切り口のざくざく増えて韮にほふ 津川絵理子

所収:『はじまりの樹』 ふらんす堂

普通切るという動詞にかかる「ざくざく」を、増えるにかけるというずらし方をしている。これによって、韮の切り口がクローズアップされてイメージされるという視覚的な効果があるだけでなく、切り口から立ち上る匂いをスムーズに連想させることができ、「韮にほふ」というフレーズの説得力が増している。
韮は匂いが特徴的な野菜であるが、切り刻まれることによって匂いが強まること、「ざくざく」というリズミカルな語によって、この句においてはその独特の匂いに妙な生命力を感じてしまう。それを「ざくざく」とリズミカルに単調作業として反復される包丁の動きと対比的に捉えることもできるだろう。

記:吉川

アマリリスあしたあたしは雨でも行く 池田澄子

所収:『思ってます』ふらんす堂 2016

 一読して、このアマリリスはアマリリスしている、と思った。太い茎ですっくと立って、吐き出すように外に向かってパカッと開く花。この句の「あたし」の勢いの良さや、意志の強さが、アマリリスの様態に嵌っている。
 そして露骨なくらいに韻が踏まれている。a段とi段が交代して何度も表れる。また、あした – あたし、アマリリス – 雨、の語感の類似もぱっと目に入ってくる。どこに行くのか、誰かと会うのか、その目的は明らかではないが、アマリリスと主体の決意がリズムの上で同調しあって、読後こちらも凛とした気持ちになる。

記:丸田

福豆の枡の形の美しき 高野素十

所収:『高野素十自選句集』永田書房 1973

美しさにもいろいろとあるが、枡の美はシンプルな造形による、佇まいの潔白さ。簡潔それゆえに味わい深い印象は、素十の句にも通じるだろう。そして枡が受けとめるのは、自らの角張りとは無縁の曲線を持った福豆。掲句以前もこれからも変わらないと信じる、器への安寧が伺える。

記:平野

辞令あり蛸唐揚げと与太話 藤田哲史

所収:楡の茂る頃とその前後 左右社 2019

友人のIから連絡がないといえどもそれなりに良いお店の予約をキャンセルするわけにはいかず寿司屋の暖簾を一人でくぐる。

予約していたものですと名前を告げ、連れが遅刻している旨を伝えてみれば店員が少し嫌な顔をする。接客の態度としてどうなのだろうと思いながらも非があるのはこちら側だから指摘するわけにもいかず、席に案内されて携帯を開いてみればIから人身事故で遅れる旨のメールが届いている。

春という季節に自死を選ばせる力があるのかもしらんなどどありきたりなことを考えてみて、線路に吸い込まれるように投げ出されていく自分の身体を想像してみる。車輪というものは近くで見ればとても大きくて、あんなものに轢かれてしまったらひとたまりもないだろうと思う。回転する鉄の塊が、自分の四肢をバラバラに、ぶつ切りにする。そこまで想像が及ぶとようやく食事の前に考えることではなかったなと気付く。

Iは振替輸送にうまく流れることが出来たらしく十五分ほど遅れてつき、まず瓶ビールを二人で一本空ける。今夜の催しはIの栄転を祝う会であって、Iは海外へ赴任することが決まっている。Iとは久闊を叙するというほどではないにせよいずれにせよ半年は会っていなかったから、近況やくだらない話を二三する。

お酒の当てにとIが頼んだ蛸の唐揚げが運ばれてくる。食べやすいように小ぶりに切られた蛸は春が旬らしく、唐揚げにすればいつ何時食べても同じ味だろうという気持ちもありながら檸檬を絞る。ばらばらに、ぶつ切りにされた蛸が、酸性の照りを帯びる。寿司屋の包丁はよく切れるに違いない、などと当然のことを思う。

記:柳元

火の丈 柳元佑太

火の丈  柳元佑太

春は名のみの墨滴に溺れし蚊

竹の秋僧多くして寺静か

火の丈を吹いて育てし蕨かな

花冷や鴎飛び交ふ山ふもと

花夕の流れげむりも雨意のさま

として受け取る春星の遅延光

木の眩暈朝日が夜を阻却せり

春雷や飯少量を茶漬とし

ありふれて雨降る日々や蕗薹

その記憶皐月岬のものならん

真青な中より実梅落ちにけり 藤田湘子

所収:『黒』角川書店 1987

梅の実が落ちたことを詠んだ、ただそれだけの一句。
「真青」という語の選択に表現の妙がある。ただ「真青」と色を書いているだけなのに、 梅の枝に多くの葉や実が密になっている映像が浮かび、それとは対比的に落ちていく一つの梅の実が映える。
「真青」という色によって捉えているから、この句の梅を見ている人は葉や実それぞれでなく、それらを一つのかたまりとしてぼんやりと梅を見ているのだろう。しかし、梅の実の落下、という動きによって一つの「実梅」を細かく見るように視線の在り方は変する。そんな観察者の認識の推移まで「真青」から見えてくる。
梅の実が落ちた、ただそれだけのことがそれを見る人も含めて徹底的に表現されている。

記:吉川

風の建物の入口が見つからない 種田山頭火

所収:『定本山頭火全集 1』春陽堂書店 1972

 風の建物とはどんな風だろう、といつも想像している。そしてその度にいつも形を変える。風の建物自体見つかっていないのか、風の建物は見つかっているが肝心の入口が見つからないのかは分からないが、この句の主体は探し続けている。どこかにあるはずの、 いつか見つかるはずの入口を。
 無季自由律なのもまた風らしい。涼しくあやふやで、不安定な感覚。

 山頭火には風の句が多い。〈死をまへに涼しい風〉、〈風の明暗をたどる〉、〈つきあたつてまがれば風〉……。今ごろ、風の建物のなかで風として遊んでいるかもしれない。

記:丸田

巨き星めらめら燃ゆる木枯に 相馬遷子 

所収:『山河』 東京美術 1976

スーパースターと呼ばれる人物がどの分野にも、存在する。

生まれ持った資質に寄りかかるのではなく、度しがたいほど精力的に、もしくは無邪気に見えるほど熱心に打ちこみ、誰よりも高い志を抱いている。その姿を常人は仰ぐことしか出来そうにない。巨星の熱に肌を焼かれながら、尊敬するか、滑稽に思うか。自らも同じ高みに登ろうとして、無理だと悟るか。そこで諦めるか、自分に出来ることを頑張るか。

溢れるバイタリティは自らを燃やして尽きる。燦爛とかがやいていたはずの巨星は忽然といなくなることもあり、去り際まで燃えて、ふっと消える。巨星が照らしていた範囲を知り、頭上の空虚さと、巷を覆う暗闇の広さに気がつく。それでも巨星は昇りつづける。寂しさを導く木枯らしに燃えるようにして、巨星は心の内に輝く。一人の心だけではなく、人びとの記憶の中に、巨星なら輝く。

あまり鑑賞に関係ないが、吉行淳之介に『スーパースター』という題名の短編がある。同年輩の三島由紀夫について、吉行がどのような感情を持っていたか、回想が主になり話が進んでいく。 三島もまた数少ない巨星の一人だった。

                                            記 平野

春の筆かなしきまでに細かりし 田中裕明

所収:『櫻姫譚』ふらんす堂 1992

何を書くでなく筆を持ってみたりする。考え事をする際の癖なのかもしれないしそうでないのかもしれない。それによって何かを思いつく訳でも、特段安心する訳でもないが、しかし何となく筆を持ってみたくなるときがある。

そしてそんな日は、普段にも増してその筆が心細く思われる。寂しく思われる。何があったというわけではないのだけれど。春の憂いというものか、などと、のんきに考えてみたりもする。

裕明には〈好きな繪の売れずにあれば草紅葉〉〈約束の繪を見にきたる草いきれ〉など、絵の句が多いから「春の筆」とは絵筆なのかもしれない。

けれども、よく考えてみれば裕明の絵の句はほとんどが鑑賞する側。と思うと、絵筆ではなく、書に用いるときの筆と考える方が何となく自然な気がする。

ちなみに『櫻姫譚』は千葉皓史の装丁。クリーム色の表紙に薄いピンクの帯が美しい。

記:柳元

石段のはじめは地べた秋祭 三橋敏雄

所収:『しだらでん』沖積社 1996

文字通り、石段を昇る手前の場所が地面そのままであることを詠んでいる。こういった石段はよく見るけれど、このようにわざわざ言葉にしなければ気に留まることも思い出されることもない。
「地べた」と「秋祭」の間に切れはあるものの、この順に語が並ぶことで地べた続きに秋祭の風景がイメージされる。夜店や提灯の並ぶ淡く眩しい通りやその地面の硬さ。
秋祭は、収穫後に豊作に感謝して行われるもので、「地」とは非常に関わりが深い。だからこそ、この句の「地べた」はただの風景としてでなく、どことなく親しみをもって現れる。

記:吉川