すすり泣く儀式からずり落ちる 榊陽子

所収:小池正博編『はじめまして現代川柳』(書肆侃侃房、2020)

「儀」の字の右側は、羊の首と、ぎざぎざの刃がついているノコギリの象形で出来ている。

 この句を大きく方向づけているのは「ずり落ちる」という単語である。「すすり泣く儀式」までは、そういう式典もあるだろうとふつうの想像の範囲で収まるが、「ずり落ちる」となると、ただの儀式ではなさそうな気配が立ち込める。

 ずれて儀式からドロップアウトした、その先はどうなっているだろうか。「儀式」が異常そのものであり、そこから脱出できた、ずり落ちて正常な現実に戻れた。もしくは、「儀式」の場自体が正常で、自分自身の方こそが「ずり落ち」て変な方へ行ってしまった。どちらでも考えられる。眠りから覚めるようでもあり、眠りに落ちるようでもある。

 どちらにしても、「儀式」という場から、ずれながら(ずれてから)落ちている。停電したときのようにいっぺんにではなく、徐々にすべりながらである。
「すすり泣く」のが「ずり落ちる」の主体と同一であるかどうかは分からないが、この「すすり泣く儀式」に半身を残しながら自身が去っていく感覚が非常に妙で独特である。短いながらも意識の溶暗が感じられて、対照的に「儀式」の力も強くなっていく。

 この「ずり落ちる」が存分に発揮されたのは「から」のおかげだろう。「儀式から」と儀式を直接相手取ることで、儀式全体と自分が直で繋げられることになった。そして何がの部分を特に言わないことで、「私が」以外に意識、記憶、時間、魂、体の部位、自分に憑いている霊、と色々なものが代入できることになった。まるごと全体、自分に関連するすべてのものごとずり落ちたようにも感じられる。

 どんな儀式なのか、そこから具体的に何が「ずり落ち」たのか分からない状況で、味が出てくるのが「すすり泣く」である。なんだか(主体かもしれない)誰かが悲しそうにしている。それは自発的に悲しくてそうなっているのか、狂信的に洗脳されて自動的に泣いているのか。でもやはり、「むせび泣く」や「泣きじゃくる」など他の言葉と比べると、より寂しそうな、哀しそうな気がする。

 この文章の始めに、儀式の儀という字の不穏さをアピールした。私は直感的に、まずい儀式のなかで意識が飛んでいく句だと思った。いけにえになる人物が、死の直前になって泣いていて、それを見ながら意識が落ちていくような。
 ただ、この「すすり泣く」が、本当に悲しそうなものであるとすれば。初めに触れたように、自分が「すすり泣」かれる側なのかもしれない。この儀式は葬儀のことを指していて、自身は既に死んでしまっており、遺影側から見ている。参加者として来た親しい人物が泣いているのが見える。そして自分はそれを見て安心して、死の世界の方へ戻っていく。そうすると「ずり落ちる」動きも少し分かるような気がする。

 榊の他の句を見ていると、その読みはそこまで当たってはいなそうである。〈歌います姉のぶんまで痙攣し〉、〈残酷は願うものなり伝言ゲーム〉、〈確実に絞めるさんにんぶんの鳥〉など、悪や恐怖が後ろで待っている作品が多くある。
 この「儀式」は、未だ終わっておらず、どこかで行われ続けているのかもしれない。ということは、どこかで誰かが「すすり泣き」つづけているということである。

(「すすり泣く/儀式からずり落ちる」と読んで、すすり泣くことがずり落ちることに繋がる行為だった、というふうに読むことも可能かもしれない。何をしても脱出できない儀式というゲームの中で、すすり泣くことでようやくクリアすることが出来たというふうに。これは「すすり泣く」がただの機械的な行為のレベルに下がってしまうので好きな読みではないが、これはこれで「儀式」が変形して見える一つの読みである。とにかく、この句からは、「何が」よりも先に、「なぜ」が欠けているのである。その構造自体が「儀式」と似ていて、何度読んでもヒヤリと思わされる。)

記:丸田

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