野分あと歩行者天国にこども 山岸由佳

所収:『丈夫な紙』素粒社、2022

 野分(秋に吹く暴風、現代では主に台風のこと)が通ったあとに、歩行者天国に子どもがいるという句。大きくわけて三つの単語が居合わせるだけのシンプルな句であるが、想像される映像は思った以上にドラマチックで壮大でおどろく。その壮大さは、歩行者天国という単語に隠れている「天国」に起因している。

 歩行者天国とは、車が入ってこない歩行者だけが自由に通行できる道のことであり、本当は天国とはほど遠い場所である。「(歩行者が車を気にせず、道路上で)楽しくやりたい放題」という意味で、「天国」という語が卸されているにすぎない。「こども」といえば、「学園天国」という題の歌も存在するが、あれも場所としての天国というよりは、楽しさや嬉しさの比喩として使われている。「桃源郷」「ユートピア」も似たような用法だと思う。

 天国ではないのに、文字上では「天国」が含まれてしまっている。ずいぶん贅沢な単語だと思う。晴れっぽさや上空っぽさを一気に帯びることが出来る。この句においても、その贅沢さが読者の脳内で面白い動きをしている。
 野分という悪天候が一気に晴れ上がるような高揚感や、野分(空・風)のずっとその上にある天国まで視線が伸びていくような遥かさが脳内で発生する。そして見た目上「野分あと歩行者/天国にこども」と見ることもできるせいで、この子どもが一気に聖性を帯びて、眩しく感じられる。野分というカオスの後で現れた希望の光、というような、(詳しくないからこの喩えは不適切かもしれないが)聖書のようなスケールの大きい句と見ることもできる。

 それくらい、聖なる句として読みを進めていくことも可能そうな気配はしつつも、結局は「歩行者天国」の句であり、実は景はもっと俗っぽいものである、というその夢想との落差が面白い句だと思う。野分→天国で上に視線が伸びていきながら、歩行者天国自体の平面的な奥への伸びも同時に感じて、かなり広い空間が頭の中で生まれる。想定される景色と、理解できる意味と、寄り道してしまう想像がこの句の空間を広げて、膨らませて、最終的に「こども」の映像・意味・存在に収束していく。この子どもを、未来のある子どもだと想像することもできるし、希望の子ども、次の野分のような危険分子としての子ども、どこにでもいる一般的でふつうな子ども と想像することもできる。拡散と収束、危険と希望、悪天候と晴れ、永遠と一瞬、さまざまな二項の間に立っている子ども。その表情は、なんとなく笑っている気がする。そこが歩行者天国だから。

 〇

 加えて、読みながら思った二点を補足する。まず、「野分」「歩行者天国」「子ども」でオ段の押韻が踏まれている。リズムというより、この三つには共通点がある、と示唆されているような気持ちになった。景の中でそれらが結びついていますよ、というアピールのように感じられた。
 そしてもう一つは、俳句を読む上での読みのスタンスについて。私は、歩行者天国の「天国」の部分から晴れ・上空感を汲み取って上記のように読んだが、実際は野分後だから、アスファルトの上にぐちゃぐちゃの泥が散っていたり、吹き飛ばされたトタン屋根が散乱しているかもしれない。でも、この句からはそれはあまり想像できなかった。もし、「歩道」だったら、想像できていたと思う。
 それがなぜか考えたところ、私が無意識に「天国」部分を面白がったからかもしれない、と思った。歩行者天国が、本当に歩行者”天国”であるためには、そこは晴れていないといけない。歩行者が車を気にせず道路の真ん中を闊歩できる喜びというのは、雨の日であればあまり果たされないものだと感じる。ぐちゃぐちゃの道路というのは想像しにくい。歩行者天国と言うのならそれは晴れているし、悪天候というのならそれは歩行者天国ではない、といった気分。私が俳句を読む上で、何が言われているかよりも先に、目に入った単語が、一番いい状態で存在するようにモノを想像しているかもしれない、ということに今回気が付いた。いくら「野分」と言われていたとしても、私は「歩行者天国」が「歩行者天国」然としている状態を真っ先に想像した。今回は丁寧に「あと」と付けられているから、読みに大きな差異はないと判断したが、あまり読者としては良い姿勢ではないのかもしれない。でもこの句では、それくらい字面で「天国」が効果を発揮していたということである。
 その「単語が一番いい状態で存在している」様子の想像は、人によって変わるものだから、他の人がどのように「野分あと」や「歩行者天国」や「こども」を想像しているのか、言葉の原風景とでもいえるキーになる映像について、聞いて回りたいなと思った次第である。 

 〇

 ほか、句集内で好きだった句について引用する。語彙のイメージの衝突や、現実と詩的想像との齟齬を意図的に楽しんでいるような句に特に惹かれた。

汗引いてゆき百年のシャンデリア
スピーカーより秋の蝶むかしから
黄のカンナ丈夫な紙を探してゐる
少しだけ眠る天皇誕生日
鳥雲に入る階段をたなびかせ
白さるすべりどこまで行ける車輪
古着屋に鍵かけられて冬の鳥
透明な洗濯ばさみ雪降るなか
短日の発泡スチロールを運ぶ

記:丸田洋渡

この世にて会ひし氷河に嗚乎といふ 平畑静塔

所収:『平畑静塔全句集』(沖積舎、1998年)「壷国」

氷河は果てしない時間の層を抱えこんでいる。自然の表情や彩りは脱色されて、河のひろがりは濃淡であらわされるくらいの乏しい色彩となる。

それでも惹きつけられるのは、氷河に出会うとき、何億年も侵食と堆積を続ける地形の現在地点に立つからなのだろう。自然の表情は脱色されていたとしても人工っぽさはなく、かえって自然というものをありありと示す。

嗚呼という詠嘆は、胸に迫ってくる自然の厚み、あるいは時間の厚みに対して、最も誠実かつ率直な言葉だと思う。

私は氷河を見たことがない。いつか見てみたいが、今のところは面倒くささに打ち勝つほどの動機はなく、誘われても寒いからきっと行かない。

氷河は静かなのだろうか?あるいは絶えず氷のきしむ音がしているのだろうか?

分かるのは、氷河からしてみれば人の一生など無に等しいほど短いということ。そして人からしてみれば、氷河と抱える時間の厚みはこの世の尺に合わない。この世の尺に合わなければそれはあの世である。

氷河を見て、あの世みたいという感想は陳腐だろうが、結局みんな氷河を前にすればそう感じるじゃないかと思う。もしかすると実際に行ってみれば、嗚乎などというのは気取りで、こんなものかと思うのかもしれないが、それはそれで結構とも思う。

ちょっと文法の話をすれば、〈会ひし〉の「し」は恐らく完了的な用法(会った)で使われているのだろうが、文法的には過去なので、掲句の主体はこの世がすでに過去のものとなっている亡者とも考えられる。

死因は分からないけど、死んで、視界に迫ってきたあの世という場がまったくこの世でかつて見た氷河と同じで、「嗚乎、この世にあの世はあったのか」そんな落語?みたいな読みも、案外悪くないかもしれない。

記 平野

ひらがなをくづせしやうに囀れり 藤田湘子

所収:『神楽』(朝日新聞社、1999年)p.150

「囀り」という音、「聴覚」が、ひらがなを崩すという文字のありよう、「視覚」に接続される。比喩を通じて感覚のチャネルが切り替わるのが読者として楽しい。

ひらがなの崩し字を思うとイメージされる、線に現れる強弱・次の字への自然なつながり、曲線の多用といった特徴は囀りの形容の1つとして得心がゆく。

私は鶯のような鳴き声に音量もスピードも強弱がある囀りを思い浮かべた。

記:吉川

係の人に喪服を着つけられている母は折り紙のように見えた 竹中優子

所収:『輪をつくる』角川書店、2021

 比喩の強い歌。

 私が、何を以て比喩の強弱を捉えているかについて改めて考える。/「母は太陽のようだ」という文章を例として考えると、こういう直喩の場合は、喩えられる元(「母」)と喩え(「太陽」)の間に、なにかの共通点や類似点がある。たとえば、陽気なところ、熱いところ、眩しいところ、など。/その共通点を一文の中で明かそうとすれば、「母は太陽のように眩しい」、「母の朗らかさは太陽のようだ」などの形になる。「母は太陽のようだ」という文は、つまりその共通点を明示せずに省略した形であるとも言える。

 そのとき、喩えられるものと喩えの距離が遠ければ遠いほど、比喩として強いと私は感じている。/”距離が遠い”だと曖昧なので、いくつかの言い方で言い換える。/共通点が明示されていない形で、かつその共通点がすぐには推測できないとき、比喩の強度は高いと思う。また、その喩えるものと喩えと共通点の三者の、組み合わせの認知度・流行度にも左右される。/「元始、女性は太陽であった」は平塚らいてうが「青踏」創刊号(1911年)の巻頭言として書いた言葉であるが、これがよく知られているため、母→太陽は知られている喩えではある。そして仮に「明るい」が共通点だった場合、太陽を使って眩しさを表現することはあるあるだし、母が明るいという話も、別に珍しいものではない。/だからこの三者は近く、比喩としては弱いと感じる。

 *

 比喩が強ければ強いほどいいのか、という議論はここでは保留する。私自身は、とりあえず定型詩のなかで直喩をするのであれば強い方が良いと考えている。「(まるで)~のように」「みたいな」と音数をわざわざ取る目立つ技法だから、それに見合うくらいには強くないと甲斐が無いというか、小さく終わってしまうことになると思う。

 今回挙げた竹中優子の歌については、比喩が強く、それゆえに良い歌であると思う。

 なぜ強いと感じるかを、先ほどと同じように考えてみる。喩えられる元が「母」、喩えが「折り紙」、共通点は明示されていない。/共通点が書かれていないだけで、何をもってこの比喩が付けられたかの可能性が固定されないので複雑性が高い。/喪服を着つけているシーンを考えると、なんとなく寂しそうな雰囲気だけは直感で想像される。仮に「寂しさ」が共通点としたとき、母→寂しさは葬儀の雰囲気からも分かるとして、折り紙→寂しさは少し分からない。なんとなく分かるが、太陽→眩しい ほどに明確ではない。
 この時点でまず、直喩の形を取っているから見た目的には分かりやすいが、内容的にはまだ不明な部分があることが分かる。
 そのうえで上の句を改めて考えると、「係の人に喪服を着つけられている」は音数をたっぷり使った言い方であることに目が行く。強引に圧縮すれば、「喪服の母は折り紙のよう(に〇〇)だった」で足りるわけだから、「係の人」の暈けた言い方や「着つけられている」という受動態は、貴重な17音分を使ってもなお言いたかったことだと推測される。/とすると、先ほど明示されていなかった共通点は、この部分をヒントにするのが妥当だろう、と思う。
 でも、その部分だけでは、どうして「折り紙」なのかが、ぴったりと腑に落ちることは無い。いくつか想像はできる。老化や悲しみで表情がくしゃくしゃになっているところと、折り紙の折り目を喩えた、とか。人が手で折っていくたびに折られるがままになってしまう折り紙と、係の人にされるがままの母を重ね見た、とか。でもそれだったら、「完成」に向かっていくはずだから、喜ばしいことに思えるけど、それは葬儀の悲しさと矛盾して感じられる、とか。

 こんなに分かりやすそうに書かれているのに、比喩がすとんと腑に落ちない。それはこの比喩が珍しいからであり、わざと共通項が隠されているからであり、つまりこの比喩が強いからであると思う。/見たことの無い斬新な比喩だけど言っていることはめちゃくちゃ分かる というタイプの強い比喩も存在する。この歌も、「くしゃくしゃ感」や「されるがままの状態」が明示されていたら、そういうタイプになっていたと思う。

 母が折り紙のように見えて、どう思ったのかを言わず、「ように見えた」で留めていることによって生まれている効果は、その比喩の強化が一番大きいがもう一つあると考えている。それは、〈比喩する者〉の態度の演出、である。

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 この歌を見てぎょっとしてしまうのは、比喩自体の新奇性よりも、その〈比喩する者〉の態度の測れなさに対してだと感じる。この歌のなかではつまり、母を見ている(おそらく娘の)主体のことである。
 仮に、母の姿を見て、何かを感じ取って、それが脳内で折り紙に繋がったとして、それを言葉にしていいのかどうかという分岐がまずある。喩えとはいえ、母を折り紙のようだと思ってしまっていいのか。良いも何も、そう見えてしまったものは仕方ない、のか。
 この発想が、言葉になって、作者によって短歌になり、ここに発表されたことによって、少なくともこの主体は「折り紙のように見えた」ことを隠そうという気はないことが分かる。思っても言わない、ではなくて、思ったことを言った、形になっている。/たとえ、主体の母がこの短歌を見たとしてもいいと思っているのかどうか、は知らないし、読みにもそれは関わってはこないが、喩えられるものが近親者であり・比喩する者が自身である場合、どう喩えるかはナイーブな話にもなってくる。

 この母本人が打ち暮れている悲哀、にも想像が行くし、しわくちゃな母を折り紙とした主体、あるいは自分の意思がなく他の人にされるがままの母を折り紙とした主体、が今考えていること、も想像する。/折り紙のように見えて悲しい、とも取れるし、折り紙のように見えてしまったことで主体の感情の糸がぷつんと切れた重大な場面とも取れる。主体の感情の糸が先に切れてしまっていたからこそ、「係の人」「着つけられている」というのっぺりした見え方をして、「折り紙のように見え」てしまったのかもしれない。

 *

 母と折り紙の間にある共通点は何なのか。主体は、それを何だと思ったのか。そして何を思いながらこれを言葉にし、作者は短歌という形式でそれを保存したのか。上の句の言い方が、ヒントになりそうに見えたが、むしろ可能性を広げていく。
 共感ベースで読もうかとも思うが、じゃあこの歌を読んで共感しようとするとき、私たちはどの部分に共感するのか。母なのか、主体なのか、「折り紙のように見えた」なのか、それを短歌にしようとする作者の心持ちなのか。そのすべてなのか。
 一首のうちにさまざまな人物の気持ちが去来するような、強い比喩による良い歌であると思う。


 というのが、私の読みである。この歌を鑑賞しようと決めてから、書いては消し、書いては消し、書ききるまでに一か月かかってしまった。こういう、「分かる」ことと「分からない」ことが同時に起きていて、その両面が保持されていることの複雑な面白さを言葉にするのはたいへん難しい。
 とにかくこの歌の上手いところは、比喩よりも、その比喩の見せ方、持って行き方だと思う。それをどうにかして言葉にしたいと思ったが、うまく行ったかどうかわからない。

 竹中優子は、短歌では2016年に「輪をつくる」で角川短歌賞受賞、2021年に同名の歌集を刊行。詩では詩集『冬が終わるとき』、小説では2024年に「ダンス」で新潮新人賞を受賞し、芥川賞候補にノミネートされた。マルチなジャンルで結果を残しており、どれについても竹中らしい表現の強さとしなやかさがあり、素晴らしい書き手だと思う(私は『冬が終わるとき』がお気に入り)。

 同歌集内にも喩の強い歌が多々あり、

お尻の穴を見ているような他人の恋 本を読むため海へ出かける
三角定規で平行の線を引くときの力加減で本音を話す
馬のようなたてがみのような連休が終わってお湯をぴたぴた溜める

 など。こんなに強い比喩が続いているのに、けろっとしている佇まいが不思議だなと思う。
 以下、同歌集で私が他に好きな歌。

若い女をいずれ私は憎むだろう花びらに似た半開きの口
くちびるを嚙めば光るよビトイーンライオン歯ブラシコンパクトふつう
感情として不可能/という通知表 校門までの坂道くだる
小説はもう書いてない友達が車から顔出して笑ってくれた

記:丸田

蟬の目の岬育ちの寂かな目 秋元不死男

所収:『万座』(角川書店、1968年)

どこまでも続くとおもわれた陸も岬に出るといよいよその先は海で、波のうねりの大きい日は岩壁にぶつかる波の、底知れない響きが迫ってくるのです。

長いこと岬の土中ですごした蟬たちにとって、海鳴りの恐ろしさというのは常識でしょう。もしかすると蟬のなかには、幼いころ子守唄のように聴いていた海鳴りの響きを覚えていて、喧しい鳴き声に、海鳴りのリズムをひそませる者もいるのかもしれません。

掲句は、真鶴岬七句と前書きされた句群の最後に置かれています。〈灼鳶の声先細り岬細る〉からはじまって、掲句の一つ前には〈崖打つてのぼる濤音蟻地獄〉が並びます。

波は力づよく、恐ろしく、まわりの音どころか人の命も奪います。それは事故かもしれませんし災害かもしれませんし、『万座』に戦後の空気が色濃くおさめられていることをおもえば海没した兵士たちのことも頭をよぎります。

私は海軍贔屓で、もし自分の分身を様々な時代に派遣できるとしたら、分身の用意が100体いや1000体もあれば、1人は海軍兵学校に送ってみたいと思っています。勿論それはロマンとしての海軍であって、自らの死を引き受けているわけではない、無責任な想像ですが。

船に乗って戦地におくられる海兵たちはいわば死にゆくわけです。甲板に出て、相撲を取ってみたりしていても、死ぬまでの寸暇を楽しむような体の悲しみが、あとの時代を生きる私たちの目には見えてきます。

いま、もし、その体を死にゆく体と呼ぶならば、戦後には生き延びてしまった体というものもあったのでしょう。不死男の代表句ともいわれ、『万座』におさめられている〈終戦日妻子入れむと風呂洗ふ〉には、そうした類いの悲しみがあって、平穏な社会になって妻子ができて内風呂ができて、しかし生活の狭間に、過去が身を離れずにつきまとっているような疲労感を読み取ってしまいます。

潮風の吹きつける岬の木にしがみつき、腹を震わせて鳴く蟬の目も同じような悲しさや疲労感を帯びているようです。蟬の寂かな目は、陽を受け白飛びしながら陽を照りかえす海の広がりの底に、あまたの思いが沈んでいることを知っています。

海のことを母なる海と呼び、人の意思を超えた巨大な存在としての海を讃えることも一つの祈りですが、それでも人の世界には人の感情があり、海に融和されない塊として心中に留まります。悲しみや怒りを見つめ、決して溶けることのないその痛みを抱える目が、寂かな目なのだと思います。

記 平野

鯛焼が冷めて野球をまぶしく見る 大塚凱

所収:『或』(ふらんす堂、2025年)

 凱さんはけっこう良い球を投げる。比喩ではなくベースボールの話である。筑波山の宿の前の道路でキャッチボールをしたのは、私も凱さんも学生だったから、だいぶ前のことだ。凱さんは小さなテイクバックから(そのフォームからかつては内野手だったのでないかと推測するが)スピンの効いたボールを放ち、ボールは糸を引くようにしてグラブに収まる。『或』にも野球の句が少なくないと言える程度には野球を材とした句がある。

恋びとを呼ぶナイターのうねりのなか 005

後逸を墓参の人が投げ返す 019

代走が木の実みたいにすぐ還る 019

鯛焼が冷めて野球をまぶしく見る 046

ナイターの歓声遠く尿熱く 136

涸れ川よふりさけみれば盗塁死 150

 これらが技術的に良く出来ていることは当然として、これらを見て思うのは、ある熱狂のただ中に素直に身を置けないナイーブさである。野球を向日的に楽しむ訳ではなく、どこか醒めた観察者の位置におのれを設定する。〈鯛焼が冷めて野球をまぶしく見る〉であるとか〈ナイターの歓声遠く尿熱く〉は、まさしくそうしたポーズが野球という場において行われたものと見える。熱狂と自分のあいだには距離が設定されている。

 けれども〈恋びとを呼ぶナイターのうねりのなか〉からも分かる通り、そこに疎外されながらも何ゆえか身を置こうとする態度も見える。ここにあるのは冷笑という態度とも違う。思うに、熱狂から身を引き剥がすのではなくて、そのうちに消費的に留まって、ナイーブに微笑むか、理知による処理が的確に行われる(「木の実」の喩や「ふりさけみれば」の言語遊戯など)。そしてこれが、『或』に見られる根本的な態度なのだろうと思う。『或』という句集で通奏低音的にとられるこの態度には、正直少し辟易するところがないわけではない。演出的私性の仮構が鼻につくということもまあそうなのだが(それはしかし他の句集だってそうだろう)、何よりもこうしたナイーブさも理知的な技術も、とはいえ「それが行われることが熱狂そのものに何ら働きかけない感じ」がするのだ。そして作中主体もあるいは作者もそれを了解している感じがする。野球という卑近なことに対してもそうだし、資本主義とか、アメリカの覇権主義とか、終わらない日常とか、震災とか、オウムとか、それらに対しても概ね似たスタンスがとられているように感じる。

 つまり、わたしは、初読のとき、幾らか記号的・演出的に処理されたものとはいえ「諦め」のようなものを『或』からはつよく受け取ったのだった。どこにも外部がない息苦しさの反復、そのなかで生きていくしかないという感覚が『或』という句集に立ち込めている。これらを書き留めたことは言うまでもなく『或』の達成ではあるが、とはいえ、『或』がそう簡単にそのオルタナティブを示さなかったこと(と私は思っているのだけれど)が、大塚凱の世界認識の厳しさ・リアリズムなのだとすれば、それがしんどく、悲しかったのかもしれない。この世界がそういう世界であることは(自分の実人生だけでもお腹いっぱいなくらい)知っているから、そういうことよりも、この世界でどう遊べばいいのかをわたしは教えてほしかったのかもしれない(実世界で凱さんがそういう風にかつて関わってくれたように)。周囲の『或』読者と話したときにこの感覚は分かり合えないところだったから、ひっそりと胸の内に感想をしまっていたのであった。

 ところで、春先の時期の休日は、プロ野球のキャンプ映像を見ながしながら作業をすることが多い。ノッカーがグラウンドにひたすらと打球を打つ。黙々と選手が捕球して、握り変え、流れるように送球して、元の位置に戻る。そのさまをだらだらと見る。これまでに積み重ねられてきた数限りなき反復が、その選手の動きに与える洗練された美しさ。それが、選手のその一回性ある身体の動きを通じて、この世にあらわれでるのには見とれる。

人っ気ひとつない侘しい球場で、彼らの野球はいかにも、妖しい美しさにみちあふれ、社会の誰からもかえりみられずに、むしろ、退廃にちかい孤絶の状態で、狂おしい饗宴をくりひろげている。人間のからだが、あのように伸び、曲がり、蹴り、投げ、走ることから、いわば、舞踊のエッセンスともいえる美の造形にむかって、もてる力のすべてを集中する。その集中の過程で、ひとはじふんの性格をしり、個性をみつけ、運命をかんじとり、世のなかを生きていく意味をわかりかけてゆく。彼ら選手たちのプレーが美しくうつればうつるほど、ひとびとの心のなかに、野球は生活そのものを反映する実体となってゆくのではないだろうか。(虫明亜呂無「名選手の系譜」より)

 いまはわたしは『或』の句を、職業野球のノックのように眺めることが出来る。書きつけられた句を、書くという営為の末端にあるものとしてとらえ、その末端から、書くという営為そのものを、ノックの一連の身体所作を、その送球から逆回転的に想像するようにして眺めなおすとき、書かれたことを虚心に受け取るよりも充実した何かを、受け取ることができるのではないか。『或』はこういう読みにおいて、その洗練を強度として見せてくれる。それはテクニックというよりもテクネーと呼ばれるような、それ自体作者の生と関わりあったありようを開陳しているはずで、それを感受するとき、『或』は諦念の句集ではなくなる、と思った。

記:柳元

真白き箱折紙の蟬を入れる箱 生駒大祐

所収:『水界園丁』(港の人、2019年6月)p.112

話は遠回りになるが去年、吉田秋生作の漫画『BANANA FISH』をふと思い立って一気に読んだ。NYのストリートギャングのボスの青年アッシュと、日本からやってきた普通の青年英二が「バナナ・フィッシュ」という謎のワードを追う中で大きな陰謀に巻き込まれてゆく、といったあらすじ(話の内容はこの句とは全く関係ないがよい作品なので未読の方は是非)。

ラストページは天井視点からの日光がいきわたる室内の風景。
細い線に縁どられて浮かび上がる「白」が印象的なこのページに「真白き」掲句を思い出した。

掲句には作為性(貶しているわけではない)が多分に含まれている。
「箱」のリフレイン、単なる「白」ではなく「真白」、そして生きている「蟬」ではなく「折紙の蟬」そして、その「折紙の蟬」を箱に入れる、という意味は理解はできるが背景は見えにくいシーン。
上記が醸す虚構の匂いは、折紙の蟬を白い箱に入れるという行為に見え隠れする「祈り」なのか「哀悼」なのかそういった類の感情を生々しく描くことはしない。逆にその感情を捉えにくく、茫漠とさせ大きな「余白」を作る。
その作為された「余白」にこそ私はより、「祈り」や「哀悼」を見出してしまう。

「真白き箱」」の中の暗闇、その中の「折紙の蟬」、箱に入れるときに感じる「折紙の蟬」の薄さ・軽さ、折紙を折るという行為に加えてそれを箱にしまうという丁重さ……。

『BANANA FISH』のラストシーンも、掲句も、作為された余白の曖昧な雄弁さを私は好んでいるのだなと気づかされる。

『水界園丁』は装丁も非常に素敵な句集で、滲むような文字のフォント、ページの手触りや余白がこの句をより引き立てている。是非句集を手に取って読んでほしい。

記:吉川



プリン・ア・ラ・モードの模型ガラス越し 頭おかしくなるならちゃんと 絹川柊佳

所収:『短歌になりたい』(短歌研究社、2022.5)

 上の句の詰まるリズムと描写から、刺すように下の句が広がっていく。
 きれいすぎて・つらすぎて、感情が極まって「頭おかしくなる」、あるいは、頭がおかしくなるくらい感情がいっぱいだ、という言い方はいろいろなところで見かける。そういう表現からこの歌が突出しているのは、「ちゃんと」まで言い切ったことにある。/適当に「頭おかしくなる」と言っているのではなくて、「頭おかしくなる」とはどういうことかを想像して、それに向き合って、「なるならちゃんと」まで思考を届かせたことの誠実さが表れている。

 当然のことながら、「ちゃんと」「おかしく」なった場合、困るのはこの主体の方なのに、きっぱりと「なるならちゃんと」と言い切れるそのスタンスのかっこよさ、潔さがある。そしてそれが「プリン・ア・ラ・モード」の言い方や、「模型ガラス越し」のリズムの詰まりと内容の透明感・近くにあるのに遠い感覚 と響きあっている。

 作者の絹川がどこまで意図して作っているかは分からないが、「アラモード」「ガラス越」「頭お」の部分が、a → o の流れで重なっており、見た目以上に発声したときに音が気持ちいい。この韻律の流暢さ(むしろaからoに上下する忙しなさ)が、「頭おかしくなるならちゃんと」をより裏側から支えているというか、インパクトを強めていると思う。

 そしてこの歌は、プリンアラモードのことが大好きすぎて頭がおかしくなりそうだという読みと、頭おかしくなる理由とプリンの模型はそこまで関係ないという読みの2種類が考えられる。まあ、プリン大好き読みも面白いが、90%は後者の読みで合っていると考えられる。関係ない、というか、それが悩みの直接の種ではないが、悩んでいることを思い出させるトリガーとして「プリン~模型ガラス越し」が機能したということだと思う。/思い切ったことを真剣に言う切実な歌で、それを韻律がしっかり支えている、ずっと記憶しておきたい歌の一つである。

『短歌になりたい』は良歌ばかりで、引きはじめると大量に好きな歌はあるが、特にこの歌に関係するような歌をいくつか紹介する。

わたしがわたしを守ってあげる シャーペンの芯を多めに詰める
目を閉じて限定ボイス聴いた夜 心の位置に灯っていった
音もなく上から下に降る雪を見ていた人格が消えるまで
極端に大きいものか極端に小さいものにしか惹かれない 私の人生は筒の中
後戻りできないように無理をしてきたのに ちょうちょ型水溜まり

 これは絹川が特にそうというよりは、単に私が、心が遊離するような・自分を客観視するような文章が好きだから、そういう歌を意識的に集めているというだけのことかもしれない。/「わたしがわたしを」の時点で、思惟する私と、対象の私の二つが分離している。そこにシャーペンの仕組みが重なってくる。/「心の位置」。灯る心と、それを把握する主体(脳・気持ち)。/「人格が消えるまで」のはっきりとした言い方。ただ私はこの歌に暖かさを感じていて、それは「消える」という自動詞的な言い方にある。”人格を消す”という他動詞の言い方であれば冷たいなと思うけど、「消えるまで」だから、ぎりぎり「人格」に対しては少し優しそうに見える。/「人生は筒の中」。頭がおかしくなったら困るのは主体、と同じように、自分の人生を「筒の中」と例えることで辛くなるのは主体自身じゃないのか? と心配になる。意外にけろっとしているものなのか、開き直って言っているのか分からないから、どう声をかけていいか分からない歌。/「無理をしてきた」とここではっきりと心のことについて述べている。この歌における「ちょうちょ型水溜まり」は、機能として「プリン・ア・ラ・モードの模型ガラス越し」と同じだと思う。プリンの歌と合わせて、悲しく切実な名歌だと思う。

 というように、自分自身や心について、ガラス越しに眺めてあっさりと言い切るような姿勢が見られる。この妙なさっぱりの気質が、定型詩である短歌と相性がいいと傍から見て思う。余計なことを語らせない短歌と、余計なことを語る気が無い作者と。/絹川のnote(https://note.com/kngwshk/portal)で作品がときおり更新されているため、ぜひそちらをチェックしていただきたい。いつになるかは分からないが、第二歌集がもしいつか刊行されるとすれば、本当に心から楽しみにしている。

記:丸田

 

蟇と生れて爆音下なる高歩み 加藤楸邨

所収:『加藤楸邨句集』(岩波書店,2012)「まぼろしの鹿」

新興住宅地を抜けると、年中湿っぽく、どの家の壁も蔦で覆われているような、ほんとうに人が住んでいるのか不思議になるくらい、ヒッソリとした場所に出る。そこでよく、ヒキガエルを見かけたなとおもいだす。

この世に生まれ出ることは、ヒキガエルとしてでも、たとえ他のかたちの生物だとしても、まずはじめの暴力的にさらされる経験で、選びようのない体をあたえられ、選びようのない環境に放りだされる。

空から爆弾がふってくるようになったのも、ここ百年くらいのことで、この時代に私が生きているというのは偶然にほかならない。空爆は人を選ばずに、ただそこに居合わせたというだけで、人を死へといざなう暴力だけど、ありがたいことに私は空爆にさらされる経験をまだしていない。

ヒキガエルとして、爆弾降りしきるなかで生まれる。暴力にさらされつづける中でのこの高歩みはさまざまに解釈することができる。周囲に惑わされず毅然としているともとれるし、周囲に気づかぬマヌケともとれるし・・・・・・。でも、思うのは、ヒキガエルとして生まれたからには高歩みして体を動かすほかなく、高歩みを寓意や象徴として解釈する以前の、その肉体のかたちで生きなければならないことへの悲しみが、高歩みそのものに宿っている。

楸邨といえば人口に膾炙しているヒキガエルの句は《蟇誰かものいへ声かぎり》だけど、このスローガン的なヒキガエルより、生の悲しみに触れるような、掲句におけるヒキガエルのありように私は軍配を上げたい。

とはいえ、ただ体を前に進める身ぶりよりも、誇示・反抗するヒキガエルが必要とされる時代はあり、そして現在、わざわざこんなことを私は書かなくてはならず、どもった口ぶりになっている。

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掲句の収録された『まぼろしの鹿』は第2回(1968年)の蛇笏賞。掲句は「寒雷」(1953.9)が初出。

記 平野

ブルーデージーこころにさきがけて涙 神野紗希

 所収:「noi」vol.4

 涙はほしいまま流したり止めたりすることが出来ぬ。むろん噓泣きとか演技の涙というものはあろう、意識して涙を流すことは出来る、しかしそれは涙ではなくて単なる水に過ぎぬ。

 涙とは、言葉の網目がこころのうちに感情を発見するよりも先に、頬につめたくつたう感触でわがこころの機微を教えてくれるものだ。感情はいつも涙に遅れて見つけられる。遅く来た理性の言葉によって名前が与えられる。

 涙がいつもいちばんはやい、嬉しいとき悲しいとき悔しいとき、感情的緊張に立ち会えば、涙という機構はいつもそれを素早く感知して、わたしに知らせた。涙はこころの下部組織でない。涙は涙として独立し、迅速に動いた。涙はなにより涙を流す主人を慰めんとして、一番先に駆け付けた。涙はこころの換喩として美しいのでない。涙はそれ自体のはやさをもって美しいのだ。 

 ブルーデージーはキク科フェリシア属の植物。ブルーデージーという名前がついているけれどもデージー(雛菊)とは種類が異なるようだ。淡い青がほっそりした花弁にやわらかく行き渡るさまが優しい。

記:柳元