所収:『江戸櫻』小澤書店 1988
水運が盛んだった「水の都」として、江戸の記憶と密接に関わる淺草川を舞台に、演出らしく小雪を舞わせる作者は江戸情緒の世界に遊んでいるのかと思えば、下五を淺い川にすることで、ただ人びとの記憶のなかを流れる淺草川を描くだけではなく、現在も江戸から変わらずに流れ続ける実景としての淺草川に迫っていく。記憶の景から実景に舵が切られる、その転換点としての「や」、単なる言葉遊びで終わらないところが巧みな一句。
記:平野

短詩系ブログ
所収:『江戸櫻』小澤書店 1988
水運が盛んだった「水の都」として、江戸の記憶と密接に関わる淺草川を舞台に、演出らしく小雪を舞わせる作者は江戸情緒の世界に遊んでいるのかと思えば、下五を淺い川にすることで、ただ人びとの記憶のなかを流れる淺草川を描くだけではなく、現在も江戸から変わらずに流れ続ける実景としての淺草川に迫っていく。記憶の景から実景に舵が切られる、その転換点としての「や」、単なる言葉遊びで終わらないところが巧みな一句。
記:平野
所収:『星涼』ふらんす堂 2010
野遊びの最中に空を見る、のではなく野遊びのように空を見る。ただ空を共に見ることを、野遊びという楽しい出来事に喩えることのできる、作中主体と「みんな」の親密さは眩しい。「野遊び」・「みんな」・「空」という語の連なりや、助詞の「て」で終わることの余韻が生み出すノスタルジーに浸っていると、野遊びをしない大人に成長しても子供の時とは変わらないもの(みんなとの関係性や空の眩しさなど)を詠んだ句のようにも思える。 シンプルなようでいて読むほどに抒情豊かな1句。
記:吉川
所収:『蕪村俳句集』岩波書店 1989
蕪村の愛用語だという、とかくしてがこの句では心の動きを表現している。日射しが強くて暑い夏、外に出て手にした扇をあおぐかそれとも日よけにするか、しばらく悩んで笠になしつる。確かに外で一生懸命に扇をあおいだとしても、風は生ぬるくてまったく涼みの足しにならないだろう。暑いなか、多少の涼でも求めようとする実感の伝わる一句。
記:平野
所収:『ただならぬぽ』ふらんす堂 2017
一面に広がる田にぽつんと立つ案山子。「ふりそそぐ」によって上下の動きが生まれ、立体的に景が見えてくる。要素がどんどんと追加されるような句だが、それに反して、句の世界は窮屈ではなく、むしろ空白が増していっているように感じる。この句の中で可視のものは案山子だけであり、際限なく広がって、ふりそそいで、最後に残っているのは案山子だけという空虚さが、妙に心地いい(案山子はこの句の中にすらおらず、全て見えないが在るものの話をしているだけなのかもしれない……)。案山子の孤独のようなものも感じるが、ここではなんだか、案山子の悲しみや神の意識が綯い交ぜになって、人間には言表出来ない状態で丁度よく安定して存在しているような、深いよろこびを感じる。
「ふりそそぐ」をどの語に掛けて読むか、降り注がれる対象を何と考えるかで景が容易に変わってしまう。しかし、句は k 音の連続に加え i 段で脚韻が踏まれて、綺麗に構成されている。この不安定が過剰に安定しているような気持ち悪さが、怖いくらいに美しいと思ってしまう。
記:丸田
所収:『びあんか』深夜叢書社 2014
あなたの部屋の時計は2分遅れている。あなたはそれを知っている。知っていても時計の指し示す時間のずれを直さないのは、単にあなたが面倒くさがりであるというだけなのかもしれない。
とはいえ実際のところあなたは、そのずれている時計が何となく気に入っている。
あなたがそんなことを考えだすときは決まって深夜である。ベッドに入って寝付けないとき、日中は聞こえないような物音が気になりだすことがあなたにはよくある。
それはチクタクという秒針の音かもしれないし、あるいは分針が動くときのコッ、というかすかな音かもしれない。この歌では、針と針がすれ違うときの微々たる針の逡巡が作中主体に知覚され、それがためらいという感覚で言い留められている。
眠れない夜にはかすかな時計の息遣いがふいに聞こえ出すという瞬間があって、あなたはそのとき、聴いた、聴こえた、と思う。何かこの世ならぬものの感じを受けて、あなたはすっと冷や汗を覚える。
そして朝になればすべて忘れてしまう。
人でないものへの共鳴性が強いという意味でとても水原紫苑的な一首。
記:柳元