居るといふ蛍のにほひ真の闇 三橋敏雄

所収:『三橋敏雄句集』(芸林書房 2002)

辺りを闇に包まれて、おのれのいま居る場所こそ真の闇だろう、とひとりの人が合点するとき眼は闇を本当に見つめているのだろうか。どうも、視覚に頼っている限り「真の闇」という語に濃いのは観念的な色合いのように思う。闇を見つめながら人はみずからの心の内の闇――喪失感や失望感を重ね合せている。このとき眼前の闇は背景と化し、見ているものと言えば観念の色をべったりと塗りたくった、おのれで作り上げた闇である。つまり「真の闇」と呼んでいるのは心の内に浸透した、複数の意味をはらんだ闇である。

もし掲句がそうした「真の闇」から逃れ得ているとしたら、それは眼前に広がる闇に入りこもうとする誠実な態度からだろう。光を放つことでそれとなく居場所を教えてくれる蛍を見つけようとしながら、眼に映るものはなにもない。掲句はそこで諦めてまなざしを内に向けるのではなく、眼がダメならば今度は鼻で蛍に挑もうとする。いや、そうした意識すら持っていないのかもしれない。一個の人として闇の中に立つ。眼も鼻も耳も口も皮膚も渾然とした揺るぎのない個として闇の中に立っている。この時、眼でものを見るように鼻は動き、耳は「蛍が居る」という暗闇の呟きを嗅ぎつける。そして、渾然一体となっているのは感覚だけではない。辺りの闇も蛍もおのれも全てが一つに溶け合う感覚、それこそ真の闇と呼ぶべきだろう。

作り上げられた「真の闇」は確かに身の内に浸透するかもしれない。しかし浸透という語の前提になっているのは内/外の境界であり、境界を作り上げるのは人である。三橋は境界を作ることなく世界と溶け合いながら、その世界にどうしても屹立してしまう境界があることを知っていた。掲句や〈われ思はざるときも我あり籠枕〉といった句の裏側にあるのは、人々が茫漠とした世界に取り残された時に抱える普遍的な孤独だろう。

記 平野

赤とんぼ大きい葬ありし村 飯島晴子

所収:『儚々』(平成八年、角川書店)

 飯島晴子の中でよりによってこれか、と思われたかもしれない。私も、たいしてこの句に愛情も無ければ、面白いと思っているわけでもない。

『儚々』は著者の第六句集であり、適当な、というと言い方が悪いが、第一句集にあったような、奇を衒いつつそれを大っぴらにしないようなテクニカルで気合の入った句は俄然少なくなっており、いかにも晩年という印象がある。
「赤とんぼ」から始まって、「村」で終わる。圧倒的に既視感のある、童謡的な田舎の風景。「大きい」という言い方も童謡である。
「葬」は「村」と相性がいい。葬儀があって村中の空気が変わっている感覚。風景としては変哲のないものだが、人々の意識の中では確実に変化があって、その重々しさを知らない赤とんぼは変わらずすいすいと飛んでいる。

 いかにも平凡な句であると思う。ただ私も、この句を平凡で下手だと言うために引いたわけではない。実際、この句の次に並んでいるのは有名句のひとつ「蓑虫の蓑あまりにもありあはせ」であり、好きに語る分にはこちらの方が向いていると思う。

 この「赤とんぼ」の句のいい所は、ストレートに平凡なところだと思う。これは俳句の一つの良さであると個人的に思っているところでもある。音楽で、使い古されたコード進行とスカスカの歌詞でもなんだかいい歌に聞こえてしまうことがたまにあるが、あれと一緒の感覚である。
 飯島晴子がどこまで狙ってこんな句を作ったのかは分からないが、自分のオリジナリティを出そうと思えばもっと捻って出来るはずの所を、ここまで薄っぺらく凡庸にすること。狙ってやったとしてもなかなか弱いと私は思うが、ここまでどこにでもある句にすることで、逆に迫力を感じた。こちらとしては、(村と赤とんぼの組合せなんて、行間を読むとかそういうレベルに到る前に判断しきれるような、味のしないガムのようなものだと思うので無視して、)「大きい葬ありし」くらいしか情報として読めるものはない。
 ここでギョッと思わされるのは、「葬」に大きい小さいがあるというところ。地位の高い人が亡くなったという意味なのか、飢饉や病気で大量に人が死んで規模が大きくなったという意味なのか、どちらにしても恐ろしいことだと思った。
 そして「村」で終えられているが、この「葬」はおそらく村中の人に知れたことだろう。またそこが恐ろしいと感じた。もちろんそれは「大きい」葬儀だったからこそ知れ渡ったことだろうが、個人的経験からして、「村」は、別にその葬儀が大きかろうと小さかろうと知れ渡って行くものである。全体の人数が少ないこと、都市部に比べて人同士の関係が密接で、閉鎖的になる部分もあり、そういう噂は一瞬で広まっていく。

 村全体が、村の全員が、その「大きい葬」を感じられていること。その雰囲気が、そのままホラーであると私は感じてしまった。だから、この語順は正解なのだと自分の中で合点がいった。仮にこれを「村に大きい葬ありけり赤とんぼ」とした場合、先に読んだような人間社会とそれに関せず飛ぶ赤とんぼ、の印象が強く残る。これが赤とんぼ始まりであることによって、もちろんその対比は残ったままで、村の入り口、またはその恐怖の入り口感が加わった。ホラー映画の映像を想像したときに、自分自身がこの村に入っていくなら、その入り口で赤とんぼを見ることによってなんだか嫌な気配を村から感じることだろう。

 この句の主体はこの村の人なのか、村の外の人がその村に入っていって知ったことなのかによって、そういうホラーの成分の大小は変わってくるだろう。現代に生きている私からすれば(現代の今でもそういう地域は全然残っているだろうが)そういう「村」って怖いなあと純粋に思う。村で起きたことを、村全体が感知していて、村全体が喜んだり哀しく沈んだりする。これを幸せなことだと思う人もいるだろうが……。

 正直なところ、ここまで平凡な句に目が留まったのは、ただ褒めるだけの鑑賞を書いてもなという気持(敢えて下手なものを取り上げて、そこから敢えての別の読み方を考えてみたいという)が大きかった。が、それで結果良かったと思う。大家でこんなに適当で類想が莫大にある句ってどういうことなんだ、と思えたおかげで、「葬」と「村」の厭な空気感を感じられることが出来た。別に似てもいないが、映画『ミッドサマー』や三津田信三の小説(刀城言耶シリーズ)を思い出した。

 最後に、蛇足だが、この句を「葬儀があって落ち込んでいる村を癒して包み込むかのように赤とんぼは飛んでくれている」という風には私は絶対に読みたくない。人間の都合を勝手にそんな動物(もっと言えば「季語」)に背負わせたくはないからだ。いつもは微かに思っている程度だが、「村」の文字をずっと見ていて、そのことを強く意識することになった。

記:丸田

スーパーカブに乗れば敵なし雲の峰 木田智美

所収:『パーティは明日にして』(書肆書肆侃侃房・二〇二一)

スーパーカブと言うのは本田技研工業が製造販売している世界的ロングセラーのオートバイである。累計で一億台以上のカブが世界を走り回っているらしい(これは世界最多の生産台数および販売台数である)。猫も杓子もカブライダー、詳しくない人向けに言うならば、蕎麦屋や中華料理屋が出前に使うときに乗る出前機を装着したバイク、あるいは郵便配達夫のまたがる赤いバイク、新聞配達夫のバイク、あれがカブである。小回りが利く愛くるしいボディのわりにとにかく丈夫で頑丈で屈強、一九五〇年の発売開始以来様々な人が走り倒していて、高度経済成長の記憶はカブと共にあると言っても過言ではないといってもよいくらい、日本の戦後とともに歩んだバイクである。いったいこの七○年間でカブが蕎麦を何億枚運び、何億杯のラーメンを運んだのだろうか。いったい何億通の手紙を人から人へ手渡し、激動の情勢記す朝刊夕刊を配ったのか。飛行機や車や電車のような乗り物とは比較の出来ないほどカブというのは生活に根を張ったバイクなのである。

さて句に立ち戻れば、木田氏が「スーパーカブに乗れば敵なし」というときのこの幼児的万能感、これは、前述のような歴史に支えられているのである。このときカブに乗っているのは私だけではない。日本戦後史であり、過去の人々の営みそのものなのである。しかも「雲の峰」という季語が単なる高揚した気分だけでなしに、経済成長に胸を膨らましていた時代へのノスタルジア、いわば「三丁目の夕日」的な懐古を一瞬行うかに見せながら、しかしカブの動力が力強く加える推進力に導かれる車体のように、やわらかく風を切って、確かに現在未来において前進してゆくのである。「雲の峰」が遠景である以上、目線は落ちておらず前をしかと捉えて進んでいる。

この今・ここへの疑いの無さ、この判断速度の速い肯定一瞬もメランコリアの侵入する余地のない底抜けの明るさこそ、木田氏を特徴づけるもののように思う。しかしこの口語的素直さはたとえば何かへの世代的な不信によりもたらされたものであって、たとえば同じ口語的な作家でありやや年長の神野紗希氏のものとは明らかに質が異なる。神野氏は近代的主体を前提にしているように思われるけれど、木田氏はもっと表層の近くにいて、深さと手を結ぼうとしない。ぼくはここに(ほぼ)同世代として木田氏に共感を強く感じるのだけれど、たぶん帯文が神野氏であることなどから察するに、あまりここは意識されていないのだと思う。それでも、ある意味においては、実のところ神野氏と木田氏ほど最も遠い位置にいる対照的な作家はいないのではないだろうか、とひそかに思うのだけれど、ジャーナリスティックに過ぎるだろうか。

余談だがぼくにとってのカブは「水曜どうでしょう」で大泉洋が乗り回すものである。

記:柳元

つぎつぎに蜜柑を貰ふ旅の空 矢野玲奈

所収:『森を離れて』 角川文化振興財団  2015

旅行などと言っていられるご時世ではないが、旅行の句を。
私の大学の同級生が広島の離島に実習に行った際に、実習先の方がその場で蜜柑をくれただけでなく、後日箱いっぱいの蜜柑を郵送してくれたということがあったらしい。「つぎつぎに」蜜柑を貰うなんて素敵な旅も現実にさもありなんという感じである。

「旅の空」という語で句を締めるのがとてもよい。蜜柑は旅人の手元にあるのだが、空という広い景色の語の印象で蜜柑畑まで見えてくるような気がするし、何より気持ちがよい。上5中7はあくまで旅の1エピソードだが、下5が旅の景色やイメージをぐっと広げてくれることで、ただのエピソード披露の出オチに終わらない魅力を醸している。

記:吉川

沖にある窓に凭れて窓化する 筒井祥文

所収:小池正博編『はじめまして現代川柳』(書肆侃侃房、2020)

 窓化。

革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ 塚本邦雄『水葬物語』

 こちらは液化。
 窓にもたれていると、窓になってしまった。これは一体、どこに要因があるのか。もたれかかってきた人を例外なく取り込んでしまうような驚異的な窓なのか。別に窓になっても良いかもしれない、と主体が油断したからなのか。窓になりそうな凭れ方をしてしまったのか。「沖にある窓」だったからそうなったのか。
 なりたくてなったのか、なりたくないのになってしまったのかで、印象は変わってくる。「沖にある」という入り方から、自ら窓の世界に寄り添おうとしている雰囲気(適当に窓を選んでいないというか)があり、窓化してしまってもそこまで嫌な気持ちはしていないのでは、と推測している。

 窓化という語のパワーに惚れてこの句を引いたが、句としてはやや粗いように思っている。先に引いた塚本の歌であれば、「すこしづつ」がかなり効いており、実際に無い光景のはずが、本当にピアノが滴ってぐにゃりと液化していく様子が想像できる。一方窓化は、どういうふうに窓化するのかが全く想像できない。主体は人間だとして、体の一部分が物理的に窓に形状が似ていくことを指しているのか、精神的な面で窓になっていくのか、透明という特質が伝染って透けてくるのか、まるきり窓に変身してしまうのかが、分からない。そこが分からないのもまた良さで、とも思うものの、ここにもう少し具体性があるほうが個人的には好みだった。
「液化してゆく」に対し「窓化する」とある。「する」、とはその経緯がすっかり省略されている。ゆっくり窓になったのか、一瞬にして窓になったのか分からない。

 ここで思うのは、これが一瞬にして窓、だったらつまらないなということである。確かに、その方が窓っぽく、「窓化する」と間を省いた言い方にも合ってくる。ただ、それなら「沖にある」はのんびりし過ぎている。突然変異的に、押入れを開けたら異世界に繋がっていた的なことなら、その窓がどこにあろうとさほど変わらないと思う。「沖」があまりに雰囲気でしかなくなってしまう。
 この「沖にある窓」を選んで、さらに眺めるだけでなくて「凭れ」た、その時点で、かなり思考は「窓化」しているように思われる。かなりゆっくり窓化した、それを窓側でも主体側でも許しあっていた、とそのような空間を想起した方が、「沖にある」が効いてくるのではないか。

 川柳を読んでいて度々思うことだが、(もちろんストーリー性のあるものもあり、長律で展開までつけるものもあるが)それが奇想であり、その出発点であればそれでいい、そして単語選びやその接続が独特であればまた良い、という心で作られた作品がかなり多い気がしている。短いためその後まで言えないからそうなっているというのは十分承知しているが、そういう飛び道具的なものは個人的にそこまで記憶に残らない。どちらかというとこの筒井の句もそういう句になると思われるが、「沖にある」が最後までそう読ませるのをとどまらせてくれた。窓化という単語の発明のみに終わっていない、その窓化が行われた空間と時間、そして「その」窓と主体の関係性を思わせるきっかけが用意されている、優しく飛んだ句であると思う。
 読みようによって駄句と良句に分かれる、その幅が(俳句や短歌よりも)非常に大きいのが(良くも悪くも)川柳だと私は思っている。少なくとも川柳の鑑賞においては、できるだけその句が良くなるように、という気持で読んでいきたいと思っている。

 窓化したあと、主体はいつまで窓であるのか。もし戻るのなら、どうやって戻ったか。窓になる時と逆向きに戻ったのか、違うものを経由して戻ったのか。戻らないなら、主体はどんな気持ちでいるのか。周りから誰かが見ていないか。
 まだ色を塗っていない塗り絵のようで、まだまだ多くの可能性が考えられる。過剰に読み過ぎるのも良くないかもしれないが、この句については、読み過ぎるほど「窓化」がより良くなっていくのだろうと確信めいた感覚を抱いている。

記:丸田

春の水とは濡れてゐるみづのこと 長谷川櫂

所収:『古志』(牧羊社 1985)

「とは」と見得を切った時点で一息に駆け下りなければならない膂力の質が、折笠美秋の〈あはれとは蝶貝二枚重ねけり〉 阿部完市の〈遠方とは馬のすべてでありにけり〉と並べた時、明らかに異なっている。折笠や阿部が「とは」と言う時に試みているのは「あはれ」や「遠方」の背丈を測ることであって、その丈を埋めるようにして以降の語は置かれている。この時、両者は一脈通じる感覚を手がかりにして、実在し得ない抽象語に肉を与えようとするのだが、掲句の作者はそうした肉付けを放棄する。元より質感を持つ春の水を「濡れてゐる」と形容をする事で、予め用意されている言葉の枠を揺らし、観念的な方向に流れ出すその模様を楽しんでいるのだろう。もちろん掲句の水は蛇口を捻る、もしくは池に溜っている水と呼ばれるものに、季感が溶かされているため、すでに肉は剥がれ落ちていると言えるのだが、作者の態度として実在の水に肉薄するのではなく存在を異化するかたちで言葉を費やしていることは注目に値する。そもそも実在の水に肉薄しようにも言葉はスポンジのようにどこまでも吸い上げ/吸い上げられるだろうし、写生はその点で空しく、しかし挑戦として見れば味のある行為だと言える。

掲句が志向するところを先に言ってしまえば、それは生の把握であり、存在の裏側にある観念的ななにかへの接近だろう。なにかに潜らせる言葉の色合いは、それを見出す側において異なっている。ちょうど水という無色透明なものに抹茶を混ぜるか、墨汁を垂らしてみるかの違いと同じで、言葉の色合いがなにかの表出の仕方を決定するのである。掲句について言えばそれは肉感的で艶めかしい色であった。「こと」と収めた時の立ち姿は「けり」と比較して有機的に「濡れてゐる」の肌感覚を読み手に伝える。ただ、こうした嫋やかさは「春の水」が本来持っていたものでもあるため「春の水」からなにかを抽出する意志が結果としてなにかの色合いを決定してしまうという、存在とのせめぎ合いが掲句にも見られる。そして存在となにかのあらゆる局面を切り抜けることによって、生が運動していくのだとしたら、それをまなざす意志とはつまり生を見つめる意志のことを指すのだろう。この意志が眼のうちにある限り、掲句が持つ膂力はなにかへと一足に飛び越える跳躍力になり、自らの生を顕示するように掲句は跳ねあがり、隠されたものの姿を我々に見せてくれるのだ。

記 平野

血を分けし者の寝息と梟と 遠藤由樹子

所収:『寝息と梟』朔出版、2021

子なり孫なりの寝息が、おのれの躰から産まれ落ちた人間という奇異な存在に、冬の夜の寝床の穏和な感覚をその優しさを保ったまま導いてくれる。外の梟の鳴き声が稀に聴こえるという。その遠い距離、種を隔て距離を隔てる梟の存在感には、不可侵性と分かり合えなさ、それでもどこか通じ合えているような感覚が準備されている。これが掲句においてはとても優しい。

江藤淳が指摘するような日本の母子密着型の類型がある中で、血を分けていても所詮他人であり、別個のものであるという感覚が、偶然を装った梟の登場により担保されつつ、あらためて、血を分けている者が、今ここで寝息を立てているということの不可思議を考えられる。

「血を分ける」という行為は胎盤をもて子を自然環境に適応出来るくらいまで育てあげる哺乳類独特の喩だと思う。魚類爬虫類鳥類のような卵を産むことにより生を繋ぐ動物では「血を分ける」という感じはしない。臍の緒で母体と胎児が血流を交換するからこそ「血を分ける」という表現が成り立つ。なにかその、哺乳類全体に通じるような、子を自然環境や外敵から守るための育て方まで含んで響くような感じがある。むろん、身体の組成が同じであるということ、身体の約13分の1の質量をしめる血液を同じくしていること(まあ厳密に言えば異なるけれど)に、おのれのレプリカント的な、シュミラクル的なある種の気持ち悪さがあることは当然として。

だからこそ、梟の他者性と並列であることが、なんだかとても嬉しい。この種の愛情が降り注がれる子は幸福だったろう。

『寝息と梟』は遠藤由紀子氏の第二句集。50代前半から60代前半の375句を収めている。

記:柳元

ひとつだけ台詞が言える夜のおばけ いい天気だねー おばけは言います 谷川由里子

所収:『サワーマッシュ』(左右社、2021)

 幼いころからバレエを習ってました、という人の体の柔軟さに驚く。あの柔軟さは、幼いころからやっているかどうかで決まるらしいとテレビで見たことがある。大人になってから体を柔らかくしようと頑張っても難しい、らしい。それと同様に、絶対音感的な音感も、幼いころで決まるらしい。8歳ごろには聴覚が完成してしまうから。

『サワーマッシュ』を読んでいる間、ずっとそんなことを思っていた。めくるめく突飛な歌たち。それが、尖っていたり、ぶっ飛んでいるというわけではなく、あまりにもふつうの感じで並んでいる。凄い柔らかい着地を決めたり、凄い音程とリズムで歌ってみせたりする。それが、どう? 凄いでしょ? 的なものではなく、幼いときからそうなので今もそうです、みたいな軽さで、これだけの質でこれだけの量を集めるには、真似では到底無理で、もともとそうでなければ生まれ得ない気がした。だから、読んでいて、序盤は真似したい! と強く思ったものの、途中からもう諦めた。

お土産を貰って少し置いてから食べた 置いていた場所がさみしそう

 こういう発想の切り替えは、ダンスをやったことなくても出来そうな気がするが、

子どもって奇跡をひき起こすとき どうして発狂しないんだろう

 ここまで滑らかに動かれると、急に差が開いてしまう。

ルビーの耳飾り 空気が見に来てくれて 時々ルビーと空気が動く

 綺麗な曲と綺麗なダンス。しなやかすぎる。

いままで報われなくてよかったな コブシが群生している道もよかったな

 短歌、という目線で見たら、定型だとか、そこから逸脱しているとかいう気づきになるのだろう。この人の中で流れている音楽はこの人のリズムで、それはこの人の体のやわらかさとリズム乗りの才能によって決まる。この人の中で、「コブシが群生している道」は、短歌というフィルターを通って推敲されなかった。それはとても幸福なことだなと私は思った。この人の音楽が聴けて素直に嬉しいと思う。

 さて、タイトルに揚げた夜のおばけの歌に移る。谷川の歌は、基本的に生活上で出てくるシーンやワードから出発している。そこから色んな所に着地してみせる。その中で、このおばけの歌は、珍しく、はっきりと「設定」からスタートしている。「ひとつだけ台詞が言える夜のおばけ」。ひとつだけ喋る、ではなく、ひとつだけ「台詞が言える」だから、何か役を与えられた人の話かな、と思う。それにしては「夜の」がかなり「おばけ」の世界に寄っている言葉だから、本物のおばけの話をしている可能性もある。どちらでもとれそう。
 何の台詞を言うんだと思ったら「いい天気だねー」。なんじゃそりゃ、と気が抜けるとともに、可愛い光景だなと想像する。夜のおばけにとっては夜が活躍時なわけで、それは人間にとっての朝とか昼みたいに、いい天気なら嬉しいものなんだろう。それを(おばけの仲間に?)(人間に?)相手に伝える。「だねー」の部分がやけに慣れているというか、くつろいでいる。友達に言っているみたい。
 そこからのオチ「おばけは言います」。こんなに柔らかい捻り方をする人もいないだろう。前半に戻すタイプのつくりであれば、たとえば「いい天気だねー やさしいおばけ」みたいにするのが妥当な気がする。おばけを振っといて、「いい天気だねー」が本当は面白部分なわけで、変わった部分だから、最後は「いい天気だねー」以下の力でさらっと終えておけばいい。
「おばけは言います。」力が強い。ああ、言ったんだ、一つだけのセリフで、そんな気の抜けた言葉を……。急に絵本みたいな要素も追加された。さらっと一気に光景を確かなものにしていった。どんなおばけだよ、どんな設定だよ、と思っているところを、「おばけは言います。」、言うんです、とちゃんと言うことで、ちゃんと言うんだ、と思う。一首で、ルール説明と、そのゲームの習得がなされた。

 上中下で三つ凄いことをしている歌で、なおかつ元から備わっている柔らかさと音感を十分に発揮している歌。こんなにさらっとしているのが憎たらしいくらいに素敵だと思う。

 ところで、序盤からその先天性感というか、幼いころからの才感をしつこく出しているが、それだから凄いのだと言いたいわけではない。『サワーマッシュ』を読めば分かるが(読む以前に、その装丁や本自体の構成からして)、それを慎重に駆使するクールな知性が裏にあることが感じられる。どこか遠くで流れている川の小さな音が、温度感として伝わってくる、みたいな。ここまで徹底的に作られていると、なすすべがない。
 今忙しかったら明後日でもいいから、ゆっくりと読んでほしい歌集。ぜひ手に取ってみてほしい。

記:丸田

裏坂をのぼり来るも月の友 五十嵐播水

所収:『ホトトギス巻頭句集』(小学館 1995)

月を求めて人は高台にのぼる。丸く大きな月に立ち向かい、あたりを一望して友と語りあう。夜気は曇りなく、思いもよらず声が通る。しんと静かに、しかし意識すればそれなりの虫がそこかしこに潜んでいるらしく、心を任せるそのうちに月は高く、見上げるまでになっている。とん、とん、と軽い靴音がうしろからやって来て、誰かが、月夜と思われないほど暗い坂をのぼっている。その正体を怪しみながら、しかし心はすでに知っている。そいつが昔からよく親しんだ仲であることも、そいつが、この世ならざる者であることも。此岸と彼岸に人は挟まれながら、生人も死人も入り混じりぼんやりと月を見上げる。永井龍男は書いた。「ここからどこか、さらにどこかへ入って行けそうな気もしてきた」(『秋』)不思議な月夜のことである。

記 平野

腹案はある杉菜へとまづ歩け 島田牙城

所収:『誤植』(2011、邑書林)

近代科学が頭蓋にメスを入れてどうやら脳味噌がものを考えていることを明らかにしたわけだけれども、ところがどっこい、何も人間は脳味噌でばかりものを考える訳ではない。「腹黒い」とか「腹を割る」とかいうようにお腹だって立派なこころの在りどころだったのである。

「腹案」という語が妙に面白いのは、人間が窮地に立たされたときに練りに練った案を開陳するというシリアスな局面にも関わらず、お腹でものを考えてお腹に溜め込んでいたものを大儀そうにとりだすような感じがするからなのかしらん。

悲しいかな、得てして「腹案」というものは大したものではなくて、不発不適切打つ手なくなり観念するしかなくなる一歩手前の悪あがき死亡フラグ、破滅の予告なのである。「腹案」はこういうものだから、周囲の人間からしたら厄介極まりないものなのである。悲劇の始まり。滑稽未来の決定。もう終わりだ。やめだやめだ! 腹案はある。嘘だ! 腹案なんてとんでもない。腹案はある。それは無謀の別名だ! 破局へ動き出す運命の機関車! もはやブレーキは踏み損ねた! 惰性でレールを滑るだけの鉄塊! 否、藁にもすがる思いで耳を傾けようではないかその腹案とやらに。「杉菜までまづ歩け」。嗚呼!

記:柳元