これ以上澄みなば水の傷つかむ 上田五千石

所収:『風景』牧洋社 1982

秋の爽やかな大気を映した美しい水の様子を表す「水澄む」を季題とした一句。これ以上澄んでしまったならば、という意味の表現なのでこの句が捉えているのは、澄みゆく水の一瞬の表情だろう。傷つくはずもない水に対する「傷つかむ」という表現が、水の表情をへの想像をより豊かにする。澄みゆく水の美しさと、美しすぎるが故の危うさ。傷ついてしまいそうな繊細さ。それらを合わせもった不思議な水の表情。
この句を読むと、毎年のように見ている秋の日ざしに瞬く水に、人の手の及ばない自然の凄まじさが潜んでいることを思わされる。

記:吉川

唇をなめ消す紅や初鏡 杉田久女

所収:「ホトトギス雑詠選集 冬」より 大正11

なめ消すのは唇か紅か、この句を見るたび悩ましい。唇「に」ならば簡単、鏡を見ながら唇に付着した紅に気がついて、舌で舐め消そうとしているのだろう。しかしあくまで掲句は「を」、唇を紅で塗り潰す。そして消えてしまった原色の唇。このとき鏡越しに見ている粧われた唇は、果たして自分のものといえるのだろうか。消すのは唇か紅か、妖艶さに導かれる不思議な一句。

記:平野

チューリップにやにや笑う星野源 木田智美

所収:週刊俳句10句作品「ウォーターゲーム」より

掲句、記憶している限りではスピカで神野紗希さんが取り上げたことでツイッターを中心にバズったはずだ。

星野源・新垣結衣が主演のTBSの火曜ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」が大流行りしたのが2016年の秋冬だったはずで、発表がその終了の3ヶ月後だから日本中が「逃げ恥ロス」に包まれていたとき。話題としてもタイムリーだったといえるだろう。ぼく自身、星野源と言われるとこの句を思い出すというくらいには頭に刷り込まれていて、メディアであの顔を見るたびに「にやにや笑う星野源……」と思ってしまう。

それにしても「にやにや」という措辞が絶妙だと思う。語の本義としては少し気持ち悪い薄笑いという感じがして、あまりプラスの言葉ではないと思うのだけど、それを「チューリップ」の底抜けの明るさというか、能天気な感じで深みを増すことが出来ている。カレーにインスタントコーヒー入れて深みが増す感じというか。うまく比喩できませんけど。

星野源を知らない人はいないと思うけれど、念には念を入れて説明すると、彼は1981年生まれの歌手・俳優・文筆家と様々な顔を持つマルチタレント。ぼくはNHKの「LIFE!」というコント番組がとても好きだったので、星野源という人間はこんなにユーモラスなのかと驚いたし、それは「星野源のオールナイトニッポン」の軽妙な(時には過激な)下ネタを混ぜたやりとりを見たときにはそれが確信に変わった。でもそれは人を傷つけるような類のものではなくて、バランス感覚のよさを思ったし、それは心根の優しい人間がする配慮の感じだったから、信頼できるなぁ、と思ったのを覚えている。

ここからは個人的な星野源の思い入れの話になる。学部1年に受けたベンヤミンの講義の最終回で、そこそこ老齢の教授がおもむろに教室中に星野源の初期の名曲「ばらばら」を流して「まあこれが全てです」と言った時はさすがに衝撃を受けた。

世界は ひとつじゃない
ああ そのまま 重なりあって
ぼくらは ひとつになれない
そのまま どこかにいこう

星野源「ばらばら」

よいですよね。これ以降星野源という存在がやたらと気になるようになって、あまのじゃくなのでカラオケで友人が踊る「恋ダンス」とかは白い目で見るのだが、以下の記事なんかを見つけた日には、ああこの人ほんとに考える人だし、誠実な人なんだなと思って小躍りしてしまった。

ばらばらだからこそ手と手をつなげるのであって、ひとつになっちゃうっていうのは目的が変わってきてるんじゃないかなって。


「ばかのうた インタビュー」より
https://www.cinra.net/interview/2010/06/25/000000.php?page=4

すごくないですか。星野源。

記:柳元

切り口のざくざく増えて韮にほふ 津川絵理子

所収:『はじまりの樹』 ふらんす堂

普通切るという動詞にかかる「ざくざく」を、増えるにかけるというずらし方をしている。これによって、韮の切り口がクローズアップされてイメージされるという視覚的な効果があるだけでなく、切り口から立ち上る匂いをスムーズに連想させることができ、「韮にほふ」というフレーズの説得力が増している。
韮は匂いが特徴的な野菜であるが、切り刻まれることによって匂いが強まること、「ざくざく」というリズミカルな語によって、この句においてはその独特の匂いに妙な生命力を感じてしまう。それを「ざくざく」とリズミカルに単調作業として反復される包丁の動きと対比的に捉えることもできるだろう。

記:吉川

アマリリスあしたあたしは雨でも行く 池田澄子

所収:『思ってます』ふらんす堂 2016

 一読して、このアマリリスはアマリリスしている、と思った。太い茎ですっくと立って、吐き出すように外に向かってパカッと開く花。この句の「あたし」の勢いの良さや、意志の強さが、アマリリスの様態に嵌っている。
 そして露骨なくらいに韻が踏まれている。a段とi段が交代して何度も表れる。また、あした – あたし、アマリリス – 雨、の語感の類似もぱっと目に入ってくる。どこに行くのか、誰かと会うのか、その目的は明らかではないが、アマリリスと主体の決意がリズムの上で同調しあって、読後こちらも凛とした気持ちになる。

記:丸田

福豆の枡の形の美しき 高野素十

所収:『高野素十自選句集』永田書房 1973

美しさにもいろいろとあるが、枡の美はシンプルな造形による、佇まいの潔白さ。簡潔それゆえに味わい深い印象は、素十の句にも通じるだろう。そして枡が受けとめるのは、自らの角張りとは無縁の曲線を持った福豆。掲句以前もこれからも変わらないと信じる、器への安寧が伺える。

記:平野

辞令あり蛸唐揚げと与太話 藤田哲史

所収:楡の茂る頃とその前後 左右社 2019

友人のIから連絡がないといえどもそれなりに良いお店の予約をキャンセルするわけにはいかず寿司屋の暖簾を一人でくぐる。

予約していたものですと名前を告げ、連れが遅刻している旨を伝えてみれば店員が少し嫌な顔をする。接客の態度としてどうなのだろうと思いながらも非があるのはこちら側だから指摘するわけにもいかず、席に案内されて携帯を開いてみればIから人身事故で遅れる旨のメールが届いている。

春という季節に自死を選ばせる力があるのかもしらんなどどありきたりなことを考えてみて、線路に吸い込まれるように投げ出されていく自分の身体を想像してみる。車輪というものは近くで見ればとても大きくて、あんなものに轢かれてしまったらひとたまりもないだろうと思う。回転する鉄の塊が、自分の四肢をバラバラに、ぶつ切りにする。そこまで想像が及ぶとようやく食事の前に考えることではなかったなと気付く。

Iは振替輸送にうまく流れることが出来たらしく十五分ほど遅れてつき、まず瓶ビールを二人で一本空ける。今夜の催しはIの栄転を祝う会であって、Iは海外へ赴任することが決まっている。Iとは久闊を叙するというほどではないにせよいずれにせよ半年は会っていなかったから、近況やくだらない話を二三する。

お酒の当てにとIが頼んだ蛸の唐揚げが運ばれてくる。食べやすいように小ぶりに切られた蛸は春が旬らしく、唐揚げにすればいつ何時食べても同じ味だろうという気持ちもありながら檸檬を絞る。ばらばらに、ぶつ切りにされた蛸が、酸性の照りを帯びる。寿司屋の包丁はよく切れるに違いない、などと当然のことを思う。

記:柳元

真青な中より実梅落ちにけり 藤田湘子

所収:『黒』角川書店 1987

梅の実が落ちたことを詠んだ、ただそれだけの一句。
「真青」という語の選択に表現の妙がある。ただ「真青」と色を書いているだけなのに、 梅の枝に多くの葉や実が密になっている映像が浮かび、それとは対比的に落ちていく一つの梅の実が映える。
「真青」という色によって捉えているから、この句の梅を見ている人は葉や実それぞれでなく、それらを一つのかたまりとしてぼんやりと梅を見ているのだろう。しかし、梅の実の落下、という動きによって一つの「実梅」を細かく見るように視線の在り方は変する。そんな観察者の認識の推移まで「真青」から見えてくる。
梅の実が落ちた、ただそれだけのことがそれを見る人も含めて徹底的に表現されている。

記:吉川

風の建物の入口が見つからない 種田山頭火

所収:『定本山頭火全集 1』春陽堂書店 1972

 風の建物とはどんな風だろう、といつも想像している。そしてその度にいつも形を変える。風の建物自体見つかっていないのか、風の建物は見つかっているが肝心の入口が見つからないのかは分からないが、この句の主体は探し続けている。どこかにあるはずの、 いつか見つかるはずの入口を。
 無季自由律なのもまた風らしい。涼しくあやふやで、不安定な感覚。

 山頭火には風の句が多い。〈死をまへに涼しい風〉、〈風の明暗をたどる〉、〈つきあたつてまがれば風〉……。今ごろ、風の建物のなかで風として遊んでいるかもしれない。

記:丸田

巨き星めらめら燃ゆる木枯に 相馬遷子 

所収:『山河』 東京美術 1976

スーパースターと呼ばれる人物がどの分野にも、存在する。

生まれ持った資質に寄りかかるのではなく、度しがたいほど精力的に、もしくは無邪気に見えるほど熱心に打ちこみ、誰よりも高い志を抱いている。その姿を常人は仰ぐことしか出来そうにない。巨星の熱に肌を焼かれながら、尊敬するか、滑稽に思うか。自らも同じ高みに登ろうとして、無理だと悟るか。そこで諦めるか、自分に出来ることを頑張るか。

溢れるバイタリティは自らを燃やして尽きる。燦爛とかがやいていたはずの巨星は忽然といなくなることもあり、去り際まで燃えて、ふっと消える。巨星が照らしていた範囲を知り、頭上の空虚さと、巷を覆う暗闇の広さに気がつく。それでも巨星は昇りつづける。寂しさを導く木枯らしに燃えるようにして、巨星は心の内に輝く。一人の心だけではなく、人びとの記憶の中に、巨星なら輝く。

あまり鑑賞に関係ないが、吉行淳之介に『スーパースター』という題名の短編がある。同年輩の三島由紀夫について、吉行がどのような感情を持っていたか、回想が主になり話が進んでいく。 三島もまた数少ない巨星の一人だった。

                                            記 平野