満月の冴えてみちびく家路あり 飯田龍太

所収:『童眸』角川書店 1959

 窓を閉めて布団の中でうずくまっていても西武新宿線の発着に伴うアラーム音が聞こえるくらいには駅とアパートが近い。物件というのは駅に近づけば近づくほど家賃が高くなるものだから、当然ぼくが住んでいる幾築年数を経た六畳ユニットバス物件でも家賃がそれなりに高く、奨学金とバイト代からの捻出には月ごとに難渋する。

 しかしそれでもいわゆる駅近物件を選ぶ利点はあると言わざるを得ない。出不精で外出への精神的障壁が大きい人間は、駅への徒歩所要時間が短ければ短いほど所用の完遂確率も上がるのだ。であるからして、情緒もへったくれもない極論を言えば、自分の感性を刺激したり興奮させるようなものが、家と駅の間に無ければ無いほどよいのである。旨い焼物を出す飲食店のダクトから漏れる油臭に気を削がれたり、飼猫なんだか野良猫なんだか分からない薄汚れた猫と遭遇して全てが面倒くさくなって自室に引き返すという徒労がなくとも済むのだ。所用を済ませて家に帰るとなっても同様で、疲弊した体をベンチで休めたり、定食屋に吸い込まれたり、フィリピンパブの卑猥な呼び込みに反応せずに真っ直ぐ家に至ることが出来る。

 ここまで書いて思うのは、多分情報量の問題なのである。駅と家を結ぶ間の道なりに提示されている情報量が充実(自分の脳の処理能力から言えば飽和)しすぎていて、それに中てられることによる精神の疲弊が所用の完遂確率を下げていたのである。だからせめてもの抵抗として、駅近物件を選ぶことで精神が猥雑な情報に晒される時間を減らそうとしていたのだ。当然ここで思うのはなぜ自分が東京に住んでいるのかということ、のちのち田舎に帰った方が良いのではないかということである。ここで地元の北海道の家路を思い浮かべてみるわけであるけれども、畑や樹々や川があるばかりで、そこには記号的な意味に還元されない静けさが横たわっていたはずだ。幼少期からそのような土地で涵養された脳の情報処理能力が、たった数年程度住むばかりで都市の過剰な情報に適応できるとは、とてもではないが思えない。

 そういうことを一層思うのは、例えば龍太のこのような句を読んだときである。いったい都市に住んでいて、満月が冴え冴えするような感覚によって導かれるような家路の経験を得ることが出来るのだろうか。なるほど満月は都市にも田舎にも平等に掲げられるわけであるけれとも、その視覚情報が、おのれを冷たく灼きつけるようなものに感得されることは本当にあるのか。月明かりを際立たせるための全き闇こそ、ここでは必要に思われるし、それが猥雑なネオンによって打ち消されるようならそれこそ不可能に思えてしまう。まして、都市の過剰な情報すら所与のものとして受け取れるように形成された都市在住者の視覚のコードにおいて、そもそもそういう知覚の可能性が開かれているのかすら疑わしく思える。逆に言えば、神秘的とも言える月光がおのれの近くに冷え冷えと差し迫ってくるような経験を、言語から再生可能なようなかたちで一七音に封じ込めている龍太の凄みこそ、ここでは思うべきなのであろう。

記:柳元

萍のみんなつながるまで待つか 飯島晴子

所収:『儚々』角川書店 1996(「儚」は異体字)

『儚々』は飯島晴子の生前最後の句集。

飯島晴子には非常に表現が平明な句がいくつかある。例えば『儚々』に収録されている〈寂しいは寂しいですと春霰〉〈昼顔は誰も来ないでほしくて咲く〉とか。掲句もそうした系列の句として位置づけられるだろう。
平明ではあるが、読解が簡単というわけではない。一見これらの句は直情的だが、言葉が上滑りしているとでもいうべきかそこにある意図や感情は見えてこない。

一つ一つは小さい萍が水面を埋め尽くす様には淡い恐ろしさがある(私が集合体を見るのが嫌いだからかもしれない)し、萍の生える場所は水流のない池であるから停滞した印象も受ける。「つながるまで」という表現からは、萍の成長する時間が見えてくる。
この句は様々なイメージを喚起するが、それに対して何の文脈もなく「待つか」と思う主体が登場することが、前段で述べたこの句の読みにくさである。
理屈を飲み込んで、この句で展開されるイメージとそれを待つ主体の二物衝撃に思いを馳せることがこの句を読むにあたっては必要な気がしている。

この二物衝撃が表現の平明さ口語的な軽さとは裏腹な、切迫した印象を与える1句にしている。

記:吉川

夜の駅に溶けるように降りていき二十一世紀の冷蔵庫の名前を見ている フラワーしげる

所収︰『ビットとデシベル』書肆侃侃房、2015

 とにかくカッコいい歌である。どこがというと、まずは目で見て分かる「二十一世紀の冷蔵庫」の物のかっこよさ。昭和、またそれ以前の年代を生きた人から見た未来としての「二十一世紀」は何だかハイテクな最先端の雰囲気があり、まさに二十一世紀のみを生きる現在の者として見ると改めて現在を再認識しようとするその視線がクールだと思える。もっと言えば、数百年後(地球という世界、文学というものがその時まで残っているとして)から見た大昔としての「二十一世紀の冷蔵庫」も、また丁度よく古びた味がありそうで良い。
 わざわざ「二十一世紀の」と言われると、自分もたいして知らない冷蔵庫史なるものに思いが馳せられる。並んでいる冷蔵庫にも歴史があり、その進化の途中の冷蔵庫が目の前にあるわけである。そこで観光客のように感動するのではなくて、その「名前を見ている」。なんともあっさりしていて、カタカナや英語の、もう何が何だか分からない造語を目にする。まるで、「冷蔵庫」に目が留まったんじゃなくて、「名前」だけがボンッと飛び込んできてどうにも気になって立ち止まった、というふうに見えてくる。この奇妙な主体、ただなんとなく気持ちは分かる……というへんてこな共感で満たされる。そう思うと、「二十一世紀の」というのはなんだか馬鹿にしているようにも思える。内容だけでなく名前までも、よく分からないものになってきている、というような(「名前を見ている」だけであるから、主体が実際その名前に対してどう思っているかは分からない。かっこいいと思っているのか、かわいそうに、と思っているのか、はたまたダサいと思っているのか……)。

 かっこいい点二つ目として、声に出したときオーバーする韻律と、それに内容が巧く合っているところがある。この歌をどう声に出して読むかは人によって違うかもしれないが、私は〈よるのえきに/とけるようにおりていき/にじゅういっせいきのれいぞうこのなまえをみている〉という風に読んでいる。こうしたときの下の句の溢れ方が、「溶けるように降りてい」く主体の様子と重なって、のろのろとした夜の空気感が十全に伝わってくる。一方で、「溶けるように」と言いながら「二十一世紀の冷蔵庫」というシャープな(文字だけ見てもキリっと締まったような)空気のあるフレーズが差し込まれることで、自分は溶けるようでありながら、そこにある冷蔵庫はただそこに涼しく佇んでいるという対立が生まれて、一首の世界がより深まっている。この温度差・速度差が、さらっと述べられているところがクールである。

 そして、一首をもう一度上から読みなおすときに深く気づく、「夜の駅に溶けるように降りていき」、「冷蔵庫」の映像のつなぎ方が秀逸である。「冷蔵庫の名前」ということは、冷蔵庫が見える場所に来ているか、冷蔵庫の宣伝や広告を見かけていることになる。私は「名前を見ている」ことの臨場感を得たくて、電器屋の近くを通りがかって見かけたのだろうと想像している。状況の視線の誘導のさせ方、駅~冷蔵庫の距離感が良い。

 ここまで書いていて初めて気がついたが(何十回も見て読んでしていたはずが)、私は完全にこの歌を「夜の駅を」として読んでしまっていた。駅から降りて、のろのろと歩き、電器屋に差し掛かったところで、そこに飾られている冷蔵庫の名前がパッと目に入って見ている、という景を想像していた。
 しかし本当は「夜の駅に」であった。そうなると、駅に向かって溶けるように降りて行っているため、もしかしたら坂の上など位置的に上の場所から駅に向かって降りていき、駅にどろどろと入り込んで、そこで冷蔵庫の名前を見ていることになりそうである。そうなると、この冷蔵庫の名前はどこで見かけたことになるのだろう。駅の宣伝ポスターにあったのか、電車に乗りながらスマホなどで冷蔵庫を調べて名前をぼんやりと見ているのか。いずれにしても、名前に気になっている点は不思議な主体である。ひとえに自分の誤読のせいだが、急に場所が分からなくなってくる。頭の中で主体が溶けるように脳内を彷徨している。

 主体はどこで(何で)、なぜ「二十世紀の冷蔵庫の名前」を見ているのか、そしてどう思ったのか、これからどこへ向かうのか、冷蔵庫の名を見て思ったことはその後の主体の歩みにどう影響していくのか。語と韻律と世界が冷たく、そして長く光る一首である。

記︰丸田

雪中にふる雪満開とぞ言はむ 平畑静塔

所収:『平畑静塔全句集』(沖積舎 1998)

言いたいと抑制している。言葉は秘められ、体内で熱せられる。音は雪のなかに消え、自分と雪以外の気配もまた消えていく。雪との静かな対峙、まなざしに慈愛が宿り、自然との温かな交流が生まれる。雪は降りつづいているが、いまが満開でいつか止み、そして溶けてしまう。老人が若者を眺め、若き日を懐かしみ、自らの終わりを予感するような、諦念。自然への肯定、生滅への肯定が確かにここにはある。

記 平野

みづうみに鰲を釣るゆめ秋昼寝 森澄雄

所収:『鯉素』永田書房 1975

岩井英雅が『森澄雄の百句』の中で掲句を紐解いているのだけれどもこれが中々森澄雄らしいエピソードを引いていて面白い。

盆休みの八月、澄雄は四泊五日の旅をし、伊吹山に登った翌日に琵琶湖に浮かぶ多景島に渡った。生駒山地の南部にある信貴山へ登ったのは五日目。おみくじを引くのが好きな澄雄が朝護孫氏寺でひくと、五言絶句が記されていて、結句の「重ネテ鰲ヲ釣ル釣を整フ」が豪気で大変気に入ったという。鰲は想像上の大海亀。

白状すると先ほど森澄雄らしいエピソードと言ったのは「おみくじを引くのが好き」というところで、こういう言ってしまえば仕様もない俗っぽさを進んで引き受ける人間臭さに、どうしようもないよろしさと、鑑賞文をそういう消費の仕方で興じてしまう自分のはしたなさを思うわけだが、掲句には直接の関係はない。

さて、岩井が述べるように鰲(ごう)というのは想像上の大海亀であるようだ。てっきり適当な小魚と解して素通りしていたのだか、大亀となるとかなり句としてはやや大味な句になる。鰲というのは例えば龍宮神話で浦島を連れてゆく亀を鰲と呼んだりもするし、あるいは『金鰲』という小説が朝鮮最初の小説として李朝時代に金時習によって書かれていたりするようなのだが、いずれにせよ表象として鰲というのは空想の動物であり、であるからこそ夢の中でしか成立しないのだ。

とはいえ、掲句は夢オチなどといった愚劣な語りの形式と一緒にしてはいけない。掲句がそういった足の早い一発芸と根本から異なるのは、夢を見ることそれ自体はうつつの営みであり、脳の束の間の遊戯が生活の中に組み込まれているものであることを秋昼寝という淡さが担保しているからである。生活に根差しているという感覚を措辞がしかと持っており、だからこそ夢であってもそれは生活の中のものなのだ。それは森澄雄というコンテクストがあるからなのかもしれないが、だからなんだというのだろう。亀は釣れるものなのだろうか、亀を釣る為の釣り針というのはどういうものなのか、如何なる強度をもつ釣竿で釣り上げるのだろうか、そういう疑問を淡くぼんやりとした身体感覚で包み込む季題が「秋昼寝」である。湖の水面もどことなく澄んでいる感じがしてくる。

記:柳元

馬肥えぬ叩きめぐりて二三人 橋本鶏二

所収:『ホトトギス雑詠選集 秋』(朝日新聞社 1987)

大木を叩くように打ちつけた手のひらをはねっ返すその胴体はよく肥え引き締まり、外見からして力が漲っているのが分かる。今日、11月1日、アーモンドアイが芝のGⅠレース最多となる八勝目をあげ、過去の名馬たちの記録を乗り越えた。といっても競馬は血のスポーツであり、過去の名馬の血は脈々とアーモンドアイにも流れこんでいる。ポッと出の天才が地図を大きく塗り替えたというより、血の改良によって、なるべくして記録は塗り替えられたと言えるだろう。今年の競馬界いえば、牝馬三冠と牡馬三冠がはじめて同年度に達せられ、いずれも無敗という運・実力の強さ。ゴール板を一番に駆け抜けて、騎手は馬の首を二度、三度と叩く。ウイナーズサークルでは馬主や調教師も思い思いに、背や尻をなでる、叩く、触れる。それは労うようであり称えるようであり喜びを伝え分かち合うようであり、馬と人の交流は今も昔も変わらず肌と肌によってなされる。

記 平野

こうやって暖炉の角に肘をつき 岡野泰輔

所収:『俳コレ』 邑書林 2011

笑える1句。ただ、笑える句といってもこの句は奇妙だ。

〈 芝居じみた枯葉の拾いかただよ君 〉池田澄子『拝復』という句があるが、この句はおかしみのある光景をそういうものとして見ている人間が作品の中に存在している。
一方掲句はおかしみのある光景が書き込まれているのみで、それを直接読者が見ることになる。勿論、このパターンが特に珍しいわけではない。

この句が奇妙なのは、暖炉というシチュエーションも相まって気取っているように見える動作をしている主体が、「こうやって」、と自身の気取ってみえる動作に自覚的であることにある。
この句の主体の生み出すおかしみにその主体が意識的であることに私は混乱させられる。前者の情報だけなら素直にクスリと笑えるはずなだが、この句はそうはさせてくれない。さきほど池田澄子の句を引いたが、あの句があくまで「芝居じみた」であるのに対し、掲句は意識的に動作が行われている点でまさに「芝居」的であるように思える。日常のおもしろいワンシーンでなく、芝居のおもしろいワンシーン、そのように受け取るべき句なのかもしれない。

記:吉川

どうしても君に会いたい昼下がりしゃがんでわれの影ぶっ叩く 花山周子

所収:『風とマルス』青磁社 2014

 花山周子の歌を読むと、ひねる、ひねらない、ということを特に考えさせられる。いくつか引いてみると、(以下引用はすべて同歌集)

  歯磨きはもう飽きたからやめようか、というふうにいかない人の営み
  きみの声がさいしょっから好きだった池に浮かんだアヒルのようで

 ひねることで、前半の映像や情報が強引に更新されていく。特に「というふうにいかない」の繋ぎ方は露骨なひねり方である。ふつうの、ノーマルに見かける短歌だと、それが「切れ」に合って、異なる二つの映像の重なり方を面白がるものが多い。

 ひねる、という表現があっていないような気もするが、花山周子の歌はどこか素直ではない落とし方をしている。「池に浮かんだアヒル」とは褒めているのかどうか危ういところで、ダメそうなところを好きと思ったのか、そもそも本心からアヒルが好きで、だから好きと思ったのか分からない。(「池に浮かんだ」の言い方は完全にナメているというか、面白がる気持ちがあるように思われる)切れ、を持ってくるのであれば、君の声が好きということと、池に浮かんでいるアヒルの映像を別々で繋げることになる。これが「のようで」の倒置と「さいしょっから」という措辞によって、ひねりが生まれている。「きみの声がさいしょっから好きだった」というふつうの(普通、というと語弊があるのかもしれないが)恋愛的な歌と思わせておいて、後半で変える、その「思わせておいて」の部分が読みどころなのではないかと思う。「というふうにいかない」の繋ぎ方も、「歯磨きは飽きたとしてもやめられない」のようなスムーズな言い方を拒否して、敢えて少し驚くような(またはふつうの表現が来ると予想される)表現を見せておいてのもので、「思わせておいたよ」というアピールなのだと捉えられる。

 この、ただの逸脱ではない、ふつうの振りをしておく、という部分が、花山周子の短歌の読みどころであるように思うし、ときに文語や旧かなを使うのもそういう役割を担っているように考えられる。

〈どうしても君に会いたい〉の歌は、そうして考えると、前半はふつうの歌っぽい表現である。(「昼下がり」という状況のわざとらしい付け加え方も、私としては回転する前のスケート選手の助走に見える)そして後半、「しゃがんでわれの影ぶっ叩く」。叩いたとして会えるわけでもないことを分かっていながら、本当に殴っているような描写。ふつうなら「会いたい」からする行為ではない。電話をかけるとか、「君」のことを想像するとか色々ある中で、「われの影ぶっ叩く」。「しゃがんで」という謎に細かい映像の作り方も面白い。まさか、通りがかりで見かけた、道でしゃがんで地面を叩いている人が、ほかの人に会いたがっているとは思うまい。

 人に会いたい主体がいてもたってもいられないという、長い助走のあとで、奇妙な回転を見せられる。共感という尺度では測りきれない、「ひねり」の先の面白さが、しずかにさり気なく光っている歌である。

記︰丸田

まるめろの実に量感を与える灯 藤田哲史

所収:「俳句」10月号 精鋭10句競詠「量感」より

マルメロはイラン・トルキスタン辺りの中央亜細亜原産、洋梨の形で花梨よりもやや小振りの淡い黄橙の色合いをしている。短い和毛が全体を覆い、柔らかな明るさが輪郭をかたどる美しい果実である。

『ミツバチのささやき』で知られるビクトル・エリセにも『マルメロの陽光』という映画があり、これはマルメロを題材にする写実画家を追うドキュメンタリー仕立てのフィルムだ。

そのためかマロメロと絵画はイメジがやや昵懇である。絵画とは究極に言えば光の具合なのであるから、藤田氏が把握するところの「灯が量感を与える」という理も割合素直に呑める。色調や姿形は光ありきなのであって、光届かぬところでは全ては暗がりの中、輪郭線も現れぬまま、物質は潜在的な微睡の中に、可能性としてのみ留め置かれる。ものは形なく、むなしく、神の霊が水の面を覆う。ここでわれわれは神が発したという「光あれ」という単純な語句を思い出しても良いわけだが、光があったことで、「闇」としか名付けられることのなかった暗がりにこそ思いを致したいところだ。

灯があてられることでまるめろの窪みの中には行き場を失った闇が棲みつく。藤田氏が言うのは光の中にその闇を含み込めての「量感」なのである。まるめろは滑らかでなくある程度の凹凸があるからこそ愛されているというのはそういう意味においてである。

記:柳元

回転ドアの中でマスクを外して入る 池田澄子

所収:『拝復』ふらんす堂 2011

575のリズムに当てはめて読もうとすると〈回転ドアの/中でマスクを/外して入る〉の776となる。575に慣れている身からする違和感があるし、もたもたとした感じの印象を受ける。また、同じ字余りでも最後の下5が下7となっている句よりも、下6はおさまりの悪い印象が私としては強い。
それでは、この句を例えば「回転ドア押しつつマスク外しけり」としたところでそちらの方がいい句か、と言えばそんなことはない。

この句のリズムの気持ち悪く間延びした感じ、もたもたとした言葉の連なりが回転ドアを通過するという特殊な時空の感じに繋がる気がしている。
目的地は正面にあり、まっすぐに進めばいい筈なのに、弧を描いて遠回りさせられているような気がしてくるあの構造、そこを通る時に間延びする時間。

回転ドアを通過する時間はそんな妙な長い時間でありながら、マスクを外すのにかかる時間と同じぐらい短い時間でもある。

回転ドアを通過する光景にマスクを外す動作を合わせることで、内容は何気ない。けれど句の奇妙なリズムがその何気なさから独特の感覚を引き出している。

記:吉川