寝室や冷房が効き絵傾き 太田うさぎ

所収:週刊俳句 第691号 https://weekly-haiku.blogspot.com/2020/07/10_19.html?m=1

一読して読み直したとき、上五を「冷房や」に空目した。掲句の上五は「寝室や」である。いやしかし、意味からして普通、上五は「冷房や」として書き始めるのが定石なのではなかろうか。季語の方が上五や切れとは膠着するから。

そういう風に思ってしまうのは、ぼくが(われわれが)季語に思考を促されるかたちで句型を決定することが多く、句を書くときだけでなく読むときにも無意識にその手順を再現してしまうからだと思う。つまり「冷房」が季語だから、上五や切れと親和的だろうと思い、頭の中で勝手に上五や切れを「冷房」を置き換えて、「冷房や寝室にして絵傾き」くらいで掲句を無意識に別の次元で認識している自分がいる。そしてその自分に否をつきつけるぶん、読みのスピードが落ち、句の読みがメタになるのである。

掲句はそういう定石をハックしていることがその旨味の主たる部分と言わないまでも面白みのそれなりの部分を占めていて、となると、その読みの定石をハックしているか否か、というときに、言うならば勝負を賭けられているのは、われわれの読み手の偏差値に対してであり、読みの共同幻想に対してであり、読みの信頼性に対してなのである。こういうことを書くと、エリーティシズムだとか蛸壷的だとか何とか言われがちだけれど、しかしそういう風に書かれている句に対して誠実さを示す方法は今のところぼくはそのメタに応答する読みを試みることにしかないと思う。その営為の善し悪しはまた別にして。貨幣経済が信頼をもとに再生産していくというのが何となくよく分かった。

記:柳元

たとへなきへだたりに鹿夏に入る 岡井省二

所収:『山色』 永田書房 1983

「たとへなきへだたりに鹿」というフレーズは人間と鹿の距離感を言い留めている。
ディズニーのアニメーション映画『バンビ』(1942)に代表されるように、多くの人は鹿を無垢で純粋で触れがたい動物としてイメージする。だからこそ鹿は、親しみを覚えながらも犬のように愛でる対象でもなく、猪のように恐れる対象でもない。野山でふと出会う鹿と人間には近く、遠い「たとへなきへだたり」があるのだ。

この人間と鹿の間にある微妙な距離、そこから生まれる緊張感が「夏に入る」と、季節と動詞による動きが加わることで上5中7の空気とはまた違う味わいが生まれる。
「入る」という動詞は鹿の動きのことのようにも思える。人間と鹿が見つめ合うことで生まれていた「たとへなきへだたり」の緊張感は、鹿が動くことによって失われる。その緩んだ瞬間に、時間の流れが、夏という季節が現れたのだろうか。

抽象的な言葉の連なり故の透明感と句の内容が合っている。

記:吉川

緑色の受話器は海に沈みつつ呼べどとこしなえの通話中 蝦名泰洋

所収︰『イーハトーブ喪失』(1993 沖積舎)

 受話器から海という単語の移動距離は大きいように思うが、それをほとんど違和感がないくらいに呑み込ませてしまう映像の力がある。
 描かれていることとしては、緑色の受話器があり、それが海に沈んでおり、「呼べど」、とこしなえ(≒とこしえ≒永久)の通話中であったということ。海中に落ちて行く緑の受話器が頭の中に映る。

 この歌において、「呼べど」が非常に大きな役割を担っており、これがあることで実感と奥行きが生まれていると考えている。
 もし、「呼べど」が無く、さらりと繋がっていたとすれば、〈緑色の受話器は海に沈みつつ今もとこしなえの通話中〉くらいになるだろう。こう見ると、緑の受話器が海に沈んでいて、それは永久の通話中である、というシンプルなものに落ち着く。海の中で電話なんて、もう壊れてしまっているはずで不可能にもかかわらず、今も何かと確かに通話している、という不思議な話だ。その通話先の相手が誰(何)なのかも気になるが、こちら側が何なのかも気になる。「海」?「受話器」自身?それとも……。

 ここで「呼べど」があることで、急に話が変わる。永久の通話中であることを強調しているというのはあるが、それよりも誰かがその受話器へ電話をかけていることが強く表れる。ただただ受話器が通話中に入っているわけではなく、呼んでいるのに! という切迫したリアルな状況が加えられている。誰かにとっては出てほしいのに、一向に通話中に入っている。これによって、「とこしなえ」のニュアンスも若干変わってくる。永遠に受話器が通話しているという幻想的な話に終わらず、呼んでいるのに永遠に出ない、その永遠に死の影が薄く見えてくる。もちろんそうとは限らないが、海難事故などで人が死んで、その人へ電話をかけているが、繋がらない、というような……。

 ここで一つ改めて思うのは、「呼べど」なのであって、「かけても」ではない点である。電話といえば次に来る動詞は(自分の中では)「かける」や「きる」が多い。この歌も、私は実際のところ、電話をかけても通話中だった、くらいのニュアンスで最初は受け止めていた。ただよく考えて、「電話をかけても」と「呼んでも」では、やや違ってくるなと思った。もちろん電話の内容にもよるところだが、「呼ぶ」はより切実なもののように感じる。
 というのも、「呼ぶ」という行為は、相手が「通話中」だと分かった後になされることのように思うからである。電話をかけて、繋がらず相手が「通話中」だったとき、わざわざ相手(例えばその名前)を呼ぶことはない。通話中だったから時間を空けてまたかけ直したとき、また「通話中」、時間を空けてまたかけてまた「通話中」だったときに初めて、「おい○○、電話に出てくれよ!」というような、「呼ぶ」行為が出てくるのではないだろうか。そうやって、電話をかけて、「通話中」、「呼ぶ」、「通話中」を繰り返すことで、「とこしなえの通話中」がそこで認識されるのだと思われる。ただふつうに電話を「かける」のではない、電話に出てほしいとその相手を何度も求めつづける気持ちが「呼ぶ」に詰まっているのではないか、と考える。それ故に、「呼べどとこしなえの通話中」には重みと海のように深い悲しみがある。

 この「呼べど」に着目したのは他にも理由があり、それは映像の切り替わりの問題である。ただ受話器が落ちていてそれが通話中だったというのなら、海と緑の受話器だけで映像は片付く。しかし、「呼べど」の入り込みによって、一気に事態が変わる。

 映像の中心が沈下中の受話器であることには変わりないとして、上述の事情で、「呼べど」であるからには、必死に求めて呼んでいる誰かがいるはずだと考えられる。すると、沈んでいる受話器(海)と、関係ない場所で電話をかけている誰か(陸のどこか?)という二つの景色が浮かんでくる。
 神の視点で、落ちて行く受話器は通話中であると述べるだけで終わるところが、「呼べど」という気持ちが入った行為が入れられることで、呼んでいる側が存在し、その人が「とこしなえの通話中」を感じていることが見えてくる。

 となると疑問になってくるのが、その呼んでいる側の人は、相手の「緑色の受話器」が、今「海に沈」んでいる最中なのを知っているかどうかということである。
 知らないから、何度もかけて、通話中だなあと思って、呼んでいるのか。はたまた、受話器が沈んでいて、繋がらないことを分かっているにもかかわらず、何度も何度も電話をかけているのか。後者だと、「とこしなえの通話中」であることの悲哀が倍増して伝わってくる。

 どちらかを特定するまでは出来ない。ただ、沈んでいる受話器と、呼んでいる誰かとがいるだけである。事情は後からついてくるものであり、語られない限り分からない。「呼べど」によって発生した語られていない事情が、この歌に奥行と謎をもたらしている。

 「呼べど」以外の点として、韻律は下の句の句またがりの心地よさを評価したい。「よべどとこしな/えのつうわちゅう」のなめらかな跨り方が海に沈んでいる動きと重なるようで、一層この歌を印象づけていると思う。これは完全に個人的な感覚の話になるが、「(よべ)どとこ」の部分の o 段の連続から「(とこ)しな」と、 a 段になっていくことで水面に上がっていくような明るさがあり、「つうわちゅう」の u の音で伸びていくことで、さっきの明るさは錯覚で、やっぱり沈んでいる最中なんだ……と思わされるような気になった。

 また同じ作り手として、単語の持ってきかた(ワードセンス?)が良いと、純粋に思った。「受話器」「通話中」の単語はこれだけなら電話しているだけの小さな話になりそうな所を、「緑色」というさりげない色の立ち上げ方と「とこしなえ」という少し特殊ぎみの副詞を持ってくることでオリジナルな話になった。「海」を持ってくるとだいたい急に素敵になってスケールが大きくなるから甘えて使う人がいるが、これは完全に海を味方につけて使いこなしていると思った。メタな見方であるので歌の解釈とは関係ないが。
 どのパーツもこの歌を描くのに欠けても増えてもいけなかった、というような、単語に行き渡る気配りのようなものが見えて、個人的にはそこにも好印象な歌である。

 一体この緑色の受話器は今、誰(何)と、何を通話中なのかという魅力的な謎を残して、この歌は記憶されることになる。私は、いつでもこの謎に耽られるよう、頭のなかの海にはいつも、緑色の受話器を沈めている。

記︰丸田

日向ぼこあの世さみしきかも知れぬ 岡本眸

所収:『矢文』(富士見書房 1990)

そりゃあ、あの世はさみしいでしょうよ。と一読して思ったものの、ではこの世はどうか? と問えば、同じものでさみしいものでしょうと答えている。その手順を踏んでみてから、掲句が現世の温かさ、肯定感に支えられた句だと気付かされた。それにしても『矢文』である。〈汗拭いて身を帆船とおもふかな〉とか〈生きものに眠るあはれや龍の玉〉とか、生の幸せが確かにあって、身体的な実感で捉えられている。ぽかぽかの日にあたりながら呆ける幸せが日向ぼこだとしたら、身体を捨てて速さを求める若い者の反対をゆく、老いの幸せというべきだろう。僕もいつかは味わいたいものだ。

                                    記 平野

きつねのかみそり一人前と思ふなよ 飯島晴子

所収:『春の蔵』永田書房 1980

きつねのかみそりはヒガンバナ科の植物で、お盆の頃になるとややオレンジがかった朱色の花を咲かせる。花弁は6枚あって、そのいちまいいちまいが鋭い形状をしている。山中で狐が剃刀として使っているのだろうという連想からこう言った呼び名になったようである。

「一人前と思ふなよ」という呼びかけがこの季語と呼応するのは、剃刀というものが髭なり体毛を剃るものであり、剃刀を使い始める時期がちょうど大人と子供を分ける境目に当たるからだろう。

思えば初めて剃刀を使ったのは中学生の時で、産毛のような毛が口周りに生えてきて濃くなっていくものだから気持ちが悪かった。それを見兼ねた母親が安全剃刀を与えてくれたのだが、妙に気恥ずかしかったのを覚えている。

記:柳元

紫陽花や傘盗人に不幸あれ 西村麒麟

所収:『鴨』 文學の森  2017

傘をわりと失くす性分なので思い出す機会の多い1句。

この句から立ち上がる主体の姿はおかしくも可愛げがある。
「傘泥棒」ではなく、あえて古めかしく大仰な印象を与える「傘盗人」という造語の選択、これまた大仰な「不幸あれ」というフレーズ。この大仰さはなんとなく冗談めかした物言いの印象を生む。この句の主体は、自分の傘が盗まれたことに落胆半分、傘を盗んだ人を呪ってやる!!とその状況を楽しもうとする気持ち半分なのだろう。そんな主体のありようから、盗まれたのが数百円の透明なビニル傘であろうことも見えてくる。

傘と紫陽花の組み合わせは、梅雨頃に小学校で配られるプリントの端にあるイラストで必ず見るベタさがあるけれど、そのベタさがこの句の戯画的な情緒を十分に引き出している。

記:吉川

未来から過去へ点いたり消えたりしている電気 普川素床

所収︰『現代川柳の精鋭たち』(北宋社 2000)

「ユモレスク」中の、広がりのある一句。内容についても韻律についても、言いまくる。私だったら、未来か過去の一つ、点くか消えるかの一つで済ましているように思う。この句は全部言っている。言わなければ、言えなかったのだろう。
 この句の不思議なところは、「現在」が消えている(ように見える)ことだと思う。例えばここで、「未来へ過去へ」だったら、現在を中心に、未来と過去があり、現在から違う時間に向かって電気が明滅していると取れる。それならスムーズに読める。(犬が、過去に向かって吠えている、というような作品をどこかで見たことを思い出す。)
 ただこの句では、未来出発の過去到着であり、現在はスルーされている。もし、これが「電車」であれば、現在も同じように通過していくのだろうと想像ができるが、これは「電気」である。「点いたり消えたり」の二つの動作に、通過のイメージは考えにくい。点く瞬間と消える瞬間があって、その動機として未来や過去があるだけであり、なんの意味も与えられていない、点いている/消えている現在は、ほぼ無視されている。ここが、不気味に感じる。
 韻律を大きくはみ出すことを厭わず、ここまで全部言っているのに、現在が書かれていない。今この電気はどの時点で発見され、誰がそれを見ているのか。もしくは、誰も見ていないのか。現在も、そして同時に人間もスルーされてしまったような句の空間に、ただ流れる時間と、浮かび上がる電気。

 もし、人間が全員、パタンと死滅してしまった世界は、こうなっているのかもしれないとも思う。残った電力で、電気がただちかちかと点灯する。電気と時間が、静かに応答する。「点いたり消えたり」の、「たり」が、もしかしたら違う動作もあるのではないかと思わせてくる。私たちが知っている電気、電球などは点くか消えるかだけだろうと思っていたが、実はそれ以外のこともしているのかもしれない。話したり、何かと連絡しあっていたり、大きなプロジェクトのために準備していたり。
 私たちには気づかないところで、知られない方法で、何か巨大なイベントが進行していてそれを見過ごしてしまっているような、底知れぬ恐ろしさを感じる。

記︰丸田

夕東風や海の船ゐる隅田川 水原秋桜子

所収:『ホトトギス雑詠選集 春』(朝日新聞社 1987)

大正14年の作品。かつて隅田川は水運の要として、江戸市民の生活を支えていた。 葛西へは屎尿をはこぶ舟が走り、吉原へ猪牙舟が往来する。それが明治の近代化により、水の東京から陸へと流通の中心が移っていくと、やがて舟は使われなくなった。「享楽地漫談会」 (『モダン東京案内』海野弘編平凡社1988所蔵) という昭和初期の、吉行エイスケや、龍膽寺雄など新興芸術派を含めた八人ほどの座談会を読んでいたら、川端康成が「船は乗る時に目立つから駄目です。隅田川などはあまり船が動いて居りませんよ」と発言していた。実際にそうだったのだろう、現在は屋形船が動いているが、あれはあれでかえってみっともない気がする。

掲句、東京湾から船が紛れこんだ状況だろうか。それとも旧来のものとは違う外来の船のことを、海の船と呼んでいるのだろうか。とにかく、船の存在感に時代の流れの興趣がある。掲句は隅田川の写生句であり、江戸情緒の中の隅田川ではなく、実際に秋桜子の眼前にあった隅田川である。また写生という手法によって現出した隅田川でもあるかもしれない。ただ、夕東風という季語の斡旋にはどこか、近世のにおいも感じられはしないだろうか。

                                    記 平野

隕石と思い己身の冷えていく 永田耕衣 

所収:『冷位』コーべブックス 1975

先日(2020年7時2日未明)関東では火球が観測されて、ぼくも今は東京に住んでいるものだから、深夜にドーンと天井から降ってきた音には思わず身を竦めた。そのときは上の階の住人が本棚を倒したりしたのだろうかと思って再び布団に潜ったのだけれども、翌日の報道によるとどうもその音は火球と関係があるらしい。火球というのは平たく言えば明るい流星の事であって、-3等級ないしは-4等級よりも明るければ火球と呼ぶに足るという。燃え尽きたかどうかは不明だが軌道を計算したところ落ちているとすれば千葉県あたりとのことで、もう少し暇ならば隕石探しもまた一興と思ったりした。

耕衣句、己身には「コシン」とルビ。仏語でおのれの身体のことを指す。何を隕石だと思ったのかは目的語が示されないから判然としないが、考えられるのは「(流れていった光を)隕石と思い」という読み、あるいは「(おのれの身体を)隕石と思い」という目的語が下に来ているため省略されていると捉える読み、そして一番可能性が高そうなのは「(何となくぼんやりと)隕石と思い」という読みで、最後の読みを採用する場合は「隕石と思い(浮かべれば)」くらい補ってやるとよいのかもしれない。

冷え切った闇の宇宙を飛んでいる小惑星のかけらが重力に弄ばれて大気圏へと滑っていく。なんとも寂しげな感じがするが、耕衣はそれをおのれの身体性へと接続させ、宇宙の冷え、隕石の冷えをおのれの身体の冷えへと流し込んでいる。

記:柳元

風船の欠片は灼けて空しづか 依光陽子

所収:『俳コレ』 邑書林  2011

 「風船」は春の季語だけれど、ここは夏の季語「灼く」から、夏の風景だと読みたい。「風船」はいつの季節でもあるものだし、欠片となって灼かれたことでこの句における風船は春の気分が全くない。

 風船の人工的で派手な色、少し縮れながら灼ける微かなゴムの匂いが喚起される。そのジリジリとした空気感が「空しづか」に接続されて、立っているだけで汗をかいてしまう風のない静止した夏のある日の空気が立ち上がる。鮮明ななんでもなさに心が惹かれる。

 物語性のようなものを読み取るべき句ではないのだろうけど、空へと飛んでいくはずの風船が地面で灼けているという状況が、「夏の空」を「風船のない夏の空」へと変換するために、前項で述べたこととは対照的にどことなく欠落した印象も与える。そんな複雑さをたたえているからこそ、この句に漂う夏の空気感は肌で感じるだけでなく、なんとなく心に触れる美しさがあるような気がしている。

記:吉川