所収:『十年』2016 角川書店
いまは未だ無理でも、ひょっとすると数十年後にとてつも無く冴えた瞬間がやってきて、稲妻のようにこういう句が閃くときがくるかもしれない。
そう思うと、案外このまま俳句を続けていても良いかもしれないなぁと思うときがあって、俳句を書いていけるかどうかはそういう瞬間を幾つ積み重ねられるかにかかっているのだと思う。そういう勇気をくれる句として、覚えている句の一つ。不穏すぎるけれど。
記:柳元
短詩系ブログ
所収:『十年』2016 角川書店
いまは未だ無理でも、ひょっとすると数十年後にとてつも無く冴えた瞬間がやってきて、稲妻のようにこういう句が閃くときがくるかもしれない。
そう思うと、案外このまま俳句を続けていても良いかもしれないなぁと思うときがあって、俳句を書いていけるかどうかはそういう瞬間を幾つ積み重ねられるかにかかっているのだと思う。そういう勇気をくれる句として、覚えている句の一つ。不穏すぎるけれど。
記:柳元
所収:『俳コレ』邑書林 2011
大勢の蟻が食物に群がる様を平明な言葉で描いた1句。
特筆すべきは、「蟻の力濃し」という表現。蟻が群がる様を写実的に描写するのではなく、「力」というワードを用いることで、小さな蟻が集まった時の少し異様な迫力が伝わってくる。ただ客観的に観察するだけでなく、蟻の立場に一歩踏み込んだような表現によるリアリティ。また「濃し」という普通、色にかかる動詞を用いることで、蟻が密集した時にそのあたりが黒く見える様子が浮かんでくる。
少しグロテスクとも言えるような光景にも関わらず、「集まって」「だんだん」などののんびりした言葉のチョイスによって、さっぱりとした印象の句となっていて、明るささえ感じられる。
記:吉川
所収:『髙橋みずほ歌集』砂子屋書房 2019
『坂となる道』2013 より。髙橋は独特の韻律を描いている歌人である。〈目の前の取っ手を握りドアを押す長き廊下の折れ曲がり〉(『凸』1994)に見られるような結句5音の歌が多く、〈その昔やかんの湯気も加わりてめぐる団欒〉(『 㐭 』2007)の7音分の消失、〈そこがとってもかなしくて涙がわいてくる穴のようです〉(『しろうるり』2008)のような自由律的な作品も見られ、韻律の面で多彩さを見せている。
掲歌では、一字空きも加わって、さらに表現が鋭くなっている。といっても、下の句は綺麗に77で読めるために一首自体の後味(韻律の?)はよく、前半とのズレ(速度の差)で不思議な感覚になる。
内容自体は、大きくとれば、雨が降っていて、産み落とされた時の和らぎを感じている(思いだしている)、となるだろう。大滝和子の〈サンダルの青踏みしめて立つわたし銀河を産んだように涼しい〉(『銀河を産んだように』1994)や、鬼束ちひろの「I am GOD’S CHILD/この腐敗した世界に堕とされた/How do I live on such a field?/こんなもののために生まれたんじゃない」(「月光」(作詞作曲ともに鬼束)2000)などを連想する。
産む側の涼しさでもなく、この世に生まれてしまったことへの厭悪でもない。「和らぎ」。私には少し意外な感覚で、この和らぎとはどういうものなのかいつも考えている。あたたかいのか、それとも涼しいものなのか。母と自分の関係のことなのか、空間のことなのか、世界と自分の関係のことなのか、それともその全てなのか。
ヒントになるのかどうかよく分からない前半の雨の光景。先ほど「雨が降っていて」と解釈したが、「音する 雨」はいいとしても、「音のむ」が引っかかるポイントになっている。雨が音をのむとはどういうことか(雨が主語なのではなくて、他の何かが主語で、雨がそこに挿入されていると読むこともできるかもしれない)。
「雨」といえば、上から降ってくるもの。ある意味、空や雲が産んでいるともいえるもの。産み「落とされた」という表現は雨を意識しているように感じられる。この繋がりから個人的に読んでいく。
主体は部屋などに居て(雨に当たる場所にいれば音より先に雨を感じるだろう)、音がするのを感じる。それを雨だと把握し、雨音が部屋中を包みこむように響き、他の音も雨に飲み込まれていく。空から落とされてくる雨から、自身の生まれ方を連想し、産み落とされたころの和らぎを思う。
雨に羊水、音に(自身が胎児であるときの)母の心音などを重ねるなども考えたが、そこまでになると過剰な読みになるだろう。
なんとなく分かるが、それと同じ量くらい、分からない。これは先に触れたとおり、韻律、表現も影響しているだろう。上の句の不安定なリズムに「音」と「雨」の繰り返し。
声に出して読むにも悩む。完全に定型ではない新しい型(のようなもの)をもって詠んでいる歌が作者に多いことから、私は「おとするあめ/おとのむあめ/……」の6677のように読んでいる(または、三句目が消えたと取って、66(5)77と空白の時間を取る)。定型に引きつけて、(休みを、タン、として)「おとする タン/雨 タン おとのむ/タン 雨 タン」のように空けて読むのもいいかもしれない。
前半の韻律(と表記)の不安定さに対しての後半の綺麗な77のリズム、前半の意味の不安定さ・不可解さに対しての後半の「和らぎ」。バランスが崩れている歌のように見えて、ある意味で非常にバランスが保たれた歌であると考える。韻律と内容の響きがもたらす、やわらかく美しい髙橋の歌の「味」をまた追っていきたいと思う。
記:丸田
所収:『一茶三百句』( 臺灣商務 2018)
「何」には「な」とふりがな。ブログに載せようとして調べたら、岩波の『新訂一茶俳句集』には載っていなかった。同時期に有名な「大の字に寝て涼しさよ淋しさよ」があるからだろうか。
五月に入ってからめっきりと暑くなった。風通しの悪い部屋に住んでいるため、熱がこもってしまい如何ともしがたい。それでも夕方になれば涼が感じられる、日中は暑かったからなおさらのこと。本格的な夏に向けての前哨戦といったところだろう。秋口の涼しさとは違い、感覚が外へ開かれていく、そんなバランスの取りづらい時期でもある。
掲句、「が」と逆説であるところにちょっとした凄味がある。「何もなくて」ならば、忙しい生活がやっと片付いて、ひと息ついている風である。しかしそんな平凡な感慨ではないのだ。日々なんにもないこと、それこそが心安い、そう言い切っている。力強い。
台湾の訳本なので、ついでに。
一無所有
但覺心安――
涼快哉
陳黎 ・張芬齡 訳
読みが分からずとも、漢字の並びから雰囲気は伝わってくる。一・快の字が心境を強調しているようにも思える。
記 平野
所収:「俳句」2020.5
自分が写真を撮るのは専らスマホでだ。ということは自分が主体的に撮った記録は全てデータで残っているのだな、と思った。自分の子どもが成長したとき、「あなたは幼い頃このような姿をしていたのだよ」とグーグルドライブへのアクセス権限を与える日が来るのかもしれない。
あらゆるものがデータで残る時代において、美しさやさみしさも変容したように思う。ベンヤミンの「アウラの喪失」を引くまでもないけれど、複製時代独特の美しさとさみしさというものがあろう。保存もコピーも出来る思い出。ワンタッチで消える思い出。
掲句におけるデータはどんなものなのだろう。「美しいデータ」と「さみしいデータ」という書かれ方からは具体的にうかがい知ることは出来ないけれど、ぼくたちは任意に、おもいおもいにこの余白に当てはまることが許される。
雪は、データと同じように降り積もるものだけれども、降って溶けて一回きりだ。「データに雪」というところは解釈が難しいけれど、まぼろしの雪がデータに降りつのるようなところを想像した。
記:柳元
所収:『松本たかし句集』1935年
船頭が棹で舟を10回も漕ぐことなく舟が向こう岸に着いた、という舟渡しの様子を詠んだ1句であろう。
表現の抑制の塩梅が巧みだ。
「渡し」の語の直後に「水の秋」と水のモチーフを置くことで舟渡しのイメージを補強している。また、直接舟という語を用いずに、動詞「渡す」を名詞にした形の「渡し」を用いることで船頭が棹で漕ぐ動きが見える。長い棹を静かに、しかし大きく動かす様は空間の広がりや、水の様子をイメージさせる。
10回も漕ぐことはなかったのだから短い舟渡しであったのだろう。川幅の短さがイメージされる。舟に揺られる束の間は、秋のもつ儚さとも響き合うかもしれない。
上5中7で、このように船頭の動作や川幅などの空間や、舟に乗っている短い時間をイメージさせることで、下5の「水の秋」は非常に活きてくる。「秋の水」は単に秋という季節の川や湖のことを指すが、「水の秋」は水が美しい秋という季節に思いを馳せる語である。「秋の水」よりも空間的にも時間的にもイメージの広がりが大きい「水の秋」という下5が、上5中7のイメージの広がりを受け止め、情緒の深い1句にしている。
作者の松本たかしは能楽師の家に生まれ、能楽師を志すものの病弱のために断念した経歴をもつ。私は能に詳しくはないが、舟が登場する能の作品もあるようなので、そこにインスピレーションを得た1句なのかもしれない。
所収:『凧と円柱』ふらんす堂 2014
虹のあと、通路が目まぐるしく変わる。何度も見たことがあるようで、一度も見たことがない光景である。
見たことがないものへの既視感。無いはずが、ありそうという感覚。
この句を、できるだけ現実の説明がつくのように読むとすれば、「虹あとの」の「あと」を長めにとって、道路工事がなされてゆく街のことだと考えたり、「変る」を、実際の光景ではなく内側のイメージによる完全な錯覚、と考えたりするのが良いかもしれない。
しかし、虹の雰囲気がこの句全体を覆っていること、虹が架かってしばらくすると消え、目撃できることがやや稀である性質を思うと、通路が虹と同じ時間くらいで変化を迎え、それを本当に目撃していて「めまぐるしく」と言っているように思われる。
「あと」を、後ではなく跡と考えて、「通路」は虹自体を示し、虹という通路が消えかかり補うように空の道が変わっていく、というような読みも可能であるかもしれないが、その場合だと「めまぐるしく」があまり効かなくなること、そんなに「変」らないんじゃないか、ということで「あと」=後として解釈した。
①虹という空間的に高いものから、通路という地上のものへの視点移動、②虹の後に変わっていくという時間の経過、③因果関係とはまた違う、虹と通路の連動(陽にさらすと氷が融けるように……)を微かに思わせる点、この三つがしずかに重なっていることがこの句の魅力であろうと思う。通路が目まぐるしく変わるという実はよく分からないものが、既に感覚したことがあるようなものに変わる。
『凧と円柱』では、他に〈蜜蜂のちかくで椅子が壊れだす〉、〈めまとひを帯びたる橋にさしかかる〉など、「ないようであり、あるようでない」光景が描かれたものが多くある。句集を読み終わるころには、この居心地が良いのか悪いのか分からない感覚がくせになっている。
(これは個人的な好みだが、「通路」という語の選択も気が利いていて、口調や語によって景がどう立ち上がるかを細かく意識している作家だと感じた。また、このページ上部の画像は、この句をイメージして制作した。楽しんでいただけたら幸いである。)
記:丸田
所収:『草の王』(ふらんす堂 2015)
しばらく雷が続くこと、雨も降っていないのに騒がしいなと思っていたら、激しめの雨がすこし降って、それからちゃんと晴れた。今日の東京の天気、なぜだろう掲句を思い出した。
おなじく雨の鬼灯市を詠んだ、例えば水原秋桜子の「傘を手に鬼灯市の買上手」と比べてみたとき、あきらかに対象が人でない。それは人が不在だったからではなくて、空気感が詠まれているから。
濡れてという時点でなにが濡れたのかを探りながら読んでしまうが、それで人影と言われても肩すかしを食らった気分。実際のところはただ地面が濡れているだけであって、人影は濡れずに動いていくものだから。それゆえ影が実体を持ったようで気味が悪い。
そして「も」というだけで他のなにが濡れているのか明示されない。ただあるのだよと示唆されるだけ、なんとも不気味。濡れたものが限定されないからこそ、鬼灯市の全てが濡れてしまう。目にはいる景色が全部濡れてしまう。つまりそれは空気が濡れてゆくということかもしれない。
ゆくで時間の経過・変化をとらえる。「鬼」からくる冷たさ。「灯」の字によるぼうっと膨らむ明かり。鬼灯市の気配や空気感を言葉によって想像させる。景の層・言葉の層、ともに情報が詰まった、省略の効いている一句。
記 平野
所収:『たんぽるぽる』2011年 短歌研究社
どこの空港もそうなのか分からないけれど屋上や屋上に類するところにバルコニーのようなものが設えてある。そこから降り立つ飛行機を迎えたり、あるいは親しい人が乗り込んだ飛行機を見送ったりもする。
空港という名詞が情緒的なのはそういうところで、つまり人とのと別れとか再開とか、そういう場として機能する美しさがあるのだと思う。
そしてそういうこととは別にして、空港は建築物としての美しさもある。臨海部の空港の、大きな窓から差し込んでくる海の柔らかな照り返しは何とも言い難い嬉しさがある。その窓は夜には大きな鏡のようになる。フライト後の自分のやつれた姿が映る。最終便が着いてしばらく経ったあとの無人のフロアはとりわけそれが際立って、普段は人で溢れているから気がつかないけれど、空港はこんなにも大きくて広くて淋しい場所なんだ、と思う。
〈目が覚めるだけでうれしい〉というフレーズの驚くほど単純で、そして些か安直な生の肯定は、ある種幼児退行的であるように感じる。なぜなら実際この世界はもっと困難で、複雑で、悲しみに満ちているのは諸氏がご存知の通りで、赤ん坊すらこの世に生を享けた悲しさに泣きじゃくるのだ、という慣用句すら引きたくなる。
けれど、ここにおいては作中主体はそういうものに目を瞑り、虚勢を張る。というかたぶん虚勢ですら無いのかもしれない。本当に〈眼が覚めるだけで嬉しい〉のである。言祝いでいるのである。
このフレーズは両義的で、明るく素直な切実な主体を提示しながら、ごく僅かながら屈折したニヒリズムを無意識のうちに世代として内面化しているように思える。
しかも本人がニヒリズムを感じていないであろうことで、そのニヒリズムが無敵になっている感すらある。
ここで書かれているのは浅くて単純なヒューマニズムだと思う。でもそれを切実さ一辺倒で突破しようとしているからこその強さがあって、それこそが唯一の生き方のように感じている作中主体がいる。そしてその生き方を否定出来る手札が、もうペシミストの側には無い。何かそういう諸々の、平成という時代の虚無で底抜けの明るさ、消費社会の消費することでしか物事が進んでいかない難しさが、鋭敏な感性とともに現れている感じがする。
記:柳元
所収:『櫻島』 アド・ライフ社 1957
無季の1句。
この句が詠まれた当時のことは分からないが、現代において消火器は学校や職場など様々な場所で毎日のように目にするだろう。だからこその「また会う」というフレーズ。
磨かれた消火器の色は、発色がよく、光もよく反射するのでどことなく安っぽく軽薄な印象を与える。消火器が連想させる火事という恐ろしい現象も切迫感をもって立ち現れることはない。
消火器の赤にぼんやりとした不穏さを感じながらも、「明日また会う」とこの不穏さが日々続くと考えるこの句の主体は、どことなく現実に対して冷めているような人物として立ち上がる。
577の形をとる句は、句末が伸びているために間延びした印象を与えがちであるが、「明日また会う」は、a・si・ta・ma・ta・a・uと、a音を多く含むからかリズミカルにも感じられる。
記:吉川