きつねのかみそり一人前と思ふなよ 飯島晴子

所収:『春の蔵』永田書房 1980

きつねのかみそりはヒガンバナ科の植物で、お盆の頃になるとややオレンジがかった朱色の花を咲かせる。花弁は6枚あって、そのいちまいいちまいが鋭い形状をしている。山中で狐が剃刀として使っているのだろうという連想からこう言った呼び名になったようである。

「一人前と思ふなよ」という呼びかけがこの季語と呼応するのは、剃刀というものが髭なり体毛を剃るものであり、剃刀を使い始める時期がちょうど大人と子供を分ける境目に当たるからだろう。

思えば初めて剃刀を使ったのは中学生の時で、産毛のような毛が口周りに生えてきて濃くなっていくものだから気持ちが悪かった。それを見兼ねた母親が安全剃刀を与えてくれたのだが、妙に気恥ずかしかったのを覚えている。

記:柳元

紫陽花や傘盗人に不幸あれ 西村麒麟

所収:『鴨』 文學の森  2017

傘をわりと失くす性分なので思い出す機会の多い1句。

この句から立ち上がる主体の姿はおかしくも可愛げがある。
「傘泥棒」ではなく、あえて古めかしく大仰な印象を与える「傘盗人」という造語の選択、これまた大仰な「不幸あれ」というフレーズ。この大仰さはなんとなく冗談めかした物言いの印象を生む。この句の主体は、自分の傘が盗まれたことに落胆半分、傘を盗んだ人を呪ってやる!!とその状況を楽しもうとする気持ち半分なのだろう。そんな主体のありようから、盗まれたのが数百円の透明なビニル傘であろうことも見えてくる。

傘と紫陽花の組み合わせは、梅雨頃に小学校で配られるプリントの端にあるイラストで必ず見るベタさがあるけれど、そのベタさがこの句の戯画的な情緒を十分に引き出している。

記:吉川

夕東風や海の船ゐる隅田川 水原秋桜子

所収:『ホトトギス雑詠選集 春』(朝日新聞社 1987)

大正14年の作品。かつて隅田川は水運の要として、江戸市民の生活を支えていた。 葛西へは屎尿をはこぶ舟が走り、吉原へ猪牙舟が往来する。それが明治の近代化により、水の東京から陸へと流通の中心が移っていくと、やがて舟は使われなくなった。「享楽地漫談会」 (『モダン東京案内』海野弘編平凡社1988所蔵) という昭和初期の、吉行エイスケや、龍膽寺雄など新興芸術派を含めた八人ほどの座談会を読んでいたら、川端康成が「船は乗る時に目立つから駄目です。隅田川などはあまり船が動いて居りませんよ」と発言していた。実際にそうだったのだろう、現在は屋形船が動いているが、あれはあれでかえってみっともない気がする。

掲句、東京湾から船が紛れこんだ状況だろうか。それとも旧来のものとは違う外来の船のことを、海の船と呼んでいるのだろうか。とにかく、船の存在感に時代の流れの興趣がある。掲句は隅田川の写生句であり、江戸情緒の中の隅田川ではなく、実際に秋桜子の眼前にあった隅田川である。また写生という手法によって現出した隅田川でもあるかもしれない。ただ、夕東風という季語の斡旋にはどこか、近世のにおいも感じられはしないだろうか。

                                    記 平野

隕石と思い己身の冷えていく 永田耕衣 

所収:『冷位』コーべブックス 1975

先日(2020年7時2日未明)関東では火球が観測されて、ぼくも今は東京に住んでいるものだから、深夜にドーンと天井から降ってきた音には思わず身を竦めた。そのときは上の階の住人が本棚を倒したりしたのだろうかと思って再び布団に潜ったのだけれども、翌日の報道によるとどうもその音は火球と関係があるらしい。火球というのは平たく言えば明るい流星の事であって、-3等級ないしは-4等級よりも明るければ火球と呼ぶに足るという。燃え尽きたかどうかは不明だが軌道を計算したところ落ちているとすれば千葉県あたりとのことで、もう少し暇ならば隕石探しもまた一興と思ったりした。

耕衣句、己身には「コシン」とルビ。仏語でおのれの身体のことを指す。何を隕石だと思ったのかは目的語が示されないから判然としないが、考えられるのは「(流れていった光を)隕石と思い」という読み、あるいは「(おのれの身体を)隕石と思い」という目的語が下に来ているため省略されていると捉える読み、そして一番可能性が高そうなのは「(何となくぼんやりと)隕石と思い」という読みで、最後の読みを採用する場合は「隕石と思い(浮かべれば)」くらい補ってやるとよいのかもしれない。

冷え切った闇の宇宙を飛んでいる小惑星のかけらが重力に弄ばれて大気圏へと滑っていく。なんとも寂しげな感じがするが、耕衣はそれをおのれの身体性へと接続させ、宇宙の冷え、隕石の冷えをおのれの身体の冷えへと流し込んでいる。

記:柳元

風船の欠片は灼けて空しづか 依光陽子

所収:『俳コレ』 邑書林  2011

 「風船」は春の季語だけれど、ここは夏の季語「灼く」から、夏の風景だと読みたい。「風船」はいつの季節でもあるものだし、欠片となって灼かれたことでこの句における風船は春の気分が全くない。

 風船の人工的で派手な色、少し縮れながら灼ける微かなゴムの匂いが喚起される。そのジリジリとした空気感が「空しづか」に接続されて、立っているだけで汗をかいてしまう風のない静止した夏のある日の空気が立ち上がる。鮮明ななんでもなさに心が惹かれる。

 物語性のようなものを読み取るべき句ではないのだろうけど、空へと飛んでいくはずの風船が地面で灼けているという状況が、「夏の空」を「風船のない夏の空」へと変換するために、前項で述べたこととは対照的にどことなく欠落した印象も与える。そんな複雑さをたたえているからこそ、この句に漂う夏の空気感は肌で感じるだけでなく、なんとなく心に触れる美しさがあるような気がしている。

記:吉川

晩夏晩年水のまはりの水死の木 中島憲武

所収:『祝日たちのために』(港の人 2019)

 死の影で充ちている。夏も、人も、水も、木も。静謐で、風景を見ているような気持ちになる。風景よりは絵に近いかもしれない。澄んだ、暗い、水と木の絵。
 「晩夏晩年」のゆるやかな加速、「水死の木」のやや強い止め方が、より不穏で、より終止感(死)を演出している。読むうちに、気がつけば、内側に浸食してきている。

 私の中では、この句は「水死」という単語からイメージされた。水の中に埋もれて(囲まれて)木が立っていて、水死しているのだと思ったが、よく見れば逆だった。水死している木が、水のまわりに立っている。この、周りが淵に変わる感覚が、急激に人生に重なって、心が冷えた。
 今、私は「水」に自分を代入して読んでいるが、晩年にさしかかれば、自然と「水死の木」に共感できるようになるのだろうか。晩年とは、いつからなのだろうか。死ぬと自動的に晩年が決まるが、生きながらにして、晩年に入ったと自覚できるだろうか。人生が今も刻々と、なめらかに、滅んでいっていることに、未だ納得できていない自分に、この句は冷ややかに侵入してくる。晩夏が来れば、それはもっと。

 

記:丸田

ちゝはゝの墓に詣でゝ和歌めぐり 川端茅舎

所収:『現代俳句文學全集 川端茅舎集』(角川書店 1957)

茅舎という名前が好きだ。新しいスタイルが求められていく時代の反動から、忘れられていく物事へ思いを寄せる人々がいる。大正時代は特にそんな作家がたくさん出現した。現代にまで、そうした人の流れは続いている。もしかしたら加速しているかもしれない。その中でも、名前でビシッと態度を示す茅舎である。

墓に参る態度としては、これくらいがちょうど良い。あまり真摯になりすぎてもいけないし、墓の下にいる身としても、そんなに思い詰めて来られたところで逆に心配になる。墓参のついでに和歌めぐりもしちゃお、くらいで良いのだ。逆でも良いかもしれない。和歌めぐりのついでに近くに来たことだし墓にも行っとくか、くらいの感じ。そして歌碑とかのめぐりをして、のんびり暮らしているくらいが良い。それにしても和歌めぐりってなんだろうか。歌碑を見て回ることぐらいで捉えたが、それで良いのだろうか。

                                               記 平野

アイスクリームりえちゃん文化が機能する 松本恭子 

所収:『世紀末の饗宴』1994 作品社

掲句、「アイスクリーム」と「文化が機能する」の間に投げ込まれた「りえちゃん」が不穏すぎる。どう理解すればよいのだろうか。「アイスクリームを食べているりえちゃん」という理解の方でよいのだろうか。いずれにせよ「りえちゃん」という私的な眼差しと「文化が機能する」というメタ的な眼差しが共存する違和感が本当に気持ち悪い。悪い意味でなく。

松本恭子は伊丹三樹彦に師事していた俳人である。第一句集『檸檬の街で』は俳句シーンにも女性の口語作家、つまり「俵万智」が現れたというれかたちで需要されたらしい(文字にすると改めてジャーナリズムは怖いなと思う)。

正直なところぼくは第一句集における〈恋ふたつ レモンはうまく切れません〉に関しては特筆するところはないように思えたし、だからアンソロジーや雑誌などで名前を見かけてもあまり乗り気で読むことは無かったのだけど、『世紀末の饗宴』に引かれている句を見てその印象が変わった。

夢の茂みに煙草をおとさないで下さい

涙の鱗だ キャタピラーで刻む地の神

乳房の中のサイケな神が声立てる

椿の木みえてゴリラの純愛かな

のぼりつめるひかりの踊り子摩天楼

なまこになまこがジャズのボリューム上げようか

お休みです 生まれる前の樹がさわぐ

どうだろうか。第二句集からは伝統化したと言われているけれども、伝統的な作風になる前にこのように前衛に接近するような(師系で考えれば紛れもなく前衛ではあるのだけれど)句を書き残している。

記:柳元

この雨のこのまゝ梅雨や心細 本田あふひ

『ホトトギス雑詠選集 夏』(朝日新聞社 1987)

 言ってみれば虚子の「去年今年貫く棒の如きもの」である。あちらが硬い棒であるとするなら、こちらは雨という不定形のもの、嫋やかで、ちょっぴり幻想的でもある。虚子の句なら棒に、掲句なら雨に、と時間には形象が与えられる。生活において時間は形をもって眼に見えないため、気がついてみたら過ぎ去っていたりする。この眼に見えないというのがいけない。

 この時期の雨はなんとも厄介だ。普段は暑く蒸しているため、そのつもりで過ごしていたら、とつぜん雨が降って涼しくなる。それで体調を崩してしまったと思えば、心の調子が崩れていたりする。つまり、いつも通りの生活を送っているつもりが、ふと足元をすくわれて、ついにはどうしようもない地点まで追い込まれているのだ。コロナについてもきっとそうだろう、見えないのはなんとも心細い。

                                           記 平野

朝顔や政治のことはわからざる 高濱虚子

所収:『六百五十句』

もうすぐ都知事選挙ということで、この句。昭和25年の作である。岸本尚毅の『高濱虚子の百句』でも取り上げられているが、如何にも虚子というふてぶてしい句。同著によると政治家になる気はなかったか」と問われた虚子は「政治家になる気はなかったが政治に興味は持っていた」と答えたらしい。ありそうな話である。それでもいちおうポーズとしては、政治なぞ分かりませぬ、である。

ラディカル虚子研究家岸本尚毅が季語の斡旋を褒めているだけあって、たしかにこれは朝顔が動かない。飾らない市井の花であり、いかにも民衆的でなぜかどこか貧相な感じもする花である。庶民で学のないわたくしなぞには政治のことは分かりませぬ、というポーズにはぴったりの、すこし間の抜けた感じの取り合わせに思える。

しかし本当に政治が分からない人はここに朝顔をつけないはずで、そういうところも含めて如何にも虚子だなぁという物言いになるわけである。〈時ものを解決するや春を待つ〉というような態度といい、虚子は民主主義にあまり適性がなさそうに思える。ものすごくナンセンスなまとめだが、今日はこのへんで。

記:柳元