春日井建『未青年』を読む

柳元佑太

春日井建20歳の時に刊行された『未青年』(作品社・1960)という歌集は初めから伝説となるべき要素を抱え込み、なるべくして伝説となったような歌集である。17歳から20歳までの歌を所収した一青年の第一歌集に三島由紀夫の序文つき。しかも三島由紀夫をして「われわれは一人の若い定家を持ったのである」と言わしめている。

大作家が無名の青年の序文を執筆することを訝しく思うむきもあろうが、春日井を三島に紹介したのは敏腕編集者の中井英夫。中井英夫は「短歌研究」「短歌」の編集長を務めた所謂「前衛短歌」の仕掛け人、黒幕である。彼が著した『黒衣の短歌史』を読むと、中井が当時十代後半だった春日井に格別目をかけ、総合誌での作品発表の機会を与えていたことが分かる。要するに平たく言えば春日井にはジャーナリズムの中に後ろ盾もあった。その歳において得られるものとしては最高のものと思われるバックアップのもと『未青年』は世に問われ、世の歌人に賛否ありつつも熱狂的に迎えられ、センセーションを生んだ

また春日井の『未青年』以後の歌集の一般的な評価が余り高くはない(ようにぼくから見える)ということも、相対的な『未青年』の価値を高めてしまっているように思える。『未青年』以後の春日井に向けられた読者のかような眼差しには同情を禁じ得ないが、しかしそのような受容こそが『未青年』を「伝説」に押し上げたのも事実であろう。

とはいえ、伝説など犬も喰わない。一読者として春日井のテクストに忠実に精神を浸して、『未青年』を受け取りたい。ある種の古典は、己に引きつけてある種強引に読まれることを待っている。だいたい、例えばドストエフスキーやサリンジャーを醒めた批評的な「大人」の精神で受け付けて何が得るところやある。精神的な成熟を迎える前の人間が一人部屋に籠り読むべき書という愚かなカテゴライズが許されるならば『未青年』もそのような種類の歌集であるように思うし、ぼくのごとき生意気な(!)未だ精神の青く熟していない読者の評を『未青年』が許さなければ嘘であろう。

さて『未青年』は以下のようなエピグラフから始まる。

少年だつたとき 海の悪童たちに砂浜へ埋められた日があつた あの日 首すじまで銀の砂粒をかぶつて みうごきできない僕が 泣きながら知つたのは何だつたろう 夕焼けの火影となつて立ち動く裸の少年たちにくみふせられたぼく そして 残照にまだ熱い砂に灼かれて 肌はきんきんといたむのだった ああ日輪 みんなの素足が消えていつた砂山のむこうから やがて青ざめた怒濤がおしよせ ぼくのいましめの砂が波にほどけるころひとりぽつちのぼくの真上には 病んだ 紫陽花のような日輪が狂つていた

鼻につくくらい甘美な文章である。ここにはマゾヒスティックな倒錯した快楽に目覚めてしまった非力で泣虫な少年がいる。このエピグラフが見事に導出した、受動的で脆弱な主体は、章の中で主題を変えながら、ナイーブさへの嫌悪(禁忌を侵犯しようとする動き)とそのナイーブさ自体の持つ深さへの逆説的な耽溺を行き来する。なお、一首ごとに評をつけるような野暮はやめようと思う。章から好きだった歌を選んで章ごとに感想を附したい。

「緑素粒」

大空の斬首ののちの静もりか没【お】ちし日輪がのこすむらさき

学友のかたれる恋はみな淡し遠く春雷の鳴る空のした

唖蝉が砂にしびれて死ぬ夕べ告げ得ぬ愛にくちびる乾く

埴輪青年のくらき眼窩にそそぎこむ与へるのみの愛はつめたく

プラトンを読みて倫理の愛の章に泡立ちやまぬ若きししむら

童貞のするどき指に房もげば葡萄のみどりしたたるばかり

われよりも熱き血の子は許しがたく少年院を妬みて見をり

白球を追ふ少年がのめりこむつめたき空のはてに風鳴る

青嵐はげしく吹きて君を待つ木原に花の処刑はやまず

石皿に噴水の水あふれゆけば乳にむせたる記憶の欲しく

粗布しろく君のねむりを包みゐむ向日葵が昼の熱吐く深夜

水仙の苔のしづむ眼の清くみどり児が知恵をふかめゐる冬

青年が恋愛感情を抱く。同性愛のようにもとれる。過剰な身体性を持て余しつつも積極的に動くことは出来ず、むしろ進んで自らの身体の観察者の位置に立ち、自然が火照った身体を冷ます。鬱屈とした性の芽生え。理性による抑えつけが性愛のとめどなさを保証する。濡れ滴るような、色彩的な叙情は圧巻。

「水母季」

襲ひくる兄の死霊を逃れむと帆を張れば潮の香がなだれこむ

水門へ流るる潮にさからひて泳ぎつつ兄の死も信じ得ぬ

生きをれば兄も無頼か海翳り刺青のごとき水脈はしる

潮ぐもる夕べのしろき飛込台のぼりつめ男の死を愛しめり

内股に青藻からませ青年は巻貝を採る少女のために

水葬のむくろただよふ海ふかく白緑の藻に海雪は降る

蝶の粉を裸の肩にまぶしゐたりわれは戦火に染む空のした

兄よいかなる神との寒き婚姻を得しや地上は雪重く降る

白猫の眼にうつされし灯が揺れて父の胸奥【むねど】にねむる軍港

舌根が塩に傷つく沖にまで泳ぐともわれはけだものくさく

亡くなった兄への愛、思慕と恐れ。兄への挽歌であるのだろう。兄と自分は鏡像関係にあるようにも読めるし、兄弟間での愛というものも仄めかされる。敗戦後十五年しか経っていないことを考えれば南洋で死んだ(とされる)兄のイメージはリアル。

「奴隷絵図」

ミケランジェロに暗く惹かれし少年期肉にひそまる修羅まだ知らず

エジプトの奴隷絵図の花房を愛して母は年わかく老ゆ

略奪婚を足首あつく恋ふ夜の寝棺に臥せるごときひとり寝

有頂天に生きてみづみづと孵化しゆく少年の渇を人らは知らず

火祭りの輪を抜けきたる青年は霊を吐きしか死顔をもてり

牛飼座空にかたむき遠くわれに性愛を教へくれし農夫よ

子を産みし同級の少女の噂してなまぐさきかな青年の舌

絵画や彫刻のモチーフが頻出。この辺りから家族や血の「待逃れがたさ」を朧げに感じ始める。〈子を産みし同級の少女の噂してなまぐさきかな青年の舌〉が男性の身体性の暗がりの中に発見している獣臭さは、案外表面的に見えるけども、キャッチーで届く。

「雪炎」

季めぐり宇宙の唇【くち】のさざめ言しろく降りくる冬も深まる

肉声をはるかに聴きてくだりゆく霧の運河にひたる石階

だみ声のさむき酒場に吊られゐて水牛の角は夜ごと黝ずむ

膝つきて散らばる硝子ひろはむか酔漢の過失美しければ

帰りゆくさむき部屋には抱くべき腕さへもたぬ胸像【トルソオ】が待つ

ことばなど失ひはてむ日がくると仰げり小暗く雪の舞ふ空

雪の冷たさの中に熱が見出されるという在りようは、この歌集における作中主体の在りようともリンクするのではないか。

「弟子」

ヴェニスに死すと十死つめたく展きをり水煙する雨の夜明けは

唇びるに蛾の銀粉をまぶしつつ己れを恋ひし野の少年期

刺すことばばかり選べり指熱くわれはメロンの縞目をたどり

石膏のつめたき筒をぬくめゆく若く愛されやすき両脚

無骨なる男の斧にひきさかれ生木は琥珀の樹液を噴けり

傷つけばなべて美し薔薇疹も打撲のあとの鈍き紫紺も

旅にきて魅かれてやまぬ青年もうつくしければ悪霊の弟子

太陽の金糸に狂ひみどり噴く杉のを描きしゴッホ忌あつし

ねむられぬ汝がため麻薬の水汲めば窓より寒く雪渓は見ゆ

力のある歌が並んでいる印象。師弟関係を性的な関係に読み替えていく作業が行われている。思えばこれまでの章でも、同性、血縁関係、師弟関係などの社会の中では性的関係に読み替えることを禁忌とされてきたものを、あえて侵犯している。

「火柱像」

磔刑の絵を血ばしりて眺めをるときわが悪相も輝かむか

ひとときを燃えて悔なし金環の陽が翳るときほそく息吐く

沈丁花の淡紫のしづむ午さがり未生の悪をなつかしむなり

星落ちて宇宙組織の脱落者のわれのみならぬことを哀しむ

両の眼に針刺して魚を放ちやるきみを受刑に送るかたみに

獄舎の君を恋ひつつ聴けり磁気あらし激しき海を伝へる電波

暗緑の菌糸きらめく石壁にもたれて形余の友を恋ひゐき

独房に悪への嗜好を忘れこし友は抜けがらとしか思はれず

軟禁の友を訪ひゆく夜くらく神をもたねば受難にも遭はず

罪を犯し獄へ向かう友人を見送る自分。自分は悪の途に踏み込むことはしない(いつだってこの作中主体は消極的である)にも関わらず〈独房に悪への嗜好を忘れこし友は抜けがらとしか思はれず〉などど述べる。悪への憧れがあるのだが、それを成就させないことにマゾヒスティックな快楽を覚えているようにすら見える。60年という時代を考えれば安保なわけで、独房などどいう語は同時代的状況とも確かに響き合っていたはずである。

「血忌」

晩婚に生みたるわれを抱きしめし母よ氷紋のひろがる夜明け

芽水仙に光が氾濫する昼は累々と毛嫌ひするものが増す

死せる兄生きゐる弟みな冥くながき血忌の胸ふかく棲む

「兄妹」

あばら骨つめたく軋みて氷上を追ひゆかり飢ゑしわれ男巫【おとこみこ】

雪まみれの二月といふにまざまざと干からぶ眼窩もつ兄弟か

千の嘘告げしつめたき愛のため少女の雨の日の夢遊病

「血忌」「兄妹」二つの章とも歌はやや弱い印象を受けたけれども、家族や血という主題についてより厚みが出ている。ただ、この先には天皇制の問題があるはずだけれども、春日井はそこまでは踏み込んでいない。これは春日井の手落ちであると思う。この歌集における唯一の欠点を挙げるとするなら、世界観の構築を優先して斬るべきもののすぐ近くまで到達しながら斬らなかったことを挙げたい。

「洪水伝説」

鉄舟を漕ぎゆか男みづみづと幾千のノアの水漬ける街

水ひかぬ路地の露店に骰子を振るわが欲望の鳥【イアンクス】の泥光る手よ

無尽数の白兎がとべる波がしら大洪水の後も騒ぎたつ

夜の海の絡みくる藻にひきずられ沈むべき若き児が欲しきかな

わが手にて土葬をしたしむらさきの死斑を浮かす少年の首

余剰なるにんげんのわれも一人にて夕霧に頭より犯されゆけり

最後の章。神話と名古屋(春日井健は愛知県の人である)をオーバーラップさせていて非常に読みごたえがあった。水の底に沈んだ大都市名古屋。ああこれだけ豊かな物語をカタルシスで終わらせてしまうんだなという微妙に残念に思う気持ちもありながらだが。

とはいえ春日井建『未青年』を通読して感じたのは、これを過去のものとして通り過ぎるにはあまりにも惜しすぎるということである。幸い、近々読本が出る水原紫苑をはじめとして、健に惹かれ、師事した歌人は多い。それだけ健のエッセンスは歌壇には分有されているはずだし、彼らからにじみ出る『未青年』を感じるのもそう悪くはないはずだ。

*春日井建の表記に誤りがある箇所がありましたので修正いたしました(2021年3月13日)

金沢 平野皓大

 金沢  平野皓大

北国や雪後の町をいくつ抜け

南天の葉の浮きさうな寒の雨

雪だるま百万石のどろまじへ

梅咲かす川淋しくて明るくて

ほつそりと加賀の軒端の雪雫

この国の鱈を昆布で〆るとは

木の芽風入浴剤を撒いてみん

餅食つてちらつく粉は粉雪は

雪吊にいつしかの鳶腹を見せ

駅のまへ雪吊の丈そろふなり

椅子に深く、この世に浅く腰かける 何かこぼれる感じがあって 笹川諒

所収:『水の聖歌隊』書肆侃侃房、2021

 椅子、深浅、「何かこぼれる感じ」となんとなく曖昧なもので構成されている。見過ごしてしまいそうになる薄味の歌で、たとえば「この世とは~だ」(塚本邦雄の「ことばとはいのちを思ひ出づるよすが」的な)みたいな切れ味のあるものは用意されていない。
 が、この一首は、この一首全体で、静かで鋭い切れ味があるように思う。

 上の句は読みがいくつか考えられる。ひとつは、椅子に深く座ることが、同時に、この世に浅く腰かけることであるという読み。椅子に座るという動作を通じて世界の真理に一瞬触れることになる。二つめには、椅子には深く座り、この世には浅く腰かけると別の行為として取る読み。この世に腰かけるには浅めでいい(浅めにしか座ることが出来ない)という、主体の態度が見えることになる。三つめには、椅子に腰かけたあと、しばらく瞑想のように浸って、空想(脳の遠く)でこの世に腰かけるという読み。「深く、」の部分に時間が置かれることになる。

「何かこぼれる感じがあって」。自分では分からないものが、分からないところで限度の量を迎えていて、零れる感じがした。それが主体自身の中でなのか、「この世」の方で起きたのかは分からない。
 この反応が、なんとも微妙で、だから、読みがどれになるかが特定できないでいる。個人的には、「あって」の部分がものすごくあっさりしていて他人事感があるなと思った。これを、椅子に座ったらいつのまにか「この世」に接続されて、とつぜん零れる感じがした、と巻き込まれたように考えることも出来るし、別に最初から「この世」に深く腰かける気など無く、「何かこぼれる感じ」にハマって度々腰かけているようにも考えられる。座ってしずかな瞑想の果てに、「何かこぼれる感じ」をようやく得て、その達成に自身でもびっくりして「あって」としか言えない(「あった」とは言えないくらいに)、とも考えられる。

 この歌に対して、こちらが浅く腰かけるのか、深く腰かけるのかで、「浅く」「腰かける」の印象や、「何かこぼれる感じがあって」の主体の感覚の見え方が異なってくる。椅子とこの世を繋げて深浅で分かりやすく提示して軽い下の句でおしゃれにしたとも、本当に椅子とこの世に真摯に対峙した結果得られたものをあいまいなままに述べているとも読める。読者の方々にそれは委ねられるが、個人的に私はどうかというと、半々かな、と思っている。歌集に収録されている他の歌を見てみても、水的な感性や感覚で世界を捉えたという静かな歌もあれば、今風なかるい口調と発想で書かれたものもあり、この歌に関してはちょうど半々だと思う。ただそれは悪い意味ではない。こういう世界や宇宙や真理や答えみたいなものに、思いがけず触れてしまったとき、リアクションは一様にしてこうなってしまうのではないか。この歌の曖昧さや軽さが、そのまま、深い部分に触れていることを表しているように思う。一首自体が、雰囲気として、切れ味を持っている。

 最後に、一応この歌は巻頭の一首であり、「こぼれる」という章のなかにある。『水の聖歌隊』というタイトルから含めて、水のような柔軟さと神聖さで、色んなところに着いてしまう、気づいてしまうような歌が多く、掲歌もその一つなのだろうと思う。

『水の聖歌隊』には他に、〈どの夏も小瓶のようでブレてゆく遠近 学生ではない不思議〉、〈そう、その気になれば天使のまがい物を増やしてしまうから神経は〉、〈分別と多感 夜には見えているはずだよ宇宙の巨大広告〉、〈優しさは傷つきやすさでもあると気付いて、ずっと水の聖歌隊〉などがある。

記:丸田

母と海もしくは梅を夜毎見る 岡田一実

所収:『記憶における沼とその他の在処』(青磁社・2018)

日が落ちて夜のとばりが降りる。母を連れ立っての夜の散歩には二た通りの道がある。一つ目は海を見に行く道。二つ目は梅を見に行く道。その日の気分や体力、天候条件などが母子の散歩のルートを決定する。すっかりルーチン化した行程は特に母子に感慨をもたらすこともない。しかしそこには習慣しかもたらす事の出来ない美しい静寂がある。家を出て、歩き、家へ戻る。むろん若干の会話はあるのかもしれないが、二者の成熟した関係性の落ち着きは静寂を損なわない。互いに抱いていたわだかまりは長大な時間が溶解させた。互いを老いゆくものとして意識したとき、母子関係というよりもひとりの個としてお互いがお互いを見つめ直す。

——そんなことがあったりなかったりする夜の逍遥である。道のりの途中には夜の海辺に打ち寄せる波音が待ち受け、あるいはともすれば妖艶にも見える梅の花が香りを放っている。春が来ている。構成的にも見える、冷徹な手つき、修辞の充実にも一言触れねばなるまい。

岡田一実氏は第四句集『光聴』を上梓されるとのこと。2021年3月25日発売。版元は素粒社。

記:柳元

ふたつ 吉川創揮

ふたつ      吉川創揮

咳く度に閃く池があるどこか

猫の目の現れて夜の底氷る

 映画『花束みたいな恋をした』 六句

観覧車を廻る明滅息白し

汝と歩く二月世界を褒めそやし

黙に差す春の波永遠の振り

つくづくしあんぱん割るに胡麻こぼれ

夢ふたつ違う夢にて春の床

地図の町名に汝の名つばくらめ

日・日陰蝶の表裏のこんがらがる

空のまばたきに万国旗を渡す

手押しポンプの影かっこいい夏休み 長嶋有

所収:『春のお辞儀』ふらんす堂 2014

この句についてごちゃごちゃと書くのは無粋というものだが、「かっこいい」という形容詞がまるで感動詞のように機能しているのがこの句の妙だろう。「夏休み」というノスタルジーを含んだ季語が取り合わされることで、この句の「かっこいい」は子供のように素直な(子供を素直なものと簡単に受容するのは好きではないが上手い書き方が見つからない)純度100%の「かっこいい」となる。

手押しポンプがかっこいい、ではなく手押しポンプの影がかっこいい、となっているのも良い。影に注目すること、そこに「夏休み」が取り合わされることで句から浮かぶ映像がコントラストの効いた鮮やかなものになる。

最初子供のように素直な感動がこの句に表れている、と書いたが私はこの句の主体が子供であると限定はしたくない。同句集には次のような句も収録されている。

エアコン大好き二人で部屋に飾るリボン
ポメラニアンすごい不倫の話きく

どちらの句も無邪気な印象を受けるが、その主体はおそらく子供ではなく、大人のチャーミングさが現れている句だ。大人になっても手押しポンプを見たら興奮してしまう私としては、掲句もまた上記2句に連なる1句であってほしいと思っている。

記:吉川

羽根を打つために駆け出すそういえばこの世の第一印象は空 盛田志保子

所収:『木曜日』(書肆侃侃房、2020)

 羽根→手もと(打つための道具が何か想起される)→足(駆けだそうとしている)→(一瞬映像が消える(「そういえば」))→空。何でもない行動と、なんとなく思い出したことが、詩の上で奇跡的な出会いを果たしている一首。

 あまりにもそこにありすぎるせいで意識からは外れてしまうが、確かにずっと空は上にあり、風景の大部分を占めつづけている。「第一印象」という言葉(考え方)を使って周囲や世界を捉えるようになるのは少し成長してからにはなるだろうが、空が広くて青く、そこに辺り全部が包まれているような感覚は小さいころ誰しもが持つのではないか。
 この歌の「そういえば」は、読者(読む人間すべて)の感覚を呼びおこす、一番ちょうどいい言葉だと思う。そういえば空ってデカイよね、みたいな、改めて空を認識するにはちょうどいい距離・温度感。もし「そういえば」が無くて、

 羽根を打つためにわたしは駆け出した この世の第一印象は空

 このように改作したとすれば、たしかに清涼な空気はあるものの、下の句がやや唐突になってしまう。この人(主体)はそう思ったんだな、の段階で止まってしまう。「そういえば」くらいの感覚で思い出されることで、こちらも乗っかってそういえばそうだなと空に思いを馳せることになる。

 世界の第一印象とは、単に想像された頭の中の話だが、「羽根」「駆け出す」という素材・動きと、「そういえば」のおかげで、「この世の第一印象は空」だと思い出させるほどの青空がそこに広がっていることが見えてくる。言われてないのに、ここまで光景がくっきり見えてくる歌もそうそうないと私は思っている。
 もしかしたら、この世の第一印象は空だというのは、嘘かもしれない。第一印象は母親だったり、(産婦人科の病室の天井が)白い、とかそういうものだったかもしれない。ただ、駆け出したその瞬間には、それが嘘でないと自分に信じてしまうくらい、その空が迫力あるものとして感じられた。こういう、下の句でばっさり思い切った詩的な気づきを言うみたいな歌はたくさんあり、それがどう考えても嘘だろうというか、本当にそうか? みたいなものはよくある。ただこの歌に関しては、嘘であってもそう思わせるくらいの力が世界にあったことが(それを快く主体が感じたことが)分かるから、とても読んでいて腑に落ちる。

 わたくしが鳥だった頃を思い出す屋上で傘さして走れば  岡崎裕美子『わたくしが樹木であれば』

 どこまで遡って感じるのか、そしてそれをどこで、どういうことをするときに思い出したのか。岡崎のこの歌も、なんとなく似ていて思い出した。空を見ていると、思いもしないことまで、思い出さされてしまうかもしれない。怖くもあり、美しくもあることである。

記:丸田

夢の世の夢をばつさり松手入 大谷弘至

所収:「古志」(2021年 2月号)

はかない世を慈しんで夢の世と言う。弱々しさの蔓延する夢の世の「夢」の部分をばっさり切り落とすとき、眼の前にはグロテスクな「現実」が立ち上がる。それは夢と現が混じり合ったところの現実よりも生々しい「現実」である。その無謀とも言うべき感慨を包みこんでいるのが松手入という季語であり、季語によって、個人的な感慨は軽やかに乗り越えられ、大きな時空への一体化が図られる。個は消え去り、その代わりあらゆる時間・空間が渾然とした巨大な記憶ともいうべき宇宙が現出する。

この大きな時空への志向を可能にするのが季語への信頼である。信頼とは寄りかかることではなく、疑い続けた上でそれでもなお信じることに決める強さである。それは例えば小沢健二が『天使たちのシーン』で「神様を信じる強さを僕に 生きることをあきらめてしまわぬように」と歌ったところの強さに似て、ナイーブな青年の心を歌った小沢と異なり、掲句はそうした青年期を乗り越えた者が疑心の末に獲得した信頼を感じる。

この精神の強さが、夢の世ではなく「現実」を凝視しようとする掲句の態度に通じる。松尾芭蕉が説いたところの「虚に居て実をおこなふべし」に欠かすことが出来ないのは、この強さではないかと掲句を鑑賞しながら考える。神様を信じられるかどうか、これは人を信じられるか否かに通じ、人を信じられるとき自分も含めすべてを信頼する安らかさへ心は深まっていくのだろう。また、掲句に威勢をつける「ばっさり」は手垢のついた語であるため一層の効力を発揮している。〈平談俗語〉も合わせて思い起こしておきたい。

記 平野

孤児たちに映画くる日や燕の天 古澤太穂

所収:『古澤太穂句集』1955年

掲句には「中里学園にて」という前書があります。調べてみると中里学園は孤児院らしい。初出にあたれていないため掲句が書かれた時期は類推するしかありませんが、同時期に句集に収められている句との関係から推測すると敗戦直後、すなわち1945年から1955年の間であることは間違いないでしょう。

太穂は結核療養の後は終生横浜に住んでいました。運動などで飛び回っていたとは言え、やはり横浜に根差して書かれた句がやはり多いようです。横浜の孤児のことを考えるためには、その孤児の生育環境としての横浜を考えねばならないでしょう。そのためにまず横浜大空襲から話を始めます。

戦中、横浜の街に壊滅的な被害を与えたのは1945年5月29日の横浜大空襲でした。この横浜大空襲は白昼堂々行われました。これは焼夷弾が木造住宅の密集地に与える損害を計測することを目的とした米軍の実験的な大規模空爆であり、横浜市街を中心に大きな損害が出ることとなりました。「横浜大空襲体験講話」によると8000人から10000人の犠牲者が出ており、非戦闘員を狙った住民標的爆撃でした。以後横浜は焦土にバラックが点在することとなります。

『占領軍のいた街 戦後横浜の出発』(横浜市ふるさと歴史財団近現代歴史資料課市史資料室担当編 横浜市史資料室 2014年)に掲載されている戦後進駐軍が撮影した写真などを確認すると、桜木町駅の辺りは焼け残っているものの、市内は基本的に焼野原であることが分かります。

そして日本は敗戦を迎えます。1945年8月30日に厚木飛行場と横須賀港から占領軍の進駐が開始されました。厚木飛行場に降り立ち、タラップでコーンパイプを燻らせ、ポーズを撮るマッカーサーの写真は有名ですね。マッカーサーは日本側の出迎を断り、そのまま横浜に直行しました。このことが象徴的に示す通り、横浜は占領政策の中心拠点となりました。

8月30日から9月2日まで横浜の焼け残ったホテルニューグランドがマッカーサーの宿舎となり、東京に移転するまで同じく焼け残った横浜税関で執務をしていましたし、米軍の捕虜引揚の拠点でもありました。横浜は文字通り米軍の出入口、玄関だったのです(その名残は現在もキャンプ座間、厚木海軍飛行場、横須賀海軍施設などの米軍基地、あるいは根岸、相模原、池子の住宅施設が残っていることからも伺えると思います)。戦後の横浜は米軍と共にあったため米軍及び米軍基地の影響抜きに語ることは出来ません。

例えば米軍兵士相手の日本人娼婦の発生が挙げられるでしょう。中でも、黄金町は赤線地帯(半ば公認で売春が行われていた日本の地域)であり、黄金町周辺では米軍兵士相手の売春が公然と行われていました。不特定多数と関係を結ぶ娼婦もいましたし、特定の米軍将校の愛人となり囲われる「オンリーさん」も存在しました。そのような状況の中で、当然の帰結として米軍兵士の父親を持つ混血児「GIベビー」も誕生することとなります。太穂には〈巣燕仰ぐ金髪汝も日本の子〉という句が同時期にありますが、これはおそらくこの「GIベビー」のことでしょう。

また、寿町は大阪のあいりん地区や東京の山谷に次ぐドヤ街でした。寿町は戦後米軍の接収が解除された1956年以後に形成された比較的歴史の浅いドヤ街で、暴力団の流入もあり、放火や麻薬売買、流血事件などが絶えませんでした。身寄りがない独り者が流れ着くケースが多かったと思く、孤児も多かったようです。

太穂は以上のような「暗い」側面を持つ横浜に直面していたはずであり(ドヤ街の形成は『古澤太穂句集』以後ですが)、このような荒んだ横浜を直視する機会も多かったのではないかと思われます。そして、孤児というのは、こういう環境を所与として育っている者なのです。悪辣な環境の中で、身寄りもなく生活するのが横浜の孤児でした。

また横浜は横須賀港に大陸からの引揚孤児が居つく傾向にあり、また横浜駅が大きな駅であったから地方の孤児も集まって来ていたようです。このような背景に鑑みたとき、太穂が描いた孤児を取り巻いていたのは、現在のような洒脱な臨海都市ではなく、戦後も依然として混沌とした横浜であったと言えるでしょう。太穂の掲句を読むときに想像される横浜、孤児院の外側に広がる外部の横浜は、そういうものでなければならないと思います。

孤児は如何なる処遇を国や行政から受けていたのかについても検討しましょう。孤児に対する処遇については藤井常文『戦争孤児と戦後児童保護の歴史』(明石書店 2016)が詳しいです。そもそも孤児の問題が出てきたのは、当然のことながら戦後ではなく戦中からでした。戦争が激化するにつれ、親が出征して戦死した場合や、学童疎開で子だけが生き延びたケースが表面化し出すのです。

しかし、この頃は戦災遺児と位置付けられており、いわゆる一般的な孤児とは異なる位置付けがされていました。なぜなら戦災孤児は、戦争に殉じて亡くなった英霊たちの子であり、国の子なのです。ですから、最大限手厚く保護せねばならないというのが、戦時中に理念としてあったようです。

厚生省戦時援護課で企画された保護の方針の文言(戦災遺児保護対策要綱案)を見ても「殉国者の遺児たる衿持を永遠に保持せしむると共に、宿敵撃滅への旺盛なる闘魂を不断に涵養し、強く正しく之の育成を図り」とあり、行政政策においての「国子」としての位置付けが伺えます。

しかし、敗戦を受けて「国子」の扱いは「孤児」に戻ってしまいます。著者は人権保護的な理念からではなく治安管理的な理念から、戦後の孤児の保護政策が進められていたことを指摘しています。保護の方法が法律に定めが無かったため、実力行使的な収容が行われました。実際「狩り込み」と言われる、警察や職員による暴力を伴った孤児の一斉収容が1945年12月15-16日の両日に渡って行われ、この日は2500名にのぼる収容者が出たと『都政十年史』に記されています。

ちなみに「狩り込み」は俗称ではなく、行政の通知で平然と使われているところに、この時期の人権感覚がいかに鈍していたかが伺えます。せっかく収容しても施設の設備が不十分であり、衣食住の環境が整っていなかったために脱走者が相次ぐ。それをまた「狩る」。そして又逃げられては堪らないので、逃走防止のために服を着せなかったり、靴を与えなかったり、檻の中に閉じ込めたりする。このような施設が孤児たちにとって居心地が良いはずがなく、また脱走する、というようないたちごっこが続いていました。

法的な対応としては、1945年に「生活困窮者緊急生活援護要綱」が、1946年に「浮浪児その他の児童保護等の応急措置実施に関する件」と「主要地方浮浪児等保護要綱」が通牒されます。しかしこれらはどれも緊急措置的な側面が強く、実地的な対応に関することのほとんどは施設任せで、児童に配慮された内容とは言い難かったようです。そして1948年に児童福祉法が施行されることで、孤児院は児童養護施設となり、少しずつ人権に配慮されたものとなっていきます。

太穂が訪ねた中里学園は、1946年9月に県立の施設として開園しています(現在は閉園)。時系列的には1946年4月の国からの通牒を受け、県としても街に溢れる戦災孤児の収容の必要性を感じていたために開設されたものでしょう。中里学園がどのような保護施設であったのかについては資料にあたれなかったため類推することしか出来ませんが、充分な物資が確保されていたとは時勢的には考えにくいように思います。そのような時勢において、映画が上映される日というのは孤児たちにとっては非常に楽しみなものであったのではないでしょうか。

最後に、映画の内容はどのようなものだったのでしょうか。戦後の映画製作、上映にはGHQの統制があったことを忘れてはならないでしょう。

敗戦を受け、GHQの指令のもと、戦時の映画産業に対する国家統制は廃止されました。代わりにGHQが新たな方針を策定し、その指針に沿った映画産業の復興が試みられます。GHQは映画会社に対し「日本ノ軍国主義及軍国的国家主義ノ撤廃」など占領の基本目標に基づき「平和国家建設ニ協力スル各生活分野ニ於ケル日本人ヲ表現スルモノ」「日本軍人ノ市民生活ヘノ復員ヲ取リ扱ヘルモノ」「労働組合ノ平和的且建設的組織ヲ助成スルモノ」など 「映画演劇ノ製作方針指示」を示しました。ここでGHQは日本という国に民主主義を根付かせるための手段として映画を活用せんとしていたことが分かります。

また戦前の旧来的な思想に通ずるものは、製作だけではなく上映も禁じられていました。GHQは「反民主主義映画の除去に関する覚書」を発表し、国家主義や軍国主義の宣伝に利用された「封建的法典の遵奉、生命に対する侮蔑、武士道精神の強調」 などを内容とした日本映画を上映禁止処分とされています。

これを考えたとき、おそらく孤児院で上映されていた映画もこのような制約を多分に受け、民主主義的な新しい価値観に合わせた映画が上映されていたと考えて良いでしょう。太穂は「燕の天」という開放的で底抜けに明るい季語を取り合わせていますが、これにより映画の内容や、そのときの孤児院の気分が良く出ているのではないでしょうか。ある種の言祝ぎのような季語の斡旋に、太穂の戦後を喜ぶ朗らかさを感じます。

古澤太穂は1913年の生まれの俳人。本名太保(たもつ)、1913年に富山県上白川郡大久保村の料理屋兼芸妓置屋に生まれています。太穂は父死去による経済的困窮から母に連れられ東京、のち横浜へ転居。太保自身も家計を助けるため、様々な職を転々としつつ勉学に励み、1938年に東京外国語学校専修科ロシヤ語科を卒業します。しかし直後喀血、5年間の療養生活に入ることとなり、この療養生活中に水原秋桜子が主宰する「馬酔木」と出会い、1940年10月の「寒雷」創刊と同時に同誌に参加しています。以後は楸邨を師と仰ぎつつ、主宰誌「道標」や新俳句人連盟などを中心に活動しました。また俳句だけでなく政治運動や社会的な実践でも活躍しています。内灘闘争(石川県河北郡内灘町の米軍の試射場の設置に反対する運動、1952年から1957年の米軍撤退まで行われました)や松川事件(機関車転覆事故に関わる戦後最大の冤罪事件、1964年に全員無罪が確定)の支援を主とし、レッドパージの嵐吹き荒れる中で、大小様々な左派的な運動に精力的に携わっていました。

記:柳元

めまい  丸田洋渡

 めまい  丸田洋渡

ふしぎな舌もちあげ春の水琴窟

足は汀に飛行機のおもてうら

子どもにも大人のめまい蝶撃つ水

片栗の花サーカスのはなれわざ

とつぜんに雪の術中小さな町

岬の密室どこまでが蜂の領域

輪のような推理きんいろ函の中

騙りぐせある蜂に花史聞くまでは

水景に祠のきもち誰かの忌

桜ばな樹の怪ものの怪ゆめみるとき