こうやって暖炉の角に肘をつき 岡野泰輔

所収:『俳コレ』 邑書林 2011

笑える1句。ただ、笑える句といってもこの句は奇妙だ。

〈 芝居じみた枯葉の拾いかただよ君 〉池田澄子『拝復』という句があるが、この句はおかしみのある光景をそういうものとして見ている人間が作品の中に存在している。
一方掲句はおかしみのある光景が書き込まれているのみで、それを直接読者が見ることになる。勿論、このパターンが特に珍しいわけではない。

この句が奇妙なのは、暖炉というシチュエーションも相まって気取っているように見える動作をしている主体が、「こうやって」、と自身の気取ってみえる動作に自覚的であることにある。
この句の主体の生み出すおかしみにその主体が意識的であることに私は混乱させられる。前者の情報だけなら素直にクスリと笑えるはずなだが、この句はそうはさせてくれない。さきほど池田澄子の句を引いたが、あの句があくまで「芝居じみた」であるのに対し、掲句は意識的に動作が行われている点でまさに「芝居」的であるように思える。日常のおもしろいワンシーンでなく、芝居のおもしろいワンシーン、そのように受け取るべき句なのかもしれない。

記:吉川

寫眞館 柳元佑太

 寫眞館  柳元佑太

たましひなんて信じないおまへVS魂魄を抜くカメラ・オブスキュラ

おまへは寫眞館のやうだな、あたたかい暗室を持つおのれのうちに

パブロフの犬なる暗がりの吾ら 愛せなくなるまで愛せたら

眼は窓か 光を容れし部屋に唯一人のための植物が咲く

夕暮のわれは犍陀多、起きしなのわが思惟からむ天井の蜘蛛

海底の圖書館は蒐集せよ夜夜の嵐に船沈むたび

ぎんなんの匂ひを厭ひ龍も嘆き合ひしかぺるむ期じゆら期

銀杏樹に火を虛視ればたちまちにSodomの町か火球降り繼ぐ

火に棲む魚の顏かたち言うてみよ、優しいおまへ優しいおまへ

天體の蝕の一ㇳ日も延々と蟲湧き出づる蟲食林檎

*圖書館(ビブリオテカ)、龍(ドラゴン)、虛̪視れば(そらみ-)

どうしても君に会いたい昼下がりしゃがんでわれの影ぶっ叩く 花山周子

所収:『風とマルス』青磁社 2014

 花山周子の歌を読むと、ひねる、ひねらない、ということを特に考えさせられる。いくつか引いてみると、(以下引用はすべて同歌集)

  歯磨きはもう飽きたからやめようか、というふうにいかない人の営み
  きみの声がさいしょっから好きだった池に浮かんだアヒルのようで

 ひねることで、前半の映像や情報が強引に更新されていく。特に「というふうにいかない」の繋ぎ方は露骨なひねり方である。ふつうの、ノーマルに見かける短歌だと、それが「切れ」に合って、異なる二つの映像の重なり方を面白がるものが多い。

 ひねる、という表現があっていないような気もするが、花山周子の歌はどこか素直ではない落とし方をしている。「池に浮かんだアヒル」とは褒めているのかどうか危ういところで、ダメそうなところを好きと思ったのか、そもそも本心からアヒルが好きで、だから好きと思ったのか分からない。(「池に浮かんだ」の言い方は完全にナメているというか、面白がる気持ちがあるように思われる)切れ、を持ってくるのであれば、君の声が好きということと、池に浮かんでいるアヒルの映像を別々で繋げることになる。これが「のようで」の倒置と「さいしょっから」という措辞によって、ひねりが生まれている。「きみの声がさいしょっから好きだった」というふつうの(普通、というと語弊があるのかもしれないが)恋愛的な歌と思わせておいて、後半で変える、その「思わせておいて」の部分が読みどころなのではないかと思う。「というふうにいかない」の繋ぎ方も、「歯磨きは飽きたとしてもやめられない」のようなスムーズな言い方を拒否して、敢えて少し驚くような(またはふつうの表現が来ると予想される)表現を見せておいてのもので、「思わせておいたよ」というアピールなのだと捉えられる。

 この、ただの逸脱ではない、ふつうの振りをしておく、という部分が、花山周子の短歌の読みどころであるように思うし、ときに文語や旧かなを使うのもそういう役割を担っているように考えられる。

〈どうしても君に会いたい〉の歌は、そうして考えると、前半はふつうの歌っぽい表現である。(「昼下がり」という状況のわざとらしい付け加え方も、私としては回転する前のスケート選手の助走に見える)そして後半、「しゃがんでわれの影ぶっ叩く」。叩いたとして会えるわけでもないことを分かっていながら、本当に殴っているような描写。ふつうなら「会いたい」からする行為ではない。電話をかけるとか、「君」のことを想像するとか色々ある中で、「われの影ぶっ叩く」。「しゃがんで」という謎に細かい映像の作り方も面白い。まさか、通りがかりで見かけた、道でしゃがんで地面を叩いている人が、ほかの人に会いたがっているとは思うまい。

 人に会いたい主体がいてもたってもいられないという、長い助走のあとで、奇妙な回転を見せられる。共感という尺度では測りきれない、「ひねり」の先の面白さが、しずかにさり気なく光っている歌である。

記︰丸田

まるめろの実に量感を与える灯 藤田哲史

所収:「俳句」10月号 精鋭10句競詠「量感」より

マルメロはイラン・トルキスタン辺りの中央亜細亜原産、洋梨の形で花梨よりもやや小振りの淡い黄橙の色合いをしている。短い和毛が全体を覆い、柔らかな明るさが輪郭をかたどる美しい果実である。

『ミツバチのささやき』で知られるビクトル・エリセにも『マルメロの陽光』という映画があり、これはマルメロを題材にする写実画家を追うドキュメンタリー仕立てのフィルムだ。

そのためかマロメロと絵画はイメジがやや昵懇である。絵画とは究極に言えば光の具合なのであるから、藤田氏が把握するところの「灯が量感を与える」という理も割合素直に呑める。色調や姿形は光ありきなのであって、光届かぬところでは全ては暗がりの中、輪郭線も現れぬまま、物質は潜在的な微睡の中に、可能性としてのみ留め置かれる。ものは形なく、むなしく、神の霊が水の面を覆う。ここでわれわれは神が発したという「光あれ」という単純な語句を思い出しても良いわけだが、光があったことで、「闇」としか名付けられることのなかった暗がりにこそ思いを致したいところだ。

灯があてられることでまるめろの窪みの中には行き場を失った闇が棲みつく。藤田氏が言うのは光の中にその闇を含み込めての「量感」なのである。まるめろは滑らかでなくある程度の凹凸があるからこそ愛されているというのはそういう意味においてである。

記:柳元

新酒 平野皓大

 新酒  平野皓大

色街をおもしろく見て青瓢

さしもなき日の対岸の鰯雲 

掌にうつせる秋蚊脚を曲げ

神の旅カメラ一日して壊れ

魚鳥の栖をわたる秋の雲

人に雨虫売の眼の奥の熱

裏町をひつつき通ふ踊唄

秋扇いたづら広く開きけり

台風の留まらぬ眼に憧れて

今昔を新酒明るく温かく

回転ドアの中でマスクを外して入る 池田澄子

所収:『拝復』ふらんす堂 2011

575のリズムに当てはめて読もうとすると〈回転ドアの/中でマスクを/外して入る〉の776となる。575に慣れている身からする違和感があるし、もたもたとした感じの印象を受ける。また、同じ字余りでも最後の下5が下7となっている句よりも、下6はおさまりの悪い印象が私としては強い。
それでは、この句を例えば「回転ドア押しつつマスク外しけり」としたところでそちらの方がいい句か、と言えばそんなことはない。

この句のリズムの気持ち悪く間延びした感じ、もたもたとした言葉の連なりが回転ドアを通過するという特殊な時空の感じに繋がる気がしている。
目的地は正面にあり、まっすぐに進めばいい筈なのに、弧を描いて遠回りさせられているような気がしてくるあの構造、そこを通る時に間延びする時間。

回転ドアを通過する時間はそんな妙な長い時間でありながら、マスクを外すのにかかる時間と同じぐらい短い時間でもある。

回転ドアを通過する光景にマスクを外す動作を合わせることで、内容は何気ない。けれど句の奇妙なリズムがその何気なさから独特の感覚を引き出している。

記:吉川

あいまい宿屋の千枚漬とそのほか 中塚一碧楼

参考:夏石番矢『超早わかり現代俳句マニュアル』(立風書房、1996) *

 曖昧だなあ、という感想を持った。宿屋が在ったような気がして、そこに千枚漬けといろいろがあったような気がする。それくらいの句ではある。

 この句の面白いところを三つ挙げるとすれば、まず「あいまい宿屋」の言い方。「ふれあい動物園」「二十世紀梨」のような感覚で、「あいまい宿屋」という宿屋があるような聞こえ方になっている。宿屋に関する記憶が曖昧で、そんな宿屋だ、ということをこのように省略すると、「あいまい宿屋」というポップな面白い響きを持つフレーズになる。「あいまい階段」「あいまい天体」「あいまいカフェ」……いろいろ他のものも考えてみるが、(他のものには他の雰囲気があるにせよ)宿屋とは確かに、あいまいだなという気がしてくる。細部を部分的に、全体をざっくりと、見たような記憶は残っているが、だからと言ってそれ以上の情報は記憶していないような気がする。むしろ宿屋へ誰と行ったか、そこで何をしたかというエピソードばかりが重要で。宿屋自身のことは確かにあいまいだと思わされる。変なフレーズに納得させられるのが面白い。こういう芸風のお笑い芸人を見たことがあるような気がする。

 二点目に、「千枚漬」の部分。「あいまい宿屋」とあいまいな記憶の中で色濃く存在しているのが千枚漬けなのか、という面白さ。これは普段から千枚漬けにどういう気持を持っているかで味わいは変わるが、私は千枚漬けは結構好きだがあまり食べない、ややシブめのチョイス、というイメージであるため、「あいまい宿屋」のなかで唯一取り上げるのが風呂や景色やメインディッシュではなく「千枚漬」であるという点に、ものすごく惹かれる。よほど美味しかったのか。もしくはよほど変な味がしたのか。曖昧な記憶のなかで千枚漬だけが具体性を付与されていることが、なんだか面白い。

 一応補足として、先ほどから私は記憶記憶と言っているが、これは過去を回想しているのではなく、現在進行形で「あいまい宿屋」に泊っていて、その中に居る私もなんだか曖昧になってきた、という句とも読める。それもひとつの魅力的な読みかもしれないが、その場合「千枚漬」の良さがやや減るかと思う(今目の前にあるから言った、というより、回想の中でなぜか千枚漬けだけが浮かんでくる異様さ、変てこさの方が、「あいまい宿屋」のフレーズに近い面白さがあると判断したからである)。私は回想の方で読みたい。

  最後、三点目に、「とそのほか」の暈かし方の面白さがある。「あいまい宿屋」のなかのもの(装飾とか、外装とか、他の料理とか)は、「千枚漬」かそれ以外かに分けられてしまう。そんなことないだろう、とも思うが、そんなことがあったのだろう。「そのほか」なんて曖昧で適当な言い回しだなあと一見思えるが、あきらかに意図された面白さがここにある。

 加えて言うならば、「あいまいやどやの/せんまいづけと/そのほか」というテンポのいいリズムも好みである。これがもし定型だったら、それはそれで面白かったのかもしれないが、これはこうでないといけなかっただろう。一応「千枚漬」という季語・名産品から、もしかしたら京都かな、とか、もしかしたら冬かな、と想像することも可能だが、なんとなく、「あいまい宿屋」はそうしていっても辿り着かないところにある気がしてならない。

*本来、所収されている句集を引くべきですが、この句が収録されている一碧楼の句集を把握することができず、私がこの句を発見した夏石番矢の本を一応参考として記しました。一碧楼の句集を確認することが出来たらまた変更・追記等したいと思います。

追記︰「曖昧宿」(また、「曖昧屋」)という名詞があることを指摘いただきました。完全に私自身その単語を知らず、「あいまい」という言葉の面白さ中心に読んでいました(これもまた一つの読みかと思いますが)。曖昧宿とは、表向きは茶屋や料理店で、実際は娼婦を構えて客をとる店を指すようです。これを考慮すると、「千枚漬」という表側の記憶が残っていること、本当の目当てを「とそのほか」とぼかしているお茶目さ(?)が見えて、面白みのある句に読めるかなと思います。曖昧宿、という単語そのものの、「あいまい」というネーミングが、この句の空気感とそのまま同じなのではないか、と思います。(2020年10月21日)

記:丸田

切口の匂ふ西瓜の紅に 岡野知十

所収:『味餘』(そうぶん社出版 1991)

刃先を西瓜皮に立てて思いっきり力をこめる。厚い皮は割けていき、かぶさる具合に乗り出した胸の下から清々しいような、甘い瓜の匂いがする。ごろんとまっぷたつに転げた西瓜のその断面は、眼まで染めぬくような鮮やかな紅だった。という夏の涼やかな一瞬を嗅覚と視覚から切り抜いた句。涼やかと言いながらもどこか動物的な生臭さも感じるのは紅という色彩のためか、それとも太陽と大地の養分を厚い皮のうちにぎっしり詰め込んだ西瓜という果物のためか。静かに立ちのぼってくる生命の匂いが日常の淵を見せる。

記:平野

ありわらのなりひらしゃらしゃら気管支をならしわたしにうでをさしだす 野口あや子

所収:『短歌』2018.11

喘息もちだろうか。「ありわらのなりひら」が気管支をしゃらしゃら鳴らすさまはなんだか痛々しい。いや喘息もちだろうとたぶん気管支はしゃらしゃら鳴らないわけだが、そのあたりの絶妙な嘘くささ、誇張されたサブカル漫画みたいなフェイクっぽさ、けれん味こそ愛すべきなのである。「なりひら」はわたしに腕をさしだしてくるわけだが、当然気管支を鳴らしているような人間の腕に掴まるのは無理だし、それは「なりひら」もたぶん承知なわけだが、それでも、「なりひら」は腕をさしだす。だからこそこの歌には妙な切実さが宿っている。

技巧的な部分を読めばおそらく「なりひら」の「ひら」の音が「しゃらしゃら」を呼び寄せ、「しゃらしゃら」の「し」が「気管支」「ならし」「わたし」「さしだす」の「し」を軽やかに踏んでいくわけだが、この音の連なりの気持ちの良さも特筆すべきだろう。

最もこの一首だけ読んでもやや詮無いことで、というのもこれはかなり連作という形式に依るところが大きい歌だからである。〈なりひらのきみとでも呼べば振り向くかおとこの保身かがやくひるに〉という歌から始まるこの一連の連作は、比較的近しい関係にある「きみ」(どうやら保身している男性らしい)を、在原業平に見立てることで動き出す。

平安時代初期の歌人在原業平は、六歌仙・三十六歌仙の一人で、『伊勢物語』のモデルとしても知られる。しばしば優雅で反権力的な表象のされ方を伴うが、どうやらこの連作においては異なるようで、 取り上げた歌もそうだし〈くらき胸を上からたどればとまどいてなりひらのようにきみはかわいい〉のような歌を見てみても、庇護される対象として、つまり優しいがどこか線の弱く頼りない「なりひら」を感じさせる。

それは平仮名に開かれた表記が直接そう感じさせるというよりも、歌を平仮名に開くという書き方がこれまで担保してきた、極めて現代短歌的としか言いようがない永遠の明るさ(思いつきで命名するならグラウンド・ゼロっぽさ)を引き連れているという方が適切な感じがする。

しまながし ホログラムする快楽のみずをたどってきみとはなれて〉のように「わたし」と「きみ」の二人の関係性が、どことなく世界の行く末と直結しているいわゆるセカイ系っぽさも、時代の雰囲気をよく捉えていて、読み応えのある連作だった。

記:柳元

雨・川 吉川創揮

 雨・川  吉川創揮

雨音の硯を洗ふ部屋塞ぐ

秋の蛇這ひ来る耳の温き水

水溜まり覗いて行くは墓参

白萩の手の乾きまで撫で削げる

曼殊沙華口から糸を曳いてこゑ

十月は影滲みだす梢・人

コスモスの空ばらばらを結べば目

駱駝揺れ歩きて釣瓶落しかな

引き延ひて雲眩しさの水澄めり

秋燕に川の反射の濃き薄き

※延ひて(はひて)