人の死や西瓜の皮を鯉つつく 小澤實 

所収:『砧』1986年 牧羊社

後藤比奈夫氏、伊藤敬子氏、鍵和田ゆう子氏と訃報が続くと、さすがに21歳といえども死というものがそこそこ身近に感じられる。若いくせに何をと言う声に関しては、それは確かに俳句の世界の先輩方諸氏に比べれば、老いや死というものに対して何も差し迫って考えていないのは事実であって、それはその通りではある。

がそれでも、例えば田中裕明のことを調べていたりするときに、ふと思うのはそういうこと、つまり死の問題なのであって、その作家の句業が死というものによって断然し、それ以後その作家が一句も発表しなくなる、というのは悲しいというよりも不思議な気持ちになる。

それはあまりにも理不尽なことのように感じるけれど、それがまるで運命であるかのように死へその人自身の句業を収斂させていったように思われてならない田中裕明のような作家の場合は、その理不尽さすらどうも思われない。そういう物語に乗ることは、ぼくにはどうにも不誠実だと思われるけれど、いざ自分が死というものに直面しなければならなくなったときに、では物語を拒むことが出来るのだろうか。

memento mori、死というものが逆説的ではあるが生の哲学のスタートとなるように、死というものは人に思考を促す。掲句、人の死を思いつつ、主体は西瓜の皮をつつく鯉をぼんやりと見る。誰が池に西瓜の皮を捨てたのかはわからぬ。あるいは自分が捨てたものなのかもしれない。西瓜の皮は小舟のように水面に浮かぶ。鯉がつつくたびにゆらゆらと揺れる。その様子は、自分がこの世でふらふらと漂いながら生きている様子に重ね合わされているのかもしれない。やがて沈むであろう西瓜の皮を見ながら、物思いにふける。肌の汗が引いたことに涼しくなったことを思えば、もう暮れどきである。

記:柳元

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