晩夏晩年水のまはりの水死の木 中島憲武

所収:『祝日たちのために』(港の人 2019)

 死の影で充ちている。夏も、人も、水も、木も。静謐で、風景を見ているような気持ちになる。風景よりは絵に近いかもしれない。澄んだ、暗い、水と木の絵。
 「晩夏晩年」のゆるやかな加速、「水死の木」のやや強い止め方が、より不穏で、より終止感(死)を演出している。読むうちに、気がつけば、内側に浸食してきている。

 私の中では、この句は「水死」という単語からイメージされた。水の中に埋もれて(囲まれて)木が立っていて、水死しているのだと思ったが、よく見れば逆だった。水死している木が、水のまわりに立っている。この、周りが淵に変わる感覚が、急激に人生に重なって、心が冷えた。
 今、私は「水」に自分を代入して読んでいるが、晩年にさしかかれば、自然と「水死の木」に共感できるようになるのだろうか。晩年とは、いつからなのだろうか。死ぬと自動的に晩年が決まるが、生きながらにして、晩年に入ったと自覚できるだろうか。人生が今も刻々と、なめらかに、滅んでいっていることに、未だ納得できていない自分に、この句は冷ややかに侵入してくる。晩夏が来れば、それはもっと。

 

記:丸田

ちゝはゝの墓に詣でゝ和歌めぐり 川端茅舎

所収:『現代俳句文學全集 川端茅舎集』(角川書店 1957)

茅舎という名前が好きだ。新しいスタイルが求められていく時代の反動から、忘れられていく物事へ思いを寄せる人々がいる。大正時代は特にそんな作家がたくさん出現した。現代にまで、そうした人の流れは続いている。もしかしたら加速しているかもしれない。その中でも、名前でビシッと態度を示す茅舎である。

墓に参る態度としては、これくらいがちょうど良い。あまり真摯になりすぎてもいけないし、墓の下にいる身としても、そんなに思い詰めて来られたところで逆に心配になる。墓参のついでに和歌めぐりもしちゃお、くらいで良いのだ。逆でも良いかもしれない。和歌めぐりのついでに近くに来たことだし墓にも行っとくか、くらいの感じ。そして歌碑とかのめぐりをして、のんびり暮らしているくらいが良い。それにしても和歌めぐりってなんだろうか。歌碑を見て回ることぐらいで捉えたが、それで良いのだろうか。

                                               記 平野

アイスクリームりえちゃん文化が機能する 松本恭子 

所収:『世紀末の饗宴』1994 作品社

掲句、「アイスクリーム」と「文化が機能する」の間に投げ込まれた「りえちゃん」が不穏すぎる。どう理解すればよいのだろうか。「アイスクリームを食べているりえちゃん」という理解の方でよいのだろうか。いずれにせよ「りえちゃん」という私的な眼差しと「文化が機能する」というメタ的な眼差しが共存する違和感が本当に気持ち悪い。悪い意味でなく。

松本恭子は伊丹三樹彦に師事していた俳人である。第一句集『檸檬の街で』は俳句シーンにも女性の口語作家、つまり「俵万智」が現れたというれかたちで需要されたらしい(文字にすると改めてジャーナリズムは怖いなと思う)。

正直なところぼくは第一句集における〈恋ふたつ レモンはうまく切れません〉に関しては特筆するところはないように思えたし、だからアンソロジーや雑誌などで名前を見かけてもあまり乗り気で読むことは無かったのだけど、『世紀末の饗宴』に引かれている句を見てその印象が変わった。

夢の茂みに煙草をおとさないで下さい

涙の鱗だ キャタピラーで刻む地の神

乳房の中のサイケな神が声立てる

椿の木みえてゴリラの純愛かな

のぼりつめるひかりの踊り子摩天楼

なまこになまこがジャズのボリューム上げようか

お休みです 生まれる前の樹がさわぐ

どうだろうか。第二句集からは伝統化したと言われているけれども、伝統的な作風になる前にこのように前衛に接近するような(師系で考えれば紛れもなく前衛ではあるのだけれど)句を書き残している。

記:柳元

人類へある朝傘が降ってきてみんなとっても似合っているわ 雪舟えま

所収:『たんぽるぽる』かばんBOOKS 2011

 雨の日がくるとふと思い出す一首。
 雪舟えまの歌の多くに他者への肯定の念が含まれていることはよく言われることだろう。この歌も例に漏れず、「人類」を「似合っているわ」と肯定してくれている。そんなあまりにも大きな愛とでも呼ぶべき感情はこの歌の大きな魅力だけれど、他の点にも注目したい。

 まず降ってくるのが「雨」ではなく「傘」なのは巧みなずらし方だ。そしてこのずらしが違和感を生む。それぞれが差す傘は自身で選び、必然的にそれぞれが持っている傘のはずなのに、偶然降ってきた傘を差しているような気がしてくる。この歌の主体が言っていることは「人類それぞれ自身で選んだ傘が似合っていること」から、「人類それぞれに偶然降ってきたはずの傘がそれぞれに似合っていること」に変化する。

 作品を鑑賞する際に軽率に他の作品を引き合いにだして、似ていると評するのは自分としては好きではないのだけれど、ここまで書いて。YUKIの『JOY』の『運命は必然という偶然で出来てる』というフレーズを思いだす。この雪舟えまの歌にあるのは、偶然が必然として現れる瞬間なのかもしれない。

記:吉川

時と場のあるしあわせを踊り切る 古谷龍太郎

所収:黒川孤遊 編『現代川柳のバイブル─名句一〇〇〇』理想社 2014*

 「時と場のあるしあわせ」。時間と空間が用意されていること。
 「踊り」に極端に寄せて、ダンスの発表会と取り、発表会場がある(設営等をしてくれた)ことや自身に演技時間を作ってくれていることに感謝しているとも考えられなくはない。が、「時と場」という抽象的な単語に引き戻しているところから、そのような小さいイベントの話ではないような感触がある。もっと大きなもの。

 簡単に思いつくもので言えば、「生」がある。生きていく時間や生きていられる場所があることの嬉しさ。「しあわせ」という直截な言い方も、自身の生の蓄積から来るあたたかい感謝、肯定と考えると納得できる。
 そう見ると、「踊り切る」の「切る」の部分に、最後まで余すことなく人生を楽しみ尽くすぞという意志の力強さと同時に、場や世界に(それが神に与えてもらっていると考える人は、神にも)感謝しながら今にも踊り(=生)を終えてしまいそうな、緊迫した切なさも感じる。例えば下五が「踊りをり」であれば、今幸せを噛みしめているように、幸せが前面に出てくる。更に「しあわせを」が「しあわせに」であれば、幸せだから嬉しくて踊っている、というふうにより幸せが強くなる。
 「しあわせを」「踊り切る」。どうしても切なく聞こえてしまう。

 初めにこの句を読んだとき、「しあわせ」があまりに奔放というか、素直に言いすぎだとばかり思っていた。しかしその切なさを考えると、「しあわせ」とまで言ってしまいたい感覚が分かる気がする。どれだけ波乱な人生だったとしても、「いい人生だった」と言って死ぬことが出来れば、それは自分にとっていい人生だったことに(少しくらいは)なる。それに似ているように思う。

 上からさらりと読めば、時と場があることを幸せだと受け止め、その幸せの中で踊っている、くらいのあたたかく勢いのある句になる。そして最後の「切る」によって、幸せを十分に味わってその中でその踊りを完結させようとする、切ない力強さ・潔さが一瞬見える。その一瞬で主体が、まるで無茶して踊っているように、「しあわせ」と口にすることで「しあわせ」と捉えられると信じているかのように見えてくる。踊ってきた分の、生きてきた分の意地、みたいに。しかしそれは本当に一瞬のことで、瞬きして上から再び読めば、何事もなく幸せを全身で味わっている至福の表情に戻っている。

 「しあわせ」という柔らかい言葉と、それに比べるとシャープな「時と場」、そして若干の意図や意志が現れた「切る」によって、この句は妙な奥行きを実現している。

*本来、句集等を引くべきだが、句集が手に入らず確認できていないため、アンソロジーをそのまま記した。確認でき次第追記したい。

記:丸田

この雨のこのまゝ梅雨や心細 本田あふひ

『ホトトギス雑詠選集 夏』(朝日新聞社 1987)

 言ってみれば虚子の「去年今年貫く棒の如きもの」である。あちらが硬い棒であるとするなら、こちらは雨という不定形のもの、嫋やかで、ちょっぴり幻想的でもある。虚子の句なら棒に、掲句なら雨に、と時間には形象が与えられる。生活において時間は形をもって眼に見えないため、気がついてみたら過ぎ去っていたりする。この眼に見えないというのがいけない。

 この時期の雨はなんとも厄介だ。普段は暑く蒸しているため、そのつもりで過ごしていたら、とつぜん雨が降って涼しくなる。それで体調を崩してしまったと思えば、心の調子が崩れていたりする。つまり、いつも通りの生活を送っているつもりが、ふと足元をすくわれて、ついにはどうしようもない地点まで追い込まれているのだ。コロナについてもきっとそうだろう、見えないのはなんとも心細い。

                                           記 平野

朝顔や政治のことはわからざる 高濱虚子

所収:『六百五十句』

もうすぐ都知事選挙ということで、この句。昭和25年の作である。岸本尚毅の『高濱虚子の百句』でも取り上げられているが、如何にも虚子というふてぶてしい句。同著によると政治家になる気はなかったか」と問われた虚子は「政治家になる気はなかったが政治に興味は持っていた」と答えたらしい。ありそうな話である。それでもいちおうポーズとしては、政治なぞ分かりませぬ、である。

ラディカル虚子研究家岸本尚毅が季語の斡旋を褒めているだけあって、たしかにこれは朝顔が動かない。飾らない市井の花であり、いかにも民衆的でなぜかどこか貧相な感じもする花である。庶民で学のないわたくしなぞには政治のことは分かりませぬ、というポーズにはぴったりの、すこし間の抜けた感じの取り合わせに思える。

しかし本当に政治が分からない人はここに朝顔をつけないはずで、そういうところも含めて如何にも虚子だなぁという物言いになるわけである。〈時ものを解決するや春を待つ〉というような態度といい、虚子は民主主義にあまり適性がなさそうに思える。ものすごくナンセンスなまとめだが、今日はこのへんで。

記:柳元

昼しづかケーキの上の粉ざたう見えざるほどに吹かれつつをり 葛原妙子

所収:『朱靈』 白玉書房  1970

 ケーキの様子を描写しているのにファンシー等の所謂ケーキらしいイメージは全くなく、異様な空気をたたえた1首。
 粉砂糖が風に吹かれているのはきっと一瞬の出来事なのだろうが、「昼しづか」という大きく長い時間と組み合わされると時間感覚が少し狂う。粉砂糖が永遠に吹かれているかのような、粉砂糖が吹かれる様をスロー再生で見ているかのような、ゆったりとした時間が生まれる。
 見えないほどの粉砂糖にクロースアップしているにもかかわらず、昼という大きな空間が組み合わされていることにも異様さがある。ケーキの上をクロースアップして小さな世界を見ていたはずなのに、視界がそれで一杯になると吹かれる粉砂糖が大きな世界となって立ち上がる。
 このちぐはぐな感覚の連なりに従っていると、何故かケーキを見ているのではなく、だだっぴろい砂漠を見ている気がしてきた。

記:吉川

頭の中の雪のつもりぬ片隅に青磁の壺とグローブがある 森岡貞香

所収:『白蛾』短歌新聞社 1997(底本:『白蛾』第二書房 1953)

 以下、頭の中で雪が積もった話である。

──────

 頭の中では何が起きるかわからない。ときにサーカスのようにアクロバティックで、ときに石のように整然としていることもある。それ自体は魅力的なことでも、短歌(に限らず文章全般)で「頭の中」と言うのには、いくつかの困難が付きまとう。
 例えば今から怖い話を聞くというときに、「さっき思いついた話なんですけどね……」と言って話しはじめられると、怖がれなくなってしまう。お化けや幽霊がいたわけではなく、相手の単なる想像話と思い、一気に気が緩んでしまう。別にさっき思いついた話だとしても本当は良いはずなのに。(「友人の〇〇から聞いたんですが……」という怖い話の前振りはだいたい嘘を嘘っぽくなく言うための言い回しだし、ホラー映画もだいたいは創作。)ただ、怖がる時には、その人の話が(嘘だとしても)本当っぽいことが大切で、嘘であると明示されているなら、分かっていても怖がれるくらい怖いものを求めてしまう。
 これが短歌でも起きる。俳句や短歌では現実・感情ベースなため、「頭の中」と先に言われると、「そうですか」と一歩引いてしまう読者が出てくる。頭の中なら何が起こってもいいのだから簡単だ、本当に見たもの、感じたものこそが肝心なんだという風に。それに、怪談と同様に、創作だとしてもそれを作品内で言わなくていいじゃないかという意見も考えられる。「頭の中」に自然発生的に、自身は意図せず景色が生まれているとしても、その頭はあなたの頭なのだから、どうしてもそこに操作(傀儡の糸のような)が見えてしまって乗れない……。

──────

 ところで森岡の掲歌について、私が最初に読んだときに思ったことを順に記す。上から読んでいって、「頭の中の」で、「頭の中」と言ってしまったら損することもあるのに、それを言ってしまうなんてよほど面白いことがあったんだろう、それか、言わないではいられない(実際に外で見ましたよ、という風な変更は自身に許さない)誠実な方なのかな、と思った。次に「雪」が登場し、「片隅に」の指示があって、「青磁の壺」と「グローブ」が出てくる。脳内特有の、順番の唐突さが面白く、同時に、(歌として面白くなるものを持ってきているのだろうと予想されるので、)「青磁の壺」と「グローブ」のぶつけ方と、「雪」と「青磁」(とわざわざ壺に修飾させられた情報)の色の混ぜ方に、センスが見られるなと思った。そして最後に「がある」。「頭の中に」と始まって「がある」で終える。さっぱりしているようでなんとも力強い、濃い(ビビッドな?)表現だなあと思い、なんとなくメモしておいた。
 それからしばらく経って、花山周子『風とマルス』を読んでいると、次のような歌に出逢った。

しずかなる机の前にいたりけり頭の中をからすが飛べり/花山周子(『風とマルス』2014)

 静かな机の前に主体がいて、頭の中をからすが飛んでいる。心地よい静かな歌。瞑想にも近い、頭の中の光景が述べられている。これは、言葉がシンプルで丁寧に選ばれているからなのか、そうなんですね~だけでは終わらない静かさの気持ちよさがある。「しずかなる机」という表現から、その前にいる主体も静かに見えてくるし、「からす」の飛翔だけが聞こえてくる。主体も空間も静けさを通して一体となっているような感覚。頭の中の空と、机の向こうにある本当の空が一致しているようにまで感じ、外でもからすが同時に飛んでいるんじゃないかとまで思った。机の上に窓があったなら、その窓は確実に空いているような。

 「頭の中」と作中で言う歌は他にもたくさんあるが、そのとき偶然森岡の歌を思い出して、もう一度歌集を開いて確認した。

──────

 花山の〈しずかなる〉ではもっと現実と頭の中の光景を繋げてその響き合いを楽しんでいたが、それとは違う……と、思ったときに、最初に読んでいた時はそこまで強くは意識していなかった、「頭の中の」の、二回目の「の」に目が行った。
 最初に読んだとき、なんとなく脳内の話という把握だけして、あとは文字上、言語としてのセンスを見ていた。よくよく考えれば、〈しずかなる〉と同じ読み方をしていた。というのは、頭の中の雪と、「青磁の壺」・「グローブ」がまったくの別の場所にある、と読んでいた。「片隅に」が現実への視点移動を担っていて、頭の中では雪が積もるという美しいことがあったが、現実の部屋の片隅には~という歌だと。
 もしそうだったら、自分なら「頭の中に」と書くだろう、二回目にして思った。部屋の片隅に在る物体と、脳内の齟齬・すれ違い方を見せたいから、「頭の中に」とした方が、よりそのすれ違いが鮮明であるし、「に」の方が、より頭の中に雪が積もったんだぞ!という実感が強く出てくる。接地面としての脳内も魅せられる。
 しかしここで「に」ではなく「の」だということは、すらすらと繋がって、上から下まで同じこと、つまり一首通じて終始頭の中の話をしているのだと分かった。雪が積もっているその片隅に、壺とグローブがある。

 そうすると、このとき謎になってくるのが、青磁の壺とグローブは、どうして確認できたか、ということである。そこにその二つがあることを知っていて、そこに雪が積もった、のを逆から言っているのかとも思ったが、それだとどうも「片隅に」が引っかかる。「その中に」なら理解できる。「片隅に」というのは、確実にそこだ、と場所を指さしているような言い方で、そこに二つが実際に(脳内の話だが)見えているような言い方だと思う。
 そう考えると、雪が積もった後、「その上に」壺とグローブが「ある」のではないか。雪に積もられてしまっては見えなくなるし、もし半分くらい積もって半分くらい姿が見えているのだとすれば、グローブなので、「つもりぬ」と言えるほど積もっていないことになる。
 とすると、雪が積もった後、二つは突然に、雪の上に、出現したことになる。それが上から置かれるようになのか、下からせりあがってくるのか、自然に在ることになったのかは分からない。が、雪もそこまでかかっていないような姿で、二つのものがあることになる。(私が好きな推理小説で、一面の雪の上に、足跡の一つもなく血で染まった死体があるシーンがあったが、それを思い出す。)

 そこがこの歌の読みどころなんだ!と閃いて、少し感動していた。普通の現実の光景との交わりのようにも見せながら、助詞や順番(雪→物)にこだわって細部まで操り、頭の中の美しい光景をしっかり頭の中っぽく描いている。頭の中だからこその順番、出現の仕方が自然すぎて、傀儡の糸は完璧に透明だった……。

──────

 と読んでみて、ふつうに、これは歌の良さと言うより、自分が勝手に翻弄されたように迷って得たものであり、自分の読みの力不足でしかないなあと思いつつ、この鑑賞記事を書いていると、急にはっとして、「ぬ」に目が行った。助動詞「ぬ」はおそらく完了の意味である……。そして、「ぬ」の終止形は「ぬ」、連体形は「ぬる」である……。
 つまり、この歌は「つもりぬ」で一回切れて、「片隅に」で現実の光景に戻っている。頭の中の雪の映像から、現実の生活感ある青磁の壺やグローブに引き戻される強引な力が読みどころだったのだろう。ずっと「雪のつもりぬ/片隅に」を口語で言うところの「雪が積もった片隅に、」と読んでいた。

 さんざん読み迷ったなあと思いながら、他の方が書かれている森岡の鑑賞の記事を調べて見ていると、阿波野巧也さんのnoteの記事(「歌集を読む・その9」2016年7月26日、2020年6月17日閲覧)にて、〈一團(ひとかたまり)飛びきたりたる水鳥の影が先きになりみづとまじれり〉(『百乳文』)について、「しかし、「飛びきたりたる」って文法はどうなっているんだろう。森岡貞香はそのへん怪しい歌がたまにありますね。」と指摘しているのを発見した。たしかに助動詞「たり」が重複している。
 私もよくよく森岡の歌を確認しなければならないが、そういう節があるのだとすれば、可能性として「ぬ」を連体として使っていることも考えられる。

 とすると、どちらにも読むことができて、どちらがいいだろうと悩む。個人的にはずっと頭の中の話の方が、雪との順番が面白いと思うが、おそらく切れを作って、現実への切り替えにした方が、壺やグローブの生活感が出ていいだろう。
 右往左往考えているうちに、頭の中に、雪が降りはじめ、いつの間にか積もっている。どこにあるべきか自分の中で定まらなくなってしまった青磁の壺とグローブが、サーカスのように空中に浮かんだままになっている。

追記︰後半の、「つもりぬ」の「ぬ」が終止形で軽く切れているとしても、それは少し時間を開けている程度で、「片隅に」でたちまち現実に引き戻されるわけでもなく、積もった雪の上の片隅を差している、とも読めるので、文中ではかなり雑に判断してしまっています。その他にも根拠の足らないまま判断している部分があるので、読みの力を更に付けていつか再挑戦をと思っています。

記:丸田

雪癖や獄窓めけるひとつ窓 草間時彦

所収:『中年』竹頭社 1965

雪癖とはなんのか、一旦降り出したらそのまま翌る日も降り続けるようになる事を癖と表現したのか、それとも窓からなんの気なしに降る雪を見てしまう事を癖と言ったのか。よく分からないけれど、確かに雪は癖である。それにしても獄窓には窓がある。外を意識させた方が酷になるのか、それともまったく外が見えない方が酷なのか、多分後者なのだろう。狂気を飼い慣らすためには、窓が必要なのだろう。外を眺めながら、もの思いに耽る時間が安定をもたらすのだろう。人間にも口が一つあって、そこから何かを喋ったりするのだから。

                                    記:平野