乾鮭の余寒の頭残りけり 岡本癖三酔

所収:『現代俳句集成 第2巻』(河出書房新社 1982)

ぶら下がっている鮭と聞けば高橋由一の『鮭』が思い浮かぶ。骨をあらわにして吊されている鮭の見開かれた眼や、紅と黒の印象的な対比に生死を見るわけだが、腸を抜いて吊し上げるという乾鮭の説明だけでも、死にながら生を露出する乾鮭の性質はよく分かる。上を向いたものとして由一が『鮭』を描いたため、どうしても縄を咥えている鮭の頭が想像されてしまうが、必ずしもそうとは言えず、尾をくくられ下を向いた鮭もまちがいなく乾鮭である。どちらにせよ印象に残る部分は重たげな頭なのだろう、長谷川櫂に〈乾鮭の頭もつとも乾びけり〉(古志)などの句があるように、乾鮭の頭部はよく人の眼を集めるようだ。吊された鮭は写生するように人を唆すのかもしれない。

掲句は『癖三酔句集』において春の部〈余寒〉に分類されている。頭が「残っている」と景を捉える気分はなるほど春らしい。「余寒の頭」という措辞が頭の一点に寒さを定めているようで面白い。ぶら下がったままの頭は、季節が連続してあるということを改めて気付かせてくれる。さらに「けり」が吊された鮭の姿を伝えるように響き、そこはかとなく寒気を漂わせる。一本筋が通った凜々しい句である。

石川桂郎の『俳人風狂列伝』などが伝えるように、父の遺した財産を元に屋敷に籠り、重い精神疾患を患ったなどといろいろ逸話のある癖三酔だが、高見順との関わりはあまり触れられていないように思う。高見順の母が営んでいた針仕事の得意先に岡本家があり、家が近所ということもあって少年時代の高見順は毎日のように癖三酔の息子と遊んでいたようだ。『我が胸の底のここには』によると「岡下家で過された私の時間が、私をして、書斎での孤独を何よりも愛するところの私たらしめた、かなり重大な原因と成っていることを認めない訳には行かないのである。」と岡下と変えながら、高見順は岡本の家の思い出を綴っている。詩や小説を書き始めるよりも前に、岡本癖三酔のもとで俳句を作っていたという。子どもの遊びとはいえ、与えた影響は大きかっただろう。高見順の一ファンとして記しておく。

記 平野

三輪山の背後より不可思議の月立てりはじめに月と呼びしひとはや 山中智恵子

所収:『みずかありなむ』(無名鬼・1968)

三輪山の背後から不可思議としか形容し難い月が昇った、はじめに月をツキという音と呼んだ人は誰なのだろうか」くらいが適当な口語訳でしょうか。掲歌は歌集の中では比較的平易な方の歌だと思います(だからこそ浅学な私でも取っ付けた訳です)。とはいえ、その平易さは山中智恵子のスケールの大きさを損なうものでは全くない。むしろ修辞による屈折や、韻律のふくよかさが織り込まれない分、下の句の「いったい誰が初めに月と呼んだのだろう」という疑問が、優しく響く感じがします。

三輪山は奈良県桜井市に位置する神話の山です。『古事記』にも物語の舞台として記載があり、その山体は現在も御神体として崇められています。また三輪山は山中智恵子の研究の対象でもありました。その三輪山から、月が昇ってゆく。

古代「月」という語が初めて発話された瞬間に山中智恵子が思いを馳せるとき、われわれは神話世界にいざなわれます。そして「月」を「ツキ」と初めて呼んだ古代の人間の眼差しを同じうして、夜空を見上げることになる。そのとき、月は太古の輝きを取り戻し、煌々と輝く。「太陽に"次ぐ"明るさ」だから「ツキ」という語源の説が有力であるようですが、この歌を読む限り、理屈などない、純粋な身体的な偶然性によってこの音が出たもので欲しいように私は思います。吉本隆明の「海」ばりの願望ではありますが、そうであって欲しい。古代の月と見紛えるような月との邂逅、そのカタルシス。

『みずかありなむ』は山中智恵子の第3歌集。山中智恵子の歌でも最も人口に膾炙しているであろう〈行きて負ふかなしみぞここ鳥髪とりかみに雪降るさらば明日も降りなむ〉から世界が始まります。歌集全体がコンセプチュアルに古典神話世界に遡行しつつ、水底で酸素を吸い込むように、非常に逆説的な形で、超越的な主体が戦後との繋がり方を探っているように思われます。耽美的なのだけれども趣味的でないという歌いぶりというのは、短歌史における一つの頂点でしょう。

記:柳元

此処あったかいよとコンビニエンスストアの灯 池田澄子

所収:『思ってます』ふらんす堂 2016

現代日本社会の象徴の1つとしてコンビニエンスストアは挙げられるのではないだろうか。掲句が収録された句集が刊行された2016年には、村田沙耶香の『コンビニ人間』(文藝春秋)も刊行されており、文学においてコンビニが現代日本社会の主要なモチーフとなっていることがなんとなく感じられる。

コンビニはその名の通り、コンビニエンス=便利なのだがコンビニの独自性はそれではなく、どこにでもあるし、いつでも営業していることにあるように思う。
旅先で気軽に入れそうなお店が見つからない時、深夜眠れなくてお腹が空いてどうしようもない時、そういう些細な心の靄をコンビニの存在が解消してくれる。コンビニはなくても生活はできるが、コンビニがあることで無理に踏ん張る必要がなくなる時が生活には多々あると1人暮しをはじめてから感じている。(コンビニは深夜営業やフランチャイズ経営に由来する様々な問題を抱えており、それらを含めて簡単に肯定はできないが)

「あったかいよ」という口語による表現には、温度の問題だけでなく、上記で述べたように私が感じている温かさも含まれているだろう。「灯」のイメージもまたそれを補強する。

コンビニの灯がこちらに「あったかいよ」と呼び掛けているように感じるような夜は、やたらと明るい無機質なあの照明も違って見えるだろう。

記:吉川


本は木々には還らぬとして(知らないが)あなたのことをあなたより好き 𠮷田恭大

所収:『光と私語』いぬのせなか座、2019

 この「(知らないが)」の感覚について、他の𠮷田の歌を見ながら確認したい。

  脚の長い鳥はだいたい鷺だから、これからもそうして過ごすから

「だいたい鷺」。確かに、日常の範囲で川辺で見るような足の長い鳥はだいたい鷺であろうと予測はされるものの、なんだか適当である。たぶん鷺だけど、本当の所の真偽は知らない、知らなくてもその場でとりあえず納得できればいい。「そうして過ごす」の部分をどこまで膨らませて読むかによるが、細かい差異に気を取られず、知ったこっちゃないがこういうのはだいたいこうしとけばいい、くらいの温度感・ゆるさで生活していこう、という感じに私は読んだ。
 私たちの生活において、鳥の名前が何であっても実際どうでもいい、という素直な感覚が漏れている歌だと思う。一見なんだか優しそうな歌であるが、自分たちに関係の薄いものに関してはどんどん適当に把握していくところに、少し怖さ(心配?)がある。

  飼いもしない犬に名前をつけて呼び、名前も犬も一瞬のこと

 服部真里子に〈春だねと言えば名前を呼ばれたと思った犬が近寄ってくる〉(『行け広野へと』2018)、望月裕二郎に〈いもしない犬のあるき方のことでうるさいな死後はつつしみなさい〉(『あそこ』2013)があったりするが、『光と私語』でも多く犬の歌が登場している。「飼いもしない犬」、散歩ですれ違った他人の犬なのか、野良犬を見かけたのか、ペットショップで対峙しているのか、状況は分からないが、自分が飼う予定もないのに犬に名前をつけてみる。
 この感覚はさっきの「だいたい鷺だから」に似ていると感じる。脚の長い鳥も、飼いもしない犬も、関わる気が最初からないのなら、だいたい鷺だと雑な把握をしたり、名前をつけてみて遊んだりしなくていいんじゃないか、と思ったりする。これは私の余計なお世話であって、別に好きに名付けてもいいと思うが、知ったこっちゃない世界に対して、やけに主体自身から関わりに行っている気がする。
 一方で、

  いないときのあなたのことをよく知らない。

 この作品(自由律の短歌として観たが川柳としても読めるかもしれない)は、分からないものは分からないものとして、それ以上踏み込んではいない。さっきの「だいたい鷺だから」のテンションで行けば、いないときのあなたはだいたい眠っている、とか言いそうなものなのに、である。

  いつまでも語彙のやさしい妹が犬の写真を送ってくれる

 この歌を見たとき、「いつまでも語彙のやさしい」かあ、と思った。微笑ましい歌のように見えるし、それでいい(この兄妹・姉妹の関係についてそれ以上深く踏み込まなくてもいい)ように思うが、どうしても気になる。今使っている言葉がやさしい(易しい・優しい)ならまだしも。妹が「妹」ではない場所(兄や姉に見せていない顔)でどんなことを話しているか、これからの未来どんな言葉を話すようになるのか分からないのに、「いつまでも」と言ってしまう。もし、「いつまでも使う言葉がやさしくあってほしい」というのならもう一言その意味が分かる言葉が欲しい。
 ただ、これについては、妹のことを何にも分かっていないような適当な兄・姉像を裏で書いている、とも読めなくはない。〈美少女にずっとならない妹をそれでも駅まで送ったりする/長谷川麟〉(第四回大学短歌バトル2018)という歌が物議を醸したことがあったが。愛着が変な形で表れていることを「いつまでも」で示しているとも読める。

  本は木々には還らぬとして(知らないが)あなたのことをあなたより好き

 まとまりのつかない文章になってしまったが、改めてこの歌を見る。「(知らないが)」が目を引く表現になっている。(知らないが)は上にも下にもかかっているような印象がある。知らないけど、あなたがあなたに思っている以上に、私はあなたの事が好き。知らないのに適当言うなという話だが、「だいたい鷺」の歌と同じように、そういう温度感で生活していこうよ、みたいなゆるい感覚が受け取れる。また、本当にそうであるかは分からないけれどそれくらい自分は好きなんだという、謙虚で微笑ましい言葉である。
 木から出来た紙、紙から出来た本。本がもとの木に還って行くことは無い。だからどうした、という話である。「(知らないが)」の感覚。本が木に戻らないことも別にどうだってよく(なんとなく素材としておしゃれ感・寂しさはある)、ただあなたの事が好きなんだと、がむしゃらに言う。

 知らないことを、だいたいで把握して、放置するようでいて、でも何となく自分から関わって、色々なことを言ってしまう。そういう余計さが、この歌をより良くしている。

記:丸田

雪の森薄刃のごとき日が匂ふ 福永耕二

所収:『踏歌』(東京美術 1980)

雪の森という表現はグリムの森か、くまさんの森か、どことなく童話的な雰囲気を持っている。雪も、森も、人次第である。雪深い地域を思い浮べる。それほど積雪のない地域を思い浮べる。鬱蒼とした森を思い浮べる。散策する路のある森を思い浮べる。雪の森があまりにも抽象的であるため、リアリスティックでない童話を想像するのだろうか。

この上五の童話らしい舞台設定が「薄刃のごとき日」という絵画的な光景をもっともらしく見せる。鋭い日射しだろう。いかにも冴えている。

ところが最後の「匂ふ」によって、雪の森は童話の世界から離れる。確かにいま、森のなかに存在しているのだという感覚を読み手に導く。木に囲まれた空間が広がり、繊細な感覚で日射しを捉えている。もしも「見ゆる」だとすると、森の空間は立ち上がらず、平面的で臨場感に欠ける。また、森のなかにいるとしても日射しを渇望しているようで、さらに薄刃と言われていることから精神状態が不安定に思える。一語で印象が大きく変わる。

記 平野

春の獅子座脚あげ歩むこの夜すぎ きみこそはとはの歩行者 山中智恵子

所収:『紡錘』不動工房 1963年(確認は「山中智恵子全歌集」による)

星座を造るのは光の明滅を繋ぐ想像力です。とはいえこの想像力は、人間の溢れんばかりの創作意欲の発露ではなくて、未整理な星空の混沌への恐れと見ることが出来るのではないでしょうか。物語的な理解により安心したいが為に、古今東西の人間は光飛び交う星空の混沌に線分を引いた。既知の無数の物語を天球に貼りつけたのは、降り注ぐ無意味な星の光を怖がった人間の臆病さであるように思います。

黄道十二星座の一つ、日本では春の代表的な星座で、天体に疎くとも馴染み深い獅子座も、そのような星座の一つです。この獅子は、ネメアの谷でヘラクレスに棍棒で叩き殺された獣であるという意味付けが為されています。星の光を繋いだ線が造りなす獅子は、右を向き前脚を上げた状態で天に吊るされている。

山中智恵子は掲歌の中で、獅子座の獅子に「君」と呼びかけ「とはの歩行者」と言い替えていますが(「君」を任意の第三者と考えることも出来るけれども、まず想定されるイメージとして妥当なのは「君」=「獅子」だと思います)、確かに獅子座の獅子は歩行せんとしているように見えます。

山中は前脚を上げた獅子の静的なイメージから「歩行」という動的なイメージを束の間取り出して見せます。が、同時に「とはの(永遠、永久の)」という絶対的な静のイメージを冠することで、獅子を脱目的な、果てない歩行の牢獄に閉じ込めもします。山中によって、光の獅子は星辰瞬く夜空を永遠に闊歩することを義務付けられる。「この夜すぎ」に春の晴れた夜空を見上げれば、われわれはいつでもこの獅子を見ることが出来ます。

とはいえ、そのような見立ては取り立てて新しいわけではない。例えば絵画などの静的なものに永遠の動作を見出すことは、詩的な把握として例が無いわけではありません。しかしながらこの歌が優れていると筆者に思われるのは、下の句「きみこそはとはの歩行者」が、7音・7音から2音少ない5音・7音の音数により、組み立てられたことではないでしょうか。「とはの歩行者」にどこか寂しげな、欠落した印象が付与される。音を足すのではなく引くことで、韻律の面で意味の強度を上げるのです。

この歌は、永遠に目的地に辿り着かずに歩き続ける獅子を言祝ぐに相応わしいように思えてなりません。

記:柳元

調律師の感性を書きつけたメモを雪原に置いてきてしまったよ 服部真里子

所収:『行け広野へと』第三版、本阿弥書店、2018

 ジャンルは何にせよ、創作をしていると色々な他の情報がそのネタのように見えてくる。お笑い番組を見ていても、漫才やコントの構成、展開、話術、テンポなどなど、自分の創作に活かせるんじゃないか? という目で見てしまう。創作をするということは、世界全般に対して、新しいアンテナを張るようなものであると日々思う。

「調律師の感性」なんか、メモせずにはいられないように感じられる。詩的なものの電波を受信するアンテナがあれば、真っ先に拾うものだろうと思う。ピアノの弦と鍵盤、振動、音、調整……。天性の音感が無いとやってられなさそうなイメージがある。慎重で繊細で、感覚を研ぎ澄ませてやる作業。
 詩にするには格好の材料だろう。そしてそれをうきうきとメモした主体は、まさかの「雪原」というこれまた詩的な土地に置き忘れてしまう。

 このときの、「置いてきてしまったよ」という言い方はわざとだろうと思うが、若干の軽さがある。置いてきてしまったことを後悔するのではなくて、むしろ自分から望んで置いてきたくらいに、雪原に置き忘れたことをなんだか詩的になってしまったエピソードとして面白がっている感がある。
「置いて」という動詞の選び方も、忘れたとか失くしたよりも、雪の上にそっとひらひらと置いたようなイメージが喚起される。
 調律師の「感性」という言い方にもやや軽さがある。これは個人的に私だけが感じている印象かもしれないが、ここが作業過程であったり、洗練された技術であったりしたらすんなり納得する(メモも子細に記せる)が、「感性」というのは、なんとなく雑な感じがする。なんだかステキと思ってメモになんとなく書く。こちらが詩にしやすいものを勝手に引き抜いて勝手に作品にしている印象は拭えない。感性をなんとなくメモしてきたから、なんとなく雪原に置いてきてしまえるし、「置いてきてしまったよ」と言えるのだろう、と思う。例えばこれが「詩人の感性」であっても同じであって、もちろん感性が仕事の大事な部分にはなっているものの、その感性を最大限活かすための技術や努力の部分を外部の人はメモするんじゃないだろうか、と思ってしまう。

 そういう受けとり方をしたときに、この歌はものすごくナメている歌だと感じられる。「調律師」という素敵っぽい職業、感性をメモするという感性豊かそうな行為、「雪原」という詩語感たっぷりの舞台設定、「置いてきてしまったよ」というとぼけ方。

 一方で、これが本当に奇跡的に成り立った歌だとして読むことも出来る。
 本当に調律師の仕事について触れて、その感性がいかに魅力的で重要かを知って尊敬して茫然とメモしておいたものの、それが帰るときになって落としてきたと気づく、通ってきた道は雪原であったから、雪原に落ちたんだろう……。
 そんなことがあるか? と思うものの、もし本当にすごい確率でそんなことが起きたのだとしたら、「置いてきてしまったよ」と言ってしまいたくなる気持ちも分かる。ただ忘れただけだったのに、その奇蹟に主体自身も驚いて、「置いてきてしまったよ」と乗っかりたくなる感覚。

 私としてはこの二つの読みはちょうど半々くらいで存在している。韻律が定型に添っていないことも、この読みによって効果が分かれて、前者の方だと調律師の感性というセンスある材料に合わせてテクニカルな韻律にしたと取れ、後者の方だと本当に奇蹟だったから動揺して起こったことを矢継ぎ早に話している、と取ることが出来る。
 美しさを手ごろに詠もうとするとその手つきが透けて見えるのかもしれないとも思わされ、一方で本当の美しさというものは嘘っぽく聞こえるものなのかもしれないとも思わされる。非常に危ういところで揺れ続けているこの歌の像に、気になり続けている。

 主体はきっと、メモを置いてきてしまったことによって、「置いてきてしまった」という記憶が加算されて、より色濃く覚えていることになるだろう。私は、そういう意味で、服部真里子のこの歌を置いていこうと思っている。

記:丸田

公園の冬温かし明日世界は  上田信治

所収:『リボン』 邑書林 2017

公園を歩いていると思い出した1句。

「公園の冬温かし」はなんてことない平和な日常を感じさせるフレーズである。そこから「明日世界は」と大きく展開されていくのがこの句の妙。

「温かし」(a ta ta ka si)「明日」(a si ta)「世界は」(se ka i ha)というように見ると、a音の連なりと、a音+i音のセットの繰り返しが生むリズムが中7と下7を繋げている。
上5中7の醸す平和的なムードはリズムに乗って下7まで続いていく。そうして、「明日」「世界」という抽象的かつ重いワードも、漠然としているからこその明るさに印象を変える。

口に出して読み上げる度に嬉しくなる1句。

記:吉川

緯をぬきとれば神の序列みえ異教徒のやうに明るい裁縫 山中智恵子

所収:『空間格子』日本歌人社 1957年

緯は「よこいと」とルビ。

織物を司るのは日本では天羽槌雄神である。彼女は天照大神を天の岩戸から誘い出すために織物をした神である。また希臘神話で織物を司るのはオリュンポス十二神のアテナ。アテナは人間アラクネーと織物勝負が伝えられている。織物が多神教的なイメージと結びつくのはこの例示だけでもある程度了解できるだろう。多神教においては女神が織物を司るのだ。一神教では神の中で分業が行われないから、多神教世界がここでは思われていると見るべきだろう。

そしてそのような神話的イメージと昵懇な織物から緯糸を抜き取れば、必然として経糸が残る。そこに束の間山中智恵子が視るのは「神の序列」。一見唐突に思えるが、縦に走る糸が暗喩として機能すれば上下関係のベクトルが思い起こされ、そこから神々の位階のようなものが想起されるのは困難でないのでないか。神話のイメージ群と瞬間の動作に類比を見出す山中智恵子の詩的筋力が「緯をぬきとれば神の序列みえ」という幻視を可能にしているのである。

普通感知することのない神の序列を見ることにより、どこか自分の信仰が揺らぐような感覚を覚えるか。あるいはそこまで行かなくとも多神教的な世界を垣間視ることにより、一神教的な世界の枠組な異化させしむる知覚が準備される。

この下準備により、下の句の具象が輝き出す。多神教的な神の序列の幻視体験が目の前の具体の織物に落とし込まれるのだ。織物の色彩が「異教徒のやうに明るい」のだと比喩が用いられ、織物にどこか開放的で健康的なエロティシズムが思われてくる。自分が信じる一神教の堅苦しい規律の息苦しさの外側にある、禁じられた快楽。偶像崇拝。不道徳。淫乱。そのような明るさが織物を彩る。束の間異教徒の仲間入りを空想しながら行う裁縫の快楽にうち浸る。

『空間格子』は山中智恵子の第1歌集である。1947年から1956年までの作品280首を採録している。序文は師である前川佐美雄。『空間格子』は数学用語で結晶体の意味。

記:柳元

襖しめて空蟬を吹きくらすかな 飯島晴子

『朱田』 永田書房 1976

「くらす」という表現なのだから、襖を閉め切って部屋に閉じこもり、空蝉を吹く、ということが来る日も来る日も繰り返されているのだろう。そうした説話的イメージだからか、平安時代の女性貴族がこの句の主体のような気もしてくる。(私は詳しくないが、「源氏物語」に空蝉という女性が登場するからかもしれない)

部屋と空蝉の中の空気それぞれは、襖と空蝉の殻という脆いものによって守られている。襖と空蝉の2重の脆さの中にでさえ閉じこもってしまう主体の心の様は、説話の主題として非常に魅力的に映る。

記:吉川