良く酔えば花の夕べは死すとも可 原子公平

所収: 『良酔』風神堂 1980年

週末、コロナ禍の上野公園に行った。美術館、博物館、動物園が軒並み休止しているにも関わらず、存外に人で溢れていてやや面食らった。訪日外国人客が上野から消えて驚くほどがらんとしているという前情報があったから訝しく思ったものの、道なりに歩いてみればたちまちに理由に思い当たる。

まだ七分咲きではあるものの、桜が開いている。つまりこれらの人々は、コロナウイルスが猛威を奮うなか、逞しくも咲きかけの花を目当てとして酒瓶片手に集まっているのである。

もちろん公園を管理するサイドもコロナウイルス対策をしている。ブルーシートを引くことを禁じ、平時のようにゆっくりとした花見は行えないようになっている。

しかし平安以来の伝統である桜樹下での酒宴、その程度の対策では妨げることが出来ない。堂々とブルシートを広げ、注意されたら場所を変えるというゲリラ花見戦法をとる人、地べたに座ることを意に介さず芝生でへべれけになっている人。

死すとも可、と言った原子公平のような強靭な意志でコロナ禍中の花見を企てた人がどれくらい居るのかは分からない。けれどもまあコロナウイルスに感染しても可、くらいには思ってはいるのだろう。

彼らを積極的に肯定するつもりはないけれど、エンタメが自粛に次ぐ自粛のなか、屋外という換気環境であることに鑑みればこれくらい許されてよいのではないかとも思う。まして支持者を集めて公金で呑んでいる訳でもあるまいし。

ワンカップ大関を啜ってみても死すとも可、という気持ちにはならなかったけれども、楽天的な気持ちの延長にふっと死が待ち構えている感覚はぼんやりと分かる。

記:柳元

獏 柳元佑太

獏  柳元佑太

浴室に鰐飼ふ夢を町ぢゆうの人間が見し春のゆふぐれ

孔雀その抜けし羽根こそ美と云はめ蓄電したる様と思はば

鉛筆を作る仕事につきにけり日に二本づつ作る仕事に

草木を抽象化せし文字(もんじ)らに雨季は花咲く気配感する

月は日の光を盗み輝けり黒猫の眼を見てより思ふ

婚約の日に飼犬を選びにゆき入籍の日に受け取りにけり

ウヰスキーを海と思へば忽ちに黄金(わうごん)いろの魚跳ねたりや

優しさゆゑ運河逆流してゐたりただ一匹の鮭の遡上に

夏は夜たとへば蛇の抜け殻は風と親しくなるために要る

かすれきし虹を補ふ働きをこころと云へり虹ぞ消えたる

歩く 吉川創揮

歩く  吉川創揮

考へる指を机に初日記

薺みちいつしか土筆みちへかな

口笛を吹くまなざしやみどりの日

げんげ田や遠きなにかの眩しさに

楓の芽大声の気分で歩く

間違えて振り向くやうに野の遊び

沈丁に自動販売機の黙が

スリッパの先へと脱げて宿の虻

この部屋よいくども雲雀のこゑ来る

夕映えの長引いてゐる田打かな

蝶々の大きく白く粉つぽく 岸本尚毅

所収:『感謝』ふらんす堂 2009

類似の表現が3つも並列された大胆な1句。一見かなりざっくりとした把握の句に見える。が、突然視界に飛び込んできた蝶に目のピントが合うまでの僅かな時間と思考の推移を、「サイズ」、「色」、「質感」の順に書くことで言い留めている繊細な1句。
このような並列表現は『感謝』には多く見られるが、どれもゆったりとした詠みぶりの中に繊細な感覚と把握が息づいている。

記:吉川

鯉におしえられたとおりに町におよぎにゆく 阿部完市

所収:『軽のやまめ』角川書店 1991

 なめらかで不思議な句。鯉とそういう関係を結べていることがまず面白い。鯉に教わった「とおりに」行くくらい素直で従順なら、せっかく泳ぎ方を教わったんだから、鯉と一緒に泳げばいいのにと思うが、そうはせず、ひとりで町に泳ぎに行く。あくまでプライベートは別という教師と生徒のような距離感がある。恐らく教わったのは泳ぎ方だろう、だとすれば「町をおよいでゆく」くらいしたい気もするが、あくまで人間で、ちゃんと泳げる場所で泳ごうとする真面目な主体。読みようによっては色々考えられる(主体が人ではなく鯉以外の魚かもしれない)が、主体の愛おしさは変わらない。大きく定型を逸れているが、助詞「に」の連続や平仮名の多用から、ゆるやかに句自体(内容も、文字も)が泳いでいるような感覚がして心地が良い。これまでの時間と、今、そして泳いでいる未来が透けて重なり合っている、非常に印象的な一句である。

 阿部完市には動物の句(鮎や狐など)が多く、主体と微妙に距離を取って描かれる。童心を基にした動物とのさりげない信頼のようなものに、いつも惹かれている。

記:丸田

午時一度蜂に開たり冬ごもり 建部涼袋

所収:『建部綾足全集 第2巻』国書刊行会 1986

午時はひると読む。空気が悪くなる気怠さに、寒さを耐えてでもしばし窓を開けるべきか悩むこと。完全に平和と思える冬ごもりも心の内では葛藤している。どこからか入った蜂を逃がすため、一度だけ窓を開けるほかは外界との接続を断った冬ごもりへの意志。しかし蜂を殺さずに逃がしたのは、弱った冬の蜂への慈しみか、それとも窓を開けることを心が求めたからか。わざわざ窓を開けた心のうごきを想像させる一句。

涼袋には〈傘(からかさ)のにほうてもどるあつさかな〉など感性の鋭さがひかる句もある。とすると、掲句のうちに感性の鋭い人一流の周りへの「怯え」を感じとることもできそうだ。                                 

                                            記:平野

しみじみと沁々と冬の日を愛しけり 赤尾兜子

所収:『䬃』渦俳句会 1983

1983年と言えば兜子の死去後すぐであるが、この句は晩年に書かれた句ではなくて、青年期に書かれたもの。若きころの兜子の未発表句稿を『䬃』として発表したらしい。和田悟朗はこの頃の兜子作風を戦中のミリタリズムへの反省と前衛的作風の萌芽が見られると評している。

レトリック的にはなんてことの無い句だけれど、兜子の持つシリアスさが直截的に表れている。シリアスさというのは兜子の大きな魅力であるように思うし、平成の俳句が平明さ・完成度と引き換えに失ったものがシリアスさであるとするなら、いまひとたびシリアスさを引き受けることは意味があることなのかもしれない。少なくとも藤田哲史『楡の茂るころとその前後』左右社 2020 などには同様のシリアスさを感じる。

記:柳元

落第 平野皓大

落第  平野皓大

蘖や日に日に下校あかるくて

ボクシングジムに花粉を左右

拳ふりかざしてアトム春の風

落第の怒りは握りをさまりぬ

はかなきものに学舎の剪定を

奔流の底も力の鮎のぼる

見えすぎて春の霙の漠として

天地のこゑおぼろげに野遊を

花疲れ湯浴みに肌が蛇のごと

山の子に蝶の賑はふ素足かな

木の痾 丸田洋渡

木の痾  丸田洋渡

木々の木の葉の葉脈のつめたい痾

木が傾くと氷山もそのように

陽ぐるいの木が聞いている春の雪

のどかさや鳥に通じる木の符丁

ある日ある昼木はみずからを鳥瞰する

ひかる針みちる囀ひろがる木

春霖や朽ちていくことにも慣れて

花ふぶき木が占めている実の応答

火に人にいつか消されて花曇



椅子が春こもれびに木に戻りだす

くび垂れて飲む水広し夏ゆふべ 三橋敏雄

所収:『眞神』端渓社 1973

「広さ」が描かれているから池や湖に口をつけて水を飲んでいる様だろう。水を飲みながらも、その行為を通して水の広がり、湖や池全体を感じることには遥かな安らぎがある。夏の日差しに熱くなった体を水で内から静める心地よさが、気温も落ち着いて肌に馴染む「夏ゆふべ」の空気感が、その安らぎの感覚を確かにしている。

水平に広がる水に対して、首が垂直の動きを見せる構図が印象的だが、人間の首は短いので垂れるという表現には違和感が残る。首を垂れるという表現が適当なのは牛や馬などの動物であろう。敢えて「垂れる」と表現しことで、牛や馬と同じく生きる物として、水の安らぎに身を委ねる人間の姿が浮かぶ。また、「首を垂れる」という表現にある、静かな悲しみや、敬虔さが、水を飲む姿に重なって浮かび上がってくる。

記:吉川