない。今この電気はどの時点で発見され、誰がそれを見ているのか。もしくは、誰も見ていないのか。現在も、そして同時に人間もスルーされてしまったような句の空間に、ただ流れる時間と、浮かび上がる電気。

 もし、人間が全員、パタンと死滅してしまった世界は、こうなっているのかもしれないとも思う。残った電力で、電気がただちかちかと点灯する。電気と時間が、静かに応答する。「点いたり消えたり」の、「たり」が、もしかしたら違う動作もあるのではないかと思わせてくる。私たちが知っている電気、電球などは点くか消えるかだけだろうと思っていたが、実はそれ以外のこともしているのかもしれない。話したり、何かと連絡しあっていたり、大きなプロジェクトのために準備していたり。
 私たちには気づかないところで、知られない方法で、何か巨大なイベントが進行していてそれを見過ごしてしまっているような、底知れぬ恐ろしさを感じる。

記︰丸田