時と場のあるしあわせを踊り切る 古谷龍太郎

所収:黒川孤遊 編『現代川柳のバイブル─名句一〇〇〇』理想社 2014*

 「時と場のあるしあわせ」。時間と空間が用意されていること。
 「踊り」に極端に寄せて、ダンスの発表会と取り、発表会場がある(設営等をしてくれた)ことや自身に演技時間を作ってくれていることに感謝しているとも考えられなくはない。が、「時と場」という抽象的な単語に引き戻しているところから、そのような小さいイベントの話ではないような感触がある。もっと大きなもの。

 簡単に思いつくもので言えば、「生」がある。生きていく時間や生きていられる場所があることの嬉しさ。「しあわせ」という直截な言い方も、自身の生の蓄積から来るあたたかい感謝、肯定と考えると納得できる。
 そう見ると、「踊り切る」の「切る」の部分に、最後まで余すことなく人生を楽しみ尽くすぞという意志の力強さと同時に、場や世界に(それが神に与えてもらっていると考える人は、神にも)感謝しながら今にも踊り(=生)を終えてしまいそうな、緊迫した切なさも感じる。例えば下五が「踊りをり」であれば、今幸せを噛みしめているように、幸せが前面に出てくる。更に「しあわせを」が「しあわせに」であれば、幸せだから嬉しくて踊っている、というふうにより幸せが強くなる。
 「しあわせを」「踊り切る」。どうしても切なく聞こえてしまう。

 初めにこの句を読んだとき、「しあわせ」があまりに奔放というか、素直に言いすぎだとばかり思っていた。しかしその切なさを考えると、「しあわせ」とまで言ってしまいたい感覚が分かる気がする。どれだけ波乱な人生だったとしても、「いい人生だった」と言って死ぬことが出来れば、それは自分にとっていい人生だったことに(少しくらいは)なる。それに似ているように思う。

 上からさらりと読めば、時と場があることを幸せだと受け止め、その幸せの中で踊っている、くらいのあたたかく勢いのある句になる。そして最後の「切る」によって、幸せを十分に味わってその中でその踊りを完結させようとする、切ない力強さ・潔さが一瞬見える。その一瞬で主体が、まるで無茶して踊っているように、「しあわせ」と口にすることで「しあわせ」と捉えられると信じているかのように見えてくる。踊ってきた分の、生きてきた分の意地、みたいに。しかしそれは本当に一瞬のことで、瞬きして上から再び読めば、何事もなく幸せを全身で味わっている至福の表情に戻っている。

 「しあわせ」という柔らかい言葉と、それに比べるとシャープな「時と場」、そして若干の意図や意志が現れた「切る」によって、この句は妙な奥行きを実現している。

*本来、句集等を引くべきだが、句集が手に入らず確認できていないため、アンソロジーをそのまま記した。確認でき次第追記したい。

記:丸田

花火 これ以上の嘘はありません 福田文音

所収:黒川孤遊 編『現代川柳のバイブル─名句一〇〇〇』理想社 2014*

 そんなにもはっきり言ってしまうなんて、と驚きで虚を衝かれた。花火という、どう考えても、どう書いても綺麗に映ってしまうような現象を、「これ以上の嘘は」ないとバッサリ断ち切る。その潔さにかっこいい、と思う。

 この「これ以上の嘘はありません」については、読みがいくつか考えられる。花火が嘘であるとして、(花火と、それにまつわるものに対して)否定的な見方をしているようにも考えられるし、花火を嘘としつつも「最上の嘘である」と、嘘の(ような)輝きを褒めている、ともとれる。どちらもが混ざっているようには思うが、私としては前者に傾けて読みたい。
 というのも、これは俳句とは違って川柳である。これが俳句であれば、季語を綺麗に高めようとするのではないかと思う。嘘のようにきれいな花火、と花火に帰ってくるような作り方で。しかし、「花火」のあとに一字空けをして即座に嘘だと否定するのは川柳らしく、季語(としての力)が無効化されている。花火という夏や秋の現象だけでなく、「花火」と発せられた会話や、そう書かれた文章もここに含まれているような感触がある。
 そのため、書いてしまえば美しく「なってしまう」ものに対して、それに何の気を遣うことも、恐れることもなく、美しさを簡単に出して楽しんでしまっている人たちに向けて、そんな嘘ある? と責めているように感じられる(私だけが被害妄想的にそう読んでいるだけかもしれないが)。

 ただ、このメッセージは、同様に、この句自身にも適用されることになるだろう。「これ以上の嘘はありません」と指摘する材料として、嘘みたいに美しくて(俗な表現をするならば)エモい「花火」を持ってきているわけで、この句自体も、その「嘘」の恩恵を受けていることになる。
 しかし、無自覚に発言するのと、それを「嘘」と分かっていながら敢えて使うことには差がある。表面的には同じ「花火」でも、この主体から発せられる「花火」の方が信頼できるだろう。――と書いてから気づいたが、「嘘」と分かっていながら使うのは、本当に信頼できるだろうか。それはずる賢く乗っかっているだけで、むしろ、純粋に無自覚な方が、まだいいのではないか。でも、無自覚な、言ってしまえば暴力的な使用と、それに気づいて「嘘」だと指摘することは、大きく懸隔しているから問題はないのか……?

 とぐるぐる考えるに至る。少なくとも確実に言えるのは、この句を、最初に書いたように「花火を嘘だなんて、かっこいい」だけで終わらせてしまっては、「花火」と同じである、ということである。この句によって何が問題視され、これを言うことでこの句の中で何が起こっているのかを考えていくことが、この句の(誠実な)味わい方なのではないかと私は思う。

 私は、これが川柳であることから、例えば俳句の季語を思い浮かべる。この句の「花火」には「桜」「月」「雪」「風光る」「五月雨」と季語を入れてみても、同じようなことが言えるようにも思う(掲句の、花火であったからこその妙味からは離れてしまうが)。蓄積、と言ったら聞こえはいい表現だが、これも良い良いと言われ続けてきた単語にすぎない。その単語を出すだけで、今まで積み重ねられた良さ、文脈、作品を良いように得られる(得ないようにしようとすると、かなりの困難が付き纏う)。もはや嘘として楽しんでいる節もある。もちろん、そこが良さでもあるから、バランスが大事になってくるだろう。
 俳句に限ったことではないが、何か言葉を発するとき、言葉を使用することで生まれる効果や、言葉と同時に利用しているもの(権力、蓄積など)に、鋭敏に反応していかなくてはいけないと思わせられる作品だった。

*当書には出典等明記されておらず、私も初出が調べ切れておらずアンソロジーからの孫引きになってしまっている。確認でき次第追記したい。

記:丸田

指さきを/ピストルにして/妻撃ち/子撃ち 松本芳味

所収:黒川孤遊 編『現代川柳のバイブル─名句一〇〇〇』理想社 2014*

 松本芳味は〈鳥葬の後も/のこる歯/噛みつく歯〉、〈難破船が/出てゆく丘の/ひそかな愛撫〉など多行形式の川柳を作句したことで知られており、掲句もまたそうであるが、妙な後味を残している。

 指をピストルの形にして、それをピストルとして、妻や子を撃つ夢想をする。もちろん、ピストルといえど指であるから、撃たれた妻も子も死んではいないだろうし、遊戯の一つとしてなされたのかもしれないが、心穏やかではない。
 撃つのであっても、標的は他にいくらでもある(たとえば冷蔵庫、植物、動物、町を行きかう他人)。しかし、大事であろう身内を撃つ。妻や子は今撃たれようとしていることに気がついているだろうか。妻や子を撃った後、主体は自分自身をも撃つだろうか。いろいろな状況や事情を考えることが出来る。遊戯のようにそうしている状況、真に迫られて妻子を撃つことになるかもしれないことを哀しく想像している状況……。

 多行書きであることや、「撃ち」という強い単語の連続が、簡単に読み過ごそうとする心を引き留めている気がする。本当に撃たれたのではないか、本気で撃とうと思って撃っているのではないかと、悪い想像をしてしまう。

 福田若之の俳句に、〈眠るちちはは刺すこと思いひとりで泣く〉(『自生地』2017)がある。これは、「刺すこと」を想起した後、その自分の想起したことに対して泣いている。行為の後の自省までが含まれている。さて、〈指さきを〉の句の主体は、この後どういう感情になっているだろうか。行為の瞬間しか映されていないということが、銃になって、あらゆる想像を脳に撃ちこんでくる。

*本来、句集等を引くべきだが、句集が手に入らず確認できていないため、アンソロジーをそのまま記した。確認でき次第、追記したい。

記:丸田

藤という燃え方が残されている 八上桐子

所収:『hibi』港の人 2018

 不思議(または不気味)な後味の川柳。作りは一見簡単であるし一句もさらりと読めてしまうが、非常に奇妙である。

 まず、「藤という燃え方」。桜という植物、牛という動物、冷奴という食べ物。この「という」が使われるときには、前者が要素、後者がそのカテゴリーのようになる。ここで、藤という〇〇を考えた時、植物、美しさ、紫、などが類推できる。藤にある共通点から考えていく。ここで、想定外の「燃え方」が来る。藤は燃えていたんだ、少なくとも主体は(主体のいる世界では)、藤を燃え方の一つと捉えているんだ、と分かる。藤が急激に神聖な、得体のしれないもののように感じられる。
 次に、「が残されている」。「を残している」とは違う。ただ残されている限り。自分とは少し遠い位置に藤が燃え方として残されている。果たしてそれが主体にとって希望なのか絶望なのかが分からない。例えば「自殺という死に方が残されている」という文は、死にたいんだったら、希望のように聞こえる。この句で、藤は、その燃え方は、どのように映っているのか。

 それぞれの語の持っている不思議さ、哀しさ、儚さが、奇妙な構造で支えられて、独特の響きあいを見せている。一体、藤が燃え方として残されていることを主体はどう受け止めているのか、読者はどう受け取ったらよいのかが分からないまま、ただその景色・事実だけが屹然と、かつ漠然と心に残る。読者としてこの句に取り残されてしまう自分の感覚が、この句の中の藤の在り方と共鳴し合うようで、奇妙な心地よさがある。

記:丸田