此処あったかいよとコンビニエンスストアの灯 池田澄子

所収:『思ってます』ふらんす堂 2016

現代日本社会の象徴の1つとしてコンビニエンスストアは挙げられるのではないだろうか。掲句が収録された句集が刊行された2016年には、村田沙耶香の『コンビニ人間』(文藝春秋)も刊行されており、文学においてコンビニが現代日本社会の主要なモチーフとなっていることがなんとなく感じられる。

コンビニはその名の通り、コンビニエンス=便利なのだがコンビニの独自性はそれではなく、どこにでもあるし、いつでも営業していることにあるように思う。
旅先で気軽に入れそうなお店が見つからない時、深夜眠れなくてお腹が空いてどうしようもない時、そういう些細な心の靄をコンビニの存在が解消してくれる。コンビニはなくても生活はできるが、コンビニがあることで無理に踏ん張る必要がなくなる時が生活には多々あると1人暮しをはじめてから感じている。(コンビニは深夜営業やフランチャイズ経営に由来する様々な問題を抱えており、それらを含めて簡単に肯定はできないが)

「あったかいよ」という口語による表現には、温度の問題だけでなく、上記で述べたように私が感じている温かさも含まれているだろう。「灯」のイメージもまたそれを補強する。

コンビニの灯がこちらに「あったかいよ」と呼び掛けているように感じるような夜は、やたらと明るい無機質なあの照明も違って見えるだろう。

記:吉川


雪の森薄刃のごとき日が匂ふ 福永耕二

所収:『踏歌』(東京美術 1980)

雪の森という表現はグリムの森か、くまさんの森か、どことなく童話的な雰囲気を持っている。雪も、森も、人次第である。雪深い地域を思い浮べる。それほど積雪のない地域を思い浮べる。鬱蒼とした森を思い浮べる。散策する路のある森を思い浮べる。雪の森があまりにも抽象的であるため、リアリスティックでない童話を想像するのだろうか。

この上五の童話らしい舞台設定が「薄刃のごとき日」という絵画的な光景をもっともらしく見せる。鋭い日射しだろう。いかにも冴えている。

ところが最後の「匂ふ」によって、雪の森は童話の世界から離れる。確かにいま、森のなかに存在しているのだという感覚を読み手に導く。木に囲まれた空間が広がり、繊細な感覚で日射しを捉えている。もしも「見ゆる」だとすると、森の空間は立ち上がらず、平面的で臨場感に欠ける。また、森のなかにいるとしても日射しを渇望しているようで、さらに薄刃と言われていることから精神状態が不安定に思える。一語で印象が大きく変わる。

記 平野

公園の冬温かし明日世界は  上田信治

所収:『リボン』 邑書林 2017

公園を歩いていると思い出した1句。

「公園の冬温かし」はなんてことない平和な日常を感じさせるフレーズである。そこから「明日世界は」と大きく展開されていくのがこの句の妙。

「温かし」(a ta ta ka si)「明日」(a si ta)「世界は」(se ka i ha)というように見ると、a音の連なりと、a音+i音のセットの繰り返しが生むリズムが中7と下7を繋げている。
上5中7の醸す平和的なムードはリズムに乗って下7まで続いていく。そうして、「明日」「世界」という抽象的かつ重いワードも、漠然としているからこその明るさに印象を変える。

口に出して読み上げる度に嬉しくなる1句。

記:吉川

襖しめて空蟬を吹きくらすかな 飯島晴子

『朱田』 永田書房 1976

「くらす」という表現なのだから、襖を閉め切って部屋に閉じこもり、空蝉を吹く、ということが来る日も来る日も繰り返されているのだろう。そうした説話的イメージだからか、平安時代の女性貴族がこの句の主体のような気もしてくる。(私は詳しくないが、「源氏物語」に空蝉という女性が登場するからかもしれない)

部屋と空蝉の中の空気それぞれは、襖と空蝉の殻という脆いものによって守られている。襖と空蝉の2重の脆さの中にでさえ閉じこもってしまう主体の心の様は、説話の主題として非常に魅力的に映る。

記:吉川

見えてゐて京都が遠し絵双六 西村麒麟

所収:『鴨』(文學の森 2017)

江戸の身分秩序が崩壊した明治期、人々は中央に夢を見た。誰でも成功をおさめるチャンスがあり、誰でも出世できる。青雲之志を抱き、青年たちは中央へ向かう。その姿は双六の駒に似て、前途は不明ながらも道は拓けている。青年たちは一心不乱に駆けのぼる。

かつての青年は歳をとった。来し方に目を向け、その高さに目を瞠る。高さは自らの今いる地位に相当し、道のりは過ごしてきた年月に等しい。なんとまあ、遠いところまで来たものだ。青年はそう呟く。

あがりの位置に駒はいる。駒は京都から出発し、長い道のりを経てゴールした。このとき作者は垂直的なまなざしを得ている。掲句は多くその逆、つまり駒のおもては京都に向かい、作者のまなざしは平面的な広がりを獲得している、と鑑賞されてきた。しかし双六という遊具において、スタートからゴールまでが一直線に並んでいるとは限らない。スタートから裾野をぐるぐる、頂上のゴールまでらせん状に回って辿りつくものもある。駒は中心へ、そして高いところへと向かう。駒の動きは垂直的になり、ゴール地点からスタート地点は見下ろせる。それは立身出世の歩みと一致する。

双六の出発地点は京都になる。朝廷がおかれた京都から東京へ、時代は流れていった。ふり返って京都を見下ろす。国家の立身出世という夢、果たしてそのふり返るうなじは美しいだろうか、高さに憧れて走ってきた現在は、過去から仰がれるものだろうか。そんな問いが浮かんでくる。

記 平野

ある朝の大きな街に雪ふれる 高屋窓秋

所収:『白い夏野』(龍星閣 1936)

はじめて読んだ句集は『白い夏野』で大学図書館から拝借した。いま目の前に俳句を読み始めようとする人がいて、『白い夏野』を手にしていたとしよう。きっとその人に僕は歩み寄って、やめておいた方が無難だよ、と声をかける。しかし、なぜなのか。はじめて読んだときの感触として、特に難しいことは書かれていなかった。それどころか表題の「頭の中で白い夏野となつている」は分かりやすいほどで、真っ白な眩暈の感覚に魅了されていた。

俳句史における『白い夏野』の位置を踏まえてから、この句集は読んだ方が良い。だから「難しい」と初心者に向けて言う。それは俳句に脳をおかされている人の了見で、まっさらな初心者からしてみれば心底どうでも良い。事実、『白い夏野』は初心者であるところの僕を魅了した。それどころか、かつての自分は今よりも強烈な清新さを一句一句から感じ取っていたように思う。

掲句はちょうど三年前の僕が『白い夏野』から十三句を抜き出した、そのうちの一句である。単純明快で、解釈をあまり要しないだろう。単調につづく日常のある朝、カーテンを開いてみたら一面の雪景色だった。眼を圧するような白に意識は奪われ、そのまま視点がつり上がっていく。圧倒するばかりの雪に心をうたれる視点人物とその人を中心に広がっていく街という空間、人にも建物にも雪は等しく降る。すべてが雪に埋もれている。

広々とした世界にかつての自分は惹かれた。既存の俳句に飽き足らず、逸脱しようと試みた窓秋だからこそ、初心者の自分と波長が合ったのかもしれない。本当に、真剣に、初心者に勧めるべき俳句とは高屋窓秋に違いない、と皿洗いをしながら思った。

記:平野

コンドルの貧乏歩きも四日かな 飯島晴子

所収:『寒晴』 本阿弥書店 1990年

飯島晴子はたびたび動物園で吟行をしたというから、掲句もその時の1句だろう。

首から頭にかけて毛にも羽にも覆われていない点や、鳥特有の重心が定まっていないかのような歩き方は確かに貧乏くささを感じさせる。高村光太郎に「ぼろぼろな駝鳥」という詩があるとおり、鳥とみすぼらしさを結び付けるのは特段目新しいものではない気もするが、この句は季語の采配がおもしろい。
三箇日が明けて四日、というのは仕事はじめの人も多く、「四日」はなんでもない1日でありながらも普段よりも俗な空気感をまとっている。「四日」という季語のなんでもなさによって、この句は鳥の心に寄り添おうとする高村光太郎の詩とは異なり、コンドルの様と「四日」の響き合いに重きを置いた、軽みのある1句となっている。

記:吉川

面接のごとく向き合ふ初鏡 鷹羽狩行

所収:「俳句」2020年12月号「家居」特別作品50句より

 新年気持新たに鏡に向い合う。鏡の映る己の姿も淑気満ち満ち、見慣れた顔も新規の物事を成し遂げんとする面持か。あるいは時間を倶にしてきた己の顔立を改めて眺め波瀾曲折の人生を振り返っているか。顔は歳月に鑿を震わせた彫刻である。深く刻まれた皺にはおのれの来歴が書き込まれる。我が国の歴史書「大鏡」「増鏡」や中国の歴史書「資治通鑑」を思い出せば分かるように、鏡は過去を写して未来を占うものであった。

 かつて鏡には魔物が棲んでいた。鏡は人を惑わせた。希臘神話のナルキッソス、白雪姫のお妃様、コクトーの映画「オルフェ」等を思うがよい。彼らはみな鏡の魔力にあてられてしまった者たちである。しかしかつて青年を誘惑した自己愛や希死観念も、年を経て減衰した。老いは鏡を磨き上げる。曇りなく、磨かれた鏡には観念の隔てなく己自身が映る。今まじまじと見つめよう。面接されるのも己、その彼を判じるのも己である。

記:柳元

ノートパソコン閉づれば闇や去年今年 榮猿丸

所収:『点滅』ふらんす堂 2013

角川俳句歳時記によれば、「去年今年」という季語には一瞬で去年から今年へと移行していくことへの感慨があるという。それに依るのであれば、ノートパソコンで仕事をしている間にいつの間にか新年を迎えてしまった句であると考えられる。

同句集には「箱振ればシリアル出づる寒さかな」、「ダンススクール西日の窓に一字づつ」といったカタカナ語の使用と、ドライな文体が特徴の句が多く、少しハードボイルドな印象を受ける。
掲句もそうした1句だろう。「闇」という単語は含まれているものの、「ノート」の間延びした響きや、情景描写に徹する句の在り方によって、「新年まで働かなければならないブラック企業の闇!」といったイメージを喚起するのではく、あくまでも物質、空間としての闇という視覚的イメージを喚起する。
この句、句集の文脈の中では「去年今年」という言葉にも、ようやく仕事が終わった感慨、安堵感などは読み取りにくいように思う。そうした淡々とした年越しの在り方に私は現代の生活のリアルさを感じる。

記:吉川

春禽にふくれふくれし山一つ 山田みづえ

所収:『手甲』(牧羊社 1982)

山は動かないものとして心のより所になる。ながい冬をぬけ、ひっそり閑とした山に鳥がさえずる。春の到来は声をもって知らされる。気温が上がりはじめ、活気を取り戻していく山の様子を「ふくれる」と表現した。そこには生命への視線があり、鳥の声をいっぱいに溜めて、山の生命はふくれていく。このとき山という静は動に転じる。

鳥と山の交感、それは山田の他の句、例えば「山眠るまばゆき鳥を放ちては」にも見られる。この句において眠る山は厳粛な静であって、なおかつ鳥を放つという動でもある。山は外観落ち着きながら、その生命はいつも蠢いているのだ。

記 平野