沖にある窓に凭れて窓化する 筒井祥文

所収:小池正博編『はじめまして現代川柳』(書肆侃侃房、2020)

 窓化。

革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ 塚本邦雄『水葬物語』

 こちらは液化。
 窓にもたれていると、窓になってしまった。これは一体、どこに要因があるのか。もたれかかってきた人を例外なく取り込んでしまうような驚異的な窓なのか。別に窓になっても良いかもしれない、と主体が油断したからなのか。窓になりそうな凭れ方をしてしまったのか。「沖にある窓」だったからそうなったのか。
 なりたくてなったのか、なりたくないのになってしまったのかで、印象は変わってくる。「沖にある」という入り方から、自ら窓の世界に寄り添おうとしている雰囲気(適当に窓を選んでいないというか)があり、窓化してしまってもそこまで嫌な気持ちはしていないのでは、と推測している。

 窓化という語のパワーに惚れてこの句を引いたが、句としてはやや粗いように思っている。先に引いた塚本の歌であれば、「すこしづつ」がかなり効いており、実際に無い光景のはずが、本当にピアノが滴ってぐにゃりと液化していく様子が想像できる。一方窓化は、どういうふうに窓化するのかが全く想像できない。主体は人間だとして、体の一部分が物理的に窓に形状が似ていくことを指しているのか、精神的な面で窓になっていくのか、透明という特質が伝染って透けてくるのか、まるきり窓に変身してしまうのかが、分からない。そこが分からないのもまた良さで、とも思うものの、ここにもう少し具体性があるほうが個人的には好みだった。
「液化してゆく」に対し「窓化する」とある。「する」、とはその経緯がすっかり省略されている。ゆっくり窓になったのか、一瞬にして窓になったのか分からない。

 ここで思うのは、これが一瞬にして窓、だったらつまらないなということである。確かに、その方が窓っぽく、「窓化する」と間を省いた言い方にも合ってくる。ただ、それなら「沖にある」はのんびりし過ぎている。突然変異的に、押入れを開けたら異世界に繋がっていた的なことなら、その窓がどこにあろうとさほど変わらないと思う。「沖」があまりに雰囲気でしかなくなってしまう。
 この「沖にある窓」を選んで、さらに眺めるだけでなくて「凭れ」た、その時点で、かなり思考は「窓化」しているように思われる。かなりゆっくり窓化した、それを窓側でも主体側でも許しあっていた、とそのような空間を想起した方が、「沖にある」が効いてくるのではないか。

 川柳を読んでいて度々思うことだが、(もちろんストーリー性のあるものもあり、長律で展開までつけるものもあるが)それが奇想であり、その出発点であればそれでいい、そして単語選びやその接続が独特であればまた良い、という心で作られた作品がかなり多い気がしている。短いためその後まで言えないからそうなっているというのは十分承知しているが、そういう飛び道具的なものは個人的にそこまで記憶に残らない。どちらかというとこの筒井の句もそういう句になると思われるが、「沖にある」が最後までそう読ませるのをとどまらせてくれた。窓化という単語の発明のみに終わっていない、その窓化が行われた空間と時間、そして「その」窓と主体の関係性を思わせるきっかけが用意されている、優しく飛んだ句であると思う。
 読みようによって駄句と良句に分かれる、その幅が(俳句や短歌よりも)非常に大きいのが(良くも悪くも)川柳だと私は思っている。少なくとも川柳の鑑賞においては、できるだけその句が良くなるように、という気持で読んでいきたいと思っている。

 窓化したあと、主体はいつまで窓であるのか。もし戻るのなら、どうやって戻ったか。窓になる時と逆向きに戻ったのか、違うものを経由して戻ったのか。戻らないなら、主体はどんな気持ちでいるのか。周りから誰かが見ていないか。
 まだ色を塗っていない塗り絵のようで、まだまだ多くの可能性が考えられる。過剰に読み過ぎるのも良くないかもしれないが、この句については、読み過ぎるほど「窓化」がより良くなっていくのだろうと確信めいた感覚を抱いている。

記:丸田

大晦日のエスカレータに 乗せられ 堀豊次

所収:黒川孤遊編『現代川柳のバイブル─名句一〇〇〇』理想社、2014*

「乗せられ」の反転のさせ方が光る一句。
 おそらく、エスカレーターに自分から乗っているにもかかわらず、「エスカレータに」運ばれているようだと考えた、という読みがシンプルだろう。一応、「乗せられ」は誰か他の人に押されてエスカレーターに乗ってしまった、という風に読むこともでき、そう考えると若干テイストが変わってくる。エスカレーターの中でぽつんと自分の発見が浮き上がってくるものと、他者によって無理矢理自分がエスカレーターに巻き込まれてしまうもの。ただ大晦日ほど人が集まっていれば、押されて乗ってしまうことは容易に起きそうだから、後者の読みだと「 乗せられ」があまり効かなくなってくるため、やはりシンプルな読みの方が合いそうだ。

 この句が何故か新鮮に思えるのは、エレベーターとの感覚の違いからだと思われる。どちらも自分から乗るものではあるが、エレベーターは連れていかれる感が強い。エスカレーターは乗っている最中も自身は歩くことが出来るし、箱型のエレベーターよりも運んでくれる感は少ない(個人的に)。もしこの句が「エレベーターに 乗せられ」だったら、たいして驚くものは無かった。もしかしたら、エレベーターよりもエスカレーターの方が、私たちはナメてかかっているのかもしれないとも思ったりした。
 ちなみに、私の地元は田舎であったため、町にエスカレーターは一基しかなく(農協にあった)、他の町に行ったときも、エスカレーターでさえドキドキしながら乗っていた。だから小学生のころの自分がこの句に出会っていたら、何を当たり前のことを(そりゃ「乗せられ」るものだろうと)、と思ったかもしれない。それを思えば、近くにデパートがあったり電車の駅があったり、そういう都市、都会の生活になじんでいる人の方が、この句に対する驚きは大きいのかもしれない。

 蛇足ではあるが、個人的に「大晦日」以外のことも考えたくなる。生活感あふれる「大晦日」もいいが、もしこれが「天国のエスカレータ」であったり、「まひるまのエスカレータ」であったりしたら。それこそ最初に述べた通り、「乗せられ」が発見としての反転ではなく、乗せられることの恐怖に変わっていくことになるが、それはそれで面白そうである(そう書いていて気付いたが、大晦日であることによって、エスカレーターに乗りながら年を越してしまう可能性も匂わせられているような気がする。時をまたぐエスカレーターに乗っているような。大晦日のそんな時間まで動いているエスカレーターがあるかどうかは怪しいが、そういう時間というエスカレーターにも乗せられているような感覚も、なんとなくこの句を良い雰囲気にしているように思う)。

 webサイト「週刊俳句」にて、樋口由紀子さんがこの句から「考えてみれば、人生は『させられ』の連続である」と述べている(2011年12月30日)。自分は自分で生きているかと思ったら、実は生きさせられているのかもしれない。そういう当たり前と思っていることが逆転するときの、寒気がするような不安と気持ちよさが、この句の一字空きに詰まっているのかもしれない。

*初出は、筆者は確認できていないので、この句が収録されているアンソロジーを置いた。上述した樋口さんの確認によると 「天馬」2号(河野春三編集発行 1957年)収録とのこと。

記:丸田

黄昏のふくろう パセリほどの軽蔑 小池正博

所収:小池正博 編『はじめまして現代川柳』(書肆侃侃房、2020)*アンソロジー

 黄昏のふくろうと、パセリほどの軽蔑、の衝突。美的だと思った。
 読者のことを信頼しきっているようにも、挑戦してきているようにも見える。

 このふくろうと軽蔑は、どれくらいくっついているのか、離れているのか。
 ふくろうが、何か(人間とか、世界とか)に対して軽蔑しているのか、何かがふくろうを軽蔑しているのか。それによって「パセリほど」の威力が変わってくる。
 離れているとしたら、ふくろうと軽蔑は全くの別の話となり、句の上で急に合体したことになる。そうなると、一枚の絵を見るような読み方が良いのかもしれない。

 何かぼやぼやとした鑑賞文になってしまったが、こういう句の鑑賞は非常に難しい。コラージュ作品を見ているような。ある絵とある絵が切り取られて同じ場所に引き合わされたとき、そこにどれだけ意味を付与していくべきなのかが、作品を見ているだけでは分かり切らない。そこは評者の領分となるのかもしれないが、私はこういう句に対しては意味が無ければ無いほど面白いと思ってしまうタイプで、どうしても口がもごもごしてしまう……。

 それで言うと、「パセリほど」には意味があるような気もしている。例えば俳句で言うとパセリは季語で、〈摩天楼より新緑がパセリほど/鷹羽狩行〉、〈抽象となるまでパセリ刻みけり/田中亜美〉などがある。本当に小さいどうでもいいもの、という感覚ではあるが、それにしてはどこか可愛げ(緑で、あの小ささにして食材に彩を与える……)である。どこかそれは、「ふくろう」から導かれた気がする。「黄昏」と「軽蔑」というやや強い感じの単語に挟まれるようにして、やや可愛げな「ふくろう」と「パセリ」。
 だから何かがあるわけではないが、「パセリほどの軽蔑」とすることで575から逸れてしまう分の韻律が、その挟まれた可愛さに似通うような気がする。

 見ただけで切れるようなシャープさと、甘い黄昏のやわらかさが妙な味わいを演出している心地いい句である。
 川柳には分かりやすく語りやすい面白い句と、語りにくい不思議な句があるが、そのどちらもを積極的に作っている作家がいるのがさらに面白い。今回挙げた小池正博もその一人で、〈君がよければ川の話をはじめよう〉〈たてがみを失ってからまた逢おう〉がある中、〈気絶してあじさい色の展開図〉〈変節をしたのはきっと美の中佐〉などがある。
 いや、「君がよければ」も実際はよく分かりはしないし、「あじさい色の展開図」を語りつくせるような気もする。分かる/分からないの前提からいちいち考え直さなければならなくなるような、川柳の圧に、今は無言で酔っていたい。黄昏のふくろう…………。

記:丸田

半日もあれば愛せるゆでたまご 石部明

所収:小池正博 編『はじめまして現代川柳』(書肆侃侃房、2020)*アンソロジー

 半日あったら愛せるとは言うものの、わざわざゆでたまごを愛するのに半日分未来に予約を入れるほどではなさそう。その微妙なゆでたまごとの距離感が可笑しい一句である。

 このフレーズがどうやって出てきたのかを考えるために、主体が質問された状況を想定するとしたら、その質問は例えば「ゆでたまごは好き?」ではいけない。好きかどうかを聞かれたら、好きか嫌いかどちらでもないになる。愛しているかと聞かれても、愛している/愛していないになってしまう。
「半日も」が出てくるには、時間や程度が聞かれていることになるだろう。「ゆでたまごを愛すことになるとしたら、どれくらいの時間が必要?」と聞かれるのが一番自然なような気がするが、その質問自体変てこな質問である。
 誰かに尋ねられた返答ではないとしたら、ゆでたまごをひとりぼんやりと見つめて愛せるなあ……と思ったという、それはそれで変な発想である。

「半日も」。「半日も」がずっといい意味で引っかかる。「半日もあれば愛せる」という言い方は、半日足らずで愛すことが出来て、それはかかっても半日だ、「ましてそれ以上の時間はゆでたまごを愛すのに必要ない(、半日でもかかりすぎくらいだ)」くらい言っているように聞こえる。
 ぱっと見だと、ゆでたまご愛に溢れるかわいらしい句のように見えるが、意外とそうではない。ゆでたまごなんかにこんな発想をしている滑稽さの方に重きが置かれていて、微妙にゆでたまごへの(気の利く)悪意のようなものまで感じられる。でも、なんだか憎めない。これはこの主体の雰囲気から来るのか、「ゆでたまご」から来ているのか……。
 こういう句を目にすると、自分だったらどう作るだろうかと考える。「半日をかけて愛してゆくたまご」とか、「一年をかけて愛したゆでたまご」とか、「ゆでたまご愛しつづけること半日」とか。これらの改作例を考えてみると、上五中七の素直さと意地悪さの両方を兼ねた表現の魅力がさらに分かってくる。

 石部明の川柳に現れる、他に言おうとしていることの気配の、豊かさ、面白さに驚かされる。〈縊死の木か猫かしばらくわからない〉のような、単語や光景の単純なパワーで圧している句もいいが、私は、〈朝方の鳥かごにまだ鳥がいる〉、〈そのあとに転がる青いくすり瓶〉、〈やわらかい布団の上のたちくらみ〉などのような、静かに振舞っているが、言わんとしていることたちが後ろでこちらを睨んでいる句が非常に優れていると思う。

 ゆでたまごの句とは関係ない話になるが、所収として挙げた川柳の本は、日車や半文銭から八上桐子、柳本々々、暮田真名まで収録されている非常に豊富な良アンソロジーになっている。アンソロジーといえば『現代川柳の精鋭たち』(北宋社、2000)があるが、既に手に入れづらい本になってしまっている。今回こうしてライトで且つ潤沢なアンソロジーが出たことを、いち川柳ファンとして嬉しく思う。ぜひともおすすめしたい。

記:丸田

バスが来てバスにゆだねるの刑 石田柊馬

所収:『現代川柳の精鋭たち』(北宋社 2000)

 「百句」中一句。先日、〈バスが来るまでのぼんやりした殺意/石部明〉に触れたが、同じくバスの一句。非常に滑稽な作品だと思う。バスが来て、それに乗ってしまっては、(自身で降りたい場所で降りるという自由は残されているにしても)バスに体を委ねなければならない。それを「刑」と捉えている。どこが面白いと思ったかを考えると、それを「刑」としたことではなく、「ゆだねるの刑」の言い方が大きい。この「刑」を誰かに処すとしても、自分に課すのだとしても、「ゆだねるの刑」はどこかふざけているような、牙の抜かれたような可愛さがある。「ゆだねるの刑~~」と伸ばして声に出すとますますその感が高まる。
 このような句は、ふつうの日常の現象を違う視点で見つめ直した、新しい認識で捉えた、というところに重きが置かれがちで、この句も、バスに乗ることを刑とした、そこだけで一句は出来てしまうはずだ。たとえば、「バスが来てバスにゆだねるという刑」など。こうすると一気に「刑」のシャープな切れ味が強まる。
 それを考えると、「ゆだねるの刑」は脱力させるような気の抜け方がある。そのため読み方としては、「バスが来てバスに/ゆだねるの刑」と77のリズムに寄せて読むのがより合っているだろうと思う。「バスが来て/バスにゆだねる/の刑」としてしまうと、先ほど述べた「刑」の着地・認識のシャープさが際立ってしまって、「ゆだねるの刑」の言い方と合わなくなってしまう。

 石田の他の句に、〈シンバルを十回叩けば楽になる〉があり、この句は可愛さのなかにぞっとする怖さがある。〈糸電話 鞍馬天狗はひとりでいます〉なんかは、素直に笑える面白い不思議な作品。「バスが来て」の句も、その時の気分によって笑えたり、怖くなったりするのかもしれない。次、自分がバスに乗るときに期待である。

記:丸田

よろしくね これが廃船これが楡 なかはられいこ

所収:『現代川柳の精鋭たち』(北宋社 2000)

 ジブリの映画『魔女の宅急便』で、キキが「私、魔女のキキです。こっちはクロネコのジジ」と言っていたのを思い出す。「よろしくね」の言い方から、「これが廃船これが楡」というのも、そのくらいのテンションで述べられたのだろうと推測できる。初読時は友達紹介をしているのだろうと思ったが、それにしては「これが」という表現が引っかかる。「これが」で思いつく状況として、「これは日本語で何というの?」というような外国語話者に質問されたり、子どもに名前を質問されているときなどがぱっと想像できる。要は、「これは何?」と聞かれて、「これが」と返答している、という状況。それなら「これが」も自然になる。
 しかし、この句では、一字空けをしているとはいえ、「よろしくね」からさほど時間が空いていないように思われる。挨拶の後、質問されて答えているというよりは、挨拶の延長として同じ人が喋り出しているように感じられる。

 そこで魅力的な謎、不明点として、どこで喋っているのかが分からないことがある。質問の返答なのであれば、「これが」は自然だが、キキのような場合であれば、「これが」は近いものを指していることになるだろう。であれば、「廃船」と「楡」をすぐに指せる場所とはどこなのだろう、と想像させる。楡の近くに廃船が放棄されているのか、廃船の近くに楡が植えられて育ったのか。そもそも外にいるのか室内にいるのか。ノートに廃船と楡の落書きをしていて、自分からそれを見せているのか(この句の場合、指すものが実際に目の前にあった方が迫力があるように思うから、この読み方は魅力的ではないが、「よろしくね」はしっくりくる)。キキのような場合なら、おそらく廃船と楡の近くである外で喋っているし、外で喋っているのなら外で「よろしくね」が起きたことになる。どの年齢の人と人が出会ったのかは分からないが(人ではない可能性も十分にある)、まだ「よろしくね」の関係である人物に向かって、「これが」「廃船」・「楡」だと説明する状況を、自分の経験の中に持っていない。不可解である。

 私が一番気にかかっているのはその部分である。この状況を想像しにくい=想像しにくい状況を作ったこと、がこの句の魅力であろうし、「これが」の連続で敢えて型っぽくすることで単語勝負に持って行った戦っているところが読みどころでもある。しかしそこが若干、灰汁のように引っかかっている。「これは何」と聞かれて返答している状況でも、キキのように紹介している状況でも、それが自然になるように無理矢理場面を想像することは可能であるが、それが読者に過度に負担をかけているように感じる。それが魅力なのは十分に分かっているが、作者が句を作るために「廃船」と「楡」という詩的な単語で飛ばしていったがために、単に作品内の世界で終わらず、作品外の作者の手つきでこちらが困っている、という節が強い。

 これは川柳や俳句や短歌に課せられた問題だと思うが、短いがあまりに、すべてが突然やってくる。表現も、言い方も、単語も突然である。いくら写生の作品であっても、突然それについて話しはじめ、それについて語り終える。そして短いがあまりに、作者の手つきというのがどうしてもそこに透ける。
 掲句に関しては、作者の手つきも混ざりあっているところが妙味であろうが、私にとっては、それによって作品世界がぶれて、乗り切れない部分があるなと感じた。ただ、「廃船」と「楡」という単語の距離で勝負するぞという気概は好みだった。

 楡といってすぐに思いだせる短歌に、

  楡の木となりある夜あなたを攫ひに来ると言はれて待つはさびしきものを/永井陽子
  鋭い声にすこし驚く きみが上になるとき風にもまれゆく楡/加藤治郎
  毒舌のおとろえ知らぬ妹のすっとんきょうな寝姿よ 楡/東直子
 *

があり、(短歌ということも一因としてあるのかもしれないが)楡はなんとなく性的な空気感であったり、〈わたしーあなた〉の線に登場しやすいイメージが勝手にあった。こういう単語勝負の作品はその語がどういうふうに想起されるかに左右されやすいが、私の中で、「廃船」と「楡」、「よろしくね」は、透明な悪意でまとまって、胸の中で暗く結晶している。

*引用は順に『樟の木のうた』1981、『サニー・サイド・アップ』1987、『春原さんのリコーダー』1996。

記:丸田

バスが来るまでのぼんやりした殺意 石部明

所収︰『現代川柳の精鋭たち』(北宋社 2000)

 バスが来るまでぼんやりとした殺意を抱く。抱く、というほどでもないかもしれない。ぼんやりと頭のなかが、体が、殺意でいっぱいになっている。バスが来たあと、この殺意はどうなったのだろう。消えたのか、忘れたのか、違う気持ちに変化したのか。その殺意は「ぼんやり」と言いながら、たしかに「バスが来るまで」はあったという事実に、ひやりとするものがある。バスがもし永遠に来なかったらと思うと、更に……。

記︰丸田

未来から過去へ点いたり消えたりしている電気 普川素床

所収︰『現代川柳の精鋭たち』(北宋社 2000)

「ユモレスク」中の、広がりのある一句。内容についても韻律についても、言いまくる。私だったら、未来か過去の一つ、点くか消えるかの一つで済ましているように思う。この句は全部言っている。言わなければ、言えなかったのだろう。
 この句の不思議なところは、「現在」が消えている(ように見える)ことだと思う。例えばここで、「未来へ過去へ」だったら、現在を中心に、未来と過去があり、現在から違う時間に向かって電気が明滅していると取れる。それならスムーズに読める。(犬が、過去に向かって吠えている、というような作品をどこかで見たことを思い出す。)
 ただこの句では、未来出発の過去到着であり、現在はスルーされている。もし、これが「電車」であれば、現在も同じように通過していくのだろうと想像ができるが、これは「電気」である。「点いたり消えたり」の二つの動作に、通過のイメージは考えにくい。点く瞬間と消える瞬間があって、その動機として未来や過去があるだけであり、なんの意味も与えられていない、点いている/消えている現在は、ほぼ無視されている。ここが、不気味に感じる。
 韻律を大きくはみ出すことを厭わず、ここまで全部言っているのに、現在が書かれていない。今この電気はどの時点で発見され、誰がそれを見ているのか。もしくは、誰も見ていないのか。現在も、そして同時に人間もスルーされてしまったような句の空間に、ただ流れる時間と、浮かび上がる電気。

 もし、人間が全員、パタンと死滅してしまった世界は、こうなっているのかもしれないとも思う。残った電力で、電気がただちかちかと点灯する。電気と時間が、静かに応答する。「点いたり消えたり」の、「たり」が、もしかしたら違う動作もあるのではないかと思わせてくる。私たちが知っている電気、電球などは点くか消えるかだけだろうと思っていたが、実はそれ以外のこともしているのかもしれない。話したり、何かと連絡しあっていたり、大きなプロジェクトのために準備していたり。
 私たちには気づかないところで、知られない方法で、何か巨大なイベントが進行していてそれを見過ごしてしまっているような、底知れぬ恐ろしさを感じる。

記︰丸田

時と場のあるしあわせを踊り切る 古谷龍太郎

所収:黒川孤遊 編『現代川柳のバイブル─名句一〇〇〇』理想社 2014*

 「時と場のあるしあわせ」。時間と空間が用意されていること。
 「踊り」に極端に寄せて、ダンスの発表会と取り、発表会場がある(設営等をしてくれた)ことや自身に演技時間を作ってくれていることに感謝しているとも考えられなくはない。が、「時と場」という抽象的な単語に引き戻しているところから、そのような小さいイベントの話ではないような感触がある。もっと大きなもの。

 簡単に思いつくもので言えば、「生」がある。生きていく時間や生きていられる場所があることの嬉しさ。「しあわせ」という直截な言い方も、自身の生の蓄積から来るあたたかい感謝、肯定と考えると納得できる。
 そう見ると、「踊り切る」の「切る」の部分に、最後まで余すことなく人生を楽しみ尽くすぞという意志の力強さと同時に、場や世界に(それが神に与えてもらっていると考える人は、神にも)感謝しながら今にも踊り(=生)を終えてしまいそうな、緊迫した切なさも感じる。例えば下五が「踊りをり」であれば、今幸せを噛みしめているように、幸せが前面に出てくる。更に「しあわせを」が「しあわせに」であれば、幸せだから嬉しくて踊っている、というふうにより幸せが強くなる。
 「しあわせを」「踊り切る」。どうしても切なく聞こえてしまう。

 初めにこの句を読んだとき、「しあわせ」があまりに奔放というか、素直に言いすぎだとばかり思っていた。しかしその切なさを考えると、「しあわせ」とまで言ってしまいたい感覚が分かる気がする。どれだけ波乱な人生だったとしても、「いい人生だった」と言って死ぬことが出来れば、それは自分にとっていい人生だったことに(少しくらいは)なる。それに似ているように思う。

 上からさらりと読めば、時と場があることを幸せだと受け止め、その幸せの中で踊っている、くらいのあたたかく勢いのある句になる。そして最後の「切る」によって、幸せを十分に味わってその中でその踊りを完結させようとする、切ない力強さ・潔さが一瞬見える。その一瞬で主体が、まるで無茶して踊っているように、「しあわせ」と口にすることで「しあわせ」と捉えられると信じているかのように見えてくる。踊ってきた分の、生きてきた分の意地、みたいに。しかしそれは本当に一瞬のことで、瞬きして上から再び読めば、何事もなく幸せを全身で味わっている至福の表情に戻っている。

 「しあわせ」という柔らかい言葉と、それに比べるとシャープな「時と場」、そして若干の意図や意志が現れた「切る」によって、この句は妙な奥行きを実現している。

*本来、句集等を引くべきだが、句集が手に入らず確認できていないため、アンソロジーをそのまま記した。確認でき次第追記したい。

記:丸田

花火 これ以上の嘘はありません 福田文音

所収:黒川孤遊 編『現代川柳のバイブル─名句一〇〇〇』理想社 2014*

 そんなにもはっきり言ってしまうなんて、と驚きで虚を衝かれた。花火という、どう考えても、どう書いても綺麗に映ってしまうような現象を、「これ以上の嘘は」ないとバッサリ断ち切る。その潔さにかっこいい、と思う。

 この「これ以上の嘘はありません」については、読みがいくつか考えられる。花火が嘘であるとして、(花火と、それにまつわるものに対して)否定的な見方をしているようにも考えられるし、花火を嘘としつつも「最上の嘘である」と、嘘の(ような)輝きを褒めている、ともとれる。どちらもが混ざっているようには思うが、私としては前者に傾けて読みたい。
 というのも、これは俳句とは違って川柳である。これが俳句であれば、季語を綺麗に高めようとするのではないかと思う。嘘のようにきれいな花火、と花火に帰ってくるような作り方で。しかし、「花火」のあとに一字空けをして即座に嘘だと否定するのは川柳らしく、季語(としての力)が無効化されている。花火という夏や秋の現象だけでなく、「花火」と発せられた会話や、そう書かれた文章もここに含まれているような感触がある。
 そのため、書いてしまえば美しく「なってしまう」ものに対して、それに何の気を遣うことも、恐れることもなく、美しさを簡単に出して楽しんでしまっている人たちに向けて、そんな嘘ある? と責めているように感じられる(私だけが被害妄想的にそう読んでいるだけかもしれないが)。

 ただ、このメッセージは、同様に、この句自身にも適用されることになるだろう。「これ以上の嘘はありません」と指摘する材料として、嘘みたいに美しくて(俗な表現をするならば)エモい「花火」を持ってきているわけで、この句自体も、その「嘘」の恩恵を受けていることになる。
 しかし、無自覚に発言するのと、それを「嘘」と分かっていながら敢えて使うことには差がある。表面的には同じ「花火」でも、この主体から発せられる「花火」の方が信頼できるだろう。――と書いてから気づいたが、「嘘」と分かっていながら使うのは、本当に信頼できるだろうか。それはずる賢く乗っかっているだけで、むしろ、純粋に無自覚な方が、まだいいのではないか。でも、無自覚な、言ってしまえば暴力的な使用と、それに気づいて「嘘」だと指摘することは、大きく懸隔しているから問題はないのか……?

 とぐるぐる考えるに至る。少なくとも確実に言えるのは、この句を、最初に書いたように「花火を嘘だなんて、かっこいい」だけで終わらせてしまっては、「花火」と同じである、ということである。この句によって何が問題視され、これを言うことでこの句の中で何が起こっているのかを考えていくことが、この句の(誠実な)味わい方なのではないかと私は思う。

 私は、これが川柳であることから、例えば俳句の季語を思い浮かべる。この句の「花火」には「桜」「月」「雪」「風光る」「五月雨」と季語を入れてみても、同じようなことが言えるようにも思う(掲句の、花火であったからこその妙味からは離れてしまうが)。蓄積、と言ったら聞こえはいい表現だが、これも良い良いと言われ続けてきた単語にすぎない。その単語を出すだけで、今まで積み重ねられた良さ、文脈、作品を良いように得られる(得ないようにしようとすると、かなりの困難が付き纏う)。もはや嘘として楽しんでいる節もある。もちろん、そこが良さでもあるから、バランスが大事になってくるだろう。
 俳句に限ったことではないが、何か言葉を発するとき、言葉を使用することで生まれる効果や、言葉と同時に利用しているもの(権力、蓄積など)に、鋭敏に反応していかなくてはいけないと思わせられる作品だった。

*当書には出典等明記されておらず、私も初出が調べ切れておらずアンソロジーからの孫引きになってしまっている。確認でき次第追記したい。

記:丸田