数知れぬ爬虫の背は濡れながら薔薇腐れゆく垣をめぐりぬ 大野誠夫

所収:『胡桃の枝の下』白玉書房 1956

蛇、蜥蜴、鰐。数の分からないほどの無数の爬虫類が、洪水のように群れをなして、薔薇の腐りゆく垣をめぐる。まるで何かの祝祭、フェスティバルである。薔薇の下、百鬼夜行のごとき爬虫類の行軍は、ロシアの作家ブルガーゴフの短編『運命の卵』にも似る。これは人工的に孵化した大蛇の群れがモスクワを襲うサイエンス・フィクションであるけれども、しかしながらブルガーゴフの乾いたブラックユーモアを目指す筆致と、大野氏の掲歌が目指すウェットで幻想的な官能性は、対照的な側面をなすだろう。

大野氏の掲歌の官能性は、爬虫類の眼の知性の輝きゆえだと思う。巷には爬虫類脳などという蔑称もあるようだけれども、アダムとイブに禁断の果実を勧めたのも蛇なのだから、爬虫類が表象として知的なのは当然だろう。官能性というのは恥ずかしさと不可分だから、知こそ官能性と直結するものである。それに怪物の母エキドナなどを思うまでもなく、各地の神話や民話で蛇と生殖はイメジが昵懇であり、豊穣のイメジや、生命のイメジも引き寄せる。大野氏は、爬虫類の背中が濡れているという特徴を取り出すことで、その官能性や生命の豊かさ、怪しさを強調するとともに、水のイメジの関連から、じっとりと腐ってゆく薔薇への接続の引っ掛かりを作っている。

大野誠夫(おおの・まさお)は、1914年生まれ、1984年没。戦後派として活躍した。大野誠夫の門人だった松平修文は〈若き日に画家を志したこの歌人は、短歌をとおして絵を描いたのだ〉(「大野誠夫ーその絵画性」「季刊現代短歌雁」第23号、1995.2)とその虚構性、芸術性を指摘する。松平がここにおいて自己を投影し自己と似た資質を持つ師の像を作っていることは指摘できるかもしれないが、少なくともこの歌にヨーロッパのロマン主義やシュールレアリスムの幻想的絵画を見ることが出来るとおもう。

記:柳元

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