朝顔にありがとうを云う朝であった。 大本義幸

所収:『硝子器に春の影みち』沖積舎 2008

 当書には〈八月の広島に入る。声を冷やして、ね〉、〈海をてらす雷よくるしめ少年はいつもそう〉など自由律作品に佳句が見られる。攝津幸彦と比べて読むと多くの共通点があり、そこから拡げて読む分析はまたいつかするとして、今回は、掲句は何に「ありがとう」と言っているのかということについて、水と樹と人の関係から考えていきたい。(以下引用はすべて『硝子器に春の影みち』より)

①水・樹・人の連関

 樹と水と人、この三つが関わっている句が、大本には頻出している。

  そは父か背後で水がゆれている
  寒の雨くらき臍へとあつまりぬ

 水の気配がしている。背後の水、臍にあつまる雨。次のような句では、わたし自身に直接水を繋げている。

  河の名もわが名も消えていつかのどこか
  水の流れがどこかで消えるわが生も
  わたくしとは雨に濡れた三和土である

 名や流れが共に消えることから、人生を水流に映し見ていることが分かる。これ自体は変わった発想ではないが、どちらも「どこか」と分からない未来について場所で暈かしている点は気になる箇所である。三句目の「雨に濡れた三和土」は、後に挙げる人と樹の関係にもつながってくるが、雨に濡れ、雨が染みこんだ三和土のその状態に自身を重ね見ている。血管や水分をその中に巡らせている身体をそこに見たのだろう。

  鐘が鳴ったら降りてゆけ星は泥へ水は樹を
  樹を見ていた水の流れを見るように

 水は樹との連関を以て何度も描かれる。「水は樹を」降りてゆく。この「を」によって、樹の中を脈々と降りて行こうとする水が見えてくる。表面に伝うのではなく、内部を進行しているような。「水の流れを見るように」樹を見る。水の流れを見るということは、その動いているものを視線は追っている。樹はただ立っているだけであるから、本来は視線が動くことはそれほどないだろう。つまり、「ように」とは言いつつ、本当に樹の中の水を追っているのではないだろうか(ぼーっと見ているようにも考えれるが、それなら「川を見るように」などで良い。わざわざ「流れ」が出されていることから、視線の動きを感じる)。
 水に人を重ねみて、樹に水を感じる。そして当然の流れで、人と樹を水を通じて繋げて見る。

  樹と竝てば肋骨に水が流れているね。
  水の衣を脱ぐと樹になるのだとあなたは。
 ときに群衆のなか樹を胎す娘たち

 肋骨(あばら)に水が流れている。先ほどは「水の流れを見るように」樹を見ていた。樹と並び立つことで、樹の水の流れと、自身の身体の中の肋骨で水が流れているのを感じる。樹と自分が、水を通じて相似になっている感覚。この水が無ければ、「樹になるのだ」とあなたは言うが、むしろ水があることで樹になれるのだと言っているのではないか。三句目では「樹を胎す娘」と、樹と人間を過度に同化させている。

 これらの句の表現から分かるのは、何かと何かの共通点から、それらを繋げようとする視線が強いことである。樹と人は、水を介してそれが行われた。これは結局、比喩、ということではあるが、「繋げる」という意識が特に強いように思う。(たとえば「彼は花のように美しい」と言ったとして、「美しい」を共通点として美しい彼と美しい花が同じ台に上げられる。しかしこれは彼=花を推し進めるものではない……)

②透視

 共通点から繋げる、という表現は、その共通点を見つけるところから出発する。これは、透視そのものであると思う。

  樹のこえ葉のこえアスファルトに屈めば親し
  とはいえふきあれる樹の土に屈むも

 樹を透視しようとして屈んでいる様子、というふうに思える。

  蘭の店過ぎるとき君の肋骨透く
  水仙の咲く岬、そして畦・畝・産道

 「肋骨透く」。この句だけを見ると何を言っているのかという感じだが、蘭を見て、よく見て、そして君を見たとき、そこに「肋骨」が透けて見えた。ぴたりと、重なったのだろう。「水仙の咲く岬」、ここまでは良いが、「畦・畝・産道」と展開が著しい。通過する道や場所であることが共通点となり、岬から畦や畝に繋がっている。「産道」が急に飛んでいるが、これは水仙という花が影響したのは一目瞭然である。先ほどの樹にも似て、水のイメージが、岬から産道まで屈折させた。

 この透視する主体や視線が、大本に頻出の単語「硝子器」に結びついたのだと私は考えている。

  硝子器に春の影さすような人
  生き急ぐ、硝子器に 風は充ちてよ

 タイトルにも取られた句である。透けて何かを繋げるということそのものが形になったような硝子器。邪魔なものがなく、そのまま繋がり合うのを支える様な物体。〈硝子器に〉について大本はあとがきで「けっして不幸ではないのだが、背筋がぞくぞくとする春のしずかな昼と、いまのこころの状態がよくよく似ているのでこの題をつけた」とある。「影さすような人」が案外アクロバティックな表現だと思われるが、今までの透視を思うと、スムーズに理解できる。

③「ありがとう」の対象

 ここにきてようやく、挙げた句に触れる。

  朝顔にありがとうを云う朝であった。

 朝顔の存在をまるっと飲み込んで、その小さな存在にありがとうと言っている可愛い素敵な朝、というふうに初めは読んだ。それは今もそこまで変わってはいるわけではないが、①、②のことを考えると、どうも朝顔を通して、それ以外のものにも言っているような気持がする。

 最終章である「五章 拾遺・硝子器に春の影みち」において、急に「地球」という語が何度か姿を見せる。

  ある日ふっと”地球”と呼びたし水の星  (「地球」に「テラ」とルビ)
  包とは愛、あいで青き地球をつつめ   (「包」に「パオ」とルビ)

 かなり強くはっきりと表現している句である。ここで地球は「水の星」「青き地球」と表現されている。そしてなんとなく愛すべき存在として描かれている。
 朝顔は、紫やピンクと色があるが、青色もある。そして②に挙げた蘭や水仙の句、ほかに〈人体に冬の桜も来ていたり〉のような句から、花と人との連関も見られ、これは①のように、水を介していたりする。

 ここから、朝顔からその中の水、そしてそこから地球に繋がっているのではないか、と考えている。(若干無理があるようにも思われるし、そんなことは書かれていないし、そう読むのがこの句にとっていい読みであるかどうか考えるとそれほどでもないのかもしれないが、句集を総合するとその視線が窺える)

  ハロー 夜。ハロー 静かな霜柱。ハロー カップヌードルの海老たち。/穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』2001

 突然だが、穂村弘の一首を引く。この歌では、「ハロー」という挨拶が、「夜」から始まり、「カップヌードルの海老」まで到達している。大きなものから小さなものへと。これは、いい意味で、というか、露骨に嘘っぽい。それらを発見して、「ハロー」と本当に言うか(思うか)。海老はまだしも、「夜」に、こんなにもけなげに「ハロー」と言うか。夜に対しての「ハロー」(朝にするはずの挨拶)という面白さと、ささやかな発見と、嘘っぽくも明るい主体、が同居したおしゃれな歌である。(一時期日清カップヌードルのCMに、『AKIRA』の大友克洋の絵に宇多田ヒカルの曲が流れるというものがあったが、あんなふうに……)

 この、底なしに明るいような、全世界への挨拶、的な感覚が、朝顔への「ありがとう」ではないだろうか。朝顔に水を見て、地球を透視し、朝顔を通して水の世界へ感謝をする。そしてそれらは、その視線のなかで繋げられていくため(①参照)、自分の人生についても、ありがとうと言っているように感じられる。生きてきたことへの大きい肯定や、人生を行えた場への感謝。もしかしたら、朝顔に自身を重ねて、自分自身へ(人生の長い時間を含め、)言っているのかもしれない。「ありがとうを」の、「と」ではなく「を」である点も、ただ言っているだけでなく、とにかく私はこれが伝えたいのだという強い意識を感じ、朝顔の向こうを濃く感じさせる。
 何への「ありがとう」なのか、その読みの一つとして、地球やこの世界への開けた感謝を挙げておきたい。

補足:掲句は拾遺の章に入っているが、これより前に〈朝顔にありがとうを云う朝もあった〉の形で記載されている。「も」が「で」になり、句読点が追加されている。一回きりの場面になること、その場面に集中すること(「も」だと他の朝が普通で、こうなるのはまれだ、ということになる)、「。」でしみじみとその朝が余韻をもって広がっていくことから、私は圧倒的に改変後が好みである。

記:丸田

ひきだしに剃刀くもる旱り星 飴山實

所収:『少長集』(自然社 1971)

勝手にジュブナイル精神の句として、他の句と頭のなかでまとめている、つまり「十五の夜」である。十五歳はひきだしに物を隠したりする。親きょうだいに見られたくない物を学習机のひきだしに入れて、ときおり取りだして眺めたりする。隠した物はなにか、掲句では剃刀である。なんとも不気味だ、そして曇っている。十五の心の陰影をうつしたかのようにくもり、剃刀はひきだしの暗闇で佇んでいる。

なんといっても極めつけは旱り星だろう。この季語の斡旋は十五の焦燥感を引き出しているように思う。天にぽつりと赤い星がある。炎天つづきで渇ききったそれは、十五の心のように孤独かもしれない。赤い星は動かずにじっと僕を見ているかもしれない。引き寄せられていく心、ちょっとの震動で崩れそうになる心。

ところで、飴山實は社会性俳句の中心であった「風」に所属したのち、五年間の中断を経て、ふたたび作句をはじめる。そのとき芝不器男の句に触発された事は、よく知られているだろう。その芝不器男には「研ぎ上げて干す鉞や雪解宿」の句がある。これは心理の危うさで一脈通じていそうだ。また、飴山實に私淑した長谷川櫂には「研ぎあげて包丁黒し秋の空」がある。刃物はよく切れる。

                                    記 平野

かの世より飛び来たる矢にいなびかり 野見山朱鳥

所収:『野見山朱鳥全句集』内『愁絶』より 1971 牧羊社

思うことに、かの世より飛び来たる矢というのは果たして幻ではない。否、それは間違いなく幻ではあろう。かの世より矢など飛び来るはずもない。それはどんな矢であろうと、うつつの世で質量を伴うはずはないのである。飛びざまこそ美しくとも所詮幻想の矢に過ぎぬ。いなびかりと幾ら重ね合わせようともそれは幻であって、朱鳥が言語遊戯的に見出した修辞に過ぎない。

しかしそれは朱鳥も承知のこと。朱鳥が筆をとり一句をしたためるとき、虚構がリアリティを帯びる。矢は美しく枝分かれしつ放物線を描き、地上を轟かす。風を鳴らし立てながらわたくしの眼前を通っていく。いなびかりが矢を一瞬光の照らすところとする。いやいなびかりそのものが矢なのだ。照らすのもいなびかり、照らされるのもいなびかり。あらわになる幻の矢の影かたち。そしてそのとき、矢が風を切る音をぼくたちは確かに聞くだろう。虚構のなかのリアリティというものに近代俳句が名を付けたところが写生であったということをぼくらは思い出さねばならない。

果たして朱鳥は写生の作家だったのだろうか。上記の理由でなら、ぼくはそれを首肯したい。それは朱鳥の生涯と決して未分化ではない。戦後俳壇に彗星のごとく現れ、虚子をして「茅舎を失ひ今は朱鳥を得た」と言わしめた書き手でありながら、病床に伏し、空想の中で激烈な句を記した。そういう人物像に鑑みたとき、ぼくは写生という言葉が似合う俳人はむしろ高浜虚子より、高野素十より、同時代の波多野爽波より、野見山朱鳥だと思う、というのは言い過ぎだろうか。

記:柳元

亜麻色の燦 丸田洋渡

 亜麻色の燦  丸田洋渡

空に棹さして四千の演奏

うっとりと虹の骨子を呑みこむとき

萍をすべらせ川の正しい地図

流しそうめん場の小さな滝と洞窟

しずかな日のしずかな殺人水芭蕉

雨、雨、縫合の亜麻色のさなかに

羽のあるゆたかな舞踏草いちご

花潜ひかりの網にかかりつつ

浮上 いちめんにすずしくて合図は

繭こわれ渦のかたちにやまない燦

 *萍(うきくさ)、燦(さん)

小鳥来て湖に雨続きけり 阪西敦子

所収:『俳コレ』邑書林 2011

 「小鳥来る」は秋の季語。さっぱりとした読後感のある1句。
 「小鳥来る」は字面や、歳時記で引けば『白髪の乾く早さよ小鳥来る』(飯島晴子)などがでることから分かるように、日差しの明るさなどをイメージさせる季語であり、それに「雨」を配したことに意外性がある。
 句の内容はシンプルで静けさに満ちていて、静物画を見ている気分になる。が、小鳥という小さなモチーフから、「湖」(場所)、「雨」(空間)、「続きけり」(時間)、と語を順に連ねることで、どんどんとイメージを広げていく句の構成は非常にダイナミック。

記:吉川

ひかる絃肺胞がひらきゆく海霧 宮本佳世乃

所収:『三〇一号室』港の人 2019

 宮本の第一句集『鳥飛ぶ仕組み』(現代俳句協会、2012)では、〈ひまはりのこはいところを切り捨てる〉、〈ともだちの流れてこないプールかな〉、〈鍵さして抜いて涼しくなる準備〉など、すらすらと流れていくような言葉のリズムと雰囲気に、一歩不思議な視点や発想が加わって、涼しげで独特な手ざわりの句群が光る句集になっていたと思う。

 第二句集『三〇一号室』では、第一句集の傾向も残してはいながら、より古くからの「俳句っぽさ」(型、のようなもの)が色を濃くしており、私としてはやや窮屈そうに見える句が多くあった。ただその中で掲句は、言葉の雰囲気、流れ、発想ともに美しく、ひろびろとしており、第二句集の中では特に一押しの句になった。

 実際の景は想像しにくい。光っている絃。肺胞が、海霧をひらいていく。肺胞は酸素と二酸化炭素を交換する場所であり、体内に数億個存在する。海霧のなかで呼吸しているのだろうか。
「肺胞がひらきゆく海霧」は、体のなかの肺胞の内部で起こっている微小なことなのか、肺胞を通して今体外へ出されようとしている海霧、のような大きい運動に目を向けたことなのか、分かり切らない。肺胞という数億の小さい組織に、海霧という大きな現象が繋げられて強引に景を揺り動かす力になっていることは分かる。
「ひかる絃」との繋がり方も分かり切らない。絃を弾こうとするときに息を吸い込んでいるということか。ただ絃がそこに在るだけなのか。

 想像する光景がうまくまとまらない中で、「ひかる」「絃」「肺胞」「ひらきゆく」「海霧」という単語たちの空気感が心地よく伝わってくる。「ひかる」「ひらきゆく」の平仮名の動詞のやわらかさと、「肺胞」や「海霧」という漢字の硬そうな熟語の格好良さがうまく絡み合って存在している。「ひかる」「肺胞」「ひらきゆく」のハ行の音も空間を和らげている。分からないが、見ているだけで伝わってくる絶妙な感覚。
 これは良い味わい方ではないのかもしれないが、絃や肺胞や海霧が一句に同居している、同時にそこに居合わせたからこうならずにはいられなかった、というような句である気がして、その偶然の共振というか、句(世界)の緊張・弛緩を見ているだけで満たされていってしまう。夏の静かな空気感と句の語の雰囲気にただ圧倒されてしまう。

 あるときには自分が絃を弾いているような気持ちになり、あるときは空中に絃が浮かんでいるのを幻視しているような気持ちにもなる。

 私は、この見るたびに姿を変えてしまうような、眩しくどこか不安定な句に惹かれている。『三〇一号室』には、他に〈キツネノカミソリ金網の向こうは水〉〈風光る丘の話をしてゐたる〉、〈いちめん青麦ひとりひとり浮く〉、〈ブルドーザー中学校のプールに苔〉などがある。

記:丸田

日々明るくて燕に子を賜ふ 飯田龍太

所収:『忘音』(牧羊社 1968)

 コロナ禍の当初より、とどのつまりこういう事なんだなと、ひとりで納得していた。

 まず注意しておきたいことがある。掲句の読みとして「毎日が明るいので燕が子を身ごもった」というように、接続助詞「て」を原因・理由と取り、明るさと妊娠を結びつけることが出来る。しかし、それはいかにもロマンチック・ラブ・イデオロギーであり、一句としての色彩を欠くように、私は思う。

 日々が明るいこと。燕が身ごもったこと。この二つの事象はまったく別の〈自然〉の事実として存在し、そこに関連を見出すことは、人の意志の操作である。その意志の操作を掲句は寄せつけない。

 日々が明るい、結構なことである。明るいとは感度であって、幸福につながる。しかし幸福とはせず、外が明るいと事実を差し出す。明るさは所与のところであり、心の状態で多少の差はあれども、受動的に感じるより他はない。

 そして「賜ふ」と、敬意が表されている。子は天からの授かりものだから、神様ありがとう。などの世にあふれた考え方ではなく、もっと懐はふかくあるのではないだろうか。畏敬と既成の熟語を利用してしまえばそれまで、読みから大切な部分を見失っている気もするが、要するに〈文化〉より以前の〈自然〉に対しておののく、これは受身な態度になるのも仕方がない。

 他でもなく、この二つの事実を並べたところに、龍太の操作は当然あるだろう。また、ここまで述べたような効果を狙っていた様子も感じる。ただしその操作は決して、因果関係で繋げさせるためではなく、二つの事実に通底する〈自然〉の大きさを、読み手に意識させるためである。そしてこの鑑賞もまた、私の意識の操作である点で野暮に違いない。一句は一句として受け止めるべきである。

記︰平野

                                    

虹を懸け時が到ればまた外す 山口誓子

所収:『和服』1955 角川書店

地球という星があり続けるに当たって不必要としか思えない現象が幾つかあって、虹という現象もその一つだと思う。

虹は、どことなく他の自然現象とは異質で、特別な感じがする。単純にその色遣いの豊富さであるとか、天に架かるはるけさに心打たれるのかもしれない。時たま現れる神秘性もまたその感覚を強めるのだろう。

世界各国、様々な民族が虹に対する神話なり俗説を持っていると思われ、虹の根元には財宝が埋まっているという言説しかり、虹を蛇とみなす神話類型しかり、文化人類学的にも非常に考察のしがいのある代物となっている。

さて、山口誓子の句においては、神とでも言うしかないものが虹を懸け、そして暫くすればまた外すのだ、という。機知を感じさせる把握で鼻につかないわけではないけれども、もし神がそういった気まぐれで虹の架け外しを行っていると考えれば何処となく可笑しい。もう少し他にやることがあるのではないか。

記:柳元

【勝手に座談会】『俳句』5月号

『俳句』5月号(角川文化振興財団 2020年)を肴に、勝手に若手で座談会をしようという企画です。事前に一人三作品良いと思ったものを選んでおき、それに基づいて平野、丸田、柳元、吉川の四人で話しました。なおこれは2020年5月24日にZoom上で行った会話を文字に起こしたものとなります。

 

〈選の結果〉
中田尚子「巣箱の底」柳元・吉川・丸田(3点)
正木ゆう子「草を踏む」柳元・吉川(2点)
能村研三「暮靄」丸田(1点)
福井隆子「春のスカーフ」平野(1点)
内海良太「野火」平野(1点)
染谷秀雄「春の草」柳元(1点)
山田閏子「武蔵野の空」丸田(1点)
吉田林檎「しろがね」平野(1点)
若杉朋哉「昼寝の子」吉川(1点)

○連作としての高い完成度――中田尚子「巣箱の底」

柳元:まず点数が高かった順にやっていきましょう。中田尚子さんからですね。三人とっているわけですけど、伝統ぽい句づくりで季語もハマっていて単純に完成度が高いなという感じがしました。好きな句でいうと〈見えてゐて遠き一村桃の花〉〈平凡な木に春の鳥やつてくる〉とかも好きだった。

吉川:伝統の文脈にあるというのはその通りで、力んでいない良い句という感じですね、いい軽みというか。〈苗札の沓脱石に散らかりぬ〉とかいうどうでもいい些細なことも軽いテンションの文体で書かれていて、一読して通り過ぎてしまうかもしれないけど、この12句で見るとまとまりがあるというか。

丸田:そんな大好きというわけではないけど、他の人と比べて圧倒的に連作として読みやすかった。語の雰囲気とか表現が十数句揃ったときにバラバラじゃなくある程度統一されているという意味で読んでて楽だし。多分この句風の気取ってない素朴な感じもプラスされて、そうなんだろうと思う。さっき言ってた〈見えてゐて遠き一村桃の花〉〈平凡な木に春の鳥やつてくる〉とか〈昔から水切が下手あたたかし〉とか。12句として非常にまとまっているというか。

柳元:取りにくい句がなかった気がしますね。この句が入ってたらこの連作を推せないみたいな句がわりとなかった。

丸田:ていうか、連作として見た時にそれが結構大きいんだなと思いましたね。他の人の連作には目立って良くない句が多すぎて。

一同:辛辣(笑)

柳元:そういうもの言いがあるといい感じになると思う(笑)

丸田:僕はどんどん言っていきたい。

吉川:角川の『俳句』のような総合誌に載っている句って、連作として読むことが不適当な作りになっているものが多いよね。作品を集めましたよというか。

丸田:それはそうだね。これはまた後で触れようと思ってたんだけど、千々和恵美子さんの「ポンペイ」の一連は、本当に行ったんだという説得力があった。突出して良い句があったというわけでは無いんだけど。

○海外詠、観光俳句について――千々和恵美子「ポンペイ」櫂未知子「オホーツク」

柳元:せっかくだし千々和恵美子さんの「ポンペイ」の話にします? ぼくは海外詠としての出来はよかったと思うけど、言っちゃ悪いけど所詮海外詠というか。じゃあ有馬朗人がやったこととどう違うんですかというとそんなに更新されてないぞというか。高山れおなが「イスタンブール花鳥諷詠」とかやっていたけれど、そういう試みが有馬朗人的な海外詠を虚ろにするというか、内側から押し崩すようなアンチテーゼとしてやってるものなわけで。「ポンペイ」は既存の海外詠の枠組みとしては十分成立しているなと思いましたけど。〈浮彫の女神立夏の水飲み場〉とかは好きでした。型のバリエーションがある人だなという感じはします。

吉川:今までの有馬朗人的文脈の海外詠っていうのは海外の固有名詞に音数をとられるから大づかみになりがちだけれど、この句はそうじゃないという。

柳元:でも観光俳句の域を出ないみたいなところは考えたいところじゃないですか。櫂未知子の「オホーツク」って連作があったけど。あれもぼくとしては……。

丸田:いやこれは、柳元くんは北海道で育ってきたというのも加わって、怒るだろうなと思いました。

柳元:あはは、いやー(笑)。

丸田:〈アイヌ語を話したくなる名残雪〉とか。

吉川:この一句は決定的に駄目だったよね。作品以前の問題として。

柳元:倫理の問題だよね。観光俳句のひとつの正解として〈流氷や航跡すぐに閉じられて〉〈あをぞらの端にさげたる干鱈かな〉は「あ、観光したんですね」というか、それ以上でもそれ以下でもないような句だと思いますけれど。だからといって害はないですよね。でも〈アイヌ語を話したくなる名残雪〉は駄目だよね。簡単にアイヌみたいなものを表象する態度が。文化の盗用みたいな問題も現代はあるわけでしょう。

丸田:「名残雪」も良くない。暴力的なまでに忘れ去られようとしているアイヌに重ねて付けたんでしょうけど、そこの判断に時間がかかっていないように見える。ものすごく簡単に「名残」という言葉で拾ってる。悪意はないのかもしれないけど(あったらあったで困る)、これだと「話したくなる」が単純に「味方だよ」という素振りのようにしか見えない。「話したくなる」が、アイヌの方々や土地や歴史を鑑みての奥底から思う真の共感なんだとしたら、それが切に現れる様に書く深慮を、季語の選択に見たかったです。

柳元:そう。消えていくものに対する安易な共感というか。櫂さんの句集名の『カムイ』もさ、ぼくはそれなりに怒っていますよ。カムイはアイヌ語で「神」ですね。カムイとか言うならちゃんと北海道を書きなよと思うんだよな。これまでの北海道の俳人、例えば新興俳句弾圧事件で検挙されのち北海道に移住した細谷源二とか、「鶴」のち「壺」を創刊する斎藤玄とか、あるいは「寒雷」系の寺田京子とかがやってきた、土着的でヒリヒリするような仕事があるわけじゃん。それだけが正義なわけじゃないけれど、でもそれを知っておきながら『カムイ』とか付けちゃえるんだあというか。これまで北海道を表象しようとして風雪の中に倒れていった人を軽んじているというか。うーん。

○安定のよさ――正木ゆう子「草を踏む」

柳元:正木ゆう子さんはぼくと吉川がとっているけれど、反応を見る感じだとみんな十分取っていい水準の連作だったという認識でよいでしょうか。

平野:いやあ、もちろんとれます。

一同:(笑)

柳元:ぼくは〈吾が見れば吾の痕跡初蝶に〉とか好きだった。

丸田:同じく。

柳元:これすごい良いよね。あと正木浩一さんの死の回想が挟まっているのも連作として分厚くなる感じがした。〈よい考へブルーフィッシュの如く散る〉は、池田澄子―佐藤文香の流れに通ずるような口語の感じがする。こういう句も書けるんだよなと。〈人類なくば太陽さびしからむ朱夏〉〈ひとつぶの露に撃たれてほろぶべし〉はかなり書きすぎではあるけど、こういうような句も大味ながら昔からの持ち味だったなと。そして鷹渡りの一連もよかったですね。〈遥かならば白濁として鷹柱〉〈三千羽一声もなく鷹渡る〉とかよかった。

平野:よかったね。白濁はなかなか書けないし、遠くから見ることで立体感が想起されて視点のとり方が上手いと思った。

柳元:〈消ゆるまで見送れば鷹消えにけり〉は石田郷子の燕の句を思い出した。

平野:〈来ることの嬉しき燕来たりけり

柳元:そうそうそう。〈よき枝のあれかし旅の夜の鷹に〉は意味としては通り過ぎるからここまで書くと書きすぎかなと思うけど、全然とれるなという感じ。あと最後の方も好きでしたね。〈灯のおよぶ限りの雪へおやすみなさい〉〈美しいデータとさみしいデータに雪〉とか。冒険してるというか、新しいことやろうとしているなと。

吉川:50句あるということが大きいと思うんだけど、文体的なトーンはずっと一緒の感じはあるんだけれども、視点とか内容とかに多彩さがあるのがいいなと思いました。今までの正木さんの延長にある句もありつつも、微妙に〈くもの糸ひひらぎの葉を転めかし〉みたいなトリビアルな視点を持ち合わせているというのが、正木ゆう子のいいところだなと。

柳元:50句だれないで読ませられる正木ゆう子すごいよね。

丸田:うん、そこはやっぱり凄いなと思った。鷹のくだりは良い眼差しだと思いつつ自分はそこまで乗れなくて、でも連作の一つの仕掛けとして充分愉しく読めた。

平野:〈蟷螂の足繊々と草を踏み〉とか〈縁の下の奥は月夜の砂漠かな〉とか、ピントをどんどん絞っていった結果、大きな世界が完成していてこれはいいなあと思った。つまりカメラワーク的にさ、焦点を絞っていくと箱庭みたいな空間が一句の中に生まれるでしょう。それで相対的に物体が大きくなるというか。例えばここだと、蟷螂の足にピントを合わせていったことで、草のへこんでいる様子がくっきりと見えてくる。普段の生活では聞こえない小さな音まで、しっかり伝わってきそうだよね。

柳元:ズームアップする感じ?

平野:そうそう。

柳元:よっとくんはどうですか?

丸田:僕は〈吾が見れば吾の痕跡初蝶に〉の句が一番良くて。まあ発見したことをそのままはっきり言っている句だと思うんだけど。自分の視線とか認識が蝶に残るというのはふつうに、面白い!と思って印象的でした。色んな人に見られて大量の痕跡が残り、また見なければ残らないことを考えると、「見てしまう」ことに潜伏している危険、みたいなものも感じてひやっとしました。同時に、「吾」の強い繰り返しと季語からそう思ったんですが、この「吾」は、初蝶という初々しいものに自分の痕跡を残せて嬉しがっているようにも少し感じられて、それだとちょっとどうだろうとは思いましたね。全体的に色んなことをしようとしている感じがあって、50句全体で見て好印象でした。
 ちょっとだけ指摘すると、いい句は一杯あるんだけど、後半の最後の〈白菜を宮殿として棲むもよし〉とか笑いに近い面白さに特化した句がちょくちょくあるじゃないですか。〈梟を見たと頭を回し見す〉もそう。かっこいい系と面白い系が混在するのが読みの姿勢を惑わせちゃっている気がして。俳句はそもそもこういう滑稽みのある句も範疇の中に入っているだろうけど、これがちらちら混ざってくると、どういうテンションで読んでいいか悩むときがあった。〈よい考へブルーフィッシュの如く散る〉もそうで、読むたびに姿勢を変えてこっちが味わっていかなきゃというか。50句もあればそうなってくるのかなあとは思うけど。

柳元:いろんなこと試しているがための弊害というか。

丸田:まあでも全然良いです。ありがたいくらいだった。

一同:確かに(笑)

吉川:面白い句が連作に含まれるのは第三句集の『静かな水』でもそうだから、昔からなのかなという感じがします。〈魔が差して糸瓜となりぬどうもどうも〉とか。

丸田:改めてこれが巻頭50句なのは良いですね。

柳元:だいぶ5月号読む気になった。

吉川:一番好きな句はみんなと一緒で〈吾が見れば吾の痕跡初蝶に〉の句でしたね。

柳元:ほんとうにいいよね。

吉川:私の知ってる正木ゆう子とはまた違った感じだな。正木ゆう子には、〈水の地球すこしはなれて春の月〉とか一読して句意がよく分かる上で、イメージを何度も噛みしめたい句が自分にとって多かったけど、この句は一読して意味が分かった上で、初蝶と吾の関係性とは?痕跡とは?と考え直したくなるというか、含まれる意味の量が多いですね。

柳元:ふむふむ。みんな肯定的な感じでしたね。

○名詞で書く――能村研三「暮靄」

丸田:〈暮靄とも潮ぐもりとも遠干潟〉が格好よくて、一目で惹かれて採りました。「暮靄」は夕暮に立ちこめる靄のこと、「潮ぐもり」は潮が満ちる水蒸気で海上から空が曇ることですが、この二つも季語なのかと錯覚する。遠干潟の風景を言い直してる、捉えなおしているっていう、結局ずっと同じものを言っている句ではあるけど、そこが良い。言い直されていく言語上の感覚が、その単語の持つ雰囲気と混ざって、捉えなおそうとする心情が干潟の感覚と合致して、何とも言えない良さを醸し出していると思った。表現も内容も好きでした。〈涅槃図の畏れかしこむ膝の距離〉の「膝の距離」の落とし方も面白い。自分が好きとするタイプではないけど、他の連作とは違って読み留まらせる迫力みたいなものを感じました。〈啓蟄の馬蹄形なる古隧道〉〈面箱のなかはおぼろの大癋見〉とかの、漢字三文字の単語の強烈なパワーで攻めてくる感じ。下五が効いている分で言えば、〈春愁の籠れる窓は嵌め殺し〉も。

柳元:これめっちゃいいね!

平野:うんよかった。〈膝の距離〉の落とし方、なにかが面白いのは分かるし、下五をそうすることのうま味があるのも分るけど、なんで面白いのかが分らないんだよね。

丸田:僕もよく分からない。分からないけど、面白いのが分かる、というのは分かる。

柳元:全体的な傾向として名詞フェチ感ありますよね。いいなあ。

吉川:後だしじゃんけん感あるけど、私も予選ではとりました。句風にばらつきがなくて連作として見た時に安心して読めるのがよかったのと〈面箱のなかはおぼろの大癋見〉とか名詞の喚起する力を活かしたパワーがある、いい句が多いなあと思ったんですけど、さっきの分からないけど、おもしろいという意見に同じでこの人のよさをを理解しきれていないと。

柳元:正木ゆう子に続き、能村研三もみんな割と推している感じでした。

丸田:基本的にはこの〈暮靄とも潮ぐもりとも遠干潟〉が、角川『俳句』5月号の全ての句の中で好きでした。

柳元:丸田洋渡特選が能村研三に入るとは。

○「椿垣」で勝った――内海良太「野火」

平野:最初の二句が好きだったというのが大きくて取ってみたけど。〈灯台の灯の回り来る椿垣〉いいよね。「回り来る」で灯の動きが見えるし、照らされることで「椿垣」が現われて来るんだなと思うと、モノの質感がくっきりとして良い。〈春雷にしては大きく響きたる〉も椿垣の句と同じで、作者の発見した質感が書きとめられていたと思う。

柳元:ぼくも最初の二句好きだったな。そこから取りにくくなったよね。

平野:それはそうだね。〈鮟鱇の混沌としてこの重さ〉は自分の結社なら取る人が多そうな句だと思う、なにが面白くて取られているのかがまったく分っていないから、なんとも言えないけれど。

柳元:うむうむ。ぼくのもその句も好きかな。〈捨て船の竜骨あらは揚雲雀〉とかが入ってくるとなあ。ちょっと大味。

平野:うんうん。

吉川:全面同意って感じですね。

丸田:一句目、平野くんに言われて、あ、いいなと思いましたね。

柳元:ね。「椿垣」で勝った感じがするね。「灯台の灯の回り来る」まではわりと書ける感じがするけど、「椿垣」はなかなか書けないなあと。

平野:あと〈枯蘆をばりばり踏んで残る鴨〉とか、「ばりばり」は常套的な擬音だからもっと手が込んでいても大丈夫そうだけど、「残る鴨」がいいよね。水辺を滑ってるところではなく、陸を歩いているのが。そう考えると枯蘆と季語を持ってきたのもなんだか効果的。冬であることが強調されていて、冬の景として実感が生まれる。

○ヘタウマについて――福井隆子「春のスカーフ」

平野:「春のスカーフ」ね、正直なところ技術としてはそこまで上手くないと思ったんだけど。ベタついた叙情の感じとか、懐古的なテーマで押しているところとか、個人的に好みだった。最後におかれた〈父の鍬なり春の土匂ひけり〉はかなり叙情に寄っているけれど、連作としてみたときにこの句で締めているのも推せる。個人的なルーツというか、自分の存在に関わってくるような句で、作者の主題が見えてきた。

柳元:ぼくもとるなら最後の〈父の鍬なり春の土匂ひけり〉かな。でも〈風光るセーラー服に線二本〉とかはあんまり。

平野:確かに風光るでは余りにも青春くさい、昭和歌謡で歌われてそうな青春。でも、これくらい絶妙に下手な方が叙情としては目立つのかな。

柳元:ヘタウマみたいな。ガレージバンド的な。確かにね。長谷川櫂さんとか意図的なヘタウマじゃないですか。だから叙情があるというか。岸本尚毅さんに全く叙情がない無機質っぽいかんじがするのはのもそういうことなのかなあ。

吉川:ちなみに私も平野くんと同じような感じで採りかけてた。凝ってない表現が、句が描きたい叙情と合ってるっていう。

丸田:一周回って、ですよ。

吉川:読者が一周回って読んでる。

丸田:ちょっと下手な方が、あるいはそう見える方が、叙情を感じやすいかもというのは、いい指摘なんじゃないですかね。

○骨太なこなれ感――染谷秀雄「春の草」

柳元:〈天竜川の土手遥かなり猟名残〉〈荒鋤の田にまぎれたる春の草〉とかは普通に悪くない骨太さかなというか。写生がうまいですよね。〈どこからか水流れ来て蕗の薹〉とか。地に足がついているというか。ヘビーめの感じというか。〈長閑なり川の流れのなき如し〉の見立ても、実のある写生句の中で見ると素直に受容できる。

丸田:僕は〈どこからか水流れ来て蕗の薹〉は「蕗の薹」かあと思った。疑念の余地があるというか。

柳元:うむ。ただ〈無人駅出でて海辺のよなぐもり〉とかはあんまりだった。「無人駅」とかこういう分かり易い語で地方性を表象するのはもういいんじゃないかなと。

丸田:この方なりのお洒落なんじゃない。

柳元:キツイこと言いますね。

丸田:いやいや、というのも、他の句を見てみても、出てくる単語はどれも言えば自然的で、「稚木」「荒鋤」「一叢」「名草」「莟」「靴底」「小石」とか。だから、そういう単語に限らない句をたくさん作っている僕からすると、「無人駅」という語は俄然こちら側に感じる。実際、こちら側(側、とかは無いけど、)からすると、「無人駅」は簡単に雰囲気が出せて使いまわされた単語ではあるけど、この方にとっては、自身の域からは少しだけ離れたお洒落な語として使った可能性が高いんじゃないかなあと、なんとなく思ったわけです。

吉川:さっきの人がヘタウマと言われているのに対照的に、こなれ感を感じるというか。〈紅梅の稚木なれどもよく匂ふ〉とか。逆説を使うことで1句をなすっていうのは常套技術ですよね。こなれ感が12句続いているから安心できるなと。

柳元:普通にうまいですよね。こういうのにぼくは櫂さんの観光俳句と反対の、その土地の息遣いを感じますけどね。

○妙なマジシャンのシャッフル――山田閏子「武蔵野の空」

丸田:〈傍らに人の気配や梅に立つ〉がいいなと。人の気配がしたあと「や」で切って「梅に立つ」って持ってくるのが不思議だなと思って。梅っていうのが分かれば、人の気配がしたのなら、そりゃ立ってるのかなあとも思うんだけど、改めて「梅に立つ」と言われることで自分も人も気配も梅も全部一回リセットしてまた出来上がる感じがして、妙なマジシャンのシャッフルを見せられた感じがしました。ただ他の句は、単語に負けてるかなと思いました。〈陵の昏さに癒す花疲れ〉は「陵」という単語の良さに覆われて、「花疲れ」の交換可能性が上がるというか、そっかあ花疲れを癒しているのかあ、とはなりにくい。〈花衣それも吉野へ行くからに〉は吉野の世界だけで終始していて、季語としての花衣もそのワールドの単語すぎてやや説得力に欠ける。口調だけで、新しさはなくて。〈かたかごの花は飛びそう走りそう〉も表現としては面白そうだけど、それ以上に感動するものは無く。もう少し面白くできたかなあと思っちゃいました。

吉川:むしろ〈傍らに人の気配や梅に立つ〉はこの人の本質じゃないよね。この句は本人の意図しない所で変になっちゃった感がある。

柳元:うん。それからぼくはわりと〈花衣それも吉野へ行くからに〉は意外と嫌いじゃないけど……

平野:わかるわかる。

柳元:そう、ぼくと平野は花衣の句好きなんだよね(笑)あとは全面同意ですね。

平野:連作の感じはあんまりしないよね。〈陵の昏さに癒す花疲れ〉の次に〈長身のスーツ姿や入学す〉が来るのには少し驚いた。

丸田:そう。そこだいぶ飛んでる。

吉川:8句だから難しいのもあると思うけど。私の持ってるホトトギスのイメージとは少し違うから、今のホトトギスがどんな感じか気になりました。

○昔の長谷川櫂ぽい?――吉田林檎「しろがね」

平野:〈しろがねの日に縁どられ袋角〉とかしろがねで心理状態までが見えてきそうで良い句だと思ったし〈柿の葉に包んで焼くも夏料理〉とかは昔の長谷川櫂さんっぽくて好きだった。ちょっと涼しげな空気感のせいかな、柿の葉を持ってくるあたりとかもそれっぽい。

柳元:たしかに!〈柿の葉に包んで焼くも夏料理〉は昔の長谷川櫂だ!(笑)

吉川:昔の長谷川櫂の句少ししか知らないけど納得した。

柳元:話戻すけど、ぼくも〈しろがねの日に縁どられ袋角〉と〈柿の葉に包んで焼くも夏料理〉が好きだったな。〈旅鞄ひとつ増やせり夏の星〉は面白くはないけど手堅い。

平野:かっちりしているというか。

柳元:うんうん。

○人を食ったような――若杉朋哉「昼寝の子」

吉川:この句のテンションなんていっていいのかな、人を食いつつ余裕ぶってる感がわりと好きで。

丸田:わかるわかる。

吉川:最初の二句〈かきまぜてみてもきれいな蜜豆よ〉〈こころもち大きな方の柏餅〉はちょっと人を食ってる。〈昼寝の子簡単な顔してゐたる〉〈噴水の夕方になりかけてをり〉は最後の引き延ばすところで、ゆったりする感じが好きでした。ぼくの好みなだけかもしれないけどわりと悪くない気がしてきます。それから〈緑陰の中の日向を見て通る〉とかは意外と繊細目線ももってるんだなと思いましたね。全体を通してキャラクターが確立されてるのがよかった。

柳元:〈こころもち大きな方の柏餅〉はいいよね。この抜き方はどこから来てるんだろう。情報量とかはホトトギスとか、あるいは今井杏太郎とかなのかな。

吉川:〈噴水の夕方になりかけてをり〉はそんなかんじするね。

丸田:杏太郎み、あるなあ。

吉川:この7句はわりと一つの方向性として完成されているよね。ハマらない人はハマらない感じ。〈子にものを教えることの蒸し暑く〉はあまり。それ以外は私はわりとよいかなと。

丸田:僕は好印象だけど、フォーマット通りって感じがちょっとして、もったいないなって感じです。どっかで全部見たことある型で書かれているというか。全部良いんだけど、見たことあるなあ、が先行してしまうというか。

○番外編――山本潔「芽立ち」有澤榠樝「春」松本てふこ「氷柱」

柳元:これで点が入ったやつはやりましたけど、他どうですか。

丸田:山本さんの〈たこ焼きの中身半分春キャベツ〉、いや嘘やんというか適当やんというか、そこが良かったですね。別にそうであっても知ったこっちゃないと言うのがまずあるし、「キャベツ」だというのなら分かるけど「春キャベツ」なのが、なんとも。僕としては、俳人が書いたな、という感じが良くも悪くもします。春キャベツへの嬉しさは充分に感じます。

柳元:あとは有澤さんの句も好きだったかな。当たりはずれあるけどチャレンジングというか。〈楓の芽くもらぬ雨をいただきぬ〉とか〈春のひる鉱物はもう息をしない〉とか。

丸田:同じく。

吉川:後半が残念だった。〈生き別れ死に別れ後百千鳥〉とかこういう方向性じゃないほうが。

柳元:それはたしかに。色々やってる分粗い感じはする。〈春埃もののかたちにすなほなり〉の句は片山由美子さんのあの句を思い出しますね。

吉川:〈まだもののかたちに雪の積もりをり〉。

柳元:そうそう。あとはてふこさんのどうだった?

丸田:うーん、氷柱や雪っていうテーマが見えて、読みやすくはあったんですが、面白い!と特に思うような句は無かったです。〈粉雪の液晶に触れすぐ水に〉はスマホとかの現代的な道具での一つの発見でいいとは思ったけれど、それなら今回の正木ゆう子の〈美しいデータとさみしいデータに雪〉の方が新しいかなあ、と思いました。

柳元:われわれとパラダイムが違う感じがしますよね。てふ子さんが何をやっているか、ぼくたちの価値観のなかからは見えにくいというか。俳コレでのプロデュースがキャッチーすぎたんだろうな。ミニエッセイを読むと一泊二日の旅行で書いた連作らしいけど、一泊二日で実景ベースで書くとこういう感じになるなあと思った。

○まとめ・総評

丸田:分かってはいることだけど、そもそも若手が少なすぎる。一冊読んで、「個性と個性の対決」みたいものがない。細かく細かく見ていけば、差異はもちろんあるけど、だいたいが文語で素材も似ていて、一冊通してこれを読むことになれば、どうしても宝探しみたいにいい句を探すようになってくる。実際もっと他の雑誌とかってこういう読みはしてないはずで、この人はこういうことやろうとしているし、この人は違うアプローチだな、みたいなところを楽しむけど、そこの盛り上がりに欠けるというか。僕が角川『俳句』に対して、読みが充分に足りなかったのもあるにしても、俳句をやっている自分からしてもこれであれば、客観的に、俳句を知らない読者から見れば(企画以外の作品については)ほとんど一緒に見えるんじゃないですかね。

柳元:正木ゆう子しかわれわれそういう盛り上がり方できなかったしね。

平野:たしかに。

柳元:まあそういうことはつねづね言われていますよね、角川の『俳句』は。結社の大御所から中堅に8句とか12句とかばらまいても俳句シーンは変わらないと思うんだよなあ。30句くれとかは言わないからせめて精鋭10句をもう少し枠増やしてくれたらなぁというのは、若手の思いだよね。締まらない感じですが、これで終わりましょうか。ありがとうございました。

(2020/05/24 Zoomにて)

暮れまぎれゆくつばくらと法隆寺 加藤楸邨

所収:『加藤楸邨句集』(岩波 2012)

俳句を始めたころに好きだった一句、もちろんいま見てもよい句だと思うのだが、勘どころに多少の変動がある。というのも以前はその空間、つまり薄明るい背景に一点の黒として燕が紛れていく姿。そして滲むような暮色に浮かびあがる、法隆寺の屹然とした縦の存在感、と一枚絵の美しさに惹かれていたのだ。

ところが現在は句の丈にながれる時間の長さ、もしくは多重さに心惹かれる。それは燕から渡り鳥として、眼前に至るまでの来歴の想像が膨らみ、法隆寺は世界最古の木造建築と言われるように、その歴史としての厚みは言うまでもないだろう。そして掲句のような景色はこれまで幾度も、繰りかえし現われては消えて、現われては消えて。反復しながら現在まで失われることはなかった、それは翻って無常である。

時間と空間が織りなす網目を自分たちは生きていて、その一瞬を切り取ることだって可能なのだ。そしてその網目のなかに居てこそ、景色は景観ではなく豊かさをもって現われてくるに違いない。

                                    記 平野