日本脫出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも 塚本邦雄

所収:「塚本邦雄全歌集 文庫版 第1巻」2018、短歌研究文庫(初出は『日本人靈歌』1958、四季出版)

もう直截的に入るが、近ごろこの歌をなんべん唱えたかわからぬ。すべてが馬鹿馬鹿しいと投げやりに言い捨ててもその響きは弱弱しく、すべてが無効化され、諦念へ行き着くしかないように見える。もはや空間の何もかもが空虚さに傾いて、ただ虚ろな彼方へすべってゆくしかない。

どんな言表も、幾重にも張り巡らされた言説の網目に発話する前から絡めとられているし、そしてそれと切り離して語られたがる「パンとサーカス」の健気なサーカス演者も、サーカス演者を「パンとサーカス」から棚上げして表層を掬い取り批評し得ると信じるすべての感動家も、冷笑家も、たぶん同様に、むなしく、意味のない彼方へ押し流されているだけだ。もう自分の感情すら自己の権能にないから、予定された調和を届けられる場所に居続けることへの嫌悪感すら持ち得ない。

この空間においては塚本邦雄の「脱出したし」という身振りすら、ただちに言説に絡めとられる。というか絡めとられるために発話されると見るべきだろう。「皇帝ペンギン」も「皇帝ペンギン飼育係り」もすでに実存でなく記号が機能が本質が先立っている逆サルトル状態である。皇帝ペンギン(=天皇)は日本という空間の磁場なしに存立しえないsymbolである。そのsymbolの飼育係(天皇を天皇足らしめているのはわれわれなのだから、これはぼくたちであるとも読み得る、天皇の嘴に鯵を投げ込んで飼い太らせているのはぼくたちである)も、言説がすでに身のうちに語り込まれ編み込まれている、言説実践体なのである。

だから塚本邦雄のこの歌は、そもそも脱出不可能な、とうに網目に絡めとられている者たちが、幾分かの愛嬌と純朴さだけを頼りに、むなしくも脱出をのぞむという道化を演じてみせること、それ自体であり、そのfarceの切実さこそ、乾いた、けれど確かな笑いに繋がるのであろう。

動物園あるいは水族館の衆愚的光景の表層もまた魅力的で、ぼくらは炎暑炎天に弱った鳥の群を思い、そこにしばらく滞留したってよい。疲弊しつつタイルをブラッシングするあわれな飼育係!つまり、ぼくが示したような、天皇がどうこうだとかいう窮屈な暗喩の歌の枠に押し込めるべきだとは微塵も思わない。しかしだからといって意味は分からないけど魅力的な歌だとかいう、connotationの深みへ降りてゆくことを放棄する痴呆的読解に与するのも、もはや逆説的な意味を持つことすらない。

記:柳元

夕日ふんだり夕日けったりする河原にておひらきになんのを待っとった 吉岡太朗

所収:吉岡太朗『世界樹の素描』(書肆侃侃房、2019)

「不自由律」の章から一首。この不自由律という章名、不+自由律のように見えるが、おそらく不自由+律でもある。あっさり7首で次の章へ移ってしまうが、このタイトルは惹かれたし、もっと読んでみたいと思った。

 この歌集は基本的に全編方言で記述されている。関西方面の方言。私自身も関西の方(といっても四国)出身なため流れるように読めた(まったく関西弁に対する知識? 感覚? がない人にとってはかなり読みづらいものになっているのかもしれない。そのあたり関東出身者に聞いてみたい)。
 一応、「なんのを」は「なるのを」や「なっていくのを」を意味し、「待っとった」は「待っていた」を意味する。

 この歌の不思議なところは、関西弁によって微妙に余韻が変わってくるところである。
「夕日ふんだり夕日けったり」が比喩なのか本当の行為なのかは分からないが、そういう遊びや空間が終わるのを主体は待っていた。ふつうに考えれば、おひらきになるのを待つということは、早く終わってほしいということで、苛立っていたり心ここにあらずであったりする。
 ただ私がこの歌を読んで感じたのは真っ先に寂しさだった。その理由として大きかったのは「夕日」という寂しさを演出する材料と、「待っとった」の言い方だった。内容的には早く終わってほしいと言っている、それは分かっているが、何故か「終わってほしくなかった」みたいな感情が伝わってきた。これは単に、私自身がこの方言になじみがあって、懐かしさを覚えた(なつかしいものは簡単に寂しさを連れて来る)からなのかもしれない。
(個人的に思う)関西弁がもつ溌剌で素朴なイメージが、逆の方向に振れて、なんとなく寂しく思ってしまった。

 そうすると、「ふんだり」「けったり」が「踏んだり蹴ったり」というフレーズにも見えてくる。サッカーみたいな響きなのに、心に何か悩みを抱えているような感じもする。「なんのを」「待っとった」の方言は意味だけではなく音の面でも効いている。「ふんだり」と「なんのを」の撥音便の雰囲気、「けったり」「待っとった」の促音の飛ぶ感じが共通している。
 関西弁といえば漫才のようなものを想起する人も多いと思うが、関西弁で話のスピード感が生まれるのはこういう撥音や促音でリズムが出来てくるからなのかもしれないと短歌とは関係ないところで思った。

 私は、見た目が完全に明るいのに、主体の言い方から察すると、かなり寂しい歌なのではないかと思ったが、別に寂しさに引っ張られて読む必要もない。
 冷静に考えて、「夕日ふんだり夕日けったりする」とはどういうことなのか分からない。夕日の下、河原でサッカーをしている、のような意訳を頭の中でしていたが、夕日をサッカーボールとして踏んだり蹴ったりしているのかもしれない。そうなると、そりゃ早く「おひらき」になってほしいわな、とも思う。そんな恐怖体験もなかなかない。
 比喩的な要素が少し混ざっていて、河原でサッカーをしている、そのサッカーに夕日が時折重なって、夕日を蹴っているように見える、位のことだろうと考えるの自然である。ただこの場合気になるのは、じゃあなんで「おひらきになんのを待っとった」のか。そんな眩しい子どもたちの(子どもたちかどうかは決まってはいないが)風景にいて、なぜ帰りたがるのか。自分も混ざりたいとか、終わらんとってほしいとか、そういう願望の方向ではない。
 ふつうに読んだとしても、やっぱり主体には寂しくなる事情があるのでは……と私は思ってしまう。
 もしくは、他人が愉しんでいるのを見たら/楽しんでいるグループに自分が参加させられていたら、早く終わればいいのに、それの何が楽しいんだと思うような斜に構える性格があるのかもしれない。しかしそれにしては「夕日ふんだり夕日けったりする河原にて」は好意的な語り方だとは思う。

 なんとなく見えるようでなんとなく見えない、明るそうで寂しそうな、魅力的な一首だった。

 ところで、この歌集を読んでいて個人的に面白かったのは、方言がいきいきと使われている(方言が主役)ものもあれば、方言が文語みたいに使われている(方言はサブ)ものもあるところだった。
 挙げた踏んだり蹴ったりの歌は、中間くらいだろうか。
 例えば巻頭の一首は〈月光がこんなにふかいところまで泳ぎにきとる霜月の森〉。「きとる」(来ている/来ていた/来た)が方言の部分。これはかなり「短歌」という感じがする。文語の使用と同じで、とりあえず文語で統一しとくかみたいな、「調整」感がある。私がふつうに関西弁風に話すとしたら、「月光がこんなにふかいところまで」と律儀には言わない。「こんなに」の「に」が特に(ただこれも関西の地域差があるのかもしれない)。あと「月光が」とも言わないだろうと思う。
 方言というと喋っているように思ってしまうが、喋ってはいない、書いているということだろう。もしくは、心のなかで喋っている。だからスムーズに喋っているようで急に短歌みたいな詠い方をする感じがして妙な感覚になることがある。
火と睦みあう冬空をひたすらに見る みるだけの生きもんとして〉これとかもそうで、「生きもの」としていても普通に読める。もちろん、「生きもん」と関西弁であることによる効果もあり、それを加味して読むことも出来る(そうするのがマナー?)が、これは全首方言にしておこうという調整が見える。それが悪いとは思わないが、「短歌」の引力が方言の喋りを不思議な方向へ変化させているような気がして、私はかなり面白く感じた。
ずっとおっても一日ずつしか会えんくてケージに紺の布かけわたす〉これは上の句は方言のスピード感が生き生きとしている。「一日」に何もルビは振られていないが、自然に「いちんち」と読んでしまう。読ませるスピードと迫力がある。しかし(しかし?)、下の句になって急に短歌になる。「ケージに紺の/布かけわたす」と一拍空いて見える。それは「会えんくて」から急に切れて景色の物の話をし出したのもあり、「かけわたす」という短歌っぽい動詞の選択をしていることもあり、「紺の布(を)かけわたす」の77のリズム合わせが見えていることもある。

 方言で完全に喋っているように見えるもの(「短歌」からは離れている)、方言で喋りつつしっかり短歌であるもの、短歌のなかで方言に変換できるものを方言にしただけのもの、などのグラデーションで、方言アンソロジーみたいなものがいつか組まれたら面白いのになと勝手に思った。

記:丸田

夏至のひかり胸にながれて青年のたとふれば錫のごとき独身 塚本邦雄

 所収:『緑色研究』1965年・白玉書房

夏至という日は光が最高潮に力を強める一と日であるからには、むろん闇への折り返しを控えている冷ややかな感触がかすかに、しかし確かに印象される。言うなればアポロンとデュオニソスの鬩ぎ合いのカタルシスの祝祭なのであり、われわれ読者は燦燦と輝く太陽光線からアポロンの衰弱と、デュオニソスの勢力拡大の契機を確かに読みとらなければならない。

太陽光線は青年の裸体の胸を撫でるのであるが、滑るように流れてゆく絹の如き白色光は青年の裸体を錫のごとくに輝かしむる。しかし錫のイメージは青年の皮膚に固着する事なく、手触りだけを残して遥か彼方に流れ去り、金属質の冷ややかなイメージの残滓として、独身という観念の直喩として鳴り響き出す。ここにおける独り身という語感には揶揄の含みも憐憫の心もなかろう。孤独のもつ高潔さのみが、錫の直喩によって引き出されているのである。先に確認したデュオニソスを青年の姿に重ねれば、崇高さすら取り出すことも可能であろう。ぼくはどうしても掲歌に生涯独身を通して死んだ哲学者ニーチェの姿を見てしまうのだが、さして無理な連想でもあるまい。

塚本邦雄氏の秀歌と呼ばれる歌の質に鑑みれば、この歌に関してはとりたてて賞賛すべき圧倒的技巧の冴えや卓抜無比な措辞があるわけではないのであろうが、たわぶれに夏至に鑑賞する歌としては鬱鬱としていて心地よくはないだろうか。

記:柳元

ひとつだけ台詞が言える夜のおばけ いい天気だねー おばけは言います 谷川由里子

所収:『サワーマッシュ』(左右社、2021)

 幼いころからバレエを習ってました、という人の体の柔軟さに驚く。あの柔軟さは、幼いころからやっているかどうかで決まるらしいとテレビで見たことがある。大人になってから体を柔らかくしようと頑張っても難しい、らしい。それと同様に、絶対音感的な音感も、幼いころで決まるらしい。8歳ごろには聴覚が完成してしまうから。

『サワーマッシュ』を読んでいる間、ずっとそんなことを思っていた。めくるめく突飛な歌たち。それが、尖っていたり、ぶっ飛んでいるというわけではなく、あまりにもふつうの感じで並んでいる。凄い柔らかい着地を決めたり、凄い音程とリズムで歌ってみせたりする。それが、どう? 凄いでしょ? 的なものではなく、幼いときからそうなので今もそうです、みたいな軽さで、これだけの質でこれだけの量を集めるには、真似では到底無理で、もともとそうでなければ生まれ得ない気がした。だから、読んでいて、序盤は真似したい! と強く思ったものの、途中からもう諦めた。

お土産を貰って少し置いてから食べた 置いていた場所がさみしそう

 こういう発想の切り替えは、ダンスをやったことなくても出来そうな気がするが、

子どもって奇跡をひき起こすとき どうして発狂しないんだろう

 ここまで滑らかに動かれると、急に差が開いてしまう。

ルビーの耳飾り 空気が見に来てくれて 時々ルビーと空気が動く

 綺麗な曲と綺麗なダンス。しなやかすぎる。

いままで報われなくてよかったな コブシが群生している道もよかったな

 短歌、という目線で見たら、定型だとか、そこから逸脱しているとかいう気づきになるのだろう。この人の中で流れている音楽はこの人のリズムで、それはこの人の体のやわらかさとリズム乗りの才能によって決まる。この人の中で、「コブシが群生している道」は、短歌というフィルターを通って推敲されなかった。それはとても幸福なことだなと私は思った。この人の音楽が聴けて素直に嬉しいと思う。

 さて、タイトルに揚げた夜のおばけの歌に移る。谷川の歌は、基本的に生活上で出てくるシーンやワードから出発している。そこから色んな所に着地してみせる。その中で、このおばけの歌は、珍しく、はっきりと「設定」からスタートしている。「ひとつだけ台詞が言える夜のおばけ」。ひとつだけ喋る、ではなく、ひとつだけ「台詞が言える」だから、何か役を与えられた人の話かな、と思う。それにしては「夜の」がかなり「おばけ」の世界に寄っている言葉だから、本物のおばけの話をしている可能性もある。どちらでもとれそう。
 何の台詞を言うんだと思ったら「いい天気だねー」。なんじゃそりゃ、と気が抜けるとともに、可愛い光景だなと想像する。夜のおばけにとっては夜が活躍時なわけで、それは人間にとっての朝とか昼みたいに、いい天気なら嬉しいものなんだろう。それを(おばけの仲間に?)(人間に?)相手に伝える。「だねー」の部分がやけに慣れているというか、くつろいでいる。友達に言っているみたい。
 そこからのオチ「おばけは言います」。こんなに柔らかい捻り方をする人もいないだろう。前半に戻すタイプのつくりであれば、たとえば「いい天気だねー やさしいおばけ」みたいにするのが妥当な気がする。おばけを振っといて、「いい天気だねー」が本当は面白部分なわけで、変わった部分だから、最後は「いい天気だねー」以下の力でさらっと終えておけばいい。
「おばけは言います。」力が強い。ああ、言ったんだ、一つだけのセリフで、そんな気の抜けた言葉を……。急に絵本みたいな要素も追加された。さらっと一気に光景を確かなものにしていった。どんなおばけだよ、どんな設定だよ、と思っているところを、「おばけは言います。」、言うんです、とちゃんと言うことで、ちゃんと言うんだ、と思う。一首で、ルール説明と、そのゲームの習得がなされた。

 上中下で三つ凄いことをしている歌で、なおかつ元から備わっている柔らかさと音感を十分に発揮している歌。こんなにさらっとしているのが憎たらしいくらいに素敵だと思う。

 ところで、序盤からその先天性感というか、幼いころからの才感をしつこく出しているが、それだから凄いのだと言いたいわけではない。『サワーマッシュ』を読めば分かるが(読む以前に、その装丁や本自体の構成からして)、それを慎重に駆使するクールな知性が裏にあることが感じられる。どこか遠くで流れている川の小さな音が、温度感として伝わってくる、みたいな。ここまで徹底的に作られていると、なすすべがない。
 今忙しかったら明後日でもいいから、ゆっくりと読んでほしい歌集。ぜひ手に取ってみてほしい。

記:丸田

土曜日の午前と午後のさかいめをカーニバルめく自転車屋あり 北山あさひ

所収:『崖にて』(現代短歌社、2020)

 ちょうど良い場所に鍼を打たれているような気持ちになる一首。
「土曜日」という、日曜日を控えた実質一番気を抜ける日の、「午前と午後のさかいめ」。語の意味からいえば、正午の前が午前で後が午後になるわけだが、体感としてはたしかに「さかいめ」のぼんやり浮いている時間は存在する。午前だとも午後だとも言い切れない、正午あたりの時間帯。そこを「カーニバル」のように「自転車屋」が存在している。カーニバルの動きのイメージからすると、自転車の動きがどうのこうのの歌かと思ってしまうが、ここでは「自転車屋」で、そういわれると確かに、あれだけ狭い空間に(大きい自転車販売店もあるだろうが、ここでは狭い地味な町の自転車屋が自動的に想像された)自転車がぎゅうぎゅうに且つ綺麗に飾られているのは、カーニバルだなあと共感する。

 この主体が、土曜日のその時間帯にそのカーニバルのような自転車屋を目撃して、その後どうなったかが気になる。ただカーニバルめいてるなと思って通り過ぎてその後何もなかったのか、カーニバルっぽいからこそなんだか楽しそうだぞ、と思って自転車屋の中に入っていったのか。「さかいめ」と捉えているところや「あり」の言い方から、その時間にちょうどその自転車屋を目撃できたこと自体が素晴らしいことであって、別に自分が入って行こうという意志まではない、もはやその自転車屋の状態をそのままに保存しておきたいとまで思っていそうな雰囲気がある。もし中まで入っていったとしたら、どうなってしまうのだろうか。変な時間軸の世界に飛ばされて、その世界で自転車と踊り狂わされ続ける、という未来もあったような気がする。

 自転車屋といって思い出されるのは、塚本の有名歌〈医師は安楽死を語れども逆光の自転車屋の宙吊りの自転車〉で、個人的に塚本邦雄の歌の中でもトップ3くらいには好きな歌である。北山の歌も多少この歌を意識しているようには思うが、自転車屋独特の(自転車が大量に整然としている様子独特の)不穏感、眩しさが短歌で生き生きしていて面白く読んだ。上の句は雰囲気の演出として、実質この歌は「カーニバル」と「自転車屋」という語の印象だけに身を任せているなかなか豪快な作品だが、それでも十分想像が止まらない楽しい一首であると思う。

 先日『崖にて』は第65回現代歌人協会賞、第27回日本歌人クラブ新人賞を受賞した。これを機にまたこの歌集が多く読まれることを、『崖にて』を好きな一読者として願う。

記:丸田

もとわれら神人なれば天降るべく電気洗濯機の渦を見下ろす 阿木津英

所収:『天の鴉片』不識書院、1983

「天降る」には「あもる」のルビがふられている。

 阿木津は、ややグロテスク趣味な歌に特徴があり、散見される。代表歌である〈産むならば〉も、強引な一つのメッセージであるが、「世界を産めよ」をリアルに想像していけばいくほど生々しい痛さがある(男性主義的な社会の、それ自体のグロテスクさに対して、突き付けるようにメッセージを述べようとすると、自然とそうなっていくのかもしれない)。掲歌も、「たそがれのはくもくれんを嘴がみぎにひだりに裂きて啄む」、「聖処女の腹部剖けばむらさきの子宮けぶれる夏のゆうぐれ」に連続して収録されている。

 そういったグロテスク気味な歌には、それを演出する単語が用意される。
 先述のもので言えば、「裂きて」、「剖けば」、「子宮」、他の歌から要素を引き抜くと「腸」、「腹腔」、「首を掻く」、「蠢く」など。体の部位を異様に着目したり、直接臓器が裂かれたり意識されたりする。
 そして、上に挙げた〈聖処女の〉のように、神秘的で神話的で宗教的な単語も同時に挙げられることが多い。聖なる、神性を持つものが失われていったり、人のような下等(神に比べて?)のものによって汚されたりする。

 そういう、なんとなく破滅的でグロテスク気味な視線を感じながら掲歌を見ると、素通りできない恐怖があると私は感じた。
「もとわれら神人なれば」と豪快な入りで、「電気洗濯機」とかなり人間的な道具で終わる。「見下ろす」というのは神→天の印象から繋げられて出てきた動詞だろうと思われる。
「渦」。焚火を見るような感覚で洗濯機の様子を眺めることは無くはないが、この「見下ろす」は微妙に長い時間な気がしている。見たことも無いので想像がつかないが、「天降る」には、それなりの時間が必要だと思う。電気洗濯機からその「天降る」のイメージにつながるということは、それなりに見つめていたのではないか。「渦」をながながと見つめている人。「渦」……。

 さらりと読んだだけでは、天や神のイメージから、電気洗濯機という(歌が詠まれたころより現在はさらに)卑近な存在に流れていく面白さ、という消化の仕方で終わってしまう。この「神人」が電気洗濯機の渦なんかに落ちていく、そのひとつの残酷さが後ろに透けていて、前半の威勢の良さと「渦」という一文字がやけに怖くて仕方がない。

 最後に、私は「天降(あも)る」を目にしたとき、「アモール」(愛)と「雨漏」(あまもり)を連想した。愛とグロテスクさの関係、天と雨漏りと洗濯機の関係を一瞬にして想像してしまって、この一首を読んだだけでかなり疲れてしまった。なんてことのない、要素で語るだけの歌だと思うが、その要素が綺麗に刺さってしまった。連想させやすい歌、という目線で他人の短歌を見ていくと面白いのかもしれないと感じた。

記:丸田洋渡

きらきらと魚卵こぼれる 君といて眠ったように話すいつでも 嵯峨直樹

所収:『みずからの火』角川書店、平成30年

「きらきらと」という言葉は、それ自体きらきらとしており、なかなか私は使いどころが難しい語だと思っている。ここでは「魚卵」のこぼれる様に用いられている。魚卵自体がきらきらしていて(いくらみたいに)、だからスムーズに「きらきらと」と言えたのか、ただ魚卵が零れているのを、君と話す時のことを思い浮かべて心にはきらきらと映って見えたのか。私は魚卵に対して「きらきら」という感覚を抱いたことが無いため、心のなかで思ったことなのかなと推測した。

「眠ったように話す」。滑舌とか話のテンポが異様に遅いとかの実際の話ではなく(そう取るとまた違う面白いこうけいが想像されはするが)、身を任せてうとうとと眠ってしまえるような心地よさの中であなたと話す、ということだろう。ここで効いてくるのが「いつでも」。眠るという行為を人間が常に行いつづけているように、君と話せばいつだってそのように安心できる。そのとき偶然、というのではなく。
 さりげなく倒置がなされているのも、安心していることを安心しながら君に伝えているようで、主体ののんびりした性格や「君」との良好な関係性を思わされる。

 そこまではいいとして、はたして「魚卵こぼれる」はどう関わっているのか。いくらの軍艦的な寿司を頼んで、私を君を挟んだテーブルの上でいくらがきらきらとこぼれた、とかそういう光景にすれば辻褄(?)は合うものの、なんだかぎこちない。
 後半部の語彙や温度感に合わせるなら、「魚卵」の部分は、炭酸の泡がグラスの中を上って行ったとか、その程度で収まったのではないかと思う。君との穏やかな関係を穏やかに述べるにしては、「魚卵」はイメージが強すぎるように思う。
 そこがだめだ、と言いたいわけではなく、この歌は完全に「魚卵」の奇怪な、不自然なイメージの強さによって、不思議な余韻を生み出しているのだと言いたい。何度読んでもいまいちその光景や、主体が何で「君」の話をするときに頭に「魚卵」が浮かんできたのかは分からない。そのせいで、「いつでも」の倒置も謎に効いてきてしまって、「君」との話の最中、(現実か脳内かはさておき)度々魚卵が零れてはいないかと想像してしまう。

 バリー・ユアグローの短編に、「水から出て」という掌編ながら奇想天外な魚に関する短編があるが、それを思い出した。この魚卵のきらきらなこぼれについて、もしかしたら主体と「君」は、人間ではなく、魚側なのではないか……自分たちの子どもを見て、「きらきら」と言っているのではないか……。流石にこれは飛び過ぎた読み方だと思うが、そういう読みを喚起させるほどに、「きらきら」「魚卵」「いつでも」には独特な輝きがある。

記:丸田

前川佐美雄『植物祭』を読む

柳元佑太

前川佐美雄(1903-1990)の第一歌集『植物祭』(1930)は、短歌に流入したモダニズムを確認出来て非常に興味深い。「幻視」の歌人といえば、葛原妙子や山中智恵子、水原紫苑など主に戦後の歌人が思い浮かぶ訳だけれども、元祖・幻視の歌人なる俗な呼称を冠することが許されるならば、それは戦間期における前川佐美雄だと言えるのではないか(このことは、むしろ戦後の反写実的な歌人、葛原たちが行ったことは、第二次世界大戦によって中断されたモダニズムのやり直しの側面もあったのではないかという見取り図を提供してくれるように思うけれども、ひとまず本稿では触れないでおく)。
さて、

胸のうちいちど空にしてあの青き水仙の葉をつめこみてみたし

このように、掲歌において作中の主体が、胸のうちに青き水仙の葉を詰め込んでみたいとたわぶれにのたまうのだけれども、たしかにこのような発想にはシュルレアリスムダダと通ずるような耽美とナンセンスな感覚があるように思える。色彩の感覚の豊かさは、および身体感覚との清らかな接着は、たとえば俳句においては渡辺白泉や富澤赤黄男などの新興俳句の俳人にもみられたし、短詩においてモダニズムを志向するときにはまず語彙から刷新されるのだろうなという検討がつく。言葉の表層に現れる語彙に着目すれば、佐美雄の歌とモダニズムの共通項は割合たくさん拾うことが出来るように思える。例えば

子供にてありしころより夜なか起き鏡のなかを見にゆきにけり

こんな世間がしづまつた真夜なかにわれひとり鏡に顔うつし見る

この歌のように鏡のような詩的素材を積極的に取り入れ、手ごろな形での異界への扉を繋ぎ止めたりもするし、

なにゆゑに室【へや】は四角でならぬかときちがひのやうに室を見まはす

室の隅に身をにじり寄せて見てをれば住みなれし室ながら変つた眺めなり

のように、偏執的に室内をながめ、見廻してみたりもしていて、このような感覚の鋭敏がもたらす過剰さや、それにともなう異化効果などは、すでに充分、われわれもよく見知ったモダニズムであるように思う。一方で、もちろんわれわれは佐美雄がモダニズムを歌壇史に残るかたちで達成したこと(というか、それにともなう旧来的な価値観との格闘)には敬意を評するけれども、これらからは同時代的なモダニズムの潮流の勢いを感じこそすれ、歌や修辞そのものの充実ではないように思う。言葉は悪いけれども、モダニズムにかぶれてさえいれば、そこまでの短歌形式との格闘なしに書かれ得るようなある種のインスタントさを感じるというか、言ってしまえばモダニズムし過ぎているように感じるのだ(とはいえ彼が短歌におけるモダニズムのファーストペンギン世代なのだから、それは当然というか、後世に生きるものが容易に推し量れるようなものではないのだが)。

ぼくがそういう側面よりも面白いと思ったのは、厭世的だったり露悪的だったりするのだけれども、そのことを直截歌にしてしまうことで歌としては格調や深みが失われてしまい、しかしだからこそ切実な感じがする感じの歌である。

何もかも滅茶滅茶になつてしまひなばあるひはむしろ安らかならむ

君などに踏み台にされてたまるかと皮肉な笑みをたたへてかへる

街をゆくひとを引き倒してみたくなる美くしい心だ大事にしとけ

わけの分らぬ想ひがいつぱい湧いて来てしまひに自分をぶん殴りたし

土の暗さで出来上がつた我だと思ふときああ今日の空の落つこつてくれ

人間のまごころなんてそのへんの魚のあたまにもあたらぬらしき

馬鹿馬鹿しいと退けるのは簡単であるのだろうけれども、おそらくはプロレタリア短歌からの影響があるのか(実際、佐美雄は「プロレタリア歌人同盟」とも関わりがある)、生々しい肉声というものがうっすらと織り込まれているようにも思われて、口語と文語が混ざり合う文体に読んでいくうちにどんどん惹かれてゆく。ここに自己戯画や誇張はあってもインスタントさはなくて、それが簡単そうに書かれたように見えるのなら、生活表象がある種の簡単さを要求するというだけであろう。

ふうわりと空にながれて行くやうな心になつて死ぬのかとおもふ

誰もほめて呉れさうになき自殺なんて無論決してするつもりなき

なども妙に味があって、何ということのない歌なのだけれども、こういう歌の方が、都市やモダニズムのよるべなさのようなものが出ているのではないだろうか。蝶や鏡や電車などの素材より、詠みぶりにモダニズムが織り込まれている方が、ぼくは一等良いと思う。それから文体という面でぜひ指摘しなければいけないのは、

五月の野からかへりてわれ留守のわがいえを見てるまつたく留守なり

などの「見てる」という表現にみられるような「い抜き言葉」であろう。現代日本語の規範に照らして歌を詠もうとするとき相当な逸脱というか、こういうブロークンさはニューウェーブの世代が達成したことだと思っていたので非常に驚いた。これもプロレタリア短歌の口語からの輸入なのだろうか。プロレタリア短歌は(プロレタリア俳句もそうだが)、内容か表現かという二項対立においては内容を重んじたと捕らえられがちだけれども、むしろ表現にこそ旨味があるのではないかと思ったりもする。この遺産がなければ達成されなかったものというのは実は沢山あったはずだ。


最後に、最も好きだった三首を引いて筆を置きたい。

かなしみはつひに遠くにひとすぢの水をながしてうすれて行けり

われわれは互に魂を持つてゐて好きな音楽をたのしんでゐる

あるべきところにちやんとある家具は動かしがたくなつて見つめる

肺臓、と言っても水浸しの 救済は火炎瓶のような右手の不透明さ 石井僚一

所収:『死ぬほど好きだから死なねーよ』短歌研究社、2017

 詩的な面白さにも色々なタイプがあるが、これは分かりにくいことが面白いタイプ、語をランダムに継いでいくタイプである。

生きているだけで三万五千ポイント!!!!!!!!!笑うと倍!!!!!!!!!!

 勢い。見た目から面白いタイプ。無条件に人を肯定する短歌にも見えるが、果たして「三万五千ポイント」は本当に多いのか。そのポイントで何が得られるのだろうか。

雨の空に破いた遺書をさよならと放てば読めない文字は逝く蝶

 意味が取れやすい上で、「雨の空に破いた」というロマンチックな動きと、「遺書」「さよなら」「逝く蝶」という素敵さを感じやすい単語が上手いバランスとテンポで並ぶ。要素が多く映像で魅せるタイプ。

 この『死ぬほど好きだから死なねーよ』には色んなタイプの歌が並んでいるが、その中でも〈肺臓、と言っても〉の歌はとびきり分かりづらいタイプの歌である。
「水浸し」に対して「火炎瓶」があることの水と火のイメージと、何かぼんやりと救済の話をしようとしているという点だけはなんとなく見えてくる。それ以外はいまいち分からない。「右手の不透明さ」とは救済からして手術のようなことを言おうとしているのか……。救済の対象は水浸しの肺臓なのか、それとも、関係ない大きな概念の話なのか。一字空きにどれくらいのウェイトをおいているのかも分からない。

 個人的にこの歌は、ランダム要素を強く受け取って読みたくなる。肺臓→血→水浸し⇔火炎瓶→(瓶→不透明)投げる→右手。そのランダムな語を繋ぐ接続詞的な役割を「と言っても」や「のような」が担っていると考える。ランダムに(ランダムというか、連想というか)語を繋いでいくタイプの現代詩はままあるが、それと同じ読み方・面白がり方をすればスムーズなのかなあと思う。肺臓という語を出発点に、火炎瓶を経由して不透明さで着地する、その作者の感性を味わう。そしてその連想ゲームへ一つ差し込まれたように見える、中空に浮いた「救済」の存在。全体が異質な歌の中で、より一層異質に見える。

 ただ、これは私の好き勝手な味わい方であり、同歌集の他の歌を見ると、意味が強く、かつ取りやすい歌が多いため、この歌も「と言っても」の誰かへの説明の雰囲気や、「救済」「右手の不透明さ」という語をもっと重く捉えて、意味を考えていったほうが適切であるような気もする。と言っても、あまりに主体が見えてこない歌なので、作者あるいは主体が脳内の単語プールの中からばーっと適当に取りだし、それが偶然深い意味を持っているように見える文になってしまったと考えた方が、この歌を面白く読めるのでは、と思うがどうだろう。
 そもそも、短歌を面白く読むとはどういうことなのだろうかと考えてしまう。より面白く読むのが適切ではない作品もあるだろうか。つまらなく読む方が歌のためになる作品もあるかもしれない。それはまたのちのち考えていきたいと思う。
 話は逸れてしまったが、こういう意味の分かりにくい単語の連想ゲームみたいなランダムチックな歌はとても好みなので(ランダムであるからこその不利(何でもありになってしまうから)もあるが)、増えていってほしいなと勝手に思っている。

記:丸田

ああ数えきれない数のドア過ぎてわが家のドアにいま手をかける 小島なお

所収:『サリンジャーは死んでしまった』角川書店、2011

 ドアに手をかけようとして、今まで通ってきたドアのことを思い出すという、ありそうでなかなか見ない発想の歌。人生の節目節目で、ああもうこんな遠いところまで自分は来てしまったのかと思うことはよくあり、「数えきれない数のドア過ぎて」は色々つらいことがあったけどここまで来た、くらいに意訳(?)は出来る。が、ドアを目の前にしてドアを思い出すというのはなんだか不思議な思い出し方な気がして、そういう単純に昔を回顧しているのとは違う印象がある。

「数えきれない数のドア」に、仕事で疲れた日とか、親が死んだ日とか、めちゃくちゃ楽しかった日とか、実家のドアとか、友達の家のドアとか、元恋人の家のドアとか、色んな日々・ドアが想像される。引越しのタイミングで、この町にもお世話になったなあ、色んな思い出があるなあと思い返すような感覚が、我が家のドアを開けるという何気ない瞬間に訪れた。その些細な一瞬に今までの記憶が一気に流れ込んできて、溢れそうなくらい感情で一杯になっているのが、「ああ」から伝わってくる。

 この歌の上の句が、たとえば「辛いことも楽しいこともあったなあ」だったら、ふつうの歌になってしまっていた。それ以上こちらが思い浮かべることは無く、ただ思い出している主体を想像するに終わっていた。
 ドアを開ける瞬間に今までのドアを思い出す。この若干おかしな想起の仕方によって、要素が一気に絞られて、読者はドアのことばかりを想像することになる。今までのドア、主体、我が家のドア、手。ドアという物の重要性がぐっと上がって、「いま手をかける」の映像の臨場感も上がった。

 関係のないことだが、数えきれないくらいの他人の短歌を読んできて、いま自分は自分の短歌を作ろうとしている。そこには、他人の短歌へのリスペクトがあり、向こうから影響されたりする。
 この歌の主体がただ過ぎてきただけのドアだが、かつての色んなドアと、今目の前の我が家のドアが、ドア同士で何か影響し合っているのではと思ってしまう。ドアとドアがあるだけなのに、かつてのドアがあったから今のドアがあるという、変なドア同士のつながりがうっすら見えてくる可笑しさも、この歌は持っている。

 最後にもう一つこの歌の面白さに触れる。これがドアではなく「大会」であった場合を考えてほしい。色んな大会を経て、この大きな大会に到れた、というふうに。スポーツプレイヤーが努力の果てに、より大きな舞台に上がることが出来たと。このとき、今の大会に辿り着いたのは今までの大会での努力や成果による。今までの大会が、自分の中に経験値として蓄積しているわけである。
 そこで「ドア」を考えると、別にどれだけドアを開けてこようが、今のドアを開ける技術に何のプラスもない。ドアをただ「過ぎ」るのに、今までの数えきれないくらいのドアは別に必要はないわけである。小さな大会で慣れておいて大きな大会、とは違って、今までのドアを開けてきたからこそ、このドアを開けることが出来るということは特に無いわけである。(開くのがよほど難しいドアとか、開け方にコツがいるドアとかなら話は変わるが、わが家にそんな変なドアは作らないだろう)
 それでもこの歌がなんとなく大会みたいに見えてしまうのは、過去の自分があるからこそ今の自分があるという過去ー未来の時間の連続性であったり、「ドア」というものからくる希望的なイメージ(開いて新しい場所へ進む、日々の安心の住処に帰ってくる、など)であったりを、過剰に思い浮かべてしまうからである。
 ドアに要素を絞ることによって、別に暗喩として書いていなくても読者は深い暗喩のように読み過ぎてしまう、シンプルなようでさらっと大量に想像させる巧い一首であると思う。

記:丸田