濡れてゆく鬼灯市の人影も 石田郷子

所収:『草の王』(ふらんす堂 2015)

 しばらく雷が続くこと、雨も降っていないのに騒がしいなと思っていたら、激しめの雨がすこし降って、それからちゃんと晴れた。今日の東京の天気、なぜだろう掲句を思い出した。

 おなじく雨の鬼灯市を詠んだ、例えば水原秋桜子の「傘を手に鬼灯市の買上手」と比べてみたとき、あきらかに対象が人でない。それは人が不在だったからではなくて、空気感が詠まれているから。

 濡れてという時点でなにが濡れたのかを探りながら読んでしまうが、それで人影と言われても肩すかしを食らった気分。実際のところはただ地面が濡れているだけであって、人影は濡れずに動いていくものだから。それゆえ影が実体を持ったようで気味が悪い。

 そして「も」というだけで他のなにが濡れているのか明示されない。ただあるのだよと示唆されるだけ、なんとも不気味。濡れたものが限定されないからこそ、鬼灯市の全てが濡れてしまう。目にはいる景色が全部濡れてしまう。つまりそれは空気が濡れてゆくということかもしれない。

 ゆくで時間の経過・変化をとらえる。「鬼」からくる冷たさ。「灯」の字によるぼうっと膨らむ明かり。鬼灯市の気配や空気感を言葉によって想像させる。景の層・言葉の層、ともに情報が詰まった、省略の効いている一句。

                                    記 平野

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