頭の中の雪のつもりぬ片隅に青磁の壺とグローブがある 森岡貞香

所収:『白蛾』短歌新聞社 1997(底本:『白蛾』第二書房 1953)

 以下、頭の中で雪が積もった話である。

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 頭の中では何が起きるかわからない。ときにサーカスのようにアクロバティックで、ときに石のように整然としていることもある。それ自体は魅力的なことでも、短歌(に限らず文章全般)で「頭の中」と言うのには、いくつかの困難が付きまとう。
 例えば今から怖い話を聞くというときに、「さっき思いついた話なんですけどね……」と言って話しはじめられると、怖がれなくなってしまう。お化けや幽霊がいたわけではなく、相手の単なる想像話と思い、一気に気が緩んでしまう。別にさっき思いついた話だとしても本当は良いはずなのに。(「友人の〇〇から聞いたんですが……」という怖い話の前振りはだいたい嘘を嘘っぽくなく言うための言い回しだし、ホラー映画もだいたいは創作。)ただ、怖がる時には、その人の話が(嘘だとしても)本当っぽいことが大切で、嘘であると明示されているなら、分かっていても怖がれるくらい怖いものを求めてしまう。
 これが短歌でも起きる。俳句や短歌では現実・感情ベースなため、「頭の中」と先に言われると、「そうですか」と一歩引いてしまう読者が出てくる。頭の中なら何が起こってもいいのだから簡単だ、本当に見たもの、感じたものこそが肝心なんだという風に。それに、怪談と同様に、創作だとしてもそれを作品内で言わなくていいじゃないかという意見も考えられる。「頭の中」に自然発生的に、自身は意図せず景色が生まれているとしても、その頭はあなたの頭なのだから、どうしてもそこに操作(傀儡の糸のような)が見えてしまって乗れない……。

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 ところで森岡の掲歌について、私が最初に読んだときに思ったことを順に記す。上から読んでいって、「頭の中の」で、「頭の中」と言ってしまったら損することもあるのに、それを言ってしまうなんてよほど面白いことがあったんだろう、それか、言わないではいられない(実際に外で見ましたよ、という風な変更は自身に許さない)誠実な方なのかな、と思った。次に「雪」が登場し、「片隅に」の指示があって、「青磁の壺」と「グローブ」が出てくる。脳内特有の、順番の唐突さが面白く、同時に、(歌として面白くなるものを持ってきているのだろうと予想されるので、)「青磁の壺」と「グローブ」のぶつけ方と、「雪」と「青磁」(とわざわざ壺に修飾させられた情報)の色の混ぜ方に、センスが見られるなと思った。そして最後に「がある」。「頭の中に」と始まって「がある」で終える。さっぱりしているようでなんとも力強い、濃い(ビビッドな?)表現だなあと思い、なんとなくメモしておいた。
 それからしばらく経って、花山周子『風とマルス』を読んでいると、次のような歌に出逢った。

しずかなる机の前にいたりけり頭の中をからすが飛べり/花山周子(『風とマルス』2014)

 静かな机の前に主体がいて、頭の中をからすが飛んでいる。心地よい静かな歌。瞑想にも近い、頭の中の光景が述べられている。これは、言葉がシンプルで丁寧に選ばれているからなのか、そうなんですね~だけでは終わらない静かさの気持ちよさがある。「しずかなる机」という表現から、その前にいる主体も静かに見えてくるし、「からす」の飛翔だけが聞こえてくる。主体も空間も静けさを通して一体となっているような感覚。頭の中の空と、机の向こうにある本当の空が一致しているようにまで感じ、外でもからすが同時に飛んでいるんじゃないかとまで思った。机の上に窓があったなら、その窓は確実に空いているような。

 「頭の中」と作中で言う歌は他にもたくさんあるが、そのとき偶然森岡の歌を思い出して、もう一度歌集を開いて確認した。

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 花山の〈しずかなる〉ではもっと現実と頭の中の光景を繋げてその響き合いを楽しんでいたが、それとは違う……と、思ったときに、最初に読んでいた時はそこまで強くは意識していなかった、「頭の中の」の、二回目の「の」に目が行った。
 最初に読んだとき、なんとなく脳内の話という把握だけして、あとは文字上、言語としてのセンスを見ていた。よくよく考えれば、〈しずかなる〉と同じ読み方をしていた。というのは、頭の中の雪と、「青磁の壺」・「グローブ」がまったくの別の場所にある、と読んでいた。「片隅に」が現実への視点移動を担っていて、頭の中では雪が積もるという美しいことがあったが、現実の部屋の片隅には~という歌だと。
 もしそうだったら、自分なら「頭の中に」と書くだろう、二回目にして思った。部屋の片隅に在る物体と、脳内の齟齬・すれ違い方を見せたいから、「頭の中に」とした方が、よりそのすれ違いが鮮明であるし、「に」の方が、より頭の中に雪が積もったんだぞ!という実感が強く出てくる。接地面としての脳内も魅せられる。
 しかしここで「に」ではなく「の」だということは、すらすらと繋がって、上から下まで同じこと、つまり一首通じて終始頭の中の話をしているのだと分かった。雪が積もっているその片隅に、壺とグローブがある。

 そうすると、このとき謎になってくるのが、青磁の壺とグローブは、どうして確認できたか、ということである。そこにその二つがあることを知っていて、そこに雪が積もった、のを逆から言っているのかとも思ったが、それだとどうも「片隅に」が引っかかる。「その中に」なら理解できる。「片隅に」というのは、確実にそこだ、と場所を指さしているような言い方で、そこに二つが実際に(脳内の話だが)見えているような言い方だと思う。
 そう考えると、雪が積もった後、「その上に」壺とグローブが「ある」のではないか。雪に積もられてしまっては見えなくなるし、もし半分くらい積もって半分くらい姿が見えているのだとすれば、グローブなので、「つもりぬ」と言えるほど積もっていないことになる。
 とすると、雪が積もった後、二つは突然に、雪の上に、出現したことになる。それが上から置かれるようになのか、下からせりあがってくるのか、自然に在ることになったのかは分からない。が、雪もそこまでかかっていないような姿で、二つのものがあることになる。(私が好きな推理小説で、一面の雪の上に、足跡の一つもなく血で染まった死体があるシーンがあったが、それを思い出す。)

 そこがこの歌の読みどころなんだ!と閃いて、少し感動していた。普通の現実の光景との交わりのようにも見せながら、助詞や順番(雪→物)にこだわって細部まで操り、頭の中の美しい光景をしっかり頭の中っぽく描いている。頭の中だからこその順番、出現の仕方が自然すぎて、傀儡の糸は完璧に透明だった……。

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 と読んでみて、ふつうに、これは歌の良さと言うより、自分が勝手に翻弄されたように迷って得たものであり、自分の読みの力不足でしかないなあと思いつつ、この鑑賞記事を書いていると、急にはっとして、「ぬ」に目が行った。助動詞「ぬ」はおそらく完了の意味である……。そして、「ぬ」の終止形は「ぬ」、連体形は「ぬる」である……。
 つまり、この歌は「つもりぬ」で一回切れて、「片隅に」で現実の光景に戻っている。頭の中の雪の映像から、現実の生活感ある青磁の壺やグローブに引き戻される強引な力が読みどころだったのだろう。ずっと「雪のつもりぬ/片隅に」を口語で言うところの「雪が積もった片隅に、」と読んでいた。

 さんざん読み迷ったなあと思いながら、他の方が書かれている森岡の鑑賞の記事を調べて見ていると、阿波野巧也さんのnoteの記事(「歌集を読む・その9」2016年7月26日、2020年6月17日閲覧)にて、〈一團(ひとかたまり)飛びきたりたる水鳥の影が先きになりみづとまじれり〉(『百乳文』)について、「しかし、「飛びきたりたる」って文法はどうなっているんだろう。森岡貞香はそのへん怪しい歌がたまにありますね。」と指摘しているのを発見した。たしかに助動詞「たり」が重複している。
 私もよくよく森岡の歌を確認しなければならないが、そういう節があるのだとすれば、可能性として「ぬ」を連体として使っていることも考えられる。

 とすると、どちらにも読むことができて、どちらがいいだろうと悩む。個人的にはずっと頭の中の話の方が、雪との順番が面白いと思うが、おそらく切れを作って、現実への切り替えにした方が、壺やグローブの生活感が出ていいだろう。
 右往左往考えているうちに、頭の中に、雪が降りはじめ、いつの間にか積もっている。どこにあるべきか自分の中で定まらなくなってしまった青磁の壺とグローブが、サーカスのように空中に浮かんだままになっている。

追記︰後半の、「つもりぬ」の「ぬ」が終止形で軽く切れているとしても、それは少し時間を開けている程度で、「片隅に」でたちまち現実に引き戻されるわけでもなく、積もった雪の上の片隅を差している、とも読めるので、文中ではかなり雑に判断してしまっています。その他にも根拠の足らないまま判断している部分があるので、読みの力を更に付けていつか再挑戦をと思っています。

記:丸田

雪癖や獄窓めけるひとつ窓 草間時彦

所収:『中年』竹頭社 1965

雪癖とはなんのか、一旦降り出したらそのまま翌る日も降り続けるようになる事を癖と表現したのか、それとも窓からなんの気なしに降る雪を見てしまう事を癖と言ったのか。よく分からないけれど、確かに雪は癖である。それにしても獄窓には窓がある。外を意識させた方が酷になるのか、それともまったく外が見えない方が酷なのか、多分後者なのだろう。狂気を飼い慣らすためには、窓が必要なのだろう。外を眺めながら、もの思いに耽る時間が安定をもたらすのだろう。人間にも口が一つあって、そこから何かを喋ったりするのだから。

                                    記:平野

人の死や西瓜の皮を鯉つつく 小澤實 

所収:『砧』1986年 牧羊社

後藤比奈夫氏、伊藤敬子氏、鍵和田ゆう子氏と訃報が続くと、さすがに21歳といえども死というものがそこそこ身近に感じられる。若いくせに何をと言う声に関しては、それは確かに俳句の世界の先輩方諸氏に比べれば、老いや死というものに対して何も差し迫って考えていないのは事実であって、それはその通りではある。

がそれでも、例えば田中裕明のことを調べていたりするときに、ふと思うのはそういうこと、つまり死の問題なのであって、その作家の句業が死というものによって断然し、それ以後その作家が一句も発表しなくなる、というのは悲しいというよりも不思議な気持ちになる。

それはあまりにも理不尽なことのように感じるけれど、それがまるで運命であるかのように死へその人自身の句業を収斂させていったように思われてならない田中裕明のような作家の場合は、その理不尽さすらどうも思われない。そういう物語に乗ることは、ぼくにはどうにも不誠実だと思われるけれど、いざ自分が死というものに直面しなければならなくなったときに、では物語を拒むことが出来るのだろうか。

memento mori、死というものが逆説的ではあるが生の哲学のスタートとなるように、死というものは人に思考を促す。掲句、人の死を思いつつ、主体は西瓜の皮をつつく鯉をぼんやりと見る。誰が池に西瓜の皮を捨てたのかはわからぬ。あるいは自分が捨てたものなのかもしれない。西瓜の皮は小舟のように水面に浮かぶ。鯉がつつくたびにゆらゆらと揺れる。その様子は、自分がこの世でふらふらと漂いながら生きている様子に重ね合わされているのかもしれない。やがて沈むであろう西瓜の皮を見ながら、物思いにふける。肌の汗が引いたことに涼しくなったことを思えば、もう暮れどきである。

記:柳元

遠く見る 吉川創揮

 遠く見る   吉川創揮

云ふ間にも夕立の粒見えてきし

十薬は遠のくやうな明け方に

押入の二階に兄や梅雨に入る

更衣マンション群といふ反射

アイスコーヒー氷を離れてゆく水

手の中に消えゆく氷のざらつき

向日葵や手すりに顎をのせてゐる

よこながに夏晴れてゐる鉄路かな

目を瞑るこはさを泳ぎ続きけり

蛾の軌跡縺れながらにうすあかり

白扇のゆゑの翳りを広げたり 上田五千石

所収:『琥珀』角川書店 1992

 述べるところはシンプルで、扇の白い紙の折り目(という表現は適切だろうか?)の山と谷のなす影に着目している。薄い翳りに着目した後に「広げたり」と扇全体をイメージさせる語で1句を締めることで、扇の白さやそこから連想される涼しさが引き立つ1句。
 上田五千石は「眼前直覚」という理論を唱えた。この思想の初期では、外を歩き目の前のものを書くことを主眼においていたが後に、心を空にして自身も一体化するかのように物事を見ることが大事だというように変わった。「これ以上澄みなば水の傷つかむ」などはまさに自身の感覚が反映された1句であろう。
 掲句は、「眼前直覚」の思想が成熟した後の句でありながら、「ゆゑ」など直接的な語を用いて眼前のものをただ詠む初期に近い句風と言える。

参考:『上田五千五句私論』松尾隆信著 東京四季出版 2017

記:吉川

朝顔にありがとうを云う朝であった。 大本義幸

所収:『硝子器に春の影みち』沖積舎 2008

 当書には〈八月の広島に入る。声を冷やして、ね〉、〈海をてらす雷よくるしめ少年はいつもそう〉など自由律作品に佳句が見られる。攝津幸彦と比べて読むと多くの共通点があり、そこから拡げて読む分析はまたいつかするとして、今回は、掲句は何に「ありがとう」と言っているのかということについて、水と樹と人の関係から考えていきたい。(以下引用はすべて『硝子器に春の影みち』より)

①水・樹・人の連関

 樹と水と人、この三つが関わっている句が、大本には頻出している。

  そは父か背後で水がゆれている
  寒の雨くらき臍へとあつまりぬ

 水の気配がしている。背後の水、臍にあつまる雨。次のような句では、わたし自身に直接水を繋げている。

  河の名もわが名も消えていつかのどこか
  水の流れがどこかで消えるわが生も
  わたくしとは雨に濡れた三和土である

 名や流れが共に消えることから、人生を水流に映し見ていることが分かる。これ自体は変わった発想ではないが、どちらも「どこか」と分からない未来について場所で暈かしている点は気になる箇所である。三句目の「雨に濡れた三和土」は、後に挙げる人と樹の関係にもつながってくるが、雨に濡れ、雨が染みこんだ三和土のその状態に自身を重ね見ている。血管や水分をその中に巡らせている身体をそこに見たのだろう。

  鐘が鳴ったら降りてゆけ星は泥へ水は樹を
  樹を見ていた水の流れを見るように

 水は樹との連関を以て何度も描かれる。「水は樹を」降りてゆく。この「を」によって、樹の中を脈々と降りて行こうとする水が見えてくる。表面に伝うのではなく、内部を進行しているような。「水の流れを見るように」樹を見る。水の流れを見るということは、その動いているものを視線は追っている。樹はただ立っているだけであるから、本来は視線が動くことはそれほどないだろう。つまり、「ように」とは言いつつ、本当に樹の中の水を追っているのではないだろうか(ぼーっと見ているようにも考えれるが、それなら「川を見るように」などで良い。わざわざ「流れ」が出されていることから、視線の動きを感じる)。
 水に人を重ねみて、樹に水を感じる。そして当然の流れで、人と樹を水を通じて繋げて見る。

  樹と竝てば肋骨に水が流れているね。
  水の衣を脱ぐと樹になるのだとあなたは。
 ときに群衆のなか樹を胎す娘たち

 肋骨(あばら)に水が流れている。先ほどは「水の流れを見るように」樹を見ていた。樹と並び立つことで、樹の水の流れと、自身の身体の中の肋骨で水が流れているのを感じる。樹と自分が、水を通じて相似になっている感覚。この水が無ければ、「樹になるのだ」とあなたは言うが、むしろ水があることで樹になれるのだと言っているのではないか。三句目では「樹を胎す娘」と、樹と人間を過度に同化させている。

 これらの句の表現から分かるのは、何かと何かの共通点から、それらを繋げようとする視線が強いことである。樹と人は、水を介してそれが行われた。これは結局、比喩、ということではあるが、「繋げる」という意識が特に強いように思う。(たとえば「彼は花のように美しい」と言ったとして、「美しい」を共通点として美しい彼と美しい花が同じ台に上げられる。しかしこれは彼=花を推し進めるものではない……)

②透視

 共通点から繋げる、という表現は、その共通点を見つけるところから出発する。これは、透視そのものであると思う。

  樹のこえ葉のこえアスファルトに屈めば親し
  とはいえふきあれる樹の土に屈むも

 樹を透視しようとして屈んでいる様子、というふうに思える。

  蘭の店過ぎるとき君の肋骨透く
  水仙の咲く岬、そして畦・畝・産道

 「肋骨透く」。この句だけを見ると何を言っているのかという感じだが、蘭を見て、よく見て、そして君を見たとき、そこに「肋骨」が透けて見えた。ぴたりと、重なったのだろう。「水仙の咲く岬」、ここまでは良いが、「畦・畝・産道」と展開が著しい。通過する道や場所であることが共通点となり、岬から畦や畝に繋がっている。「産道」が急に飛んでいるが、これは水仙という花が影響したのは一目瞭然である。先ほどの樹にも似て、水のイメージが、岬から産道まで屈折させた。

 この透視する主体や視線が、大本に頻出の単語「硝子器」に結びついたのだと私は考えている。

  硝子器に春の影さすような人
  生き急ぐ、硝子器に 風は充ちてよ

 タイトルにも取られた句である。透けて何かを繋げるということそのものが形になったような硝子器。邪魔なものがなく、そのまま繋がり合うのを支える様な物体。〈硝子器に〉について大本はあとがきで「けっして不幸ではないのだが、背筋がぞくぞくとする春のしずかな昼と、いまのこころの状態がよくよく似ているのでこの題をつけた」とある。「影さすような人」が案外アクロバティックな表現だと思われるが、今までの透視を思うと、スムーズに理解できる。

③「ありがとう」の対象

 ここにきてようやく、挙げた句に触れる。

  朝顔にありがとうを云う朝であった。

 朝顔の存在をまるっと飲み込んで、その小さな存在にありがとうと言っている可愛い素敵な朝、というふうに初めは読んだ。それは今もそこまで変わってはいるわけではないが、①、②のことを考えると、どうも朝顔を通して、それ以外のものにも言っているような気持がする。

 最終章である「五章 拾遺・硝子器に春の影みち」において、急に「地球」という語が何度か姿を見せる。

  ある日ふっと”地球”と呼びたし水の星  (「地球」に「テラ」とルビ)
  包とは愛、あいで青き地球をつつめ   (「包」に「パオ」とルビ)

 かなり強くはっきりと表現している句である。ここで地球は「水の星」「青き地球」と表現されている。そしてなんとなく愛すべき存在として描かれている。
 朝顔は、紫やピンクと色があるが、青色もある。そして②に挙げた蘭や水仙の句、ほかに〈人体に冬の桜も来ていたり〉のような句から、花と人との連関も見られ、これは①のように、水を介していたりする。

 ここから、朝顔からその中の水、そしてそこから地球に繋がっているのではないか、と考えている。(若干無理があるようにも思われるし、そんなことは書かれていないし、そう読むのがこの句にとっていい読みであるかどうか考えるとそれほどでもないのかもしれないが、句集を総合するとその視線が窺える)

  ハロー 夜。ハロー 静かな霜柱。ハロー カップヌードルの海老たち。/穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』2001

 突然だが、穂村弘の一首を引く。この歌では、「ハロー」という挨拶が、「夜」から始まり、「カップヌードルの海老」まで到達している。大きなものから小さなものへと。これは、いい意味で、というか、露骨に嘘っぽい。それらを発見して、「ハロー」と本当に言うか(思うか)。海老はまだしも、「夜」に、こんなにもけなげに「ハロー」と言うか。夜に対しての「ハロー」(朝にするはずの挨拶)という面白さと、ささやかな発見と、嘘っぽくも明るい主体、が同居したおしゃれな歌である。(一時期日清カップヌードルのCMに、『AKIRA』の大友克洋の絵に宇多田ヒカルの曲が流れるというものがあったが、あんなふうに……)

 この、底なしに明るいような、全世界への挨拶、的な感覚が、朝顔への「ありがとう」ではないだろうか。朝顔に水を見て、地球を透視し、朝顔を通して水の世界へ感謝をする。そしてそれらは、その視線のなかで繋げられていくため(①参照)、自分の人生についても、ありがとうと言っているように感じられる。生きてきたことへの大きい肯定や、人生を行えた場への感謝。もしかしたら、朝顔に自身を重ねて、自分自身へ(人生の長い時間を含め、)言っているのかもしれない。「ありがとうを」の、「と」ではなく「を」である点も、ただ言っているだけでなく、とにかく私はこれが伝えたいのだという強い意識を感じ、朝顔の向こうを濃く感じさせる。
 何への「ありがとう」なのか、その読みの一つとして、地球やこの世界への開けた感謝を挙げておきたい。

補足:掲句は拾遺の章に入っているが、これより前に〈朝顔にありがとうを云う朝もあった〉の形で記載されている。「も」が「で」になり、句読点が追加されている。一回きりの場面になること、その場面に集中すること(「も」だと他の朝が普通で、こうなるのはまれだ、ということになる)、「。」でしみじみとその朝が余韻をもって広がっていくことから、私は圧倒的に改変後が好みである。

記:丸田

ひきだしに剃刀くもる旱り星 飴山實

所収:『少長集』(自然社 1971)

勝手にジュブナイル精神の句として、他の句と頭のなかでまとめている、つまり「十五の夜」である。十五歳はひきだしに物を隠したりする。親きょうだいに見られたくない物を学習机のひきだしに入れて、ときおり取りだして眺めたりする。隠した物はなにか、掲句では剃刀である。なんとも不気味だ、そして曇っている。十五の心の陰影をうつしたかのようにくもり、剃刀はひきだしの暗闇で佇んでいる。

なんといっても極めつけは旱り星だろう。この季語の斡旋は十五の焦燥感を引き出しているように思う。天にぽつりと赤い星がある。炎天つづきで渇ききったそれは、十五の心のように孤独かもしれない。赤い星は動かずにじっと僕を見ているかもしれない。引き寄せられていく心、ちょっとの震動で崩れそうになる心。

ところで、飴山實は社会性俳句の中心であった「風」に所属したのち、五年間の中断を経て、ふたたび作句をはじめる。そのとき芝不器男の句に触発された事は、よく知られているだろう。その芝不器男には「研ぎ上げて干す鉞や雪解宿」の句がある。これは心理の危うさで一脈通じていそうだ。また、飴山實に私淑した長谷川櫂には「研ぎあげて包丁黒し秋の空」がある。刃物はよく切れる。

                                    記 平野

かの世より飛び来たる矢にいなびかり 野見山朱鳥

所収:『野見山朱鳥全句集』内『愁絶』より 1971 牧羊社

思うことに、かの世より飛び来たる矢というのは果たして幻ではない。否、それは間違いなく幻ではあろう。かの世より矢など飛び来るはずもない。それはどんな矢であろうと、うつつの世で質量を伴うはずはないのである。飛びざまこそ美しくとも所詮幻想の矢に過ぎぬ。いなびかりと幾ら重ね合わせようともそれは幻であって、朱鳥が言語遊戯的に見出した修辞に過ぎない。

しかしそれは朱鳥も承知のこと。朱鳥が筆をとり一句をしたためるとき、虚構がリアリティを帯びる。矢は美しく枝分かれしつ放物線を描き、地上を轟かす。風を鳴らし立てながらわたくしの眼前を通っていく。いなびかりが矢を一瞬光の照らすところとする。いやいなびかりそのものが矢なのだ。照らすのもいなびかり、照らされるのもいなびかり。あらわになる幻の矢の影かたち。そしてそのとき、矢が風を切る音をぼくたちは確かに聞くだろう。虚構のなかのリアリティというものに近代俳句が名を付けたところが写生であったということをぼくらは思い出さねばならない。

果たして朱鳥は写生の作家だったのだろうか。上記の理由でなら、ぼくはそれを首肯したい。それは朱鳥の生涯と決して未分化ではない。戦後俳壇に彗星のごとく現れ、虚子をして「茅舎を失ひ今は朱鳥を得た」と言わしめた書き手でありながら、病床に伏し、空想の中で激烈な句を記した。そういう人物像に鑑みたとき、ぼくは写生という言葉が似合う俳人はむしろ高浜虚子より、高野素十より、同時代の波多野爽波より、野見山朱鳥だと思う、というのは言い過ぎだろうか。

記:柳元

亜麻色の燦 丸田洋渡

 亜麻色の燦  丸田洋渡

空に棹さして四千の演奏

うっとりと虹の骨子を呑みこむとき

萍をすべらせ川の正しい地図

流しそうめん場の小さな滝と洞窟

しずかな日のしずかな殺人水芭蕉

雨、雨、縫合の亜麻色のさなかに

羽のあるゆたかな舞踏草いちご

花潜ひかりの網にかかりつつ

浮上 いちめんにすずしくて合図は

繭こわれ渦のかたちにやまない燦

 *萍(うきくさ)、燦(さん)

小鳥来て湖に雨続きけり 阪西敦子

所収:『俳コレ』邑書林 2011

 「小鳥来る」は秋の季語。さっぱりとした読後感のある1句。
 「小鳥来る」は字面や、歳時記で引けば『白髪の乾く早さよ小鳥来る』(飯島晴子)などがでることから分かるように、日差しの明るさなどをイメージさせる季語であり、それに「雨」を配したことに意外性がある。
 句の内容はシンプルで静けさに満ちていて、静物画を見ている気分になる。が、小鳥という小さなモチーフから、「湖」(場所)、「雨」(空間)、「続きけり」(時間)、と語を順に連ねることで、どんどんとイメージを広げていく句の構成は非常にダイナミック。

記:吉川