三輪山の背後より不可思議の月立てりはじめに月と呼びしひとはや 山中智恵子

所収:『みずかありなむ』(無名鬼・1968)

三輪山の背後から不可思議としか形容し難い月が昇った、はじめに月をツキという音と呼んだ人は誰なのだろうか」くらいが適当な口語訳でしょうか。掲歌は歌集の中では比較的平易な方の歌だと思います(だからこそ浅学な私でも取っ付けた訳です)。とはいえ、その平易さは山中智恵子のスケールの大きさを損なうものでは全くない。むしろ修辞による屈折や、韻律のふくよかさが織り込まれない分、下の句の「いったい誰が初めに月と呼んだのだろう」という疑問が、優しく響く感じがします。

三輪山は奈良県桜井市に位置する神話の山です。『古事記』にも物語の舞台として記載があり、その山体は現在も御神体として崇められています。また三輪山は山中智恵子の研究の対象でもありました。その三輪山から、月が昇ってゆく。

古代「月」という語が初めて発話された瞬間に山中智恵子が思いを馳せるとき、われわれは神話世界にいざなわれます。そして「月」を「ツキ」と初めて呼んだ古代の人間の眼差しを同じうして、夜空を見上げることになる。そのとき、月は太古の輝きを取り戻し、煌々と輝く。「太陽に"次ぐ"明るさ」だから「ツキ」という語源の説が有力であるようですが、この歌を読む限り、理屈などない、純粋な身体的な偶然性によってこの音が出たもので欲しいように私は思います。吉本隆明の「海」ばりの願望ではありますが、そうであって欲しい。古代の月と見紛えるような月との邂逅、そのカタルシス。

『みずかありなむ』は山中智恵子の第3歌集。山中智恵子の歌でも最も人口に膾炙しているであろう〈行きて負ふかなしみぞここ鳥髪とりかみに雪降るさらば明日も降りなむ〉から世界が始まります。歌集全体がコンセプチュアルに古典神話世界に遡行しつつ、水底で酸素を吸い込むように、非常に逆説的な形で、超越的な主体が戦後との繋がり方を探っているように思われます。耽美的なのだけれども趣味的でないという歌いぶりというのは、短歌史における一つの頂点でしょう。

記:柳元

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