父に雉啼きゐて濡れてゐない沖 柚木紀子

所収:『岸の黄』角川書店 1990

 父に雉が啼いている映像を、濡れていない沖に繋げていく。初めは像が不鮮明でも、考えていくほどに脳内で光景はなめらかになっていく。脳内で映像が溶接されていくときに発生する微かな閃光のようなものが深く心地いい。

 この句からは多くの映像が見えてくる。そして同時に、それを見せるための工夫も見えてくる。「父」「雉」「啼き」「ゐ」「沖」など i や ki の音による特徴的な韻律。「ゐて」と「ゐない」を一句に同居させていること。「父」と「沖」という二拍分の漢字一字で始まり終える構成、「濡れてゐない沖」という撞着語法的な表現。
 この過剰なほどの修辞等の工夫が、良くも悪くも、景をあやうく立ち上がらせる。それは非常に不安定である。言語が先に走っているような「濡れてゐない沖」とは果たしてどんな波を起こしているだろうか(「濡れてゐない」は雉に掛かっていて、沖が最後にぽつんと置かれているようにも読めるかもしれない)。本当に雉は「父に」啼いているだろうか。登場する父と雉と沖は、私にどう観測されているだろうか(同時に見えているのか、時間差があるのか、現実/非現実なのか)。

 この句についての鑑賞から少し離れてしまうかもしれないが、関連して述べたい。私はこのような過剰に操作されたように見える(表現がどう見えるかに特に集中して作られた)句が非常に好みで、ときにステンドグラスを想う。

 区切られた一部分の硝子の色だけを見ていれば分からないが、隣の硝子との繋がり、さらにはもう一つ遠くの、もう二つ遠くの硝子との繋がりを見て、曖昧な理解とともに視点を引いていくと全体像が見えてくる。理解がそこでようやく至る。しかし、基本的にステンドグラスは、初めからそういう見方はされない。先に全体像が見えていて、よく細部まで目を凝らすと、全体像からは遠く離れたシンプルな色が枠の中にただあるのが分かる。
 俳句も、上から一つずつ読んでいくとは言え、短さとリズムから、ほぼ初めから全体が見えている。そこから一つずつ表現を分析していくことになる。そういう意味ではステンドグラス的な鑑賞をしている。
 が、今回の掲句のようにレトリックが先行しているような句では、全体像がぼんやりとしか見えず、逆に個々の繋がりが先に分かってくる。そして繋がりから、全体像が鮮明に見えてくる。しかしそれは水を泡が上がっていくような自然な「見えてくる」ではなく、必死に見ようとして、個々を統合してようやく「見ることが出来る」あやうい一瞬の全体像であったりする。そのため、見るたびに変わっていたり、深く見ていくほど、簡単に像がほどけていく。
 この全体像が立ち上がり崩壊し立ち上がる特有の感覚に心惹かれる。見ようとしなければ見えない上に、深く見ようとするとかえって見えなくなる世界。
(一応補足として、もちろん、全ての句が多少なりとも表現にはこだわられているだろうし、細かく見れば全体が変わりうるという性質はレトリック先行の句に限るものではない。)

 鑑賞に戻り、最後に、「父」と「沖」が登場している高柳重信の句を紹介しておきたい。〈沖に/父あり/日に一度/沖に日は落ち〉、〈凧あげや沖の沖より父の声〉。柚木の句もそうだが、沖とともに存在することによって、空間を強く意識して父が存在させられているように思う。父という自身にとって強固であるような存在が、沖と並ぶことで、空間に向かって、稀薄になっていくような。しっかりとありつつ、しっかりと無い。雉は、本当に「父に」啼いているのだろうか? 父を通して、その先の虚空に啼いているのではないか? と句をステンドグラスのようにぼんやり眺めていて思う。

記:丸田

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