玉葱はいま深海に近づけり 飯島晴子

所収:『朱田』永田書房 1976

「近づけり」が難しい。玉葱が海に落ちて、深海へ沈む様を描写しているのだろうか。あまり想像できない状況だが、同句集に「孔子一行衣服で赭い梨を拭き」といった想像による句も含まれていることからその線を否定はできない。
しかし、深海に沈む様を句の肝としたいならば「落ちる」「沈む」といった動詞が適切であったはず。無理に思えるかもしれないが、身近にある「玉葱」がふと「深海」にシンクロして見えた瞬間を詠んだ句として解釈してみたい。

「玉葱」と「深海」は考えたこともない組み合わせだが、静かな土の中で何層もの皮(?)を積み重ねて結実した玉葱に飯島晴子は海の深みを見たのかもしれない。

『飯島晴子の百句』(奥坂まや著 ふらんす堂 2014)では、日本古来から「タマ」が大切にされてきたこと、そして「玉」を含む身近な野菜は「玉葱」だけであることが指摘されている。
同句集には「百合鷗少年をさし出しにゆく」という句が収録されているが、この句における「少年」は現実に実在する少年ではなく、語のイメージが形成する「少年」である。
掲句における「玉葱」もまた、飯島晴子にとっては抽象的なイメージとして書かれたのかもしれない。益々掴みにくい1句。

記:吉川

小さくて飯蛸をとる壺といふ 能村登四郎

所収:『芒種』(ふらんす堂 1999)

どこか港町をぶらぶらしている。はたと眼についた壺の大きさが普段見慣れている壺と異なる。尋ねてみれば、なんてことはない。飯蛸を取る壺だと言う。その瞬間に感じた素朴な驚きが「といふ」と他人の言葉を写す形になっているため、読み手にも直に伝わる。旅人としてその地を訪れているだけではなく、連綿と伝わる生活の知恵にまで手を触れ得た気分になる。住民たちにとって当たり前のことが旅人の眼をもって見ると新しい。

と思っていたのだが、壺の大きさが気になって調べると、弥生時代の遺物が多くヒットした。現在、この壺は使われていないのかもしれない。どこかの資料館で壺を眼にし、小さな壺で飯蛸を取っていた弥生人の生活に驚いたのだろう。ただ、その時、その場で、弥生人との対話が行われる。弥生人がこちらの質問に肉声をもって応えてくれているように書かれる。壺一つを挟んで、全く異なった時間を過ごす両者が邂逅しているのだ。

どちらにしろ自分の知らない他人の生活に驚き、ただ受け入れようとしていることに変わりはない。解釈するのではなくそのまま、新しい発見を喜んでいるようである。

記 平野

浮世絵に包む伊万里や春の雪 木内縉太

所収:「澤」2021年6月号

1856年頃、仏のエッチング画家のフェリックス・ブラックモンが、陶磁器の緩衝材として用いられていた浮世絵を浮世絵の魅力を仲間たちに伝えたことをきっかけとして、「ジャポニスム」と呼ばれる日本美術ブームが、欧州で始まったことは周知の事実であろう。

江戸時代が商業出版の時代だったことを考えれば浮世絵というものが安価であった理由に得心がいく訳で、大量に印刷された浮世絵は緩衝材にすら出来るほど安く手に入れられた。ゆえに伊万里は浮世絵に包まれる。しかし、その無造作さにこそ粋というものは宿るわけで、先のエッチング画家フェリックス・モンブランの心を打ったのも案外、その雑然としたものの中にあった輝きにあったのかもしらん。

そして木内句において伊万里を包む浮世絵もまた、このようなものであっただろう。高級な伊万里なのかあるいは低級な伊万里なのか分からないけれども、少なくともそれが浮世絵に包まれることで生まれる情緒や計らいのようなものを、人は喜んだことだろう。

春の雪という季語の質感が措辞をよく味わせてくれる。句全体の情緒の方向性を示すとともに、浮世絵の中にも雪が降っているような感覚をもたらしてくれる。あるいは、伊万里港にふとちらつく雪のようなものを思ってもよいはずで、海の水面に溶け込んでゆく春の雪は殊に美しい。帆を張り海をゆく舟に積まれた陶器が、欧州の画家を驚かすことはこの時点では誰も想像していなかった。

記:柳元

春いちばん製作委員会は謎 木田智美

所収:『パーティは明日にして』(書肆侃侃房、2021)

 アニメや映画などのクレジットでよく見かける製作委員会は、単独ではなく複数企業が出資した場合のその集合体を指す。といっても、いまいち実態は分からない。「は謎」のストレートな言い方(とその雰囲気)と、「春いちばん」の季語が合わさって、涼しげな一句になっている。「いちばん」と開いたことによって、一瞬「春/いちばん製作委員会は謎」と切れて読めるようにも見えて、季語と文字の上でも絡み合っている発想だと感じる。そしてそれが起きたのは、木田の必死な口語口調の挑戦があってのラッキーだろうと思う。

 また改めてきちんと触れたいと思っているが、木田の句集は良いように言えば宝がいっぱい入っている宝箱であり、悪いように言えば宝がいっぱい入っている宝箱である。色んなものが入っていることのバラエティの豊かさに惹かれる一方、やりたいことの方向が色んな方へ向きすぎて読みづらくもあった。
 たとえば、〈あした穴を出ようとおもう熊であった〉の嘘感(本当に熊がそう思ったかどうかはさておき、ちびまる子ちゃんのナレーションのように、誰かが勝手に熊のストーリーを語ろうとしていることの面白さ)、〈ひとがいてうれしい葡萄園に葡萄〉の短歌的な切れ感(自分が思ってること+それに共通した景色を挿入する形)、〈ラズベリータルト晴天でよかった〉、〈マスカット・オブ・アレキサンドリア両手で受け取る〉の軽い季語+一言の形、〈オーロラをつくる隠し味にケチャップ〉、〈おじぎ草こっちはおじぎしない草〉の面白発想、〈うしろ脚びよん毛刈りの羊たち〉の口語オノマトペを中間に挟み込むもの、〈ただいま金魚カルピスに冷え家の鍵〉の単語を詰め込んで連続させるやり方、〈濡れる星雀は蛤となれり〉の文語の名残の句などなど。

 あえて高校や大学の時期に作った(とあとがきに書いてある)文語の句を消すことなく残している点や、趣向を一つに連続させて並べているわけではない配置から、別にそういうところをこだわっているわけではないことが伺える。「パーティ」と題にあるとおり、その楽しさが一つの魅力としてあるのだろう。
 私個人としては、もう少し狙いを定めた数句が並んだところを見てみたい。上に挙げたマスカットの句で言えば、「わざわざカタカナの長い果物の名称をそのまま入れている」のが面白く、それを「両手で」物々しく受け取っているさまが面白い、というのは分かるが、面白ポイントはそこだけに終始してしまう(文字数の関係もあり)ため、どうしても俳句という視点をもってこの一句を見るとやや心もとないものがある。もしこれが7句ほど並んでいたら、古い季語やそればかりを使っている人たちへの挑戦という面が見えてくるだろう。そういう挑戦をしたいわけではないのかもしれないが、珍しい花の名前や現代の新しい単語で詠んだ句が間隔をあけてバラバラ見られる(そしてその間に文語のものがはさまったりする)のは、ややもったいないのではという気もした。
 ただ、この口語で色んなタイプの句が一冊にまとまっていること(作者本人がどこまで自覚的かどうかは分からないが)はかなり良いことだと感じている。童話的な嘘の句も、新しい季語への挑戦も、単語詰込み型も、擬音語投入型も、まだまだ作りこむ余地があることが確認できた。帯文を寄せている神野紗希も、そういう口語でのやりかたを探っていた一人だが、木田の方がより一層いろんな面を詰め込んできた感触がある。

 口語を使うことそれ自体が新しい時代はとうに終わっている、と私は思っている。その使い方を考えていかなくてはならない。木田は偶然発生的に、感覚でうまれた(ように見える)ものが多いが、たとえば福田若之や田島健一の感覚的な口語の俳句のそれとはまた違っている。どちらがいいというわけではなく。私が最近思っているのは、口語にはかなり強いパズル性と、その真逆の力とがある、ということである。緻密に構成することもできるし、何も考えないで喋ることも出来る、それが強みであると。(木田の句が何も考えていないと言っているわけではない)世界を見て発する言葉でもあり、世界を新しくつくるときの言葉でもある。そんな気がしている。
『パーティは明日にして』は、そういう、口語でこれから何を作って行こうかということを考えるきっかけが凝縮されている。木田本人が「句集らしくないタイトルになったことも気に入っている」と書いていたり、twitterで短歌を書いていることを述べていたりしたが、短歌と繋がることで見えてくる口語の新しい面が確実にある(私も同時に並行して作ることで実感している)ため、そういう進化もまた見られるかもしれない。また、現在川柳の流れもアツくなっており、この句集のなかでも無季の川柳っぽい句が見られた。これから木田の句がどう変化していくのか、もし第二句集が編まれることがあればそこにはどんなものが並んでいるのか、今後も楽しみに追っていきたい。

記:丸田

初蟬の短くなきてあとは風 桂信子 

所収:「船団」1999・3

鑑賞にかこつけたエッセイ風の小文になるのでご海容ください。

昨日、すっかり日も暮れ、疲弊の手ごたえを背負って、講師をしている勤務校から帰ってくるとき、ジー、ジー、という蝉の音を聴いた。印象にハッとするような驚きがあって、というのも、その瞬間は今年初めて蟬の声を聴いたような気がしたからで、しばらく記憶を遡ってみたのだけれども、どうやら蟬の声を最近聞いたような気もするし、聞いていないような気もする。はて、と、自分の記憶の不確かさに呆れているうちに、いつの間にか蝉の声もやんで、とうとうほんとうに今聞いたのが蝉の声なのかどうかすら、危うくなってくる。そもそも、蝉の音というのが自分の躰にきちんと蓄積していないような気がしてきて、蟬とはそもそもどのような声で鳴くものであったか、という経験との距離が遠く、よそよそしい感じがした。聞いたことがありながら、直感的には聞いたことがないような、そんな感じがしたのだ。

この理由には実は思い当たるところがあって、昔、高校生二年生の時にエヌ・エッチ・ケーの密着取材を受けたことがある。といってもぼく個人ではなく、ぼくが所属していた文芸部が取材を受けたのであった。俳句甲子園という高校生向け俳句大会の全国大会常連校だった(なにせ地方大会の出場校はたった三校だけなのだ)ぼくの高校は、北海道に立地しているという物珍しさや、名物顧問が今年で定年という話題性も手伝ってエヌ・エッチ・ケーの興味を惹くところがあったらしい。ドキュメンタリー形式の一時間番組で放送されるようで、ディレクターとカメラマンと音声担当者の三人が愛媛から派遣されてきた。

六月の北海道は涼しい。六月は白樺たちならぶ丘陵地帯やうすけむりのような色のラベンダーの季節である。それに北海道には梅雨がない。愛媛からきたエヌ・エッチ・ケーの三人組は、事あるごとに北海道の気候のすばらしさに触れ、君たちはこんなところで育つことが出来、恵まれている、というようなことを言った。

ディレクターはまだ二十代半ばの男性だった。確かKさんという名前だったはずだ。重ためのマッシュ・カットに落ち着いた話しぶりで、知性とユーモアを感じさせる人だった。カメラマンと音声担当者の技術スタッフは、どちらも共に中年に差し掛かるくらいの男性で、ひとりは気さくでひとりは無口、しかしどちらも、大きなカメラや、収音マイクを抱えるための筋肉を、ポロの半袖から覗く浅黒い腕に、みっちりと張りつけていた。そんな技術スタッフを束ね、てきばきと指示をだす若きKさんは、いやらしくない、清潔な自信にあふれていた。年上の技術スタッフ二人が、彼のことをKさん、とさん付けしていることからも、なんとなく彼ら三人組における力関係というか、少なくともディレクターのKさんが技術スタッフから敬意を払われる人であることが伝わった。ぼくも年の離れたお兄さんのような感覚をもって、Kさんに好感を抱いた。

さて密着というか定期的な取材が始まって数週間が経って、Kさんは、皆さんが蝉をとる画がほしい、と言った。その年の俳句甲子園のお題の季語のひとつに蟬が入っていたのである。ぼくら生徒と顧問はさっそくロケ車に詰め込まれて、蝉を求めて、車で一時間ほどの自然公園の中に入っていった。スタッフが用意したのか顧問が用意したのかもはや忘れてしまったが、捕虫網と虫籠も用意されていたはずで、ひとまず傍目から見れば、ぼくら一集団は相当な浮かれようであったのは間違いなく、当人たちもいささかの滑稽さを自覚しつつも、まあ、やはり楽しんではいた。

しかしながら、結論から言えば、蝉は全然鳴いていなかった。これは考えてみれば当然のことで、本州ですら六月上旬は蝉がまだ鳴きはじめであるのに、北海道でこの時期、蝉が鳴いているはずがないのである。果たして捕虫網はひとたびも振り下ろされることなかった。まぎらわしいことにスマートフォンでYouTubeの蝉の音の動画を流すいたずらを試みるむじゃきな部員もいて(たぶん当人はよかれと思ってやっていた)、一瞬期待するから余計に失望の感が強いというか、この行為は明らかにエヌ・エッチ・ケーの制作陣スタッフを苛立たせたように思う。結局、空の虫籠をさげ、ぼくらは帰りのロケ車に乗り込むこととなった。蟬狩りは無念の空振りに終わり、山歩きの疲労もそれなりにあって、ぼくらはくたくただった。軽い日射病のようにもなっていた。

ディレクターのKさんはその帰りにサービスエリアに寄ってくれた。Kさんは、ロケ車に戻ってくるときアイスを人数分買ってきた。棒つきの氷菓子で、それはそのときのぼくらの気分にうってつけだった。現金なぼくらは疲労を忘れて大喜びして、Kさんにお礼をいった。すると、Kさんはそれには答えずに、いい画がとれなかった、と独り言ちた。ストレスがたまったときは散財に限る、というようなことも言った。それをきいたぼくらは無言になって、何か言いようのない罪悪感にとらわれながら(別に、それはけっしてぼくらのせいではなかったのだが)溶けてゆく氷菓子を必死で啜ったのだった。

後から聞くところによると、この番組はKさんのエヌ・エッチ・ケー愛媛における卒業制作のような位置づけであって、この政策を終えるとKさんは東京に転勤することになっていたようである。幸い、その年のぼくらの高校は全国大会でそれなりに勝ち上がったから、番組の盛り上がりにはそれなりに貢献出来たはずで、蝉の画が撮れなかったことを補って余りあるはずだった。しかし、蝉の音は真理として聞こえないものである、知覚しえないものである、というような不可思議な感覚を、今もなお、ぼくは引きずり続けているのであった。

ところで蝉といえば、最近、大学院の先輩の中国人留学生の張さんの随筆を読む機会があった。これは和辻哲郎のある文章を下敷きとしながら、蝉の音について述べる「蟬音」と題された巧みな小文であった。ぼくはこのタイトルを初めてみたとき「蝶音」と空目したことを告白しなければならない。おそらく張――チョウ――という名前の響きが、どこからともなく一匹の蝶々を連れて来ていたのだと思う。ぼくは蝶音というものを想像したとき、意外にも、簡単にその音を思うことが出来た。ぱたぱた、などという音は、無論じっさいには聞こえない。けれども、するするとストロオを伸ばしたり縮ませたりして、巧みに花の蜜を吸い上げる音だとか、風の中で羽根をふるわせるときの葉擦れのような音、あるいは鱗粉をはらはらと地に落とす音というのは、聞いたことが無いのに、直接的に聞いたことがある。そのような気分にさせるのであった。

記:柳元佑太

風船を手放すここが空の岸 上田五千石

所収:『琥珀』角川書店1984

「これ以上澄みなば水の傷つかむ」「渡り鳥みるみるわれの小さくなり」など、上田五千石の著名な句にはセンチメンタルな味わいの句が多いが、掲句もその類といえるだろう。

「空はどこから?」という子供の問いに、人それぞれ生き物それぞれにの身長によって空のはじまりの高さは違うのではないか、と答えた。というようなエピソードを幾度か耳にしたことがある。このエピソードと掲句にはどことなく重なる部分がある。

幼さを感じさせる「風船」というモチーフと、「空の岸」というロマンティックな把握、そして「ここが」という詩的な強調が合わさることで「手放す」という語に含まれるセンチメンタルな味わいが強く引き出されている。まさに「子供時代との別れ」を感じさせる。

先ほど紹介したエピソードは子供の視点の新鮮さを感じさせるものだが、掲句はそうした「子供の眩しさ」だけでなく「大人になることへの肯定」のニュアンスも感じられる。
「岸」が想起させる海の青も、その雄大さも、ぐんぐんと昇っていく風船を包み込んでくれるのだから。

俳句の中では「空の岸」という把握に特段新規性はないと思うが、「ここが」などの表現を駆使して1句全体をロマンティックなトーンで書き上げることで、私がつらつらと小恥ずかしい鑑賞を書いてしまうような奥行が生まれている点に価値があるように思う。

記:吉川


長夕焼旅で書く文余白なし 田中裕明

所収:『山信』昭和54年・私家版


旅先にて時刻は早や夕である。少しく早い宿への到着となった嬉しさは誰に言うとなく、旅装をとく。あたらしい畳の匂いもまた嬉しい。宿の夕餉にはまだ早いから、いちにちのことを振り返りつつ、文机に向かい手紙を書こうと思い立つ。窓の外には夕焼が長引いている。旅愁というほどの上等の気持ちではないけれど、どことなく高揚した感覚が、快適に筆を走らせる。ぎっしりと文字の詰まった手紙は誰宛てのものだろうか。

さて、裕明の掲句、先日勤務校の休み時間に、暇潰しに高校生の教科書(三省堂)をぱらぱらとめくっていたら引かれていた。裕明ファンとしては隣席の教員の手をとって踊り出し、窓を開け、世界中に存在する数限りない愛に惜しみない称賛の気持を叫び、あらゆる精霊に接吻をしたい気持になった。なんと素晴らしいチョイスなのだろうと感嘆するのは(よくぞこのマイナー句を取り上げたという思いもあるけれど)掲句が裕明10代の句群をまとめた『山信』所収の句であるからで、ということはつまり、この句を書いた早熟詩人裕明と現代に頬杖つくZ世代の高校生が、時空を隔て邂逅することになるのである。かような場の用意こそ教科書に出来る少なくない最高のことの一つであろう。むろん高校生は掲句に立ち止まる可能性など微々たるものではあるのだけれど、でも、待ち合わせること、その本質的な喜びはこの傲慢にこそあるのではないか。十代の詩人裕明は、いつでも教科書の頁の中で待っていてくれている。

記:柳元

居るといふ蛍のにほひ真の闇 三橋敏雄

所収:『三橋敏雄句集』(芸林書房 2002)

辺りを闇に包まれて、おのれのいま居る場所こそ真の闇だろう、とひとりの人が合点するとき眼は闇を本当に見つめているのだろうか。どうも、視覚に頼っている限り「真の闇」という語に濃いのは観念的な色合いのように思う。闇を見つめながら人はみずからの心の内の闇――喪失感や失望感を重ね合せている。このとき眼前の闇は背景と化し、見ているものと言えば観念の色をべったりと塗りたくった、おのれで作り上げた闇である。つまり「真の闇」と呼んでいるのは心の内に浸透した、複数の意味をはらんだ闇である。

もし掲句がそうした「真の闇」から逃れ得ているとしたら、それは眼前に広がる闇に入りこもうとする誠実な態度からだろう。光を放つことでそれとなく居場所を教えてくれる蛍を見つけようとしながら、眼に映るものはなにもない。掲句はそこで諦めてまなざしを内に向けるのではなく、眼がダメならば今度は鼻で蛍に挑もうとする。いや、そうした意識すら持っていないのかもしれない。一個の人として闇の中に立つ。眼も鼻も耳も口も皮膚も渾然とした揺るぎのない個として闇の中に立っている。この時、眼でものを見るように鼻は動き、耳は「蛍が居る」という暗闇の呟きを嗅ぎつける。そして、渾然一体となっているのは感覚だけではない。辺りの闇も蛍もおのれも全てが一つに溶け合う感覚、それこそ真の闇と呼ぶべきだろう。

作り上げられた「真の闇」は確かに身の内に浸透するかもしれない。しかし浸透という語の前提になっているのは内/外の境界であり、境界を作り上げるのは人である。三橋は境界を作ることなく世界と溶け合いながら、その世界にどうしても屹立してしまう境界があることを知っていた。掲句や〈われ思はざるときも我あり籠枕〉といった句の裏側にあるのは、人々が茫漠とした世界に取り残された時に抱える普遍的な孤独だろう。

記 平野

赤とんぼ大きい葬ありし村 飯島晴子

所収:『儚々』(平成八年、角川書店)

 飯島晴子の中でよりによってこれか、と思われたかもしれない。私も、たいしてこの句に愛情も無ければ、面白いと思っているわけでもない。

『儚々』は著者の第六句集であり、適当な、というと言い方が悪いが、第一句集にあったような、奇を衒いつつそれを大っぴらにしないようなテクニカルで気合の入った句は俄然少なくなっており、いかにも晩年という印象がある。
「赤とんぼ」から始まって、「村」で終わる。圧倒的に既視感のある、童謡的な田舎の風景。「大きい」という言い方も童謡である。
「葬」は「村」と相性がいい。葬儀があって村中の空気が変わっている感覚。風景としては変哲のないものだが、人々の意識の中では確実に変化があって、その重々しさを知らない赤とんぼは変わらずすいすいと飛んでいる。

 いかにも平凡な句であると思う。ただ私も、この句を平凡で下手だと言うために引いたわけではない。実際、この句の次に並んでいるのは有名句のひとつ「蓑虫の蓑あまりにもありあはせ」であり、好きに語る分にはこちらの方が向いていると思う。

 この「赤とんぼ」の句のいい所は、ストレートに平凡なところだと思う。これは俳句の一つの良さであると個人的に思っているところでもある。音楽で、使い古されたコード進行とスカスカの歌詞でもなんだかいい歌に聞こえてしまうことがたまにあるが、あれと一緒の感覚である。
 飯島晴子がどこまで狙ってこんな句を作ったのかは分からないが、自分のオリジナリティを出そうと思えばもっと捻って出来るはずの所を、ここまで薄っぺらく凡庸にすること。狙ってやったとしてもなかなか弱いと私は思うが、ここまでどこにでもある句にすることで、逆に迫力を感じた。こちらとしては、(村と赤とんぼの組合せなんて、行間を読むとかそういうレベルに到る前に判断しきれるような、味のしないガムのようなものだと思うので無視して、)「大きい葬ありし」くらいしか情報として読めるものはない。
 ここでギョッと思わされるのは、「葬」に大きい小さいがあるというところ。地位の高い人が亡くなったという意味なのか、飢饉や病気で大量に人が死んで規模が大きくなったという意味なのか、どちらにしても恐ろしいことだと思った。
 そして「村」で終えられているが、この「葬」はおそらく村中の人に知れたことだろう。またそこが恐ろしいと感じた。もちろんそれは「大きい」葬儀だったからこそ知れ渡ったことだろうが、個人的経験からして、「村」は、別にその葬儀が大きかろうと小さかろうと知れ渡って行くものである。全体の人数が少ないこと、都市部に比べて人同士の関係が密接で、閉鎖的になる部分もあり、そういう噂は一瞬で広まっていく。

 村全体が、村の全員が、その「大きい葬」を感じられていること。その雰囲気が、そのままホラーであると私は感じてしまった。だから、この語順は正解なのだと自分の中で合点がいった。仮にこれを「村に大きい葬ありけり赤とんぼ」とした場合、先に読んだような人間社会とそれに関せず飛ぶ赤とんぼ、の印象が強く残る。これが赤とんぼ始まりであることによって、もちろんその対比は残ったままで、村の入り口、またはその恐怖の入り口感が加わった。ホラー映画の映像を想像したときに、自分自身がこの村に入っていくなら、その入り口で赤とんぼを見ることによってなんだか嫌な気配を村から感じることだろう。

 この句の主体はこの村の人なのか、村の外の人がその村に入っていって知ったことなのかによって、そういうホラーの成分の大小は変わってくるだろう。現代に生きている私からすれば(現代の今でもそういう地域は全然残っているだろうが)そういう「村」って怖いなあと純粋に思う。村で起きたことを、村全体が感知していて、村全体が喜んだり哀しく沈んだりする。これを幸せなことだと思う人もいるだろうが……。

 正直なところ、ここまで平凡な句に目が留まったのは、ただ褒めるだけの鑑賞を書いてもなという気持(敢えて下手なものを取り上げて、そこから敢えての別の読み方を考えてみたいという)が大きかった。が、それで結果良かったと思う。大家でこんなに適当で類想が莫大にある句ってどういうことなんだ、と思えたおかげで、「葬」と「村」の厭な空気感を感じられることが出来た。別に似てもいないが、映画『ミッドサマー』や三津田信三の小説(刀城言耶シリーズ)を思い出した。

 最後に、蛇足だが、この句を「葬儀があって落ち込んでいる村を癒して包み込むかのように赤とんぼは飛んでくれている」という風には私は絶対に読みたくない。人間の都合を勝手にそんな動物(もっと言えば「季語」)に背負わせたくはないからだ。いつもは微かに思っている程度だが、「村」の文字をずっと見ていて、そのことを強く意識することになった。

記:丸田

スーパーカブに乗れば敵なし雲の峰 木田智美

所収:『パーティは明日にして』(書肆書肆侃侃房・二〇二一)

スーパーカブと言うのは本田技研工業が製造販売している世界的ロングセラーのオートバイである。累計で一億台以上のカブが世界を走り回っているらしい(これは世界最多の生産台数および販売台数である)。猫も杓子もカブライダー、詳しくない人向けに言うならば、蕎麦屋や中華料理屋が出前に使うときに乗る出前機を装着したバイク、あるいは郵便配達夫のまたがる赤いバイク、新聞配達夫のバイク、あれがカブである。小回りが利く愛くるしいボディのわりにとにかく丈夫で頑丈で屈強、一九五〇年の発売開始以来様々な人が走り倒していて、高度経済成長の記憶はカブと共にあると言っても過言ではないといってもよいくらい、日本の戦後とともに歩んだバイクである。いったいこの七○年間でカブが蕎麦を何億枚運び、何億杯のラーメンを運んだのだろうか。いったい何億通の手紙を人から人へ手渡し、激動の情勢記す朝刊夕刊を配ったのか。飛行機や車や電車のような乗り物とは比較の出来ないほどカブというのは生活に根を張ったバイクなのである。

さて句に立ち戻れば、木田氏が「スーパーカブに乗れば敵なし」というときのこの幼児的万能感、これは、前述のような歴史に支えられているのである。このときカブに乗っているのは私だけではない。日本戦後史であり、過去の人々の営みそのものなのである。しかも「雲の峰」という季語が単なる高揚した気分だけでなしに、経済成長に胸を膨らましていた時代へのノスタルジア、いわば「三丁目の夕日」的な懐古を一瞬行うかに見せながら、しかしカブの動力が力強く加える推進力に導かれる車体のように、やわらかく風を切って、確かに現在未来において前進してゆくのである。「雲の峰」が遠景である以上、目線は落ちておらず前をしかと捉えて進んでいる。

この今・ここへの疑いの無さ、この判断速度の速い肯定一瞬もメランコリアの侵入する余地のない底抜けの明るさこそ、木田氏を特徴づけるもののように思う。しかしこの口語的素直さはたとえば何かへの世代的な不信によりもたらされたものであって、たとえば同じ口語的な作家でありやや年長の神野紗希氏のものとは明らかに質が異なる。神野氏は近代的主体を前提にしているように思われるけれど、木田氏はもっと表層の近くにいて、深さと手を結ぼうとしない。ぼくはここに(ほぼ)同世代として木田氏に共感を強く感じるのだけれど、たぶん帯文が神野氏であることなどから察するに、あまりここは意識されていないのだと思う。それでも、ある意味においては、実のところ神野氏と木田氏ほど最も遠い位置にいる対照的な作家はいないのではないだろうか、とひそかに思うのだけれど、ジャーナリスティックに過ぎるだろうか。

余談だがぼくにとってのカブは「水曜どうでしょう」で大泉洋が乗り回すものである。

記:柳元