連衆に足らざる傘や泥鰌鍋 大庭紫逢

所収:『氷室』(1985 牧羊舎)

連歌・連句の席上、酒も入り一騒ぎしたあとで、外へ出ようと傘を探せばどうやら数が足りない。互いを疑う気持ちも起るが、先ほどまで和気あいあいと過ごした仲である。取り立てて騒ぐこともなく、傘へ誘いあって後は小話になるのみ。そうして楽しい時間は終わり、それぞれの帰路につく。

しつこいまでの江戸ぶりだが、それがいきているとも思える。内にながれる和やかな時間と、雨が降っている外との対比。それがちょっとした事件でより明瞭となる。しかし内と外は裂け目がなく、ゆるやかに接続している。それにしても失くなった傘はなんだろう。和傘だろうか、個人的には蝙蝠傘で読みたい気分になる。

                                    記 平野

揚花火明日に明日ある如く 阪西敦子

所収:『天の川銀河発電所』左右社 2017

花火大会だろう。消えては揚げられ、消えては揚げられを繰り返す花火にとめどなく続く毎日を重ねているのだ。

花火は一瞬で消えてしまう儚さに注目されがちだが、この句の視点はそれとは異なる。
どこまでも続くかのように思われる明日の連続、それは人間1人1人の身には余る大きなもので、捉えきることはできないし、むしろ圧倒されてしまう。
それは花火も同じだろう。打ち上げられた時の大きな音に、夜空いっぱいに開く光に、その鮮やかな色彩に、私達は圧倒されてしまう。
この句から立ち上がる花火は、儚さではなく迫力を持っている。

「明日に明日ある如く」というフレーズは抽象的だけれど、何故か花火の様子がはっきりと浮かぶ比喩だ。先日、散歩している最中に花火を見たけれど、間髪なく花火が揚がり続けるフィナーレはまさにこの表現がピッタリだった。

ここまでいろいろと書いたけれど、結局のところ花火が終わってしまうことを私達は知っている。そのことがこの句の味わいをより深くしている。

記:吉川

それとなくひとの見てゆく春の川 飯田龍太

所収:『遅速』(立風書房 1991)

川を見ることはなんら特別でない。日常ありふれた行為である。川を見ることが重要な意味を持つようになるのは、ある結末を中心にしたときぐらいだろう。つまり一つの結末からこれまでの出来事をふり返って、それぞれに特別な意味を見出していくときである。人はある結末の要因として、過去の出来事を位置づけていく。そうすることで因果関係を作り出し、世の中を分かり良いものとして理解してきた。また、物語はそうやって作られるのが一般的である。

川を見るそれとない行為。そして川を見て過ぎ去る人びと。そんな記憶の隅に追いやられて当前のなにげない一コマが句にされる。一句なにか詠んでやろうと力んだ姿勢ではなかなか眼にとまらない光景である。しかし龍太は生活のなかで見落とされてしまう光景を、確かに一句として捉える。世界のなにもかもが新しく映る赤ん坊の眼を持っているかのように、肩の力をぬいて世界と接している。『遅速』は龍太最後の句集だが、そうした童眸ともいうべき句が多数見られる良い句集である。

                                    記 平野

穴惑ばらの刺繍を身につけて 田中裕明 


所収:『田中裕明全句集』2007 ふらんす堂

高校生のときから愛唱している句の一つ。穴惑というのは冬眠する穴を見つけ損ねている秋の蛇のこと。何という取り合わせだろう、と裕明には何度も静かに驚かされる。掲句も取り合わせと解するべきなのだろうけれども、ぼくの脳内には、ばらの刺繍を身に付けた蛇が、えっちらおっちらのんびりと彷徨う様子が目に浮かんで、微笑ましい気持ちになる。子供の頃そんな絵本を読んだような、読んでいないような。

ところで先日Twitterで堀田幾何さんが、『花間一壺』の句はBL読みが出来るという旨を述べていらっしゃって、たしかにこの句集は男色の感じがあるもんなぁと改めて思ったりした。BL読みには普段首をひねることが多いけれど、『花間一壺』に関してはそういう読みはかえってテクストを厚くするような気もした。

そう思わされるのは、裕明の師である波多野爽波には〈秋の蛇ネクタイピンは珠を嵌め〉という句があって、おそらく裕明の句はこれを本歌取りしているのではないかと思う。そこには師とのたわむれにも似た親しさの表明があるはずで、それがBLというかたちで消費してよいものなのかは別としても、なんだか非常によろしいものに感じられるのである。

記:柳元

魚影のたまたま見えて水温む 井月

所収:『井月句集』(岩波書店 2012)

水の温度は眺めていてもよく分らない。触ってみるか飲んでみるか、肌にふれる。それで温度を理解する。そしてもう一つ、温度が分る方法がある。分るというと語弊があるかもしれない。温かいと信じれば水は温かくなる、温かいということになる。

春の日が射している。春は生きものが動く。生きものは影を引き連れる。影が動けばそこに動く物がいる。たまたまというのが動きを表す。姿は隠れていたけれど、影だけ眼にはいる。すばやい動きだと思う。たまたま良いタイミングで魚影を見た。瞬間、春を実感する。魚の元気が良い。水もまた温かくなっているのだろう、水が柔らかい。辺りも春である、心もまた緩んでいく。

記:平野

港区は好きな区秋の風もまた 岸本尚毅 

所収:『感謝』ふらんす堂 2009

この句が滑稽というか、くすりと笑えるようなおかしみに転じるのは、港区が何となく「おハイソ」で「成金」ぽい感じがするからだろう。完全に偏見なので港区にお住まいの方には先に謝しておくが、ぼくがこう思ってしまうのには理由があって、というのもぼくの東京の知識は漫画『こちら葛飾区亀有公園前派出所』(通称:こち亀)によるのである。

両津勘吉(主人公)が本田という後輩の新居探しを手伝うのだが、その本田が「港区に住みたい」「ベランダから東京タワーが見える場所がよい」とゴネにゴネて、両津勘吉を困らせるのである。両津勘吉が事故物件や犬小屋を紹介する、というオチだったと思う。これを読んで以来、港区というのはミーハーが住む場所なのだという思いがあって、岸本尚毅の句にもそういうおかしみを見出してしまう。

そういえば「港区女子」という言葉もあるけれど(ご存じない方はググってください)、でも岸本の句から見える態度は、港区に集まる人を小馬鹿にするような視線ではないのがよいな、と思う。

港区の東側は東京湾に面しており、考えてみればレインボーブリッジも港区だから、何となく秋の風と言われたときそれは潮風のような感じがする。所在なさげに散歩しているときにふいに磯の匂いと出会って、ふと海のありかに思いを馳せるような、そういった良さがこの地名には初めから組み込まれている。「港」句、なのだから。大変よろしき地名である。

記:柳元

花冷に紛るるほどの怒りかな 岩田由美

所収:『春望』(花神社 1996)

季節に振りまわされる。訳も分らぬ理不尽な仕打ちをうける事がある。例えば、梅雨の間はどうしようもなく地を這ってしまう。最近は気温も湿度もはね上がり、突如として気分が急降下する。花冷なんてもってのほかだろう。寒さがやっと緩んできたのに、ぽんと思い出したように寒い日が来る。しかし季節に対して怒ってみても仕方がない。全くもってやり場のない怒りである。

本当に怒っているときは我を忘れる。掲句は我を忘れない程度のちょっとした怒りで、季節に対する怒りもまたそうだろう。一心不乱に季節に対して怒れる人間がいるなら、ほんの少し、けれど心から尊敬する。生活していてムッとすることが少なからずある。正確にはその時点では別段気にもとめなかった事が、後でふり返ってなんだかなあと思う。そうした怒りはやり場があるだけまだマシで、季節はやり場がない。やり場があるならば多少は紛れる。季節への怒りといっても、我を忘れるほどではないだけまだマシである。怒りのグラデーションは確かにある。些細な怒りが積み上がらないように上手く季節とつき合っていきたい。掲句を読んでそう思う。

記:平野

名曲に名作に夏痩せにけり 高柳克弘

所収:『未踏』ふらんす堂 2009

夏バテなのか最近体調が優れない。この記事も本来は木曜日に挙げていなければいけないのだけれど、体調の優れなさに身をまかせているとすっかり忘れていた。すみません。

掲句の季語、「夏痩せ」は夏の食欲減退で体重が減ってしまうことを指す。
しかし、掲句を読むと「名曲」と「名作」によって「夏痩せ」が起きているかのように書かれている。

「名曲」や「名作」の持つ力は鑑賞者を感動させるなどのポジティブな方向に働くとは限らない。作品の持つ力に圧倒されて滅入ってしまうこともある。「名曲」と「名作」が連なって書かれることで重みが増し、そのニュアンスが強く掲句には表れている。

掲句の収録されている句集『未踏』には〈 マフラーのわれの十代捨てにけり 〉〈 卒業は明日シャンプーを泡立たす 〉等の青春詠が多くあるが、掲句にもその匂いは感じられるかもしれない。

記:吉川

蛍火のほかはへびの目ねずみの目  三橋敏雄

所収: 『長濤』 沖積舎  1996

「へび」と「ねずみ」の平仮名表記のせいか子供の頃のことを思い出した。
親に、夜に口笛を吹くと蛇が来ると教えられていたこと。
『おしいれのぼうけん』(ふるたたるひ、たばたせいいち 作 童心社)という絵本では、押入れの中の不思議な世界には怖いねずみばあさんがいたこと。
暗がりと「へび」「ねずみ」は結びつくと幼心に怖いものだった。
この句では蛍火と並列に「へびの目」「ねずみの目」が並列して配されることによって、光るはずもないそれらが夜の草むらの中でひっそりと獲物を狙って妖しく光っているような気がしてくる。
蛇や鼠の目が光る、というのはフィクションなのだけれど、そのはったりをかますことで蛍が照らすことはできない草むらの暗がりの不気味さが描かれている。

幼い頃蛍を見た時のことを思い出すと、蛍に目も心も奪われながらも、蛍のいる草むらにまでは近寄れなかった気がする。具体的に「ねずみ」や「へび」に怯えていたわけではないけれど、この句の描く不気味さが確かにそこにはあったのだろう。

記:吉川

佇てば傾斜/歩めば傾斜/傾斜の/傾斜 高柳重信

所収:『蕗子』東京太陽系社 1950

 横書きでは本来の味は出ないが、

  佇てば傾斜
   歩めば傾斜
    傾斜の
     傾斜

 というふうになっている。「傾斜の/傾斜」という展開のさせ方に眩暈感を覚える。「佇てば」は、「たてば」なのか「まてば」なのかは分からないが、「歩めば」との繋がりで、なんとなく「立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花」の言葉を想起する。立っても歩いても傾斜があるばかり。傾いて傾いて仕方がない。傾斜自体も傾斜してしまって。
 この連続する感覚は、〈「月光」旅館/開けても開けてもドアがある〉(同)にも共通するものがあるように思う。どこまで行ってもそれしかないことの冷たい恐怖。

 視覚的な効果をよくよく練られて作られた句が重信には多いが、この句も各行の先頭が一字ずつ下がって、傾いた斜めの線が見えるようになっている。ただ、二行目「歩めば傾斜」の「斜」が一字だけ飛びだしてしまっている。ここに狙いがあるのかもしれないが、個人的には、ここが揃っていれば整然として(いい意味で)より気持ち悪くなるだろうと思う。または最後の「傾斜」を三行目に持ってきて、平行四辺形のようにしていたかもしれない。こう見ていると、ふだんの俳句表現とは全く違う見方で見ているなと思う。文字をどう配置するか、文字自体がどう見えてくるか、という視点。文字で行う芸術であるから、当たり前のものではあるが。

〈●●〇●/●〇●●〇/★?/〇●●/ー〇〇●〉(『伯爵領』1951)のような意味がとことん排除されていったもの(「?」の疑問や、〇と●の交替からなんらかの規則・意味を見出せるかもしれないが)は極端だが、句自体を文字の集合として、全体の見え方を思考・操作するというのは非常に大事だと読むたびに気づかせてくれる。

記:丸田

追記:〈●●〇●/〉の句について、重信作のように記述しましたが、澤好摩 『高柳重信の一〇〇句を読む』(2015)にて重信作ではないと指摘されているとのコメントをいただきました(当書は筆者未確認)。林桂の時評を扱ったサイトにも、弟・年雄が作ったものを重信が句集に掲載することを黙認したとあります。『伯爵領』掉尾の句が弟作であったとは知らず驚きました。訂正に代えてそのほど追記しておきます。(2020/7/29 19:55)