虹を懸け時が到ればまた外す 山口誓子

所収:『和服』1955 角川書店

地球という星があり続けるに当たって不必要としか思えない現象が幾つかあって、虹という現象もその一つだと思う。

虹は、どことなく他の自然現象とは異質で、特別な感じがする。単純にその色遣いの豊富さであるとか、天に架かるはるけさに心打たれるのかもしれない。時たま現れる神秘性もまたその感覚を強めるのだろう。

世界各国、様々な民族が虹に対する神話なり俗説を持っていると思われ、虹の根元には財宝が埋まっているという言説しかり、虹を蛇とみなす神話類型しかり、文化人類学的にも非常に考察のしがいのある代物となっている。

さて、山口誓子の句においては、神とでも言うしかないものが虹を懸け、そして暫くすればまた外すのだ、という。機知を感じさせる把握で鼻につかないわけではないけれども、もし神がそういった気まぐれで虹の架け外しを行っていると考えれば何処となく可笑しい。もう少し他にやることがあるのではないか。

記:柳元

【勝手に座談会】『俳句』5月号

『俳句』5月号(角川文化振興財団 2020年)を肴に、勝手に若手で座談会をしようという企画です。事前に一人三作品良いと思ったものを選んでおき、それに基づいて平野、丸田、柳元、吉川の四人で話しました。なおこれは2020年5月24日にZoom上で行った会話を文字に起こしたものとなります。

 

〈選の結果〉
中田尚子「巣箱の底」柳元・吉川・丸田(3点)
正木ゆう子「草を踏む」柳元・吉川(2点)
能村研三「暮靄」丸田(1点)
福井隆子「春のスカーフ」平野(1点)
内海良太「野火」平野(1点)
染谷秀雄「春の草」柳元(1点)
山田閏子「武蔵野の空」丸田(1点)
吉田林檎「しろがね」平野(1点)
若杉朋哉「昼寝の子」吉川(1点)

○連作としての高い完成度――中田尚子「巣箱の底」

柳元:まず点数が高かった順にやっていきましょう。中田尚子さんからですね。三人とっているわけですけど、伝統ぽい句づくりで季語もハマっていて単純に完成度が高いなという感じがしました。好きな句でいうと〈見えてゐて遠き一村桃の花〉〈平凡な木に春の鳥やつてくる〉とかも好きだった。

吉川:伝統の文脈にあるというのはその通りで、力んでいない良い句という感じですね、いい軽みというか。〈苗札の沓脱石に散らかりぬ〉とかいうどうでもいい些細なことも軽いテンションの文体で書かれていて、一読して通り過ぎてしまうかもしれないけど、この12句で見るとまとまりがあるというか。

丸田:そんな大好きというわけではないけど、他の人と比べて圧倒的に連作として読みやすかった。語の雰囲気とか表現が十数句揃ったときにバラバラじゃなくある程度統一されているという意味で読んでて楽だし。多分この句風の気取ってない素朴な感じもプラスされて、そうなんだろうと思う。さっき言ってた〈見えてゐて遠き一村桃の花〉〈平凡な木に春の鳥やつてくる〉とか〈昔から水切が下手あたたかし〉とか。12句として非常にまとまっているというか。

柳元:取りにくい句がなかった気がしますね。この句が入ってたらこの連作を推せないみたいな句がわりとなかった。

丸田:ていうか、連作として見た時にそれが結構大きいんだなと思いましたね。他の人の連作には目立って良くない句が多すぎて。

一同:辛辣(笑)

柳元:そういうもの言いがあるといい感じになると思う(笑)

丸田:僕はどんどん言っていきたい。

吉川:角川の『俳句』のような総合誌に載っている句って、連作として読むことが不適当な作りになっているものが多いよね。作品を集めましたよというか。

丸田:それはそうだね。これはまた後で触れようと思ってたんだけど、千々和恵美子さんの「ポンペイ」の一連は、本当に行ったんだという説得力があった。突出して良い句があったというわけでは無いんだけど。

○海外詠、観光俳句について――千々和恵美子「ポンペイ」櫂未知子「オホーツク」

柳元:せっかくだし千々和恵美子さんの「ポンペイ」の話にします? ぼくは海外詠としての出来はよかったと思うけど、言っちゃ悪いけど所詮海外詠というか。じゃあ有馬朗人がやったこととどう違うんですかというとそんなに更新されてないぞというか。高山れおなが「イスタンブール花鳥諷詠」とかやっていたけれど、そういう試みが有馬朗人的な海外詠を虚ろにするというか、内側から押し崩すようなアンチテーゼとしてやってるものなわけで。「ポンペイ」は既存の海外詠の枠組みとしては十分成立しているなと思いましたけど。〈浮彫の女神立夏の水飲み場〉とかは好きでした。型のバリエーションがある人だなという感じはします。

吉川:今までの有馬朗人的文脈の海外詠っていうのは海外の固有名詞に音数をとられるから大づかみになりがちだけれど、この句はそうじゃないという。

柳元:でも観光俳句の域を出ないみたいなところは考えたいところじゃないですか。櫂未知子の「オホーツク」って連作があったけど。あれもぼくとしては……。

丸田:いやこれは、柳元くんは北海道で育ってきたというのも加わって、怒るだろうなと思いました。

柳元:あはは、いやー(笑)。

丸田:〈アイヌ語を話したくなる名残雪〉とか。

吉川:この一句は決定的に駄目だったよね。作品以前の問題として。

柳元:倫理の問題だよね。観光俳句のひとつの正解として〈流氷や航跡すぐに閉じられて〉〈あをぞらの端にさげたる干鱈かな〉は「あ、観光したんですね」というか、それ以上でもそれ以下でもないような句だと思いますけれど。だからといって害はないですよね。でも〈アイヌ語を話したくなる名残雪〉は駄目だよね。簡単にアイヌみたいなものを表象する態度が。文化の盗用みたいな問題も現代はあるわけでしょう。

丸田:「名残雪」も良くない。暴力的なまでに忘れ去られようとしているアイヌに重ねて付けたんでしょうけど、そこの判断に時間がかかっていないように見える。ものすごく簡単に「名残」という言葉で拾ってる。悪意はないのかもしれないけど(あったらあったで困る)、これだと「話したくなる」が単純に「味方だよ」という素振りのようにしか見えない。「話したくなる」が、アイヌの方々や土地や歴史を鑑みての奥底から思う真の共感なんだとしたら、それが切に現れる様に書く深慮を、季語の選択に見たかったです。

柳元:そう。消えていくものに対する安易な共感というか。櫂さんの句集名の『カムイ』もさ、ぼくはそれなりに怒っていますよ。カムイはアイヌ語で「神」ですね。カムイとか言うならちゃんと北海道を書きなよと思うんだよな。これまでの北海道の俳人、例えば新興俳句弾圧事件で検挙されのち北海道に移住した細谷源二とか、「鶴」のち「壺」を創刊する斎藤玄とか、あるいは「寒雷」系の寺田京子とかがやってきた、土着的でヒリヒリするような仕事があるわけじゃん。それだけが正義なわけじゃないけれど、でもそれを知っておきながら『カムイ』とか付けちゃえるんだあというか。これまで北海道を表象しようとして風雪の中に倒れていった人を軽んじているというか。うーん。

○安定のよさ――正木ゆう子「草を踏む」

柳元:正木ゆう子さんはぼくと吉川がとっているけれど、反応を見る感じだとみんな十分取っていい水準の連作だったという認識でよいでしょうか。

平野:いやあ、もちろんとれます。

一同:(笑)

柳元:ぼくは〈吾が見れば吾の痕跡初蝶に〉とか好きだった。

丸田:同じく。

柳元:これすごい良いよね。あと正木浩一さんの死の回想が挟まっているのも連作として分厚くなる感じがした。〈よい考へブルーフィッシュの如く散る〉は、池田澄子―佐藤文香の流れに通ずるような口語の感じがする。こういう句も書けるんだよなと。〈人類なくば太陽さびしからむ朱夏〉〈ひとつぶの露に撃たれてほろぶべし〉はかなり書きすぎではあるけど、こういうような句も大味ながら昔からの持ち味だったなと。そして鷹渡りの一連もよかったですね。〈遥かならば白濁として鷹柱〉〈三千羽一声もなく鷹渡る〉とかよかった。

平野:よかったね。白濁はなかなか書けないし、遠くから見ることで立体感が想起されて視点のとり方が上手いと思った。

柳元:〈消ゆるまで見送れば鷹消えにけり〉は石田郷子の燕の句を思い出した。

平野:〈来ることの嬉しき燕来たりけり

柳元:そうそうそう。〈よき枝のあれかし旅の夜の鷹に〉は意味としては通り過ぎるからここまで書くと書きすぎかなと思うけど、全然とれるなという感じ。あと最後の方も好きでしたね。〈灯のおよぶ限りの雪へおやすみなさい〉〈美しいデータとさみしいデータに雪〉とか。冒険してるというか、新しいことやろうとしているなと。

吉川:50句あるということが大きいと思うんだけど、文体的なトーンはずっと一緒の感じはあるんだけれども、視点とか内容とかに多彩さがあるのがいいなと思いました。今までの正木さんの延長にある句もありつつも、微妙に〈くもの糸ひひらぎの葉を転めかし〉みたいなトリビアルな視点を持ち合わせているというのが、正木ゆう子のいいところだなと。

柳元:50句だれないで読ませられる正木ゆう子すごいよね。

丸田:うん、そこはやっぱり凄いなと思った。鷹のくだりは良い眼差しだと思いつつ自分はそこまで乗れなくて、でも連作の一つの仕掛けとして充分愉しく読めた。

平野:〈蟷螂の足繊々と草を踏み〉とか〈縁の下の奥は月夜の砂漠かな〉とか、ピントをどんどん絞っていった結果、大きな世界が完成していてこれはいいなあと思った。つまりカメラワーク的にさ、焦点を絞っていくと箱庭みたいな空間が一句の中に生まれるでしょう。それで相対的に物体が大きくなるというか。例えばここだと、蟷螂の足にピントを合わせていったことで、草のへこんでいる様子がくっきりと見えてくる。普段の生活では聞こえない小さな音まで、しっかり伝わってきそうだよね。

柳元:ズームアップする感じ?

平野:そうそう。

柳元:よっとくんはどうですか?

丸田:僕は〈吾が見れば吾の痕跡初蝶に〉の句が一番良くて。まあ発見したことをそのままはっきり言っている句だと思うんだけど。自分の視線とか認識が蝶に残るというのはふつうに、面白い!と思って印象的でした。色んな人に見られて大量の痕跡が残り、また見なければ残らないことを考えると、「見てしまう」ことに潜伏している危険、みたいなものも感じてひやっとしました。同時に、「吾」の強い繰り返しと季語からそう思ったんですが、この「吾」は、初蝶という初々しいものに自分の痕跡を残せて嬉しがっているようにも少し感じられて、それだとちょっとどうだろうとは思いましたね。全体的に色んなことをしようとしている感じがあって、50句全体で見て好印象でした。
 ちょっとだけ指摘すると、いい句は一杯あるんだけど、後半の最後の〈白菜を宮殿として棲むもよし〉とか笑いに近い面白さに特化した句がちょくちょくあるじゃないですか。〈梟を見たと頭を回し見す〉もそう。かっこいい系と面白い系が混在するのが読みの姿勢を惑わせちゃっている気がして。俳句はそもそもこういう滑稽みのある句も範疇の中に入っているだろうけど、これがちらちら混ざってくると、どういうテンションで読んでいいか悩むときがあった。〈よい考へブルーフィッシュの如く散る〉もそうで、読むたびに姿勢を変えてこっちが味わっていかなきゃというか。50句もあればそうなってくるのかなあとは思うけど。

柳元:いろんなこと試しているがための弊害というか。

丸田:まあでも全然良いです。ありがたいくらいだった。

一同:確かに(笑)

吉川:面白い句が連作に含まれるのは第三句集の『静かな水』でもそうだから、昔からなのかなという感じがします。〈魔が差して糸瓜となりぬどうもどうも〉とか。

丸田:改めてこれが巻頭50句なのは良いですね。

柳元:だいぶ5月号読む気になった。

吉川:一番好きな句はみんなと一緒で〈吾が見れば吾の痕跡初蝶に〉の句でしたね。

柳元:ほんとうにいいよね。

吉川:私の知ってる正木ゆう子とはまた違った感じだな。正木ゆう子には、〈水の地球すこしはなれて春の月〉とか一読して句意がよく分かる上で、イメージを何度も噛みしめたい句が自分にとって多かったけど、この句は一読して意味が分かった上で、初蝶と吾の関係性とは?痕跡とは?と考え直したくなるというか、含まれる意味の量が多いですね。

柳元:ふむふむ。みんな肯定的な感じでしたね。

○名詞で書く――能村研三「暮靄」

丸田:〈暮靄とも潮ぐもりとも遠干潟〉が格好よくて、一目で惹かれて採りました。「暮靄」は夕暮に立ちこめる靄のこと、「潮ぐもり」は潮が満ちる水蒸気で海上から空が曇ることですが、この二つも季語なのかと錯覚する。遠干潟の風景を言い直してる、捉えなおしているっていう、結局ずっと同じものを言っている句ではあるけど、そこが良い。言い直されていく言語上の感覚が、その単語の持つ雰囲気と混ざって、捉えなおそうとする心情が干潟の感覚と合致して、何とも言えない良さを醸し出していると思った。表現も内容も好きでした。〈涅槃図の畏れかしこむ膝の距離〉の「膝の距離」の落とし方も面白い。自分が好きとするタイプではないけど、他の連作とは違って読み留まらせる迫力みたいなものを感じました。〈啓蟄の馬蹄形なる古隧道〉〈面箱のなかはおぼろの大癋見〉とかの、漢字三文字の単語の強烈なパワーで攻めてくる感じ。下五が効いている分で言えば、〈春愁の籠れる窓は嵌め殺し〉も。

柳元:これめっちゃいいね!

平野:うんよかった。〈膝の距離〉の落とし方、なにかが面白いのは分かるし、下五をそうすることのうま味があるのも分るけど、なんで面白いのかが分らないんだよね。

丸田:僕もよく分からない。分からないけど、面白いのが分かる、というのは分かる。

柳元:全体的な傾向として名詞フェチ感ありますよね。いいなあ。

吉川:後だしじゃんけん感あるけど、私も予選ではとりました。句風にばらつきがなくて連作として見た時に安心して読めるのがよかったのと〈面箱のなかはおぼろの大癋見〉とか名詞の喚起する力を活かしたパワーがある、いい句が多いなあと思ったんですけど、さっきの分からないけど、おもしろいという意見に同じでこの人のよさをを理解しきれていないと。

柳元:正木ゆう子に続き、能村研三もみんな割と推している感じでした。

丸田:基本的にはこの〈暮靄とも潮ぐもりとも遠干潟〉が、角川『俳句』5月号の全ての句の中で好きでした。

柳元:丸田洋渡特選が能村研三に入るとは。

○「椿垣」で勝った――内海良太「野火」

平野:最初の二句が好きだったというのが大きくて取ってみたけど。〈灯台の灯の回り来る椿垣〉いいよね。「回り来る」で灯の動きが見えるし、照らされることで「椿垣」が現われて来るんだなと思うと、モノの質感がくっきりとして良い。〈春雷にしては大きく響きたる〉も椿垣の句と同じで、作者の発見した質感が書きとめられていたと思う。

柳元:ぼくも最初の二句好きだったな。そこから取りにくくなったよね。

平野:それはそうだね。〈鮟鱇の混沌としてこの重さ〉は自分の結社なら取る人が多そうな句だと思う、なにが面白くて取られているのかがまったく分っていないから、なんとも言えないけれど。

柳元:うむうむ。ぼくのもその句も好きかな。〈捨て船の竜骨あらは揚雲雀〉とかが入ってくるとなあ。ちょっと大味。

平野:うんうん。

吉川:全面同意って感じですね。

丸田:一句目、平野くんに言われて、あ、いいなと思いましたね。

柳元:ね。「椿垣」で勝った感じがするね。「灯台の灯の回り来る」まではわりと書ける感じがするけど、「椿垣」はなかなか書けないなあと。

平野:あと〈枯蘆をばりばり踏んで残る鴨〉とか、「ばりばり」は常套的な擬音だからもっと手が込んでいても大丈夫そうだけど、「残る鴨」がいいよね。水辺を滑ってるところではなく、陸を歩いているのが。そう考えると枯蘆と季語を持ってきたのもなんだか効果的。冬であることが強調されていて、冬の景として実感が生まれる。

○ヘタウマについて――福井隆子「春のスカーフ」

平野:「春のスカーフ」ね、正直なところ技術としてはそこまで上手くないと思ったんだけど。ベタついた叙情の感じとか、懐古的なテーマで押しているところとか、個人的に好みだった。最後におかれた〈父の鍬なり春の土匂ひけり〉はかなり叙情に寄っているけれど、連作としてみたときにこの句で締めているのも推せる。個人的なルーツというか、自分の存在に関わってくるような句で、作者の主題が見えてきた。

柳元:ぼくもとるなら最後の〈父の鍬なり春の土匂ひけり〉かな。でも〈風光るセーラー服に線二本〉とかはあんまり。

平野:確かに風光るでは余りにも青春くさい、昭和歌謡で歌われてそうな青春。でも、これくらい絶妙に下手な方が叙情としては目立つのかな。

柳元:ヘタウマみたいな。ガレージバンド的な。確かにね。長谷川櫂さんとか意図的なヘタウマじゃないですか。だから叙情があるというか。岸本尚毅さんに全く叙情がない無機質っぽいかんじがするのはのもそういうことなのかなあ。

吉川:ちなみに私も平野くんと同じような感じで採りかけてた。凝ってない表現が、句が描きたい叙情と合ってるっていう。

丸田:一周回って、ですよ。

吉川:読者が一周回って読んでる。

丸田:ちょっと下手な方が、あるいはそう見える方が、叙情を感じやすいかもというのは、いい指摘なんじゃないですかね。

○骨太なこなれ感――染谷秀雄「春の草」

柳元:〈天竜川の土手遥かなり猟名残〉〈荒鋤の田にまぎれたる春の草〉とかは普通に悪くない骨太さかなというか。写生がうまいですよね。〈どこからか水流れ来て蕗の薹〉とか。地に足がついているというか。ヘビーめの感じというか。〈長閑なり川の流れのなき如し〉の見立ても、実のある写生句の中で見ると素直に受容できる。

丸田:僕は〈どこからか水流れ来て蕗の薹〉は「蕗の薹」かあと思った。疑念の余地があるというか。

柳元:うむ。ただ〈無人駅出でて海辺のよなぐもり〉とかはあんまりだった。「無人駅」とかこういう分かり易い語で地方性を表象するのはもういいんじゃないかなと。

丸田:この方なりのお洒落なんじゃない。

柳元:キツイこと言いますね。

丸田:いやいや、というのも、他の句を見てみても、出てくる単語はどれも言えば自然的で、「稚木」「荒鋤」「一叢」「名草」「莟」「靴底」「小石」とか。だから、そういう単語に限らない句をたくさん作っている僕からすると、「無人駅」という語は俄然こちら側に感じる。実際、こちら側(側、とかは無いけど、)からすると、「無人駅」は簡単に雰囲気が出せて使いまわされた単語ではあるけど、この方にとっては、自身の域からは少しだけ離れたお洒落な語として使った可能性が高いんじゃないかなあと、なんとなく思ったわけです。

吉川:さっきの人がヘタウマと言われているのに対照的に、こなれ感を感じるというか。〈紅梅の稚木なれどもよく匂ふ〉とか。逆説を使うことで1句をなすっていうのは常套技術ですよね。こなれ感が12句続いているから安心できるなと。

柳元:普通にうまいですよね。こういうのにぼくは櫂さんの観光俳句と反対の、その土地の息遣いを感じますけどね。

○妙なマジシャンのシャッフル――山田閏子「武蔵野の空」

丸田:〈傍らに人の気配や梅に立つ〉がいいなと。人の気配がしたあと「や」で切って「梅に立つ」って持ってくるのが不思議だなと思って。梅っていうのが分かれば、人の気配がしたのなら、そりゃ立ってるのかなあとも思うんだけど、改めて「梅に立つ」と言われることで自分も人も気配も梅も全部一回リセットしてまた出来上がる感じがして、妙なマジシャンのシャッフルを見せられた感じがしました。ただ他の句は、単語に負けてるかなと思いました。〈陵の昏さに癒す花疲れ〉は「陵」という単語の良さに覆われて、「花疲れ」の交換可能性が上がるというか、そっかあ花疲れを癒しているのかあ、とはなりにくい。〈花衣それも吉野へ行くからに〉は吉野の世界だけで終始していて、季語としての花衣もそのワールドの単語すぎてやや説得力に欠ける。口調だけで、新しさはなくて。〈かたかごの花は飛びそう走りそう〉も表現としては面白そうだけど、それ以上に感動するものは無く。もう少し面白くできたかなあと思っちゃいました。

吉川:むしろ〈傍らに人の気配や梅に立つ〉はこの人の本質じゃないよね。この句は本人の意図しない所で変になっちゃった感がある。

柳元:うん。それからぼくはわりと〈花衣それも吉野へ行くからに〉は意外と嫌いじゃないけど……

平野:わかるわかる。

柳元:そう、ぼくと平野は花衣の句好きなんだよね(笑)あとは全面同意ですね。

平野:連作の感じはあんまりしないよね。〈陵の昏さに癒す花疲れ〉の次に〈長身のスーツ姿や入学す〉が来るのには少し驚いた。

丸田:そう。そこだいぶ飛んでる。

吉川:8句だから難しいのもあると思うけど。私の持ってるホトトギスのイメージとは少し違うから、今のホトトギスがどんな感じか気になりました。

○昔の長谷川櫂ぽい?――吉田林檎「しろがね」

平野:〈しろがねの日に縁どられ袋角〉とかしろがねで心理状態までが見えてきそうで良い句だと思ったし〈柿の葉に包んで焼くも夏料理〉とかは昔の長谷川櫂さんっぽくて好きだった。ちょっと涼しげな空気感のせいかな、柿の葉を持ってくるあたりとかもそれっぽい。

柳元:たしかに!〈柿の葉に包んで焼くも夏料理〉は昔の長谷川櫂だ!(笑)

吉川:昔の長谷川櫂の句少ししか知らないけど納得した。

柳元:話戻すけど、ぼくも〈しろがねの日に縁どられ袋角〉と〈柿の葉に包んで焼くも夏料理〉が好きだったな。〈旅鞄ひとつ増やせり夏の星〉は面白くはないけど手堅い。

平野:かっちりしているというか。

柳元:うんうん。

○人を食ったような――若杉朋哉「昼寝の子」

吉川:この句のテンションなんていっていいのかな、人を食いつつ余裕ぶってる感がわりと好きで。

丸田:わかるわかる。

吉川:最初の二句〈かきまぜてみてもきれいな蜜豆よ〉〈こころもち大きな方の柏餅〉はちょっと人を食ってる。〈昼寝の子簡単な顔してゐたる〉〈噴水の夕方になりかけてをり〉は最後の引き延ばすところで、ゆったりする感じが好きでした。ぼくの好みなだけかもしれないけどわりと悪くない気がしてきます。それから〈緑陰の中の日向を見て通る〉とかは意外と繊細目線ももってるんだなと思いましたね。全体を通してキャラクターが確立されてるのがよかった。

柳元:〈こころもち大きな方の柏餅〉はいいよね。この抜き方はどこから来てるんだろう。情報量とかはホトトギスとか、あるいは今井杏太郎とかなのかな。

吉川:〈噴水の夕方になりかけてをり〉はそんなかんじするね。

丸田:杏太郎み、あるなあ。

吉川:この7句はわりと一つの方向性として完成されているよね。ハマらない人はハマらない感じ。〈子にものを教えることの蒸し暑く〉はあまり。それ以外は私はわりとよいかなと。

丸田:僕は好印象だけど、フォーマット通りって感じがちょっとして、もったいないなって感じです。どっかで全部見たことある型で書かれているというか。全部良いんだけど、見たことあるなあ、が先行してしまうというか。

○番外編――山本潔「芽立ち」有澤榠樝「春」松本てふこ「氷柱」

柳元:これで点が入ったやつはやりましたけど、他どうですか。

丸田:山本さんの〈たこ焼きの中身半分春キャベツ〉、いや嘘やんというか適当やんというか、そこが良かったですね。別にそうであっても知ったこっちゃないと言うのがまずあるし、「キャベツ」だというのなら分かるけど「春キャベツ」なのが、なんとも。僕としては、俳人が書いたな、という感じが良くも悪くもします。春キャベツへの嬉しさは充分に感じます。

柳元:あとは有澤さんの句も好きだったかな。当たりはずれあるけどチャレンジングというか。〈楓の芽くもらぬ雨をいただきぬ〉とか〈春のひる鉱物はもう息をしない〉とか。

丸田:同じく。

吉川:後半が残念だった。〈生き別れ死に別れ後百千鳥〉とかこういう方向性じゃないほうが。

柳元:それはたしかに。色々やってる分粗い感じはする。〈春埃もののかたちにすなほなり〉の句は片山由美子さんのあの句を思い出しますね。

吉川:〈まだもののかたちに雪の積もりをり〉。

柳元:そうそう。あとはてふこさんのどうだった?

丸田:うーん、氷柱や雪っていうテーマが見えて、読みやすくはあったんですが、面白い!と特に思うような句は無かったです。〈粉雪の液晶に触れすぐ水に〉はスマホとかの現代的な道具での一つの発見でいいとは思ったけれど、それなら今回の正木ゆう子の〈美しいデータとさみしいデータに雪〉の方が新しいかなあ、と思いました。

柳元:われわれとパラダイムが違う感じがしますよね。てふ子さんが何をやっているか、ぼくたちの価値観のなかからは見えにくいというか。俳コレでのプロデュースがキャッチーすぎたんだろうな。ミニエッセイを読むと一泊二日の旅行で書いた連作らしいけど、一泊二日で実景ベースで書くとこういう感じになるなあと思った。

○まとめ・総評

丸田:分かってはいることだけど、そもそも若手が少なすぎる。一冊読んで、「個性と個性の対決」みたいものがない。細かく細かく見ていけば、差異はもちろんあるけど、だいたいが文語で素材も似ていて、一冊通してこれを読むことになれば、どうしても宝探しみたいにいい句を探すようになってくる。実際もっと他の雑誌とかってこういう読みはしてないはずで、この人はこういうことやろうとしているし、この人は違うアプローチだな、みたいなところを楽しむけど、そこの盛り上がりに欠けるというか。僕が角川『俳句』に対して、読みが充分に足りなかったのもあるにしても、俳句をやっている自分からしてもこれであれば、客観的に、俳句を知らない読者から見れば(企画以外の作品については)ほとんど一緒に見えるんじゃないですかね。

柳元:正木ゆう子しかわれわれそういう盛り上がり方できなかったしね。

平野:たしかに。

柳元:まあそういうことはつねづね言われていますよね、角川の『俳句』は。結社の大御所から中堅に8句とか12句とかばらまいても俳句シーンは変わらないと思うんだよなあ。30句くれとかは言わないからせめて精鋭10句をもう少し枠増やしてくれたらなぁというのは、若手の思いだよね。締まらない感じですが、これで終わりましょうか。ありがとうございました。

(2020/05/24 Zoomにて)

暮れまぎれゆくつばくらと法隆寺 加藤楸邨

所収:『加藤楸邨句集』(岩波 2012)

俳句を始めたころに好きだった一句、もちろんいま見てもよい句だと思うのだが、勘どころに多少の変動がある。というのも以前はその空間、つまり薄明るい背景に一点の黒として燕が紛れていく姿。そして滲むような暮色に浮かびあがる、法隆寺の屹然とした縦の存在感、と一枚絵の美しさに惹かれていたのだ。

ところが現在は句の丈にながれる時間の長さ、もしくは多重さに心惹かれる。それは燕から渡り鳥として、眼前に至るまでの来歴の想像が膨らみ、法隆寺は世界最古の木造建築と言われるように、その歴史としての厚みは言うまでもないだろう。そして掲句のような景色はこれまで幾度も、繰りかえし現われては消えて、現われては消えて。反復しながら現在まで失われることはなかった、それは翻って無常である。

時間と空間が織りなす網目を自分たちは生きていて、その一瞬を切り取ることだって可能なのだ。そしてその網目のなかに居てこそ、景色は景観ではなく豊かさをもって現われてくるに違いない。

                                    記 平野

岩魚飼ふ大雪山の雪解水 長谷川櫂

所収:『蓬莱』 2000 花神社 

長谷川櫂も前書で述べているように、大雪山にすみなす岩魚すなわちオショロコマは、太古の昔に湖が陸に封じ込められてから独自の進化をとげた岩魚と言われている。が実際のところは陸封型だけでなく降海型もいるようである。しかしながらオショロコマの個体数は減少の一途を辿っており、現在は殆どが陸封型とも言われているから長谷川が前書で書いているところも間違っているわけではないのだろう。

大雪山というのはタイセツザン、と呼ぶ。北海道の中心部を貫く峰々(北海道最高峰の旭岳、活火山の十勝岳などなど)をまとめてそう呼びならわし、大雪山という山が存在するわけではない。大雪山は7月ごろまで雪渓が残り、蒼く澄みきった山容はいかにも北海道の山と言った感じがする。

さて、その雪解水で、大雪山は岩魚を飼っているのだと長谷川櫂は述べる。ここには多少の擬人化がある。けれど思えばアイヌの人たちも、山々を男女の神々に見立て、様々な神話を作ったことを思えば、この擬人化は心地よく受け入れられよう。たしかに鈍く照り輝く岩魚のうす翠いろの肌は、神の恩寵に思える。

記:柳元

似非 柳元佑太

 似非  柳元佑太

楠へ鳥突つ込むを更衣

筍を提げ人様の夢に出ん

赤鱏や海にもありて飄

一族の〆鯖好きも柿の花

雷や何はともあれ穴子寿司

夏風邪の鼻垂れて秘儀猫だまし

大學で似非學問や稲の花

カンフーは気の変幻や龍の玉

秋風や波乗り替へてあめんぼう

本積んで懈怠の民か秋昼寝

 *飄(つむじかぜ)

しづかなる水は沈みて夏の暮 正木ゆう子

所収:『静かな水』春秋社 2002

 句集のタイトルにもなっている有名な1句。多くの人が知っているにも関わらず、敢えて取り上げるのは上手い鑑賞ができるからでなく、夏を迎えると毎年思い出してしまうからだ。
 日が暮れると夏の空は藍色へと変わる。それを映して川や池の水の表情もまた複雑に変わる。「しづかな水」と書かれることで、水には色んな水があること、水の複雑な表情を思い出す。僅かな日差しを反射する「眩しい水」、しぶきを上げて勾配を下る「せわしない水」、水面を微かに波立たせる「ゆるやかな水」、それらより深いところに、夕暮れの藍よりも深くある「静かな水」。様々な水に思いを馳せた最後に「静かな水」に思いを馳せると、安らぎとも、さびしさとも言いえない感覚を思い出す。例えば、小学校から家まで川沿いの道を歩いて帰った時のこと、釣りを終えて道具をしまいながら見た池のこと。
 「しづ」、「水」、「沈」のz音の連なりが水の静けさの深く深くへと誘ってくれる。
 気に留めていなかった感覚をピタリと、しかし余白を残しながら言い当てた1句。

花火 これ以上の嘘はありません 福田文音

所収:黒川孤遊 編『現代川柳のバイブル─名句一〇〇〇』理想社 2014*

 そんなにもはっきり言ってしまうなんて、と驚きで虚を衝かれた。花火という、どう考えても、どう書いても綺麗に映ってしまうような現象を、「これ以上の嘘は」ないとバッサリ断ち切る。その潔さにかっこいい、と思う。

 この「これ以上の嘘はありません」については、読みがいくつか考えられる。花火が嘘であるとして、(花火と、それにまつわるものに対して)否定的な見方をしているようにも考えられるし、花火を嘘としつつも「最上の嘘である」と、嘘の(ような)輝きを褒めている、ともとれる。どちらもが混ざっているようには思うが、私としては前者に傾けて読みたい。
 というのも、これは俳句とは違って川柳である。これが俳句であれば、季語を綺麗に高めようとするのではないかと思う。嘘のようにきれいな花火、と花火に帰ってくるような作り方で。しかし、「花火」のあとに一字空けをして即座に嘘だと否定するのは川柳らしく、季語(としての力)が無効化されている。花火という夏や秋の現象だけでなく、「花火」と発せられた会話や、そう書かれた文章もここに含まれているような感触がある。
 そのため、書いてしまえば美しく「なってしまう」ものに対して、それに何の気を遣うことも、恐れることもなく、美しさを簡単に出して楽しんでしまっている人たちに向けて、そんな嘘ある? と責めているように感じられる(私だけが被害妄想的にそう読んでいるだけかもしれないが)。

 ただ、このメッセージは、同様に、この句自身にも適用されることになるだろう。「これ以上の嘘はありません」と指摘する材料として、嘘みたいに美しくて(俗な表現をするならば)エモい「花火」を持ってきているわけで、この句自体も、その「嘘」の恩恵を受けていることになる。
 しかし、無自覚に発言するのと、それを「嘘」と分かっていながら敢えて使うことには差がある。表面的には同じ「花火」でも、この主体から発せられる「花火」の方が信頼できるだろう。――と書いてから気づいたが、「嘘」と分かっていながら使うのは、本当に信頼できるだろうか。それはずる賢く乗っかっているだけで、むしろ、純粋に無自覚な方が、まだいいのではないか。でも、無自覚な、言ってしまえば暴力的な使用と、それに気づいて「嘘」だと指摘することは、大きく懸隔しているから問題はないのか……?

 とぐるぐる考えるに至る。少なくとも確実に言えるのは、この句を、最初に書いたように「花火を嘘だなんて、かっこいい」だけで終わらせてしまっては、「花火」と同じである、ということである。この句によって何が問題視され、これを言うことでこの句の中で何が起こっているのかを考えていくことが、この句の(誠実な)味わい方なのではないかと私は思う。

 私は、これが川柳であることから、例えば俳句の季語を思い浮かべる。この句の「花火」には「桜」「月」「雪」「風光る」「五月雨」と季語を入れてみても、同じようなことが言えるようにも思う(掲句の、花火であったからこその妙味からは離れてしまうが)。蓄積、と言ったら聞こえはいい表現だが、これも良い良いと言われ続けてきた単語にすぎない。その単語を出すだけで、今まで積み重ねられた良さ、文脈、作品を良いように得られる(得ないようにしようとすると、かなりの困難が付き纏う)。もはや嘘として楽しんでいる節もある。もちろん、そこが良さでもあるから、バランスが大事になってくるだろう。
 俳句に限ったことではないが、何か言葉を発するとき、言葉を使用することで生まれる効果や、言葉と同時に利用しているもの(権力、蓄積など)に、鋭敏に反応していかなくてはいけないと思わせられる作品だった。

*当書には出典等明記されておらず、私も初出が調べ切れておらずアンソロジーからの孫引きになってしまっている。確認でき次第追記したい。

記:丸田

いろは 平野皓大

 いろは  平野皓大

雨乞や暑を焚きしめて蛇は息

餅を焼くための団扇や天気雨

気にいつて臍ある神を水団扇

姫糊をうすくつめたく夏の月

製本の紐のいろはも青すだれ

白百合を乾かす風に帆は西に

山嶺に日矢のかからん鯖の肌

舟虫や鉄のあからむ日本晴れ

呉の越のぐらぐらしをる舟遊

つややかに細みの針を鯵の口

梅雨寒し忍者は二時に眠くなる 野口る理

所収:『しやりり』ふらんす堂 2013

 ちょうど、昨日今日が「梅雨寒し」だろう。
 「忍者」なんて俳句では中々見かけない語だけれど、「忍者は二時に」(ninja wa niji ni)の音の反復が生み出すリズムのよさで、浮くことなく1句の中に馴染んでいる気がしてくる。「梅雨寒し」(tsuyu samusi)「眠くなる」(nemuku naru)の「u」音の連なりもリズムを生んでいるかもしれない。声に出して読むと非常に楽しい。
 書かれてあることは非常に滑稽だ。忍者には深夜2時でも見張り(?)のような仕事があるのだろう。それでも季節外れの寒さに、それとも一定のリズムを刻む雨の音に眠くなってしまう……。
 内容が滑稽なのは勿論、断定の思い切りの良さという表現の面でもおかしみが滲んでいる。だんだん「忍者は二時に眠くなる」というタイトルのB級時代劇コメディーがあるような気がしてきた。

記:吉川

そんなにいい子でなくていいからそのままでいいからおまへのままがいいから 小島ゆかり

所収:『獅子座流星群』砂子屋書房 1998

 永田和宏『現代秀歌』で出会ってからもう四年ほど、良い歌だと思いつづけている。いい子でなくていい、おまえのままがいい、というのもシンプルに嬉しい(子目線で)が、それを急いで言おうとしている母の、切迫した感情に心を引き付けられる。「そのままでいい」では伝わりきらないと思った部分を、すぐに伝えようとして「おまへのままがいいから」と足す。「で」から「が」の、変更に思いを馳せると、いつでも、少し泣けてくる。
 リズムは、定型に近づけて読むと〈そんなにいいこで/なくていいから/そのままで/いいから おまえの/ままがいいから〉くらいになるだろう。ただ「いいから」の連呼と、次々に言い足していく(言い直していく)速さで、〈 そんなにいいこでなくていいから/そのままでいいから/おまえのままがいいから 〉と三分割で読めてしまうなと思う。平仮名が多いこともあり、本当に自分が言われているような(もしくは感情移入して、自分も言っているような)気持ちになる。

 ところで、好きな短歌を紹介しあう企画をある歌会で行ったとき、私はこの歌を紹介した。子供目線でも親目線でも、ありのままを受け入れる/られる温かい喜びと、親子特有の「願い」の胸の締まるような感覚が良い、とその場で鑑賞した。すると、一人が首をかしげて、「私は怖い」と言った。「何度も言ってくる感じが、そうあるように強制してくるみたいに感じて、怖い」。たしかにそうも読めるかもしれない。誰が、どういう表情でどう言っているかという映像が、こうも変わって見えるのは面白いなあとそのとき思った。愛や願いは、ときに拘束にもなる。
 ただ私は、あなたのままでいて欲しいというメッセージを発するときに「そんなにいい子でなくていい」と始まるのは、拘束になるかもしれないことを思いながら、陰ながら無理しないでねと言いたいんだろう、と思う。そこからどんどん愛情や本心が洩れだしてしまう。どうであってもいいんだという深い肯定。
 自分が数年、十数年と成長していったとき、この歌がどう見えるのか、どの思い出が刺激されることになるのかを今から楽しみにしている。

記:丸田