天の川音のするまで右に廻し 岡野泰輔

所収: 『なめらかな世界の肉』(ふらんす堂、2016)

 岡野の句集を読むと、素直、奔放、あたりの言葉が思いつく。思ったことをそのままに言うことの力がある。〈音楽で食べようなんて思ふな蚊〉、〈菊膾こつこつやる人がえらい〉、〈花冷えや脳の写真のはづかしく〉など。それがあまりに素直すぎて、失敗に終わっている句も散見されるように思う。しかし、作者特有の妖しさがそれに加算されたとき、魅力的な句になっている。

〈永き日の死は犬よりも育てやすき〉は、死が「育てやす」いのが怖い。育てるものという認識が一番怖いのに、「犬よりも」という面白さで中和しようとしている奇妙すぎるバランス感覚がさらに怖い。〈しどけなきデージー見せてそれから銃〉の「デージー」からの「銃」の落差に迫力があり、「見せてそれから」の剽軽さもかなり怖く、魅力的である。

 掲句〈天の川音のするまで右に廻し〉も、一見、天の川を奔放に使って(使いまわして?)いる句だが、「音のするまで」がイメージの天の川を、生の(?)音の鳴る天の川にしている。何も情報がない状態で天の川を回そう、とは流石にならないだろうから、回せば音がすることをどこからか知ったのだろう。そして、「右に」という具体的な駄目押しから察すると、おそらくこの音はオルゴールのようなもともと音を主としているものではなくて、宝箱のようなものを解錠するときの音ではないだろうか(初めて音が鳴ることを発見したのなら、「右に回すと音がする」という語順になるのが自然)。この句を妖しいものとして捉え直したとき、天の川を右に回した後に起こることは何だろう。宇宙という大きな箱が開いて、主体は何かを目撃することになるのか。
 もしかすると、開けたあとの施錠の操作かもしれない。岡野の作品が一瞬見せる世界は、妖しく冷気をもって伝わってくる。

わが少女花火明りに浮きて駈く 岸田稚魚

所収:『自註現代俳句シリーズ・続編3 岸田稚魚集』(俳人協会 1985)

空へ花火が咲いて少女が照らされる。暗闇の中から浮び上がるようである。というありきたりな景として読みながら、それにしても「わが少女」とは強い表現で、エゴイスチックな匂いもあると思っていた。岸田稚魚の自註によると「千葉の長者町は幼きころよく遊びしところなり。折しもの燈籠流しあり。橋上を走るは孫娘なり。昔おもひて感に堪へざりき」駈けている孫娘を見て、自らの幼き日を思い出した。素直に読めば、そうなる。

しかし、どうしても「わが少女」の表現が気になる。「感に堪へざりき」とぼやかしてはあるが、一種の照れのようなものではないか。つまり「わが少女」とは〈わが胸のうちの少女〉である。裏に〈わがものに出来なかった少女〉の意を含む。

ひそかに懸想したものの、成就しなかった少女。その少女も、現在はお婆であろうか、それとも燈籠流しとみるに既に亡くなっているか。どちらにせよ、 花火を見ていて心に浮かぶ、かの少女の面影。溌剌とした少女のままで、胸のうちを駈けている。恋と懐旧は花火とよく合う。

記 平野

数知れぬ爬虫の背は濡れながら薔薇腐れゆく垣をめぐりぬ 大野誠夫

所収:『胡桃の枝の下』白玉書房 1956

蛇、蜥蜴、鰐。数の分からないほどの無数の爬虫類が、洪水のように群れをなして、薔薇の腐りゆく垣をめぐる。まるで何かの祝祭、フェスティバルである。薔薇の下、百鬼夜行のごとき爬虫類の行軍は、ロシアの作家ブルガーゴフの短編『運命の卵』にも似る。これは人工的に孵化した大蛇の群れがモスクワを襲うサイエンス・フィクションであるけれども、しかしながらブルガーゴフの乾いたブラックユーモアを目指す筆致と、大野氏の掲歌が目指すウェットで幻想的な官能性は、対照的な側面をなすだろう。

大野氏の掲歌の官能性は、爬虫類の眼の知性の輝きゆえだと思う。巷には爬虫類脳などという蔑称もあるようだけれども、アダムとイブに禁断の果実を勧めたのも蛇なのだから、爬虫類が表象として知的なのは当然だろう。官能性というのは恥ずかしさと不可分だから、知こそ官能性と直結するものである。それに怪物の母エキドナなどを思うまでもなく、各地の神話や民話で蛇と生殖はイメジが昵懇であり、豊穣のイメジや、生命のイメジも引き寄せる。大野氏は、爬虫類の背中が濡れているという特徴を取り出すことで、その官能性や生命の豊かさ、怪しさを強調するとともに、水のイメジの関連から、じっとりと腐ってゆく薔薇への接続の引っ掛かりを作っている。

大野誠夫(おおの・まさお)は、1914年生まれ、1984年没。戦後派として活躍した。大野誠夫の門人だった松平修文は〈若き日に画家を志したこの歌人は、短歌をとおして絵を描いたのだ〉(「大野誠夫ーその絵画性」「季刊現代短歌雁」第23号、1995.2)とその虚構性、芸術性を指摘する。松平がここにおいて自己を投影し自己と似た資質を持つ師の像を作っていることは指摘できるかもしれないが、少なくともこの歌にヨーロッパのロマン主義やシュールレアリスムの幻想的絵画を見ることが出来るとおもう。

記:柳元

香水の一滴二滴籠りゐる 藤本美和子 

所収:『俳壇』10月号

シンガーソングライター、瑛人によるヒット曲「香水」の歌詞〈別に君を求めてないけど 横にいられると思い出す 君のドルチェ&ガッバーナの その香水のせいだよ〉に如実に現れているけれども、香水というのは人の記憶に結びつくようで、嗅覚が主だってその人を記憶させるということはどうやらあるようだ。

これはつまり、香水というものは、自分の匂いが他者に与える印象を加法的に操作可能にするものであるということであり、言い換えれば、香水というものは他者に嗅がれることを前提として商業的に流通しているものであるということだ。風呂に入る文化をもたなかったヨーロッパで匂い消しとして隆盛したことに鑑みても諾うことができるだろうけれど、おそらく香水の起源は他者にある。他者からのまなざしを内面化した文化であればあるほど、香水の香もその国土に広がると云うものだろう(もちろんその香りそのものの効用も楽しまれてきただろうけれど)。

ただし掲句は、家籠りのためにただ自分のために香水を付ける。一滴、二滴。確かめるように手首に落とす。掲句に書き込まれているのはそれだけだけれども、家篭りと言えども日々必要な勇気や決断のために、自分自身のために、朝のルーチンに香水を付けることが組み込まれている。

秋の蜂たたかひながらうち澄める 依光陽子

所収:『俳コレ』邑書林 2011

蜂同士が戦っているのか、蜂と他の虫が戦っているのか、それはこの句では定かではない。重要なのはそういった出来事ではなく、「うち澄める」と表現されているような戦う蜂の醸す緊張した空気感である。

蜂は人間にとって危険なもので、戦っているとなれば危険さは尚更だ。そんな蜂の周りに漂う緊迫した空気を「うち澄める」と表現したことで、この句には緊迫感だけでなく美的な感覚が現れてくる。蜂の動とその周りの空気の静との釣り合いが生む美。

蜂がただの蜂でなく、静かな秋の空気の中の蜂であること、「たたかひ」のひらがな表記が、この句の描く独特の美的感覚を支えている。

記:吉川

やじろべえになってしまいたい 手をひろげ夕暮れの廃線線路をわたる 早川志織

所収:『種の起源』(雁書館、1993)

 私は、早川志織を〈傾けて流す花瓶の水の中 ガーベラのからだすこし溶けたり〉の歌で記憶している。このガーベラの歌もそうだったが、ほかの植物の歌を見てみても、一見とても優しい雰囲気を帯びている一方で、もう一度読み直すと、どこかうっすら恐怖を覚えるような景色が広がっている。
 たとえば、〈おかしさがこみあげてきて花ミモザふるえるように笑い始める〉は、隣に恋人でも置いて想像すれば可愛い光景だが、「ふるえるように」「始める」というのが、喉にかかる魚の小骨のように気になる。「花ミモザ」の(短歌的、とも言えるが)突然のカットインの仕方と、ぶっ壊れたみたいな笑いだし方には、すこし怖さもある。多分、くすくす笑うときの、笑いはじめの感覚を、花ミモザの優しい感じに付けて言ったのだろう、とは予想はできる。……が。

〈欲しいものはこうして奪う 校庭の柵に絡まる明きヒルガオ〉、〈視姦されているのだろうか 振りむけばキダチアオイが陽射しに揺らぐ〉など、スパッと切るような言葉に、ゆるやかな景色の付け方がなされている。この植物が強引に姿を現してやまないこと自体にも、私はどこか怖さを思う。キダチアオイがとても怖い。

 ほとんどの歌に植物が入っていることから考えて、〈やじろべえに〉の歌は、どんぐりなどで作られたやじろべえを想起すればいいだろうか。これもはっきり、片方でスパッと思ったままにストレートに言って、片方なだらかに詠っている作品である。
 私にはどうも、この「やじろべえになってしまいたい」が涼しい。初めて見たときは、主体がとても可愛い様子で手を広げて線路をバランスを取りながらてくてく歩いている様子を思い浮かべた。

 しかし改めて読むと、怖いというか、思ったままのパワーが感じられる。「なりたい」ではない。「なってしまいたい」、である。

 ガーベラの体が溶けていくのもそうであるし、〈今日われはオオクワガタの静けさでホームの壁にもたれていたり〉もそう、やじろべえもそうである。植物や動物が、何か(私やほかの物質)と接して境界がどろんと溶けて感覚を乗っ取るような、早川の独特の歌のキレとまろやかさに、私は夕方の帰り道何かの気配がして振り返った時に何もいなかった、あの冷たい夕方の感覚を思い出す。

記:丸田

市売の鮒に柳のちる日哉 常世田長翠

所収:『近世俳句俳文集』(小学館 2001)

秋のよく晴れた、しかし夏の暑さがおさまった日。橋袂の市に魚売りがやって来る。鮒や他の魚が腐ってしまう前にと、魚売りは市を走り回る。路上の人を分けていく。喧噪のなかから、ようやく声がかかる。魚売りは天秤を肩からおろし、露地に置いた。まな板を取り出し、魚売りは魚を捌こうとする。その背後で色ついた柳が散っている。涼しい風が吹いている。川のにおいがあたりに漂う。柳の葉は魚売りをふき抜けて、桶の水に浮かぶ。一枚、二枚、と黄色の散り葉、水の面は秋の日射しを照りかえす。鮒は葉影をきゅうくつそうに泳いでいる。

鮒も、柳も、しっかり物として存在している。ふたつの物が市のなかで出会う、そこに衝撃ではないが調和のエネルギーが発生する。市の情景がよりリアルに立ち上がる。活写された市はどこか落ち着いて、それで涼やかである。

                             記 平野

〈いい山田〉〈わるい山田〉と呼びわける二組・五組のふたりの山田  大松達知

所収:『フリカティブ』 柊書房 2000

この歌は左右社から出ている『 桜前線開架宣言: Born after 1970現代短歌日本代表 』で初めて触れた。作者の大松達知の作品を編者の山田航は「ただごと歌」と評しているが、この歌もそう言えるだろう。

「ただごと歌」といっても、ただごとを素朴に詠んでも作品としてうまくいくかというと、そうではないだろう。この歌は『〈いい山田〉〈わるい山田〉』という書き方に工夫を感じる。
「じゃない方芸人」という言葉が普及しているように、現実的にはきっと「いい方の山田」とかそういう呼び方をするのだろうけど、この歌では語を切り詰めて表現し、『〈いい山田〉〈わるい山田〉』 というインパクトの強い文字面を作っている。このことで、あるあるとも言える事象に新鮮さが加わるのだ。

人間を善し悪しで呼び分けるというのは、いささか性格の悪さ (作者の、ではなく作中の主体の) を感じるが、繰り替えされる単語による軽妙な調べが軽いユーモアへと昇華しているような感じもする。

記:吉川

バスが来てバスにゆだねるの刑 石田柊馬

所収:『現代川柳の精鋭たち』(北宋社 2000)

 「百句」中一句。先日、〈バスが来るまでのぼんやりした殺意/石部明〉に触れたが、同じくバスの一句。非常に滑稽な作品だと思う。バスが来て、それに乗ってしまっては、(自身で降りたい場所で降りるという自由は残されているにしても)バスに体を委ねなければならない。それを「刑」と捉えている。どこが面白いと思ったかを考えると、それを「刑」としたことではなく、「ゆだねるの刑」の言い方が大きい。この「刑」を誰かに処すとしても、自分に課すのだとしても、「ゆだねるの刑」はどこかふざけているような、牙の抜かれたような可愛さがある。「ゆだねるの刑~~」と伸ばして声に出すとますますその感が高まる。
 このような句は、ふつうの日常の現象を違う視点で見つめ直した、新しい認識で捉えた、というところに重きが置かれがちで、この句も、バスに乗ることを刑とした、そこだけで一句は出来てしまうはずだ。たとえば、「バスが来てバスにゆだねるという刑」など。こうすると一気に「刑」のシャープな切れ味が強まる。
 それを考えると、「ゆだねるの刑」は脱力させるような気の抜け方がある。そのため読み方としては、「バスが来てバスに/ゆだねるの刑」と77のリズムに寄せて読むのがより合っているだろうと思う。「バスが来て/バスにゆだねる/の刑」としてしまうと、先ほど述べた「刑」の着地・認識のシャープさが際立ってしまって、「ゆだねるの刑」の言い方と合わなくなってしまう。

 石田の他の句に、〈シンバルを十回叩けば楽になる〉があり、この句は可愛さのなかにぞっとする怖さがある。〈糸電話 鞍馬天狗はひとりでいます〉なんかは、素直に笑える面白い不思議な作品。「バスが来て」の句も、その時の気分によって笑えたり、怖くなったりするのかもしれない。次、自分がバスに乗るときに期待である。

記:丸田

雪片のつれ立ちてくる深空かな 高野素十

所収:『高野素十自選句集』(永田書房 1973)

つれ立ちてくるの動詞が巧みである。何もない空間にひとひらの切片が生じたと思えば、たがが外れたようにぞろぞろと降ってくる。時間の経過、そして雪への驚きがつれ立ちてくるで表現される。同じようなつれ立ちてくるの使われ方として、田中裕明の「夕東風につれだちてくる仏師達」がある。眼のまえに不意に仏師が現れて、この句もまたぞろぞろとである。

しかし不意とはいっても、ある程度予期していたのではないか、無意識の領域でなんとなく現れて来そうだな……と。つまり素十の句、冬の冴えた肌感からいよいよ雪になりそうだという予感がある。裕明の句は夕東風の生ぬるさから、また夕東風と雅な言葉で捉えたことによって、いかにも仏師が現れそうな感覚がある。考えるともなく考えていたものが、現に眼のまえで実現した驚き、それがつれ立ちてくるという動詞から受ける印象でもある。

                                 記 平野