桟橋の絵に掛けかへた自室だが、僕が戻つて来ることはない 松平修文

所収:歌誌『月光』No.54

木組みの浮き桟橋には穏やかに波が寄せ、帆を畳んだヨットが繋ぎ止められて上下する。港の様子のなかでも桟橋の景は殊に美しい。飛んでいる海猫に光が散らつく。絵に写し取られると優しげな波音は失せてしまうが、海に反射する光は染料を得てカンバスの上に定着する。

僕は桟橋の絵に自室の絵を掛け替える。絵が窓の役割を果たすなら、室内からはその桟橋の景が見えたに違いない。海の光はその部屋を明るくしたのだろうか。おそらく明るくしただろう。

松平修文は北海道出身、画家でもあった。掲歌は遺稿「よいいちにちを」から。迫る死が意識されながら書かれたものであるはずである。2017年の11月に直腸癌で永眠している。

記:柳元

緑色の受話器は海に沈みつつ呼べどとこしなえの通話中 蝦名泰洋

所収︰『イーハトーブ喪失』(1993 沖積舎)

 受話器から海という単語の移動距離は大きいように思うが、それをほとんど違和感がないくらいに呑み込ませてしまう映像の力がある。
 描かれていることとしては、緑色の受話器があり、それが海に沈んでおり、「呼べど」、とこしなえ(≒とこしえ≒永久)の通話中であったということ。海中に落ちて行く緑の受話器が頭の中に映る。

 この歌において、「呼べど」が非常に大きな役割を担っており、これがあることで実感と奥行きが生まれていると考えている。
 もし、「呼べど」が無く、さらりと繋がっていたとすれば、〈緑色の受話器は海に沈みつつ今もとこしなえの通話中〉くらいになるだろう。こう見ると、緑の受話器が海に沈んでいて、それは永久の通話中である、というシンプルなものに落ち着く。海の中で電話なんて、もう壊れてしまっているはずで不可能にもかかわらず、今も何かと確かに通話している、という不思議な話だ。その通話先の相手が誰(何)なのかも気になるが、こちら側が何なのかも気になる。「海」?「受話器」自身?それとも……。

 ここで「呼べど」があることで、急に話が変わる。永久の通話中であることを強調しているというのはあるが、それよりも誰かがその受話器へ電話をかけていることが強く表れる。ただただ受話器が通話中に入っているわけではなく、呼んでいるのに! という切迫したリアルな状況が加えられている。誰かにとっては出てほしいのに、一向に通話中に入っている。これによって、「とこしなえ」のニュアンスも若干変わってくる。永遠に受話器が通話しているという幻想的な話に終わらず、呼んでいるのに永遠に出ない、その永遠に死の影が薄く見えてくる。もちろんそうとは限らないが、海難事故などで人が死んで、その人へ電話をかけているが、繋がらない、というような……。

 ここで一つ改めて思うのは、「呼べど」なのであって、「かけても」ではない点である。電話といえば次に来る動詞は(自分の中では)「かける」や「きる」が多い。この歌も、私は実際のところ、電話をかけても通話中だった、くらいのニュアンスで最初は受け止めていた。ただよく考えて、「電話をかけても」と「呼んでも」では、やや違ってくるなと思った。もちろん電話の内容にもよるところだが、「呼ぶ」はより切実なもののように感じる。
 というのも、「呼ぶ」という行為は、相手が「通話中」だと分かった後になされることのように思うからである。電話をかけて、繋がらず相手が「通話中」だったとき、わざわざ相手(例えばその名前)を呼ぶことはない。通話中だったから時間を空けてまたかけ直したとき、また「通話中」、時間を空けてまたかけてまた「通話中」だったときに初めて、「おい○○、電話に出てくれよ!」というような、「呼ぶ」行為が出てくるのではないだろうか。そうやって、電話をかけて、「通話中」、「呼ぶ」、「通話中」を繰り返すことで、「とこしなえの通話中」がそこで認識されるのだと思われる。ただふつうに電話を「かける」のではない、電話に出てほしいとその相手を何度も求めつづける気持ちが「呼ぶ」に詰まっているのではないか、と考える。それ故に、「呼べどとこしなえの通話中」には重みと海のように深い悲しみがある。

 この「呼べど」に着目したのは他にも理由があり、それは映像の切り替わりの問題である。ただ受話器が落ちていてそれが通話中だったというのなら、海と緑の受話器だけで映像は片付く。しかし、「呼べど」の入り込みによって、一気に事態が変わる。

 映像の中心が沈下中の受話器であることには変わりないとして、上述の事情で、「呼べど」であるからには、必死に求めて呼んでいる誰かがいるはずだと考えられる。すると、沈んでいる受話器(海)と、関係ない場所で電話をかけている誰か(陸のどこか?)という二つの景色が浮かんでくる。
 神の視点で、落ちて行く受話器は通話中であると述べるだけで終わるところが、「呼べど」という気持ちが入った行為が入れられることで、呼んでいる側が存在し、その人が「とこしなえの通話中」を感じていることが見えてくる。

 となると疑問になってくるのが、その呼んでいる側の人は、相手の「緑色の受話器」が、今「海に沈」んでいる最中なのを知っているかどうかということである。
 知らないから、何度もかけて、通話中だなあと思って、呼んでいるのか。はたまた、受話器が沈んでいて、繋がらないことを分かっているにもかかわらず、何度も何度も電話をかけているのか。後者だと、「とこしなえの通話中」であることの悲哀が倍増して伝わってくる。

 どちらかを特定するまでは出来ない。ただ、沈んでいる受話器と、呼んでいる誰かとがいるだけである。事情は後からついてくるものであり、語られない限り分からない。「呼べど」によって発生した語られていない事情が、この歌に奥行と謎をもたらしている。

 「呼べど」以外の点として、韻律は下の句の句またがりの心地よさを評価したい。「よべどとこしな/えのつうわちゅう」のなめらかな跨り方が海に沈んでいる動きと重なるようで、一層この歌を印象づけていると思う。これは完全に個人的な感覚の話になるが、「(よべ)どとこ」の部分の o 段の連続から「(とこ)しな」と、 a 段になっていくことで水面に上がっていくような明るさがあり、「つうわちゅう」の u の音で伸びていくことで、さっきの明るさは錯覚で、やっぱり沈んでいる最中なんだ……と思わされるような気になった。

 また同じ作り手として、単語の持ってきかた(ワードセンス?)が良いと、純粋に思った。「受話器」「通話中」の単語はこれだけなら電話しているだけの小さな話になりそうな所を、「緑色」というさりげない色の立ち上げ方と「とこしなえ」という少し特殊ぎみの副詞を持ってくることでオリジナルな話になった。「海」を持ってくるとだいたい急に素敵になってスケールが大きくなるから甘えて使う人がいるが、これは完全に海を味方につけて使いこなしていると思った。メタな見方であるので歌の解釈とは関係ないが。
 どのパーツもこの歌を描くのに欠けても増えてもいけなかった、というような、単語に行き渡る気配りのようなものが見えて、個人的にはそこにも好印象な歌である。

 一体この緑色の受話器は今、誰(何)と、何を通話中なのかという魅力的な謎を残して、この歌は記憶されることになる。私は、いつでもこの謎に耽られるよう、頭のなかの海にはいつも、緑色の受話器を沈めている。

記︰丸田

人類へある朝傘が降ってきてみんなとっても似合っているわ 雪舟えま

所収:『たんぽるぽる』かばんBOOKS 2011

 雨の日がくるとふと思い出す一首。
 雪舟えまの歌の多くに他者への肯定の念が含まれていることはよく言われることだろう。この歌も例に漏れず、「人類」を「似合っているわ」と肯定してくれている。そんなあまりにも大きな愛とでも呼ぶべき感情はこの歌の大きな魅力だけれど、他の点にも注目したい。

 まず降ってくるのが「雨」ではなく「傘」なのは巧みなずらし方だ。そしてこのずらしが違和感を生む。それぞれが差す傘は自身で選び、必然的にそれぞれが持っている傘のはずなのに、偶然降ってきた傘を差しているような気がしてくる。この歌の主体が言っていることは「人類それぞれ自身で選んだ傘が似合っていること」から、「人類それぞれに偶然降ってきたはずの傘がそれぞれに似合っていること」に変化する。

 作品を鑑賞する際に軽率に他の作品を引き合いにだして、似ていると評するのは自分としては好きではないのだけれど、ここまで書いて。YUKIの『JOY』の『運命は必然という偶然で出来てる』というフレーズを思いだす。この雪舟えまの歌にあるのは、偶然が必然として現れる瞬間なのかもしれない。

記:吉川

昼しづかケーキの上の粉ざたう見えざるほどに吹かれつつをり 葛原妙子

所収:『朱靈』 白玉書房  1970

 ケーキの様子を描写しているのにファンシー等の所謂ケーキらしいイメージは全くなく、異様な空気をたたえた1首。
 粉砂糖が風に吹かれているのはきっと一瞬の出来事なのだろうが、「昼しづか」という大きく長い時間と組み合わされると時間感覚が少し狂う。粉砂糖が永遠に吹かれているかのような、粉砂糖が吹かれる様をスロー再生で見ているかのような、ゆったりとした時間が生まれる。
 見えないほどの粉砂糖にクロースアップしているにもかかわらず、昼という大きな空間が組み合わされていることにも異様さがある。ケーキの上をクロースアップして小さな世界を見ていたはずなのに、視界がそれで一杯になると吹かれる粉砂糖が大きな世界となって立ち上がる。
 このちぐはぐな感覚の連なりに従っていると、何故かケーキを見ているのではなく、だだっぴろい砂漠を見ている気がしてきた。

記:吉川

頭の中の雪のつもりぬ片隅に青磁の壺とグローブがある 森岡貞香

所収:『白蛾』短歌新聞社 1997(底本:『白蛾』第二書房 1953)

 以下、頭の中で雪が積もった話である。

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 頭の中では何が起きるかわからない。ときにサーカスのようにアクロバティックで、ときに石のように整然としていることもある。それ自体は魅力的なことでも、短歌(に限らず文章全般)で「頭の中」と言うのには、いくつかの困難が付きまとう。
 例えば今から怖い話を聞くというときに、「さっき思いついた話なんですけどね……」と言って話しはじめられると、怖がれなくなってしまう。お化けや幽霊がいたわけではなく、相手の単なる想像話と思い、一気に気が緩んでしまう。別にさっき思いついた話だとしても本当は良いはずなのに。(「友人の〇〇から聞いたんですが……」という怖い話の前振りはだいたい嘘を嘘っぽくなく言うための言い回しだし、ホラー映画もだいたいは創作。)ただ、怖がる時には、その人の話が(嘘だとしても)本当っぽいことが大切で、嘘であると明示されているなら、分かっていても怖がれるくらい怖いものを求めてしまう。
 これが短歌でも起きる。俳句や短歌では現実・感情ベースなため、「頭の中」と先に言われると、「そうですか」と一歩引いてしまう読者が出てくる。頭の中なら何が起こってもいいのだから簡単だ、本当に見たもの、感じたものこそが肝心なんだという風に。それに、怪談と同様に、創作だとしてもそれを作品内で言わなくていいじゃないかという意見も考えられる。「頭の中」に自然発生的に、自身は意図せず景色が生まれているとしても、その頭はあなたの頭なのだから、どうしてもそこに操作(傀儡の糸のような)が見えてしまって乗れない……。

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 ところで森岡の掲歌について、私が最初に読んだときに思ったことを順に記す。上から読んでいって、「頭の中の」で、「頭の中」と言ってしまったら損することもあるのに、それを言ってしまうなんてよほど面白いことがあったんだろう、それか、言わないではいられない(実際に外で見ましたよ、という風な変更は自身に許さない)誠実な方なのかな、と思った。次に「雪」が登場し、「片隅に」の指示があって、「青磁の壺」と「グローブ」が出てくる。脳内特有の、順番の唐突さが面白く、同時に、(歌として面白くなるものを持ってきているのだろうと予想されるので、)「青磁の壺」と「グローブ」のぶつけ方と、「雪」と「青磁」(とわざわざ壺に修飾させられた情報)の色の混ぜ方に、センスが見られるなと思った。そして最後に「がある」。「頭の中に」と始まって「がある」で終える。さっぱりしているようでなんとも力強い、濃い(ビビッドな?)表現だなあと思い、なんとなくメモしておいた。
 それからしばらく経って、花山周子『風とマルス』を読んでいると、次のような歌に出逢った。

しずかなる机の前にいたりけり頭の中をからすが飛べり/花山周子(『風とマルス』2014)

 静かな机の前に主体がいて、頭の中をからすが飛んでいる。心地よい静かな歌。瞑想にも近い、頭の中の光景が述べられている。これは、言葉がシンプルで丁寧に選ばれているからなのか、そうなんですね~だけでは終わらない静かさの気持ちよさがある。「しずかなる机」という表現から、その前にいる主体も静かに見えてくるし、「からす」の飛翔だけが聞こえてくる。主体も空間も静けさを通して一体となっているような感覚。頭の中の空と、机の向こうにある本当の空が一致しているようにまで感じ、外でもからすが同時に飛んでいるんじゃないかとまで思った。机の上に窓があったなら、その窓は確実に空いているような。

 「頭の中」と作中で言う歌は他にもたくさんあるが、そのとき偶然森岡の歌を思い出して、もう一度歌集を開いて確認した。

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 花山の〈しずかなる〉ではもっと現実と頭の中の光景を繋げてその響き合いを楽しんでいたが、それとは違う……と、思ったときに、最初に読んでいた時はそこまで強くは意識していなかった、「頭の中の」の、二回目の「の」に目が行った。
 最初に読んだとき、なんとなく脳内の話という把握だけして、あとは文字上、言語としてのセンスを見ていた。よくよく考えれば、〈しずかなる〉と同じ読み方をしていた。というのは、頭の中の雪と、「青磁の壺」・「グローブ」がまったくの別の場所にある、と読んでいた。「片隅に」が現実への視点移動を担っていて、頭の中では雪が積もるという美しいことがあったが、現実の部屋の片隅には~という歌だと。
 もしそうだったら、自分なら「頭の中に」と書くだろう、二回目にして思った。部屋の片隅に在る物体と、脳内の齟齬・すれ違い方を見せたいから、「頭の中に」とした方が、よりそのすれ違いが鮮明であるし、「に」の方が、より頭の中に雪が積もったんだぞ!という実感が強く出てくる。接地面としての脳内も魅せられる。
 しかしここで「に」ではなく「の」だということは、すらすらと繋がって、上から下まで同じこと、つまり一首通じて終始頭の中の話をしているのだと分かった。雪が積もっているその片隅に、壺とグローブがある。

 そうすると、このとき謎になってくるのが、青磁の壺とグローブは、どうして確認できたか、ということである。そこにその二つがあることを知っていて、そこに雪が積もった、のを逆から言っているのかとも思ったが、それだとどうも「片隅に」が引っかかる。「その中に」なら理解できる。「片隅に」というのは、確実にそこだ、と場所を指さしているような言い方で、そこに二つが実際に(脳内の話だが)見えているような言い方だと思う。
 そう考えると、雪が積もった後、「その上に」壺とグローブが「ある」のではないか。雪に積もられてしまっては見えなくなるし、もし半分くらい積もって半分くらい姿が見えているのだとすれば、グローブなので、「つもりぬ」と言えるほど積もっていないことになる。
 とすると、雪が積もった後、二つは突然に、雪の上に、出現したことになる。それが上から置かれるようになのか、下からせりあがってくるのか、自然に在ることになったのかは分からない。が、雪もそこまでかかっていないような姿で、二つのものがあることになる。(私が好きな推理小説で、一面の雪の上に、足跡の一つもなく血で染まった死体があるシーンがあったが、それを思い出す。)

 そこがこの歌の読みどころなんだ!と閃いて、少し感動していた。普通の現実の光景との交わりのようにも見せながら、助詞や順番(雪→物)にこだわって細部まで操り、頭の中の美しい光景をしっかり頭の中っぽく描いている。頭の中だからこその順番、出現の仕方が自然すぎて、傀儡の糸は完璧に透明だった……。

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 と読んでみて、ふつうに、これは歌の良さと言うより、自分が勝手に翻弄されたように迷って得たものであり、自分の読みの力不足でしかないなあと思いつつ、この鑑賞記事を書いていると、急にはっとして、「ぬ」に目が行った。助動詞「ぬ」はおそらく完了の意味である……。そして、「ぬ」の終止形は「ぬ」、連体形は「ぬる」である……。
 つまり、この歌は「つもりぬ」で一回切れて、「片隅に」で現実の光景に戻っている。頭の中の雪の映像から、現実の生活感ある青磁の壺やグローブに引き戻される強引な力が読みどころだったのだろう。ずっと「雪のつもりぬ/片隅に」を口語で言うところの「雪が積もった片隅に、」と読んでいた。

 さんざん読み迷ったなあと思いながら、他の方が書かれている森岡の鑑賞の記事を調べて見ていると、阿波野巧也さんのnoteの記事(「歌集を読む・その9」2016年7月26日、2020年6月17日閲覧)にて、〈一團(ひとかたまり)飛びきたりたる水鳥の影が先きになりみづとまじれり〉(『百乳文』)について、「しかし、「飛びきたりたる」って文法はどうなっているんだろう。森岡貞香はそのへん怪しい歌がたまにありますね。」と指摘しているのを発見した。たしかに助動詞「たり」が重複している。
 私もよくよく森岡の歌を確認しなければならないが、そういう節があるのだとすれば、可能性として「ぬ」を連体として使っていることも考えられる。

 とすると、どちらにも読むことができて、どちらがいいだろうと悩む。個人的にはずっと頭の中の話の方が、雪との順番が面白いと思うが、おそらく切れを作って、現実への切り替えにした方が、壺やグローブの生活感が出ていいだろう。
 右往左往考えているうちに、頭の中に、雪が降りはじめ、いつの間にか積もっている。どこにあるべきか自分の中で定まらなくなってしまった青磁の壺とグローブが、サーカスのように空中に浮かんだままになっている。

追記︰後半の、「つもりぬ」の「ぬ」が終止形で軽く切れているとしても、それは少し時間を開けている程度で、「片隅に」でたちまち現実に引き戻されるわけでもなく、積もった雪の上の片隅を差している、とも読めるので、文中ではかなり雑に判断してしまっています。その他にも根拠の足らないまま判断している部分があるので、読みの力を更に付けていつか再挑戦をと思っています。

記:丸田

そんなにいい子でなくていいからそのままでいいからおまへのままがいいから 小島ゆかり

所収:『獅子座流星群』砂子屋書房 1998

 永田和宏『現代秀歌』で出会ってからもう四年ほど、良い歌だと思いつづけている。いい子でなくていい、おまえのままがいい、というのもシンプルに嬉しい(子目線で)が、それを急いで言おうとしている母の、切迫した感情に心を引き付けられる。「そのままでいい」では伝わりきらないと思った部分を、すぐに伝えようとして「おまへのままがいいから」と足す。「で」から「が」の、変更に思いを馳せると、いつでも、少し泣けてくる。
 リズムは、定型に近づけて読むと〈そんなにいいこで/なくていいから/そのままで/いいから おまえの/ままがいいから〉くらいになるだろう。ただ「いいから」の連呼と、次々に言い足していく(言い直していく)速さで、〈 そんなにいいこでなくていいから/そのままでいいから/おまえのままがいいから 〉と三分割で読めてしまうなと思う。平仮名が多いこともあり、本当に自分が言われているような(もしくは感情移入して、自分も言っているような)気持ちになる。

 ところで、好きな短歌を紹介しあう企画をある歌会で行ったとき、私はこの歌を紹介した。子供目線でも親目線でも、ありのままを受け入れる/られる温かい喜びと、親子特有の「願い」の胸の締まるような感覚が良い、とその場で鑑賞した。すると、一人が首をかしげて、「私は怖い」と言った。「何度も言ってくる感じが、そうあるように強制してくるみたいに感じて、怖い」。たしかにそうも読めるかもしれない。誰が、どういう表情でどう言っているかという映像が、こうも変わって見えるのは面白いなあとそのとき思った。愛や願いは、ときに拘束にもなる。
 ただ私は、あなたのままでいて欲しいというメッセージを発するときに「そんなにいい子でなくていい」と始まるのは、拘束になるかもしれないことを思いながら、陰ながら無理しないでねと言いたいんだろう、と思う。そこからどんどん愛情や本心が洩れだしてしまう。どうであってもいいんだという深い肯定。
 自分が数年、十数年と成長していったとき、この歌がどう見えるのか、どの思い出が刺激されることになるのかを今から楽しみにしている。

記:丸田

音する 雨 音のむ 雨 産み落とされたころの和らぎ 髙橋みずほ

所収:『髙橋みずほ歌集』砂子屋書房 2019

 『坂となる道』2013 より。髙橋は独特の韻律を描いている歌人である。〈目の前の取っ手を握りドアを押す長き廊下の折れ曲がり〉(『凸』1994)に見られるような結句5音の歌が多く、〈その昔やかんの湯気も加わりてめぐる団欒〉(『 㐭 』2007)の7音分の消失、〈そこがとってもかなしくて涙がわいてくる穴のようです〉(『しろうるり』2008)のような自由律的な作品も見られ、韻律の面で多彩さを見せている。

 掲歌では、一字空きも加わって、さらに表現が鋭くなっている。といっても、下の句は綺麗に77で読めるために一首自体の後味(韻律の?)はよく、前半とのズレ(速度の差)で不思議な感覚になる。

 内容自体は、大きくとれば、雨が降っていて、産み落とされた時の和らぎを感じている(思いだしている)、となるだろう。大滝和子の〈サンダルの青踏みしめて立つわたし銀河を産んだように涼しい〉(『銀河を産んだように』1994)や、鬼束ちひろの「I am   GOD’S CHILD/この腐敗した世界に堕とされた/How do I live on such a field?/こんなもののために生まれたんじゃない」(「月光」(作詞作曲ともに鬼束)2000)などを連想する。
 産む側の涼しさでもなく、この世に生まれてしまったことへの厭悪でもない。「和らぎ」。私には少し意外な感覚で、この和らぎとはどういうものなのかいつも考えている。あたたかいのか、それとも涼しいものなのか。母と自分の関係のことなのか、空間のことなのか、世界と自分の関係のことなのか、それともその全てなのか。

 ヒントになるのかどうかよく分からない前半の雨の光景。先ほど「雨が降っていて」と解釈したが、「音する 雨」はいいとしても、「音のむ」が引っかかるポイントになっている。雨が音をのむとはどういうことか(雨が主語なのではなくて、他の何かが主語で、雨がそこに挿入されていると読むこともできるかもしれない)。

 「雨」といえば、上から降ってくるもの。ある意味、空や雲が産んでいるともいえるもの。産み「落とされた」という表現は雨を意識しているように感じられる。この繋がりから個人的に読んでいく。
 主体は部屋などに居て(雨に当たる場所にいれば音より先に雨を感じるだろう)、音がするのを感じる。それを雨だと把握し、雨音が部屋中を包みこむように響き、他の音も雨に飲み込まれていく。空から落とされてくる雨から、自身の生まれ方を連想し、産み落とされたころの和らぎを思う。
 雨に羊水、音に(自身が胎児であるときの)母の心音などを重ねるなども考えたが、そこまでになると過剰な読みになるだろう。

 なんとなく分かるが、それと同じ量くらい、分からない。これは先に触れたとおり、韻律、表現も影響しているだろう。上の句の不安定なリズムに「音」と「雨」の繰り返し。
 声に出して読むにも悩む。完全に定型ではない新しい型(のようなもの)をもって詠んでいる歌が作者に多いことから、私は「おとするあめ/おとのむあめ/……」の6677のように読んでいる(または、三句目が消えたと取って、66(5)77と空白の時間を取る)。定型に引きつけて、(休みを、タン、として)「おとする タン/雨 タン おとのむ/タン 雨 タン」のように空けて読むのもいいかもしれない。

 前半の韻律(と表記)の不安定さに対しての後半の綺麗な77のリズム、前半の意味の不安定さ・不可解さに対しての後半の「和らぎ」。バランスが崩れている歌のように見えて、ある意味で非常にバランスが保たれた歌であると考える。韻律と内容の響きがもたらす、やわらかく美しい髙橋の歌の「味」をまた追っていきたいと思う。

記:丸田

目がさめるだけでうれしい 人間がつくったものでは空港が好き 雪舟えま

所収:『たんぽるぽる』2011年 短歌研究社

どこの空港もそうなのか分からないけれど屋上や屋上に類するところにバルコニーのようなものが設えてある。そこから降り立つ飛行機を迎えたり、あるいは親しい人が乗り込んだ飛行機を見送ったりもする。

空港という名詞が情緒的なのはそういうところで、つまり人とのと別れとか再開とか、そういう場として機能する美しさがあるのだと思う。

そしてそういうこととは別にして、空港は建築物としての美しさもある。臨海部の空港の、大きな窓から差し込んでくる海の柔らかな照り返しは何とも言い難い嬉しさがある。その窓は夜には大きな鏡のようになる。フライト後の自分のやつれた姿が映る。最終便が着いてしばらく経ったあとの無人のフロアはとりわけそれが際立って、普段は人で溢れているから気がつかないけれど、空港はこんなにも大きくて広くて淋しい場所なんだ、と思う。

〈目が覚めるだけでうれしい〉というフレーズの驚くほど単純で、そして些か安直な生の肯定は、ある種幼児退行的であるように感じる。なぜなら実際この世界はもっと困難で、複雑で、悲しみに満ちているのは諸氏がご存知の通りで、赤ん坊すらこの世に生を享けた悲しさに泣きじゃくるのだ、という慣用句すら引きたくなる。

けれど、ここにおいては作中主体はそういうものに目を瞑り、虚勢を張る。というかたぶん虚勢ですら無いのかもしれない。本当に〈眼が覚めるだけで嬉しい〉のである。言祝いでいるのである。

このフレーズは両義的で、明るく素直な切実な主体を提示しながら、ごく僅かながら屈折したニヒリズムを無意識のうちに世代として内面化しているように思える。

しかも本人がニヒリズムを感じていないであろうことで、そのニヒリズムが無敵になっている感すらある。

ここで書かれているのは浅くて単純なヒューマニズムだと思う。でもそれを切実さ一辺倒で突破しようとしているからこその強さがあって、それこそが唯一の生き方のように感じている作中主体がいる。そしてその生き方を否定出来る手札が、もうペシミストの側には無い。何かそういう諸々の、平成という時代の虚無で底抜けの明るさ、消費社会の消費することでしか物事が進んでいかない難しさが、鋭敏な感性とともに現れている感じがする。

記:柳元

白き午後白き階段かかりゐて人のぼること稀なる時間 葛原妙子

所収:『葡萄木立』白玉書房 1963

 文字だけで圧倒されそうになる眩しい一首。「午後」や「階段」などの詩的な単語をいくつも入れようとなると、だいたいその語の詩的な雰囲気に追いやられて、一首固有の世界を描けずに終わってしまうことが私はよくある。しかしこの歌は語に負けることなく、むしろ、とことん語の詩的さを増幅するように書かれていて、異様な光量を放っている。

 まず上の句、「白き」の連続がぱっと目に入る。白い午後の白と、白い階段の白は、果たしてどれほど近似したものなのだろうと思う。全く同じ白であれば、階段が、午後の白に埋もれて見えなくなってしまうのではないか、そうだとしたら、少し異なる白なのか、もしかして、光の白と色の白なのか……などと考えるうちに、午後(時間帯)と階段(物体)という全く異なるものが白を通じて重なりあっているのが面白いなあ、と感じた。なんだか分からないけど空間もその中のものも白いのだ、ということだけは確かに分かる。
 下の句、「稀なる」が巧くできた修辞である。めったにないが少しはある。0ではない。その白い階段を誰かがのぼることはある。ここでは「稀なる時間」と書かれてあるだけだが、この白い現実感が薄れていく光景の中で階段を上っていた人のおもかげがすーっと残る。居ないが居る人の姿によって、白で広がりつづける一首にキレと説得力を与えているように思う。また、漢字が稀薄の稀であることも、一首の立ち上がる光景に好影響を与えている。

 私は、幻視的な作品と見ている(意識が遠のくような眩しい、本当に白い世界)が、ふつうの現実の日常風景のように読むこともできるかもしれない(少し眩しい午後、ビルの外にあるような階段にあまり人が通らないなあと思う、というふうに)。ただ、どうしても、人が白い階段を上っていくということに、死や昇天がちらつく。そして「かかりゐて」に、もとからそこに在ったのではなく、白い午後に俄かに架かった感覚が受け取れる。どちらにせよ白と時間のうつくしい余韻を味わいたい。

 「白き」の連続、「稀なる」の巧さ、「午後」で始まり「時間」で終わる構成の意識・うつくしさが、読むたびに私を白い世界に誘拐してくれる。

記:丸田

針と針すれちがふとき幽かなるためらひありて時計のたましひ 水原紫苑

所収:『びあんか』深夜叢書社 2014

あなたの部屋の時計は2分遅れている。あなたはそれを知っている。知っていても時計の指し示す時間のずれを直さないのは、単にあなたが面倒くさがりであるというだけなのかもしれない。

とはいえ実際のところあなたは、そのずれている時計が何となく気に入っている。

あなたがそんなことを考えだすときは決まって深夜である。ベッドに入って寝付けないとき、日中は聞こえないような物音が気になりだすことがあなたにはよくある。

それはチクタクという秒針の音かもしれないし、あるいは分針が動くときのコッ、というかすかな音かもしれない。この歌では、針と針がすれ違うときの微々たる針の逡巡が作中主体に知覚され、それがためらいという感覚で言い留められている。

眠れない夜にはかすかな時計の息遣いがふいに聞こえ出すという瞬間があって、あなたはそのとき、聴いた、聴こえた、と思う。何かこの世ならぬものの感じを受けて、あなたはすっと冷や汗を覚える。

そして朝になればすべて忘れてしまう。

人でないものへの共鳴性が強いという意味でとても水原紫苑的な一首。

記:柳元