文通:早稲田関連の作家たち(平野・柳元)

大学図書館で借りた本をもとに話す

(2022年2月14日~3月13日)

平野:早いことで柳元とはもう五年近くのつき合いになりますね。早稲田という大学に入って、運悪く柳元に出会ってしまったばかりに俳句を始めることになってしまった。この運というものに最近は強く惹かれていて、作家が一人の作家として立つまでの期間には個人の力よりも運の要素が大きく働いている気がしています。どんな時代の空気を吸っていて、友人と何を話し、何を読み考えのるか……このとき作家の周りには高見順の言葉を借りると「文学史上には姿を現さないけれど、文学の上には姿を現した人々」がいて、病死なのか戦死なのか、筆を折ったのか運が悪かったのか、単なる実力不足だったのかは分かりませんけど、時代の流れに名をとどめるだけで、表舞台に出てこなかった人が沢山います。この裏の部分に、強く人生のシーンを感じるわけですね。

柳元:あはは、光陰矢のごとしですね。平野とは必修の基礎講義とクラシックギターのサークルが一緒だったのが機縁でしたが、俳句の方にズレこむかたちで、まさかこんなにも続く縁になるとはお互い思っていなかった。高見順のお話を伺う限り、同じような興味のありどころでよかったです。我々にあるのは、学歴としての早稲田というこだわりではなくて、言うならばひとつの場所(トポス)としての興味ですよね。つまり、休学や退学を考慮しなければ4年間の「文化的同じ飯の窯を食う」状態になるわけですから。のちに有名になるか、無名のままだったのかという些事は後景に退いて、平野が運と呼ぶようなもの、偶然性が、あたかも一つの運命を編みあげるように機能してゆく様というのは、惹かれるものがあります。COVID-19直撃世代の感傷的な物言いに過ぎたかもしれぬという恐れもありますが、機縁の蓄積体としての人間、作家、みたいな感覚は、ぼくにもありますね。

平野:機縁というよりも奇縁ですね笑、それで今回「早稲田関連の作家を扱おう」というテキトウな企画に決まったとき、こちらは学生時代をテーマにして三冊を選ぶことにしました。尾崎一雄の『懶い春』(六興出版社・1950年)は昭和初期の学生同人雑誌の時代を扱い、小沼丹の『竹の会』(河出書房新社・1975年)には谷崎精二をはじめとした教授陣や、師である井伏との関わりが書かれています。そしてS22/S23の「早大俳研」には戦後の学生の知性や気負いがあり、この小冊子中の重信はまだ恵幻子だったり、「ゴリラ」の多賀よし子の名前があったり、と人名だけでもかなり時間が潰せます。とまあこれくらいにしてとりあえず柳元が選んだ本、作家について聞かせて下さい。

柳元:いいですねぇ、小沼丹、ぼくも好きです。講談社文芸文庫に入ってるものを少しずつ集めてます。ぼくが選んだのは、まず、飯田蛇笏『山廬集』(雲母社・1932年)。蛇笏は早稲田中退ですね。蛇笏の第一句集です。それからエドガー・アラン・ポオ『大鴉』日夏耿之介訳(光昭館書店・1936年)に、マルタン・デュ・ガール『チボー家の人々』山内義雄訳(白水社・1940年)を選びました。早稲田と文学に関しては坪内逍遥以来の伝統として翻訳を抜きにして語るのは野暮かなと思ったので、翻訳者のていで二人入れてみました。日夏耿之介は早稲田卒で、かつそののちも早稲田で教鞭をとっていましたね。浪漫ゴチック文体と言われる文体の詩でも知られています。山内義雄は東京外語大卒ですが、早稲田で長く教鞭をとっていたので、早稲田枠でオッケーでしょう。デュ・ガールやジッドの翻訳でも知られていますし、クローデルとの交流でも知られています。
それから、われわれが選んだものを見渡すと、女性の名前があがっていませんね。我々が好んで読んでいる大正・昭和前半の女性の大学進学率からして、連なる名前がホモソーシャルなものになりがちというのは、容易に推測できましたね。1960年代中盤になって、ようやく進学率が10パーセントに乗るというありさまなわけですから。そういう意味では、大学との関わりで人物をピック・アップしたのは、ちょっと迂闊でしたね。女性が排除されちゃいます。もちろん、女性の進学率が上がってゆく昭和後期以降は、黒田夏子、多和田葉子、小川洋子、原田マハ、恩田陸、絲山秋子、角田光代、三浦しをん、綿矢りさなど、様々な方が活躍されています。

平野:女性の活躍は平成文学の特徴として重要ですね。あえて大学との関わりで考えてみると村上春樹や三田誠広の世代、つまり学生運動の時代の大学を描いた小説では主人公が男で、ヒロイン役として女性が現れ、どうのこうのとなる。このどうのこうのが批判される部分でもあり、進学率を含め、時代を写したものでもあると思います。それから時代が下って男性中心の文壇から距離を置いた作品が評価されていったのが平成という時代だった。このあたりは詳しい論考が沢山あると思うので、そちらに譲ります。

山内義雄の訳は、ジッドくらいでしか触れてないかも。家に山内義雄訳がないかと思って探してみたら新潮版の『狭き門』がありました。これは僕にとって懐かしい作品で、成人式に向かう電車の中で読んでいた覚えがあります。高校の同級生が明らかに近くで話しているけど、話しかけられるのも話しかけるのも面倒だし、かといっていったん意識してしまったから声が耳に入って来るし……と難儀しながら読みました笑。日夏耿之介の方は全く触れていない、ただ僕の挙げた小沼丹『竹の会』に早稲田の教授として登場していて、

級委員が日夏さんを呼びに行ったら、先生はじろりと委員を見て、――その写真には某も入るのだらう? と怕い顔をした。某と云ふのは英文科の偉い先生だから、むろん写真には入って頂く。現に石段の所に立つてをられる。さう云つたら日夏さんは、俺はあんな俗物と一緒に写真に写るのは真平だ、とそつぽを向かれて頑として応じなかつた。

とあります笑、柳元は最近、日夏耿之介とかこの時代の翻訳を意識しながら俳句を書いてますよね?

柳元:成人式の話、小恥ずかしくて良い話ですね(笑)。

そうそう、小沼丹の作品の中に日夏耿之介が出てくるというお話をしてくれたけれどその通りで、「大きな鞄」という短編(『埴輪の馬』講談社文芸文庫・所収)にも、小沼丹が編入試験を受けたときの論文審査の口頭試問の先生が、日夏耿之介だったというエピソードが記されています。莫迦に気難しそうな先生で、矢鱈に難しいことを訊くので閉口したが、あとから人懐っこいところがあるとか、なんとか。小沼丹が早稲田大学英文科に入学するのが1940年、22歳の頃ですから、このときの日夏耿之介は50歳ですね。若者からすればやはり威厳たっぷりで、脂が乗った人物に見えたでしょうね。早稲田という場所が彼らを引き合わせたわけです。もっとも、日夏耿之介はゴシック・ロマン、かたや小沼丹が志向するのは井伏鱒二的な平明な小文といった感じなので、作品上にあんまり直接的な影響関係は無さそうですが。

さて、日夏耿之介ですね。1890年長野県飯田市生まれ、詩人、翻訳者、研究者、批評家といった感じですが、彼の志向するものについては読んでもらうのが一番早いと思うので、まずは新潮文庫版の『日夏耿之介全詩集』の適当な抜粋をお見せしましょう。

こんな感じで、異様奇怪なルビや語句にやはり一番の特徴がありまして、荘重幽玄に恍惚となるような文体なわけです。文章そのものの快楽というか、こういう文体なわけなので、三島由紀夫や澁澤龍彦、中井英夫あたりには、題材的な側面でも文体的な面でもかなり影響がいっているはずです。短詩だと塚本邦雄や高柳重信あたりも、たぶんですが読んでいたんじゃないですかね。僕自身、文章の視覚的な愉楽に陶然となるというイデオロギーはもともと好むところで、「俳句を詠む」という音声言語中心主義から出来るだけ遠くにいきたいという心算はずっともっていたので、日夏耿之介と彼に影響を受けた作家たちの残したものには、ここ半年くらいずっと刺激を受けてます。脱構築的な書きぶりでなくて、ベタベタな意味で作っているのも、今となっては好感度高いですね。

平野:この「閉口したが」はいかにも小沼ですね、日夏耿之介と並べてみると小沼も漢字に対するこだわりが強いというのが、思えば、共通点として挙げられそうです。同時代の作家があまり使わない漢字、例えば小沼丹は「あと」を「后」と書いたりします。

日夏耿之介が荘重幽玄とも晦渋とも読める文体を選び取ったのを、時代や環境とリンクさせて考えていくべきでしょう。日夏は口語自由詩や言文一致体が拡大していくなかで書いていた作家とはいえ、1890年という生まれを考えると、まだまだ受けていた文章教育は漢文/雅文を理想型としていたものと思っています。意味伝達を中心にした文章ではなくてある種の美感を与えようとする詩において、日夏以前の、上田敏の訳詩やそこからの影響があるという薄田泣菫の高踏的な詩との繋がりを考えると、日夏の中の出力としてそこまでムリをしたものではないのではないのではないかと思います。まあムリはないと言っても、日夏の背景に「口語詩/漢文体」という対立があって、ここで後者を選んだという選択のなかから出てくる言葉という点で、それまでの漢文体の詩と異なっているとも言えそうですが。

最近の柳元作品を読んでいて率直な疑問は、この日夏にあった(かもしれない)内的な対立を現代に置きかえてそこから言葉を模索するのではなく、視覚的な面で日夏やその他の表現に近づいていくことにどれほどのうま味があるかということです。つまり、ムリをしてまでルビや生硬な漢字にこだわる必要があるのかという疑問です。もちろんこれは見当違い、というか柳元の目論見と違うところを突っついているのかもしれません。翻訳、その際の音声言語中心主義といった観点から日夏耿之介を解釈し、作品に活かしていると思うのでそこを含め、いろいろと『大鴉』について聞かせて下さい。

柳元:そうですね。斉藤稀史に『漢文脈の世界』という著書がありますが、日夏耿之介の世代は、教養としての漢詩文、もっといえば士人的な精神世界を構築し再生産するものとしての漢詩文、という需要をしていた近世から明治にかけての世代の残滓が、まだありありと残っていたでしょう。とはいえ、では日夏の内面が、そういう士人的な、武士的な、封建的なものだったかというと、そういう近世的な濃厚濃密な漢詩文的精神世界は以前よりは薄れて、形式的なもの、虚なものになっていたでしょうね。ご指摘の通り。口語詩や言文一致体の台頭し始めていましたし。だから、日夏耿之介の漢詩文的文章というのは正当な漢詩文というよりは、内面世界と結びつかない、何か根本的な支えを失った、浮遊する過剰な修辞といった趣きがある。だからこそ、その空虚さには、雅文とか西洋的精神性を呼び込んで入り混じる余地もあるし、そこからしか生まれない混沌がある。ぼくが日夏に惹かれるのは、日夏が根本のところで抱えている、ある種の同時代的な虚さから来ている過剰性というか、精神的根無草なありようのために表面的にさまざまなものに手を広げようとするお行儀の悪さ(とはいえ、その深度は凄まじいわけですが)なのかもしれません。訳詩集『大鴉』はその結晶体のように思えます。

ぼくは北海道出身で、季節が教場的な歳時期的運行をしたことなんて一度もないわけだから、季語的世界からは疎外されていた人間で根の張りようのなさを常に感じているし、2020年台の現在において、自分の肉声を言葉にする、することができる、それがコードをかいくぐって肉声として相手に届く、みたいな、単純な音声言語的な感覚も全然なくて、常に何か虚な感じがしている。だから、ぼくの書いたものは常にこう、自分の言葉でない感じとか、構築的な書きぶりの印象にならざるを得ない。でも、逆説的ですがそのへんこそ、自分にとって大切な感覚なんです。だからこれを裏切らないままに、きちんと句の中で繋ぎとめておく方法として、ルビとか翻訳体などで、コピーっぽさであったり、宙ぶらりんゆえの過剰さというか、虚さの痕跡を残すという手段があるんだな、と思ってますね。

平野:日夏耿之介の詩文が持っている空虚さを、自らの問題意識と共鳴するようなかたちで読み込んでいくことは面白みがありますね。これはコピーがはびこる現代から作品を眺めたときに見えてくる虚ろさであって、日夏耿之介が作品を発表していた時代に読まれていたものとは明らかに質が異なるでしょう。内容や手法を理想型として模倣するのではなく、コピーの虚ろさに着目して、コピーすること自体に意義を見出す。だからこそ作中にその手つきを残しておくというのはテクニカルですね。

精神的根無草という言葉が出て来ましたが、ぼくが小沼丹やその同世代にあたる「第三の新人」と呼ばれる作家たちに感じるのも、この根っこが抜けた漂流の感覚です。とはいえ古今東西、作品を書き続ける人の多くは根無草であるがゆえに、苦しまぎれに書かざるをえない状況に追いこまれたのでしょうから、第三の新人に特別な感覚と言いたいのではなく、さまざまな浮遊の感覚の一つのあり方として親和性を感じます。出生、育ち、時代、など多くの要素がからみ合って生まれて来るこの感覚をカテゴライズすることは乱暴ですが、第三の新人はやはり戦争の影響がデカかったように思います。青春期が戦争の真っ直中にあたり、軍隊に取られて俺たちは死ぬんだというメンタリティで生きていたところに敗戦の報が入る。見えていたはずの行き止まりが壊され、戦後はどこに終点があるかも定かではない広野を歩かされます。そのとき道標となるものや根を張れるところがあれば楽なんですが、どうも上手く根を張れなかった人たちが作品を書いたようで、時流から疎外されている感覚が底にあります。敗戦というそれまでの価値観が一変する経験が、信用に足るものがないことを気付かせた、もしくは、イデオロギーを信用することの危うさを身をもって知ったことで、そうした態度を取るしかなかったのではないでしょうか。たとえば小沼丹はものごとを断言せず、かしらん。ととぼけた態度を取ろうとしますね。自らの拠り所として確かな輪郭を持った記憶に頼ることはなく、疑いを深めて広野を歩く。不器用ながらも誠実な態度が惹かれるところです。

柳元:平野は第三の新人好きですよね。2019年に税率が10%に上がる前に神保町で吉行淳之介全集買おうとしてたのはよく覚えていますね。世の中の俗人は白物家電を買うか買わまいかという中で、ひとり全集を買おうとしていたのはあらためて文学の徒の鏡でしたね。

第二次世界大戦の影響というと、順当にいけばまず、戦後派と言われる人たちが思われるわけですが、でも平野は、戦後派のように直接戦争を題材とした人たちよりも、もう少し日常というか、自分の生活を見つめ直して歩き出そうとした人たちを好んでいるように傍目からは見えます。「広野を歩く」という比喩が意図しているのは、なにかそういう、安吾などが声高に主張したような精神的な焦土というか、絶望からの再起というよりも、再起したあとに続いてゆく一見平和な日常、その持続性からの疎外というようなところなんでしょうか。たしかに小沼丹の魅力は、井伏鱒二から受け継いだようなユーモアとペーソスとまた少し差異があって、それは平野が上げてくれたようなある種の同時代性のようなところにあるような気がします。
第三の新人的な眼差しで俳壇を眺めれば、1920年生まれの波多野爽波なんかは如実に、第三の新人たちと似た傾向があったような気はしますよね。戦争に行って、鹿児島で終戦、戦後の好景気の中でサラリーマンとして勤め上げる。写実なのだがどこか虚で、という。

そういえば、平野が借りてくれた早大俳研は、まさしくこの、第三の新人的な時代とともにあった人たちが載っている号でしょうか。高柳重信も1923年生まれですから、時代感としてはそれくらいですよね。

平野:吉行に一番ハマってた頃ですね、懐かしい笑。同じ思考の人がいたのか先に買われてしまっていて、実際に手に入ったのはその二ヶ月後、神保町の田村書店です。昨年、店主の奥平晃一さんが亡くなりましたが「私の店に来る人で小沼丹を知らない人がいたら、本なんか読まない方がいいと思うくらいです」と言っていたとかなんとか。

第三の新人(一応の括りとして)にとって戦前と戦後は一続きの流れの中にあったのだと思っています。戦争を絶望として劇的に捉えることはある意味危ないことで、敗戦によるドラマティックな幕切れがあって、これから再起のストーリーが始まるぞという見方になる。そうではなく、たとえ敗戦を挟んだとしても人間はそう変わるはずないのに、昔と全く違いますよという素振りをすることを疑っているのだと思う。

さて「早大俳研」は二つあります。S22の方の「早大俳研」の目次はこんな感じです。

8ページの作品欄は早稲田出身の方たちです。恵幻子こと高柳重信は多行形式ではなくて〈病人が生きねばならぬ、虛妄の戀〉と読点を入れる句で、同じ欄の赤黄男にも〈絶壁にむき、なにか喚いてゐるらしい〉の句があり、影響が伺えます。ところで目次では直得となっていますが、この欄に藤原美秋という方がいて、句のタイトルも「長病み」というので最初、折笠美秋かと思ったが年代が合わない。繋がりはあるのでしょうか? そして戦争の影響は編集後記の一部を抜粋してみると、

確かに僕等は初等中等更に高等教育を殆ど軍国主義の中で過しました。自我意識を感じ出した年頃には既に戦争の中にあつたわけです。ですから多くの人は現在の様な状勢下では吾々はブランクな頭しか持つて居ないだらうと思ひがちです。然し僕等は自我意識に目覚めそしてその最も敏感な時に死に直面したのです。無けなしの全身を以て死に対決したのです。そして更に終戦でオツポリ出され、全てを否定して立上がらねばならなかったのです。全面的の否定、之程苛酷なものはありません。僕等はそこから出発したのです。純粋にそして峻烈な懐疑と猜疑を持ちながら。ですから他の世代の不純さからは何も学び得ないのです。(そのテクニカルな面を除いては)

柳元:うーむ、敗戦直後の早大俳研ともなると、さすがに戦争の影響は色濃いですね。上の世代への不信感、それから壮絶な虚無感とニヒリズムを感じます。美秋は1934年生まれですから、1947年の早大俳研に載っているかと言われると、確かに年代は合わないですね。繋がりがあるかどうかは何ともぼくには……。俳号の偶然の一致という可能性の方が高そうに思えますがどうなんだろうか。

あ、それから、この戦後の同時代の出版物として是非挙げておきたいのは、アンチミリタリズムが時局にそぐわないとして中断されていたロジェ・マルタン・デュ・ガール『チボー家の人々』の訳業を、山内義雄が再開することが出来て、無事に『チボー家の人々8 1914年夏1』が刊行されたことですね。これが1950年で、1952年に最終巻までが相次いで刊行されました。『チボー家の人々』はフランスの大河小説で、まさにロマンというか、仏文学のよき伝統をよく引いている感じの大作ですね。チボー家というブルジョワでカトリックの一家の話で、実務家気質で医師の兄・アントワーヌ、反骨精神溢れる左翼活動家の弟・ジャックを中心として物語が進みます。彼らの成長を見守るように読み進めてゆくので、いつの間にか彼らと友人のようになっているような、不思議な感覚になります。戦争が終わってようやく日本で刊行された『チボー家の人々8 1914年夏1』は、まさにタイトルの通りで、オーストリアの皇太子暗殺が、いかに第一次世界大戦の種火として燃え広がってゆくのか、そしてそれにいかに市井の人間が翻弄されるのか、というのが克明に描かれていきます。昨今のウクライナ情勢を思うと、やはり思うところはあります。弟のジャックが、インターナショナルにいて第一次世界大戦を未然に防ぐために奔走し、大演説をぶったりもするので、もちろん山内義雄はこれを戦時下に出版することは無理だったわけですね。

早稲田の図書館には、戦後すぐに出た白水社の版のものがあります。戦後、何百人もの学生がこの本を手に取って、兄・アントワーヌ、弟・ジャックと親交を結び、彼らの行末を見守り、ときに涙を流し、反戦の思いを強くしたのだろうと思うと、少し感じ入るものがありますね。

平野:今は白水Uブックスで出版されているんですね。講義でもないかぎり、なかなか手が伸びない名タイトルを読めたのは羨ましいことです。話を少し戻しますと、時局からの要請による中断や検閲は早大俳研の編集後記にあった「ブランクな頭しか持つて居ない」という表現に繋がるでしょう。戦時下で学生時代を過ごした世代は、思想書でも文学でも制限されたものを読むしかなかった。ほかの世代と比べてそこが特異といえば特異です。

せっかく第一次世界大戦の話に移ったので、ぼくの選んだ尾崎一雄『懶い春』の話をしましょう。『懶い春』の時代設定は尾崎自身が学生だった1924年頃です。関東大震災の翌年で、震災後の様子は書き留められていますが、戦争の影響はあまりありません。その代わりWWⅠを水源にして生まれたプロレタリア文学が、時代の大きな流れとなっていく潮目のようなものが記されます。プロレタリア文学全盛のときに尾崎は沈黙していたので尾崎個人にとって重大な時代の空気感だったのでしょう。『懶い春』では小宮という名称で書かれていますが、尾崎一雄と一緒に同人誌『主潮』をやっていた学生の一人に小宮山明敏という方がいます。序盤、含みのある人物描写がされると思ったら左傾して、物語の中心は志賀直哉(物語中では多賀)を信奉する視点人物の昌造が、小宮もしくは左傾するほかの学生同人たちに抱く感想や、自分の信じる/信じていた文学観に移っていきます。プロレタリア文学がぽしゃったあとに書かれたものなので、その文学観が学生当時のナマのものというよりも、ある程度、後の時代から整理して書かれているものであるという微妙な塩梅が、面白いポイントです。この小宮は終盤、病にかかります。現実の小宮山明敏も残念ながら早世します。高見順が記すところによると、小宮山明敏と吉行エイスケは従兄弟同士で仲良く呼び合ってたということですが、吉行エイスケの立場が、プロレタリア文学を天敵としていたモダニズム文学の旗手であり、ダダイスト(これも第一次世界大戦からの影響)であったことを考えると面白いですね。

『チボー家の人々』も含め、時代の空気感があり、その空気の中で生きていた人が確かにいるというのは、心をうつものがありますね。

柳元:「当時のナマのものというよりも、ある程度、後の時代から整理して書かれているものであるという微妙な塩梅が、面白いポイントです」のくだりで思いましたが、プロレタリア文学はプロレタリア文学そのものより、ぽしゃったプロレタリア文学とその仲間を回顧するような随筆の方が文学的には親しまれている気もしますよね。時間を経ることでの熟成の塩梅というかなんというか。早稲田と全然関係ないですが、晩年の佐田稲子を読んだときそんな気持になったのを思い出しました。

左翼系の作家の悪癖、というよりも作家に限らず左翼一般の悪癖ですが、理論を先行させてそれで敵か仲間かを峻別しますから、とかく仲間割れや分裂が多いですよね。とはいえ、思想的決裂=人間的決裂というほどこの俗世は簡単なものではないですから、派閥を超えた吉行エイスケと小宮山明敏の親交の話はなんだかほっこりしますね。まあ個人的には、思想的決別といっても、根っこはおんなじだろうにとの気持はありますが。フランスに目をうつすと、たとえばダダイスト、シュルレアリストのエリュアールやアルゴン、ブルトンは共産党に入党してますし(ブルトンはすぐ脱退してますが)、本質的にはモダニストもコミュニストも、広い意味では革新なわけですし、仲良く出来るんじゃないの……みたいな気持は、左翼活動の激烈さを甘くみすぎですね。学生運動のことを思い返しても、微差こそ激烈な対立に繋がりますから、やっぱり吉行エイスケと小宮山明敏の親交は良い話なのかも。
あ、『チボー家の人々』は基本的には第一次世界大戦で話が終わるんですよね。出来るだけネタバレを避けてきましたが、もうこの物言いである程度察されると思うのでやや核心に触れますと、つまり戦争で主要な登場人物が死んじゃうので、第一次世界大戦より先に話が前進しようがないんですよね。それより後は残された人々のエピローグとして触れられるくらいなんです。だからもちろん、ダダやプロレタリア文学には触れている箇所はないですね。

それから考えてみれば飯田蛇笏の『山廬集』は1932年の出版ですから、プロレタリア文学やシュルレアリズムなどのモダニズム文学と同時代なわけで、こう考えると『山廬集』における表現も、別の角度から見れそうです。

平野:佐多稲子は一時期、早稲田周辺に住んでいたし良いんじゃないですかね笑。どうしても書かざるを得ないだけの恥というかやましさの感覚が転向にはついて回ったのでしょう。偶然、名前が出て来たので言うと、個人的に佐多稲子はフェイバリットで、これまで読んだ小説の中で文章だけを評価するなら『時に佇つ』が一番だと思うくらいです。単なる回想ではなく、時間を経ることで異物となった記憶に向き合い、その異物の重さを書いている現在の手のひらので量るような文章です。重たい記憶が佐多の語り口を重心の低いものにし、人生に取り組む佐多の厳しい姿勢が文体から透けて見えます。

それから俳句で派閥を超えた親交というと三鬼と波郷の話をいつも思い出します。誰か忘れてしまったのですが、ある方の評論で二人は言葉を中心にしたのではない、身体を中心とした関わり合いがあったから生涯親友でいられたという旨のものがありました。これはSNSの時代に響くものがありますね。ツイッターは理論のない空虚なものが、言葉の上辺で熱を帯びていきますから。『チボー家の人々』の登場人物たちはその点どうなのでしょう?

『山廬集』に収録されている句は32年以前のものが多いと思いますが、同時代に出版されているものと並べて見比べるのは、受容のされ方として面白いものが見えそうですね。大学にあるのはその32年初版だったということで、興味深いところはありましたか?

柳元:ふーむ、平野は身体の話を最近よくしていますよね。別の機会にでも、もう少し伺いたいところです。『チボー家の人々』はですね、活動家の弟・ジャックがロゴスというか、言葉の人なんですよね。演説とかアジビラとかも一級品で、弁が立つ。でも、言葉が言葉を加速させて身体から乖離するような感じなのかというと大衆の前でアジったりしているときにも、ジャックは自分の身体との乖離具合を常に気にするそぶりを見せるんですよね。加えて面白いのは、彼ら家族や恋人や友人は、一緒に食事をするんですよね。そういう、お互いの身体が最も露呈する食事という場で、議論したりするんです。そういう意味では、身体が重んじられている気もしますね。
『山廬集』初版はですね、まず蛇笏の著者肖像があるんですが、これを書いているのが川端龍子なんですよね。

平野:なるほど。川端龍子が描いた肖像画ってあまり数がないんじゃないでしょうか。詳しいわけではないですけど、龍子の著名な絵を見ているとこちらまで動きそうな感じがします。それは躍動感もあるだろうし、強度もあるし。言葉と身体や絵と身体、ちゃんと参照出来るものがあると良いのだけど……それにしても著者の肖像画だったり、山廬集というネーミングだったり、現代の句集を編む気持ちとは違う、散逸されているものが他人の手でまとめられたっぽさがありますね。

柳元:そうなんですよ、句集を編むという営みが意味するものの変遷というのは確かにありますよね。蛇笏の『山廬集』は逆編年体がとられていて、これまでの来しがたが無造作に放り出されているように思えます。むろん満足が行かない句は落とされており、厳選はされているのですが、いわゆる「編集」が効いている印象はありません。さばさばしているというか、自分の人生に対して変な執着というか、粘ついた感傷がないというか。ままならなさに対して無頓着というか、うーん、この点に感覚を現代から言表するのは不可能ですね。 

現代でも当然に編年体、逆編年体のような、ある種私小説的な操作で句集が編まれることがありますが、現代においての編年体や逆編年体はあくまでも操作、「編集」の一形態であって、何かこう、むしろ独特な、自己のイメージへの執着のようなものを感じることがあります。キャラ的な、記号的自己の生成の意識というか。大江健三郎の長男誕生以後の擬-私小説なテクスト内での身ぶりを思い出しても良いわけですが、現代においては私小説というのは生き方ではなくて一技術でしかないのかなと思いますね、作者にとっても読者にとっても。穂村弘以後の短歌シーンにおいてより顕著かもしれませんが、少なくとも、来しがたを無造作に放り出すようなそれのように素直に受け取るのは随分難しいように思います。

それぞれの時代においての一回限りの生へのイメージであるとか、出版文化や環境的な諸事情であるとかの錯綜体が、句集なんでしょうね。そういう意味では、『山廬集』の肖像画を、テクストに対してのある種のノイズのように見做す痴愚浅薄なテクスト主義とかには、やっぱり与したくはないですよね。

平野:俳諧というか、無常観というか、そちらの方面の影響も強いでしょうね。句集を編むことは意図してみずから存在の幅を持とうとする感じがありますし。でもまあ、現代でその無常観のようななにかに立ったとして、滲み出てしまうスタイルや自己イメージがあるので逃れようがないですが。

大江が「私小説について」という文章で現在の私小説は志賀直哉とその追随者が作り出した文体でしかない(かなりざっくりと)みたいな話をしていたと思います。今回、名前を挙げた尾崎一雄について「年代記の記述者のように、可能なかぎり「私」は影にしずみ、色彩をみずからにほどこすことを避ける」と書いていて、「影にしず」んだ「私」というアリバイは、意図して幅を持つことを避ける同じ仕草がありますね。

ところで、この前ある小説家の方と話していて、句集は小説と違ってずっと良い句が並んでいて疲れる、もっと抜けた句や良い句に至るまでの下手な句が並んでも良いのに……という話をされていました。実際、永田耕衣などはヘタな句の続きに佳句が出て来るわけですが、こういったベスト盤ではない混線とした句集について柳元はどう思いますか?

柳元:私自身としては混線とした句集は好きですよ。一冊としての質をあげるために途中に緩い句を挟む、というのは、リーダビリティの観点から永田耕衣に限らずとも試している俳人は多いように思いますね。ただ、〈上手い〉〈下手〉ということが、ある種既存の価値観を参照して眼前の作品の位置を措定するということだということなら、そういう意味での〈上手い〉〈下手〉という区分を用いて編むという手法には申し訳ないけど、全く興味ないですね。それって既存の〈上手い〉〈下手〉の価値観それ自体をしっかりと温存させてしまう行為だし、保守的だなぁと思います。

やらなきゃならないことは、たとえば〈下手〉とされる句を執拗に何句も続けていくことで、〈上手い〉とされている句と並び、句の中で引き立て役に甘んじていたときの相貌とは全く異なる凄みを引き出す、とか、〈下手〉とされる句を並べ立てて、もう既存の価値観で判断できないところまで読者を追い詰めて、〈下手〉と簡単に切り捨てさせない、みたいなことじゃないんですかね。私にとって永田耕衣の佳句っていうのは、そういう風なものに見えます。きれいなディスコントラクションとかじゃなくて、ディスコントラクションとすら名指せないような、そういう混沌、混線をどんどんやっていきたいですね。

あ、まだ昭和23年の早大俳句の話をしてませんね。これはどういったものなんでしょうか。

平野:価値観の温存は間違いないですね。模索しながら、確固たる個の軸が全体から浮び上がるのは良い句集ですね。S23の「早大俳句」もさまざまな模索の跡が見えて来ます。一つ一つ内容を見ていきたいところですが終わりそうにないので、手短に。

目次を見ると評論が中心で、特集作品としてまとまった句が並んでいます。重信の連作中には〈身をそらす紅の絶巓、處刑臺〉の句があって、この紅はたぶん虹の誤りだと思いますがこれは多行の俳句の方が断然良いですね。それにしても驚くほど誤字が多く、この「早大俳句」を図書館に寄贈して下さった柳田泉教授も、わざわざ自分の論中の誤字を黒字で二箇所、訂正しているほどです。あとは鈴木しづ子とかちょっと意外な方も句を寄せていますね。

柳元:へえー!〈身をそらす紅の絶巓、處刑臺〉の句って初出だと多行じゃないんですね。多行ありきで書かれた句であってほしかった気もしますから、いますごく何とも言えない気持ちですけど、こういう発見も書庫に潜る快楽のひとつですよね。

ということで、散漫に話してしまいましたが、お読みくださりありがとうございました!(了)

文通:Perfumeと短詩と(丸田・吉川)

文通テーマ:Perfumeから短詩を考える

(2022年2月7日〜3月11日間)

丸田:今回は吉川くんと文通ということで、少し強引なテーマ設定をしましたがよろしくお願いします。何を話そうかと考えたときに、二人の共通点としてアイドルグループのPerfumeとその楽曲を好んでいることがあるなと思い出しこれにしました。
 辞書的な説明をしておくと、Perfumeは中田ヤスタカプロデュースの広島県出身の3人(かしゆか、あ〜ちゃん、のっち)からなるテクノポップユニット。2000年に結成、2005年にメジャーデビュー。
 
 一応短詩サイトの一企画なので、だんだんと短詩に絡めて話を発展させられたらなと思っております。とりあえずまずは、取っ付きやすい好きな曲の話からしますかね。何回か話したことはあるけれど、3〜5曲くらいセレクトして教えてほしいです。

吉川:はい、よろしくお願いします。正直先行きが全く見えていないので不安ではありますが。じゃあ何曲か挙げてみます。音楽には疎いので解説には期待しないでください。
 まずは「スパイス」 1 ですね。ミドルテンポかつ音の層が分厚く包まれている感じがして心地よいです。ほぼAメロとサビを繰り返すシンプルな形を、サウンドメイクの緊張と緩和で全く飽きさせない。サビの輪唱の歌割りなんかもまさにそうですね。やわらかいユニゾンにのっちの硬質なボーカルが追いかけていく。常に私のPerfumeベスト5に入る曲です。
 王道なところでいくと「シークレットシークレット」2 。キャッチ―なメロとシンセのフレーズ、そして楽曲を押し進める無機質だけど主張の強いベース、私の思うPerfumeっぽい曲の筆頭です。この無機的なサウンドに「いつも信じているよ気づかないふりするよ」「ななめから恋してる」みたいな人間味の強いフレーズが乗っかった時の不思議な味わいもいい。近年だと「再生」3 なんかが今っぽいサウンドにしながらもこの路線の曲という感じで大好きでした。
 そしてPerfumeっぽくない筆頭の楽曲ですが「マカロニ」4 は外せない。これは洋渡くんも好きな楽曲だと聞いた記憶があります。Perfumeでは珍しく大サビがあり、さらに珍しいことにブラックミュージックの香りがします。素朴かつ今よりも幼い声色のボーカルが、恋がはじまったばかりの初々しい距離感を描いた歌詞の世界を裏付けていてサウンドと相まって生身の人間味が強くでているのがいい。ラストサビに入ってくる夕方のサイレンみたいなフレーズは何度聞いてもノスタルジーを誘います。涙を誘うことがいい作品の証拠であるかのような物言いは好まないけど、何度も泣かされた曲です。
 洋渡くんはどうでしょう。

丸田: 「マカロニ」、かなり好きですね。この曲に関しては必ず、あのセピアがかったMVを思い出します。郷愁といえばまっさきにこの曲のことを考える。歌詞の「最後のときが〜」の入りの「さ」の音が良い。
 曲で言えば、「Puppy love」、「エレクトロ・ワールド」5 、「love the world」6 、「スパイス」、「願い(Album-mix)」です。何気に、「ポイント」、「Sweat Refrain」7 、「再生」も好きです。この箇所の音が特に!で言えば、「シークレットシークレット」イントロ、「edge」の「誰だっていつかは死んでしまうでしょう」の裏で上がっていく音、「Have a Stroll」の「心地いい風」の下がっていくところ、「ワンルーム・ディスコ」8 の「昼間みたい」の入り(声としては「昼」が聞こえているのに、一瞬で夜のことだと分かる雰囲気)です。

 と、このチョイスを見ても分かるように、僕はほとんど音の気持ちよさで音楽を聞いてます。普段から歌詞がないインスト曲ばっかり聞いているのもそうですが、聞いていても、歌詞が全く入ってこないんですよね。音は聞こえているけど、それは声ではなく、ただの音。だから、気持ちいいメロディの曲だと思って歌詞を調べてみたらスッカスカでウケる、みたいな事が多々あります。
 Perfume、きゃりーぱみゅぱみゅもそうですが中田ヤスタカが本当に、丁度いいところでこちらが求めている高さと質の音を鳴らしてくれるので、気持ちよく聞いています。そういえば「シークレットシークレット」の歌詞が地味に良いのを教えてくれたのも当の吉川くんでした。「edge」なんか特に、「あ、そっかで話聞いてないのね/I know, oh yeah! Say loving you yeah!」は僕のことを言ってるみたいで歌詞を調べたときは笑いました。

「マカロニ」とか「再生」とか特にそうですが、もう既に音が雄弁で、歌詞を判別する前から既に寂しく感じます。エロクトロニカとかテクノポップとかフューチャーポップとかチップチューンとか(サブジャンルとか詳しくないので適当ですが……)特有の、機械的でふわふわした明るい音そのものが裏に持つ寂しさ、意味とは離れたところで発光する感情、みたいなものを思うんですが吉川くんはどうでしょう。これもまた二人の共通点であるドラゴンクエスト、のファミコン風のあのピコピコ音楽も、気を抜けば胸の中にスっと入ってくるように……。

吉川: 「マカロニ」は確かにMVの印象も強いですね。8mmで撮ればセンチメンタルな雰囲気になるのは当然と言えば当然ですが曲と合ったいい作品です。洋渡くんのチョイスが私の好みと想像以上に似通っていて驚き。
 音楽のことはよく分からんので、自分も音の気持ちよさで聞いてます。洋渡くんが言ってくれたようにサウンドも気持ちいいんですけど、ボーカルも1曲の中でも加工の仕方や度合いが違ったりしてそういう音の楽しみもあるのが中田ヤスタカワークスのいいところだと思ってます。
 チョイスを見てればすごく分かるけど、お互いその電子的なサウンドが醸す寂しさに惹かれてるんでしょうね。それはPerfumeと出会った中学生の頃からずっと感じていることです。この寂しさ、切なさ、本当になんなんでしょうね。音楽に詳しい人からすればメロディやコードから説明できるのかも知れませんが、自分は比喩などのアプローチしか持ってません。例えば「再生」のイントロをイメージで喩えるならば、夜中の信号機の明滅を思います。太陽のような恒常的な光ではなく、終わりを予め含んだ光。そもそも電子音の高い音ってどことなく光を想起させます。一瞬性が寂しさを呼び起こすってことなんでしょうか。「再生」の音色は明らかに寂しげですが、挙げてくれたようなドラクエの16bitの平板な音色さえも感情を呼び起こすっていうのも不思議です。
 洋渡くんはこれらの音楽が醸す寂しさは何に由来するものだと考えていますか。

丸田:そもそも寂しさとは何なのかみたいなことを考えちゃいますね。「寂しい」って、基本的には(あってほしいものが)不足している状態、あってほしいレベルから離れている状態だと思うんですね。人がいなくて寂しいなら、そこにいて欲しい人が不足・欠落している。廃れた町を見て寂しいなら、もっと栄えていてほしい(栄えていた頃を知っていたり想像したりして)と裏で思っている。
 ただその例外に、充足しているがゆえの「寂しい」があるなと思います。大好きな人と一緒にいるのに何故か寂しい、的な。僕は〈まつすぐな道で寂しい/種田山頭火〉もこれで読んでいて、別にくねくねだったり繁華街だったりを求めていたから寂しそうな道だと思った訳ではなく、道が真っ直ぐである状態を幸せだと思い、だからこそ寂しいと思った。この、充足が寂しさに直結してしまう変な感覚が、「で」によく現れているなあと思っています。
 Perfumeの電子的な曲は、個人的にはその感じで、別に何もこちらは損なわれていないし、不足していないのに、音を聞いた瞬間に寂しいと思ってしまう。なんとなく聞こえは明るいのに。明るいからこそ……。寂しい曲を人間が寂しいように歌うより、あえて機械的な音で明るいように歌うところに、逆に寂しさを見出してしまう。めちゃくちゃ泣いてるのに泣いてないと嘘をつくときの感じというか。まあでも、ドラクエの曲を音だけ聞いて懐かしいとパッと思うように、もう躾みたいに、電子音そのものに懐かしさを直感的に抱いてしまう頭にいつの間にかなってしまった説はありますね。電子音に何故か懐かしいと思う+明るいゆえの寂しさ+(私たちが詳しくない)コード展開やメロディ等々……ということなんですかね。

 繋げて思うことで少し別の話になりますが、Perfumeって、私たちが歌っても何にもならない、ですね。この要素が他のアーティストより強いように思います。本人の作品は本人以外が再現したところで、という話ではありますが。鼻歌でもカラオケでも良いんですけど、僕らが歌うとき、僕らの声は電子的な装飾は受けないですよね。ただの声。自分で歌ったら、曲がびっくりするくらいスカスカになってしまって驚いた経験があります。息を吸ったり、息が切れたり、声が安定しなかったり、ビブラートが出来たり、そういう人間らしい、歌らしい要素が、Perfumeを歌うときは甚だ邪魔に聞こえる。これって地味に変なことで、オリジナルたらんと自分の癖で自分の歌い方で頑張ろうとするのがふつうのところ、オリジナルたらんと、かえって声らしさを消すという、声を求めながら声を無力化する、平板化するというかなり奇妙なことをしているなと思います。(僕よりも吉川くんの方が、Perfumeの背景を知っている(僕は曲メイン)のでご存知かと思うけど)Perfumeの3人も最初は嫌悪感というか拒否反応があったように思います。
 これを俳句で考えたとき、季語とか、写生という方法って、似たように、〈声〉を消してしまう装置な気がするんですね。方法、ってそういうものなのかもしれないですが。(この辺柳元くんが詳しいかもしれませんね……)個ではなくなって、皆が使う器に自分が入る、というか。
 そこでPerfumeとそのシステムの似て非なるところは、方向の違いだと思っています。「誰でも歌えるように」する写生、に対して、「誰にも歌えないように」するPerfume。(そこまで誰もが歌う(歌える)ことを排斥しているようなグループでもないので極端な言い方ですが。「STAR TRAIN」9 みたいなものもあるし。)初音ミク等ボーカロイドと、中田ヤスタカ-Perfumeの違いも、同じ形で説明できるのかなと思っています。
 だいぶ前に吉川くんに、電子音で悲しい系といえば……と思って紹介した「インベーダー☆」(Snail’s house)10 がハマらなかった要因に歌詞を挙げていたかと思うんだけど(注:当該曲には歌詞がなく、機械的に加工された声(調べると作曲者本人)がうっすら日本語に聞こえる歌を歌っている)、この”歌詞”や””意図的に加工された声”は特殊な様態のものかもしれませんね。
 色々支離滅裂に書きましたが、気になったところを拾って返してくれたらと思います。長々と失礼。

吉川:充足しているがゆえの「寂しい」非常に分かります。充足していてもそこから欠けることをうっすらと想像してしまうからなんでしょうか。
昔、Perfumeが自身の楽曲(楽曲全般か、特定の曲かは忘れましたが)を「物足りない感」があると評したことを思い出します。でもこの物足りなさって洋渡くんの言うところの前者の寂しさじゃなくて後者ですよね。
その「物足りなさ」の理由の一つに歌唱の方法があるなと。Perfumeの歌唱については、力と心を込めて歌え!と指導されてきたのに、中田ヤスタカと出会ってからは椅子に座って力まずに歌うことになってショックを受けたとPerfume本人が度々語っています。歌を作り上げる方法論が丸っきり変わってしまったんですね。それは彼女たちのそれまでの努力の否定であり、歌の良し悪しの価値観の否定だったわけです。歌と歌唱方法、技術は完全に分けて考えることはできないんですが、敢えて分けて考えるならば歌唱方法、技術が歌の良し悪しの価値観に直結するのって変な気がして面白いです。これは歌唱するアーティスト側だけの話ではなくて、リスナーでも同様で。最近見聞きして面白かったのはK-POPアイドルの歌唱についてのことで。K-POPアイドル業界は3、4の大手事務所が大きなシェアを占めてるんですけど、所属事務所によって歌唱方法が違うことがファンダムで度々話題になります。それで、私はあの事務所の歌唱法が好き、みたいなファンのツイートを見かけたりすることがあるわけです。こんなマニアックな事例に頼らずとも、少し苦しそうに高音を歌いあげる瞬間が感動を呼ぶ、みたいな方法論が価値感と直結しているというのはいくらでも考えられる。俳句なんてジャンルの成立が「写生」という方法論に依拠してるんだから、もっと方法と価値が結びついてるんでしょうね。方法にはK-POPアイドルの歌唱のように流派のようなものがあるのは事実としても、方法論によって誰でも歌える、価値のある俳句を生み出せるという雑な物言いも当たらずも遠からずかなと。
じゃあPerfumeはどうかというと、ビブラートとかそういう一般的な方法論を排しているのは洋渡くんが言った通りですが、かと言って多くの人が思ってるほどいかにもオートチューンかけてます!みたいな感じにもしないんですよね。歌の技術とか、オートチューンによる加工とかそういう情報を削ぐことでなるべく声色そのものにスポットを当てようとしている(声色が際立つ加工をする)のかなと。振り付けを担当しているMIKIKO先生も、息を切らして激しく踊ることで生まれる感動ではない魅力を出したい、三人がもっとも魅力的に見える振り付けを、と語っていて独自の価値を築こうとする姿勢と属人性の強さがここでも見てとれる。
別にまとめとかはないんですけど、俳句だと歌よりも方法論と作品の価値が結びついているし、声という圧倒的なオリジナリティの元がないしでやっぱり差異を生みだすのが難しいんだなと思いましたね。俳句が歌に憧れる必要はないと思いますが。

丸田:「物足りなさ」。本人たちも言っていたとは。やはり一人で考えるよりも知らない情報がどんどん補足されるから文通は助かりますね。
 歌い方を変えさせられる、って大変なことですね。想像もつかないな。ハロプロとかも、聞いただけですぐ分かる発声だったりしますね。よくテレビで「歌が上手い歌手ランキング」みたいな、微妙に腑に落ちないランキングをやったりしてますが(すぐ”歌姫”とか言い出す系の)……。たしかに、リスナーも肝心。僕が曲の声以外の部分をメインに聞いているように、人によって何を歌に求めて何を聞いているかが違うんでしょう。
 K-popはまさにそうですよね。日本でも、オーディション番組等々で世界を目指すぞ! っていうグループが軒並みK-popっぽい発声で歌ってたり。俳句の結社に入った人が結社特有の文体にどんどん近づいていくのに似てますね。どちらも、望んでそうなっている、というのが面白いところ。
 そういえば「カバー」っていう文化が歌にはありますが、僕は未だに乗れていなくて(宇多田ヒカルの「letters」を椎名林檎か歌っていたり、Spangle call Lilli line「nano」を内村友美(la la larks、元School Food Punishment)がアレンジしてたりしたのはただファンとしてアツかったですが)。本人が歌ってこそだろうと思っていて、本人の声とか感覚がセットで曲になっているわけだから、もう全くの別物になるよな……と思っています。ボーカロイド曲とかは、歌い手が歌った方が本家よりも伸びる、という現象が十年前くらいからずっと続いていますが、ボーカロイドじゃだめだったんだなとか、その歌い方が良かったんだなとか、色々考えますね。(歌い方に対する推し、とかあるのかな……。)まあ僕が今言ったみたいに、「あの人があの人の曲を歌うなんて」、っていうファンのためのサービス部分が強いのかもしれないな……。
 
 たしかに、Perfumeは「声色が際立つ加工」ですね。今までは足していると思っていたけど、それを聞いて改めて思うと引いているのかもしれないですね。足し算じゃなくて引き算だ、っていうのも、俳句の中で聞いたことがあるような。俳句は音楽からのアプローチで考えられることはまだまだありそうですね。
と既に長くなりましたがまた別の話題をいくつか。話したいことが多々ありまして。

 Perfumeでがっつり短詩と関わりがあるといえば「575」なわけですが、律儀に575を倣っていると思っていたら途中から「575で〜言葉遊びならべAh〜きみのこと〜探りたいの」で逸れまくるのが個人的に面白くて、会いたい気持ちは575なんかで収まらないよ、というのを音楽でやるとこうなるんだ、と聞く度に大ウケしています。
 そしていつも気になっている「Night Flight」の句またがり。「ちっちゃい歯車/まわして」「くるくるかみ合う/ふたりは」「もたもたすると/遅れるわ」の、タンタンタンタン/タタタタのリズムに対して、「だんだん近づく/のサンライズ」の入り方。これは完全に句またがりだなあと毎度思っています。拍がどうと言い出すと細かい上にあまり実りのない話になるので紹介だけ。
 こんな感じで、吉川くんがPerfumeに感じたことのある短詩関連のことってありますか?無茶ぶりな気がするので、もし無かったら、下のリンク先(SCHOOL OF LOCK!!で、12ヶ月のそれぞれのイメージに合う曲を三人が当てはめている記事)の感じで、Perfume曲で四季を感じるものを教えて欲しいです。

https://www.tfm.co.jp/lock/perfume/index.php?itemid=3287(これの、正月感があるとして「VOLCE」を挙げたのっち「あのさ、雅楽みたいな。そういうイメージ(笑)」が面白すぎる。)

吉川:カバーがよく分からない、同意ですね。私は音楽に対する感覚が本当に冴えてない人間で、歌が入っている曲はその人の声色と歌い方でしか覚えられないんですね。だから、違う人の声で違う歌い方で楽曲を再構築できるっていう能力はすごいなと感心はするんですけど、楽しみ方はよく分からない。
「Night Flight」の句またがり、洋渡くんが1度言ったのを聞いてからずっと聞くたびに少しウケますね。Perfumeで俳句を感じる瞬間、正直に言えばないんですけど、強いて言うならば「微かなカオリ」11 の歌詞の「夜はキミからのメールにすぐ気がつくようにケイタイ握り締めて寝る癖ついたよ」ってフレーズですね。中高生の頃は中田ヤスタカは歌詞に興味ないって言ってるのに印象に残るフレーズ書くな、と思ってたんですけど、大学生ぐらいになって「握り締めて」は流石に嘘だろって気づいて。でも「握り締める」って動詞じゃないと聞き手にはリアリティが伝わらないんだろうなとも。こういうアプローチ、俳句でもあるし自分もしてきたなとは思いますね。まぁこれはジブリ映画の食事のシーンなんかでも思う(食物の躍動感が明らかに現実的ではないけど、それ故に鮮明に印象残る)ことなので、創作における問題なんだとは思いますが。
 Perfumeの楽曲は基本的に季節感に乏しいんですけど、さっき挙げてくれた「575」なんかは575っぽい歌パートのサウンドは秋が近い夜とか、灯籠流しとかそういうイメージなんだけど、ゆるゆるのラップパートになると彩度の上がったオリエンタルなサウンドで熱帯夜感出てくるところなんかは意外と俳句っぽい季節感を意識してる気がしますね。

丸田: 俳句や短歌での類想も、カバーといえばカバーかもしれません。本当のリスペクトって、元を吸収した上で自分なりの新しい作品を打ち出すことだと思っているので、類想の域に留まっている時点で、カバーでしかないのかな……と。この話はカバー曲を良いと思っている人に悪いですね、やめておきます。
 過剰さがかえって、視聴者の心のなかでリアルさを生み出す。ありますね。創作だけに限らず、現実を仔細に表現しようと思ったら嘘が多少必要になる気がします。目と心を通して世界を見ている以上、単にそこに存在が存在しているだけでは説明できない……というか。現実、にそもそも嘘が含まれている、というか。表現の面から行くと、誇張とか、脚色とか、盛ってるっていう見方にはなるけど、実際そっちの方が本当だったりするかもなあと。感情が描写を大きくする。
 たしかに、「575」は和の感じがします。だいぶ前に、架空で即興でジブリっぽい曲を弾く動画を見かけて、すごいジブリっぽくてびっくりした(レイトン教授っぽい曲とか、ドラクエっぽい曲とかも)ことがありましたが、音で和とか俳句とかが連想されるのは面白いですね。音の表現法、未知。
 
 本当はPerfume曲について無限に語りたいくらいですが、短詩から脱線しすぎても読みづらいかと思うのでこれで最後の話題にしますかね。

最近のPerfumeの曲に似通った傾向についてです。ベストの「P Cubed」以降、「再生」、「Time Warp」12 、「ポリゴンウェイヴ」13 、「∞ループ」、「アンドロイド&」「Flow」14 と続いています。「リニアモーターガール」15 、「エレクトロ・ワールド」等電気系、「無限未来」16等時間系のイメージは昔からありましたが、ここ数作特にその印象が前に出ていると思います。人間がアンドロイド化していく……ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来』にもそういうものが出てきますが、Perfumeがイメージしているような、機械による時空間の歪みとか、人間の機械化・機械の人間化のようなことがいつか未来では起こるのかもしれません。
 いずれそうなるとして、短詩の未来はどうなっていくと思いますか? ここでは特に俳句と限定しても構いません。今でさえ季語がどんどん無くなっていることを考えると、未来は今の半分も無いかもしれません。四季だってどうなっているか危うい。歌舞伎や浄瑠璃や落語のように、伝統として継承していく形になるのか、定型だけが残った季語の無い韻文詩になるのか、電子の波に消えるのか、全く新しい形として生まれ変わるのか……。私たちがどうしたいか、という話なのかもしれません。めくるめく変化していく世界で、俳句をどうして行きたいのか……。
 僕の少し前の連作「亡羊」は、Perfume的世界をイメージして作ったものでした。〈カーテンに届きつづける風のデータ〉、〈鈴を揺らせば象はまどろみ電気が通る〉などなど。前に角川俳句賞に応募したときの〈桜の向こうをデジタルに補完している〉なんかも。
「再生」や「ポリゴンウェイヴ」を聞いた一回目のとき、僕は古いなと感じました。音も、内容も、なんとなく。近未来が既に、古い位置にあるような気がして。「Future Pop」17 も古い気がした。その、古さが新しい気もして。少し古い俳句ほど新しくて、少し未来の俳句ほど古い可能性があるなと思ったりします。

 覚書のようで煩雑ですが、お願いします。

吉川:単純に現実の完璧な模写を提示してもそれは現実と同じく読者を素通りしてしまうから、何かしらの嘘だったり別の視点だったり、照明の当て方だったりのフックがないと現実がビビッドなものとして受け止めてもらえないということなんでしょうか。ただ日記とかを書いていて思うのが、そうした現実を受け止めるための表現が現実を上書きしてしまう、本当は10の感情だったのに表現すると100になってしまうことがあって時々ひっかかってしまいます。これは日記という事実に重きが置かれた表現での話だからこそではありますが。でもそう思うと私は何か句になりそうな10程度のふり幅の所感があったとして、それを100にするというよりは10を1×10に細かく解体していく気持ちで句を書いているかも知れません。洋渡くんは脚色とか大きくするとか、そういう単語をチョイスしてくれたけど、こう書いていくうちに宝石の研磨とか木像を掘るそんなイメージの方が少なくとも私のアプローチとは近い気がしてきた。

 ちょっと話はそれますが洋渡くんが「近未来が楽しみな時代は終わった」って句を帚に載せていた連作「Clarity」で発表してましたよね。その連作上での意図とは離れてしまうと思うんだけど、自分も近未来って心の底からはワクワクできないんですよね。近未来を名乗ってるのに、私が生きている間にその時代がやってくることはほぼないだろうって感じてどこか冷めて寂しくなるから。ドラえもんだって本当の初期は21世紀からやってきたロボットだったし、最近やりはじめた「Detroit: Become Human」ってゲームは2018年発売ですが、人間そっくりのアンドロイドが普及した2038年(今からたった20年後)が舞台だし。現実は近未来に近づいている感じはしません。近未来的な世界観は大幅には更新されていないのにです(SFに詳しくないのにこんなこと言うのは憚られますが、少なくともCMとか広告の「未来」のイメージはワンパターンですよね)。だから近未来的なものが古く感じるというのはよく分かります。

「近未来」のイメージが今でも焼き増し続けられてるのを見ると外野から分かるような革新は起きなくても、俳句は細々と生き続けていくことは可能なのかもれしれないとは楽観的ですが思いますね。季語が薄れて伝統文化としての軸が弱くなっても(逆に強まることもあるのかもしれませんが)、簡単に書ける日記的な価値を失うことはないでしょうし。文学としての俳句(という表現でいいのかも分かりませんが)も現実の季感が失われても今まで積み重ねてきた季語のイメージの中で書き続けられるんじゃないでしょうか。それに対抗して季語に立脚しない俳句ムーブメントも起きるのかもしれませんが、季語以外に立脚するポイントを見つけるのが困難そうです。とは書いてみたものの、近未来と言われてるものは私が生きている間には来ないと高をくくっているので、イメージが湧かず正直かなり適当な物言いをした自覚があります。洋渡くんが挙げてくれた作品が実感を持って読者に読まれる日は後50年内にくるんでしょうか。来るとおもしろいですけど。
 昨今の情勢も相まって、未来って言葉が本当にピンときません。めくるめく変化していく世界と言ってくれたけど、私には行き止まりへの直進としか感じられないです。だから今は、この世のどうしようもなさが俳句にどのような影響を与えるのかが時代と俳句の関係との中では興味があることかもしれません。
 洋渡くんがイメージしてる未来のビジョンについて詳しく聞いてみたいです。

丸田: 10、100、1×10の話は興味深いです。日記は良くも悪くも膨らんじゃいますからね。1×10、木像掘りは的確に吉川くんの作り方を表せている気がします。目の変な細かさと大胆な把握(〈木倒すに遣ふ時間を秋のこゑ〉、〈なんらかの塔欲しき冬涸れの景〉とか)はそういうところから来てるのかも。

 発表しましたね。もう懐かしい句です。ロシア-ウクライナの件を想っても、未来はちょっと怖いですね。コロナと戦争でもうすっかり未来ごと疲弊してしまった感。
 バック・トゥ・ザ・フューチャー2もたしか未来が2015年の設定で話題になっていました。近未来というのは理想まで含めた言葉で、常にひとつ先にあるもので、捕まえられないものなのかもしれませんね。こうなって欲しい、の連続で、本当にそうなったかの検証は置いていかれる。
 世界が案外このまま行くなら、俳句も案外このまま行くのかもしれないですね。
 僕が未来で起こるだろうと思っているのは、スピードが速くなること、です。生活における全てのスピードが。インターネット普及以前の世界に比べて情報の伝達がとんでもなく速くなったように、スピードが上がることは間違いないだろうと。移動速度もそう。リニアモーターカーはまだまだ先の未来だし、空飛ぶ車も実用化がどれほどかかるか知りませんが、ただ移動するだけの時間、は短縮されていくだろうと思います。
 もう既に、今YouTubeとか動画を見ていても、時間を浪費したくなくて再生速度を上げて見ちゃったりします。(意味もなく動画を見ているのに……。動画を見ないことが一番の浪費対策なのに。)別に無駄な時間が嫌だという訳では無いけど、機能の拡充や情報・世界のスピードアップで相対的に「ふつうの会話」が遅く感じるんですよね。ふつうの会話って、無駄な部分が多いので。(本当はそこがいいわけなんですが。)端折れるところは端折ろうみたいな。
 そこで、逆に、俳句の価値が生まれることはあるだろう、と予測しています。日記的価値、と吉川くんが言っているとおり、日記、って素晴らしくスローな行為だと思うんです。ここまで発展性のない、バックステップみたいな行為もなかなかないです。あったことを思い出して、映像を自分の言葉に翻訳して、書いて残しておく。未来では、体が自動的にその日起きたことを録画・録音してクラウドにバックアップを取ってくれる、ふうになるかもしれません。あったことを自分の手によって保存するって、やっぱりスロー。
 SNSの普及によって手紙や葉書が廃れていく一方ですが、逆に手間をかけて文字にすることに味が出てきて、敢えて選ぶ人がいる。俳句もそんな感じになるんだろうなと思います。既にそういう面が強いですけど。わざわざ俳句にする、って結構な労力と時間を要しますからね。速い世界では真っ先に削がれる活動でしょう。

 みんなが速くなって、逆に遅いものが大事がられる。一度速くなることを良しとした世界は、加速する一方で、遅くするっていう選択はきっとできません。核爆弾を持ってしまったらそれ前提の戦略を考えるしかないように。石と棍棒で戦う、みたいなことは想定する意味もないとされてしまう。(戦争なんて、加速の最たる例だと思います。)

 ぐだぐだ書いちゃいました。50年後に僕の俳句が「未来を予見していた」とか言われたら面白いですね。既に諦めきって書いているので……。たしか小学生のときに、君たちが大人になるころには、日本から半分の仕事が機械に取って代わられている、って講習を受けた気がするんですけど、全くですね。これからどうなっていくのか。
 Perfumeから出発して電子的な未来のことを考えていましたが、文通をしている間に進行しているロシアのウクライナ侵攻を思うと、未来は本当に分からないですね。渡辺白泉の俳句を最近神妙な気持ちで読み返しました。
 未来的で、だからこそ古く、遅い感じがする俳句をとりあえず作ろうかな〜と個人的に思いました。速すぎて遅い、とか。とりとめないですが。俳句を残したい、と積極的に思う訳では無いけれど、残ることで光るものがあるとすれば、僕はPerfume的な作りで助けようかなと思います。もしかしたら思ってもないことを言っているかもしれませんが。

吉川:スピードが速くなる、分かります。少しズレますが、私は通勤で電車に30分ぐらい乗るんですけど、皆スマホ見てるし、自分もスマホ持ってるしで何かしなきゃいけない気がしてくる。スピードアップっていうのは効率化とほぼ同じで、だけど効率化された結果ゆとりが生まれるってこともない。テクノロジーで効率化を突き詰める社会ならば、余暇の時間も含めて全てが効率化されスピードアップしていくんだと思います。Youtubeの動画を倍速で再生してしまうように。確かにそんな生活の中では社会のスピード感から意図的に離れる行為として俳句を書くという行為は機能するかもしれません。今の私にとってもそうな気がします。まあでも就職した程度で社会のスピード感に私は飲まれてることを考えると、未来のスピード感に俳句で対抗できる自信は私にはないですが。

未来的だけど、遅い。なんかいい表現ですね。未来への想像を抱き続けながらでも確かに今という時間を生き、今の時間感覚でいること。ちょうど新曲の「Flow」のよう。『過ぎる時代が 変わる時代が あの日の未来が 夢のように 覚めないままで 彷徨うままで そうさ 僕らは流れ雲になる』そう考えると近未来というのも悪くない気がしてきました。その未来を目撃できない寂しさがあっても、その未来を思い描いた過去や今の人の熱と時代の模様は確かにその作品に写り込んでいるわけですから。

私は自分が自分をおもしろがるために俳句を書いているわけですが、未来に私の俳句が残る可能性をこの文通を通して想像すると少しワクワクしてきました。私は本当に現在しか考えられない人間なので、洋渡くんとは全然違うけれど未来に残った時古くて遅くておもしろい俳句と思われる作品を書けたらいいなと。

これでこの文通は終わりにします。先行きの怪しいこの文通を最後まで見てくださった方、本当にありがとうございました。

Not me. Not you.  吉川創揮

Not me. Not you.  吉川創揮

 『ドライブ・マイ・カー』監督:濱口竜介を見て 十句 

  弔いは続く残雪山模様

  再生のざらつき如月磁気テープ

  北開くずれて包帯のゆらめき

  薄氷やこの声はそう私宛て

  秒針を脈拍の追う月日貝

  首筋に触れる言葉や針供養

  輪唱は引き続き波は三月へ

  抱き合えばその輪郭の春夕焼

  落し角手話のあなたは即わたし

  春風が煙をそうする発話する

人だかり 平野皓大

人だかり 平野皓大

春は地図赤ピン立つてそこは海

銀杏にかかりてたわむ凧の糸

ぶらんこを押す父親のよそ見かな

夏蜜柑手押しポンプも街も残る

のどかさに人だかりあり馬賭博

大試験迫るかかとをそろへ立つ

春の夢唇に塗らるるもの苦し

遍路よりさらに大きな回りもの

鋸のあとおにぎりや花の雲

裏をかへして一枚の卒業証書

Inside out  丸田洋渡

 Inside out  丸田洋渡

蚊と蝿と居合わせている胡椒瓶

聖と鈍行 雨でステンドグラスが窓

戦争間近ミルククラウンの反転

雪あやうく恋の不思議が死に到る

十二階から光らせている裏表

夕焚火黒目と白目使いつつ

発熱の炬燵の上にあるお粥

花札を知らず知らずの猪鹿蝶

火と祝福 考えていることは同じ

四季八季口開く抜け殻が蛇

間拔獺讚  柳元佑太

間拔獺讚   柳元佑太

四方八方【あちこち】に魚祀りけり獺【をそ】の村

絕滅の獺の祭を見に來しが

微よ風に假眠る獺や祭笛

間拔獺祀りし魚を忘れけり

獺も又た酒神もてる祭の日

夕暮の獺の祭の小盃

祭獺愛し合ふとき靜電氣

天體や氣海を充たす獺祭

巨き獺來て人間を祀らむや

獺の喪を修す獺祭てふ酒に

文通:川柳について(平野・丸田)

 テーマ:川柳について

(1/9〜2/5、メールにて文通)

平野:今回は洋渡くんに川柳の話を聞こうと思っていて、僕は初心者なわけですね。書肆侃侃房から出版されている『はじめまして現代川柳』を読みかじったくらいですが、はっきり言うとあまり面白いとは思わなかった。それは読み手に伝えようとするものが、川柳はどうも曖昧な気がしたからです。読んでいても欠点ばかりが目について、川柳の言葉の良い点を自分のセンサーでは拾えなかった。なのでどう読んでいけば良いか、その手掛かりになる話が出来ればと思っています。(こちらから例句をあげてここが悪いという話をした方が丁寧だけど、こちらが句をあげて悪いところだけ言うのはフェアじゃないので、まずは洋渡くんの好きな句を聞きたいです)

丸田:僕も川柳については本当に初心者で、好きなように読んだり作ったりしているだけなので大したことは言えないですが……。好きな句は帚でも鑑賞したんですが〈藤という燃え方が残されている/矢上桐子〉。藤を「燃え方」の一つに捉えて、「残されている」とした、この二段階の操作がかっこいい。詩みたいな言葉の使い方だなと思います。残されているからどうなんだ、っていう後々の話が見えない感じが「藤」とマッチしてて、徹底されていて良いなと思う。一方で、〈花火 これ以上の嘘はありません/福田文音〉こういう句も好きで。「花火」っていう使い回された詩語を否定してはいるけど、結局この句は「花火」の恩恵を受けちゃっていて。俳句を踏みながら、でもフォローしてるみたいな変な句で好きですね。

 詩みたいな、言葉自体の自由度の高さ&季語からの自由さ、に良いなと思っています。結構、俳句と比べて、面白がっている節がありますね。同じく俳句をやってて面白がれなかった、平野くんのその「読み手に伝えたいものが曖昧」と感じた辺りを詳しく聞きたいです。(曖昧、欠点については僕も話したいとこですが取り敢えず)

平野:もしかしたら「読み手に伝えたいものが曖昧」という語を使ったこと自体、川柳を読めていないのかもしれない。自分が俳句を読んでいるときはあくまで「読み手に伝わった」ものであって、作者が何を伝えたいかをあまり考えない。でも「読み手に伝えたいものが曖昧」と言ったのにもそれなりの理由があって、川柳だと明らかに俳句よりも主体の色が濃いというか、主体の色を打ち出そうとする感じがある。

 そのとき例えば〈花火〉の句が問題で、明らかに主体はいるのに、その主体が何に対して〈これ以上の嘘はありません〉と言っているのかが曖昧に思ってしまう。花火の後ろに一字開けがあると、実景ベースでその花火の匂いや音、色、空気感を思い浮かべるわけだけど、嘘の一語がどこにかかっているんだろうと思う。そもそも〈これ以上の嘘はありません〉って言われたときに「本当か?」って首根っこを掴みたくなる。つまり、この語を言うまでにそれなりの処理が必要だと思うわけで、物語とかの伏線があってこの語が使われるなら〈これ以上の嘘はありません〉は心理のニュアンスを伝える言葉になるけど、もちろんそんな背景はない。主体の色が濃い、だから言っていることに耳を傾けてみたものの、結局は何言ってるのか曖昧。分かっても「ふうん」で終わってしまう句が多い気がする。この読み方がいけないんだろうな。洋渡くんはどうして〈花火〉の句を詩語の否定と読んだのだろう?

丸田:主体の色が濃いというのは僕も思います。もちろんそうでない川柳もあるけど。思うに、俳句は、言いたいことと、季語とが二つとも消失点になった二点透視図法みたいだと個人的に思ってて、その間の宙吊りになった部分を読んでるなと。それで、短歌は、季語が完全に外れることで消失点がはっきりして、その景色を眼差す主体、の存在を信じやすくなるんだと思う。一方で川柳は二つの中間で、ものすごく不安定だと思う。型は(七七もあれど)俳句と同じだけど季語が無いから描き方が定まらない(自由)し、かと言って短歌ほど主体が見える訳でもない(俳句と同じくらいの分量しか言えてないから、当然に)。かつ、読み手の部分でも、短歌だと半分自動的に主体を仮に置いて読むけど、川柳はそこも微妙。ジョークみたいな句が、主体が言っているようだけど作者本人が言っていると考えた方が面白いんだろうな、のパターンがかなり多い。その辺川柳専門の人はどう捉えてるのか僕は知りきらない所。

 花火の句に関して。ふだん僕が短歌を読んでるからか、自然とこの一字空けは、ほぼ繋がっているタイプの一字空けだなと思ってました。読点くらいの。強く切れてはない(もしこれが切れていた場合は、本当に何も読めなくなるから分からない……)。特に根拠はないけど、「これ」は直前の「花火」を差していると考えた方が面白くなるだろうと思った。(花火これ以上の、と記したら詰まるから字あけしたいなと思うし、花火以上のとするより「これ」を挟んだ方が”いかにも考えてる風”な主体が見えていいかなあ……)
 いや、僕も、これに関しては、「これ以上の嘘はありません」が嘘すぎるだろ、と思った。シンプル嘘と同じくらいチープ。となると、この嘘は計算されている可能性があるな、と思った。これは僕個人の期待だけど、「これ以上の嘘はない」とかいう嘘が面白ポイントなのかなと。自分にも言葉が跳ね返ってきているが、あくまで主体はそれに気づいてない様子で、結局嘘みたいな花火を下げようと思ったら嘘みたいな表現で持ち上げてしまった、っていう句なのかな〜と。だから正確に言えば、主体は詩語を否定してるものの、句としてはむしろ肯定してしまっているっていう、このズレを見せている句、だと感じた。

 と書いてて気づいたのは、僕は川柳を「おもしろがれるかどうか」で判断しているみたいです。〈花火〉の句も、主体=作者で、ただただチープに、花火が嫌いイキりをしたかっただけ、とも読めるし、普通はそうなるのかも。平野 くんが、曖昧だったり情報や前提が足りないと思ったところを、僕は、そこをこっちで補えば面白そうだぞ、と思って拾ってる感じかな。こっちで補う必要も無く完結してるやつとか、面白いだろ!って声が聞こえてくるジョーク句みたいなのは単に好みじゃない。

(半分意図的に作られた)不足とか曖昧さを僕は川柳に好んで求めていて、それは俳句ではなかなか得られない感覚だと思いつつ楽しんでる、って感じですね。

平野:俳句と短歌の中間にあることの不安定さが川柳の言葉をほかにないものにしていることは確かだと思う。ただ、その立ち位置の不安定さが言葉の洗練さを欠くこと(不足・曖昧さ)にも繋がっている気がして、一つの作品としてこれで良いのかなという感想も同時に抱いてしまう。このこれで良いのかな、が川柳の癖のあるところで洋渡くんは楽しんでいて、僕はつまらなさだと思っているのかもしれない。
 洋渡くんが「おもしろがれるかどうか」と言ったように、一句に不足や曖昧さがあると解釈を加えるわけで、不足を補うときにこの作者はほかにどんな句を詠んでいて、どういう態度を持っている人なのかということがやはり大きいと思う。ここも引っかかってしまうポイント。川柳だと作者(これは作家性みたいな意味での作者)が作品に介入することでようやくひとつの作品として成り立っている気がする。そういうものだとして作者を引き寄せながら読みを進めると、次は川柳特有の「面白いだろって声が聞こえてくるジョーク句」が混じっていて、やっぱり主体=作者で読むべきなんだよね。ってなってしまう。そこのオンオフの切り替えの難しさが初心の読者としては引っかかる。

 それで、ここから先は個人的な問題になるけれど、川柳は表現のこなれてなさのために体内で句を保持することが難しい。俳句は分からなくても練度の高さがあることで、塊として体内でもっておきながら取り出して眺めてみたり、そうしているうちにふと分かったりするということがある。でも、川柳はこなれてなさが気持ち悪くて体内から排除したくなってしまう。……ここらへんの気持ち悪さみたいなのは洋渡くんはどうですか?(たとえが多くなって分かりづらかったら申しわけないです)

丸田:個人的な観測だと、平野くんは緊密と抜け感のグラデを楽しみながら俳句を作っているなと思っていたので、不足とか曖昧はその軸からは微妙に外れるってことなのかもしれないですね。
 作家性ありき、というのは同じくです。一句だけでキリッと屹立するタイプの川柳はそこまで多くない気がします。結局作者の顔が度々見えてくるっていうのは俳句に慣れてるとちょっとノイズになるのかもしれないですね。、あとジョーク句に関して今思ったのは、居酒屋の隣の部屋で聞こえてくる面白い発言、その声、みたいな。そのセリフ単体で”もつ”ようなしっかりものではなく、他人がそれを同じように言っても面白くなるわけでもなく。でも別に、隣の部屋を覗いて発言者の顔を見たとして、更に面白くなるわけではない。声とその声調だけが残ってるみたいな。ジョークとそれを言っている人の関係って、考えると微妙に奇妙なのかも。

「こなれてなさ」の含意を充分に把握しきれてないですが、保持しがたい、っていうのは面白い観点だなと思います。平野くんは基本保持していたい、って感じなんですかね?
 最初の応答のときに言いかけた曖昧さの欠点の話をここでします。川柳は曖昧さが鍵だと僕は思っているわけですが、曖昧がいい、という良い面もありつつ、曖昧でいい、という作り手への甘やかしの面もある気がしています。個人的に俳句って、作ってて、「俳句」の側からちゃんと書きなさいよという命令が来る気がしていて、それは定型由来なのか季語由来なのか分からないですが、ゆるくするにしても緊張しながら書いていたりします。でも川柳は、作り手に対してそういう覇気的な、鞭的なものは与えないなと思います。曖昧でも、極端に言えば適当に雑にランダムに言葉を配置して作っても、「川柳」がそれを許してくれている、みたいな。川柳だといえばすぐに川柳になってしまうし、川柳の側もなかなか否定できなさそう。
 だから、まず、分からない川柳を、分かる必要がそもそもない場合があるなと思います。これは僕は今のところ勘と、その人の作風を照らし合わせることでしか分かってないけど、分からなくても別にいいくらいの、雑なものもある。(別に川柳に限った話ではないけど。)ただ曖昧であるだけで、曖昧さに価値が置かれていないもの。僕もこういう句については、体に留めておくのは苦手で、排除したくなります。(誰でも気軽に作れるというのは良さなんですけどね。俳句も短歌も同じく。)
 敢えて読者に分からなさ、を与えて混乱させる狙いの川柳も多々ありますが、たぶんこなれてないというのは表現の話だと思うのでそれは置いておきます。

 で、肝心な、上記以外の句で、分かれば面白いのかもしれないけど川柳がそもそも「こなれてな」くて自分の中で収まりがつかないということに関して。……考えていたんですが頭のなかで収拾がつかなくてなかなか何を答えるべきか分からなくなったので、ヒントを貰う気持ちで一旦返信を。
 ちょっと気になったのは、俳句は練度が高いという部分で、詳しく聞いてみたい。やっぱりそう思いますか。あと、口語(であることに特化したような)俳句に散見される、要素が少なくて面白めな川柳似の句については、どんな感情を持っているのかなと思います。川柳に対する感情と違いがあるのか気になります。聞きながらまた考えます……。

平野:まず、俳句は練度が高いと言ったところから返答します。この発言は洋渡くんが言ってくれた「俳句の側からちゃんと書きなさいよという命令が来る」に近いものとして言っていて、その命令にどんな形でも答えようとした結果、練度はおのずと高まっていくことになると思っている。また僕自身がそうした練度の高い句と出会うことを求めていて単純に好きなんだとも思う。だから本来は、僕は練度の高い俳句が好きですと言うべきであって、俳句=練度が高いと言ったのは誤りです。命令に答えようとしない俳句も好き嫌いは別にして俳句ではあります。

 次に口語(であることに特化したような)俳句については、いわゆる文語俳句を軸にして、軸との距離感を楽しもうとするんですけど、句単体を距離感とか抜きにして読むとやはり引っかかてしまう。例えば(この例が正しいかは分からないけど)柳元・吉川が話している〈炒り卵ぜんぶ残して湖へ〉だと「ぜんぶ」と言ってしまえることへの不信感がどうしてもぬぐえない。そのぜんぶが爽快感を与えるものとして都合良く機能していない? 本当にそれで大丈夫なの? と思う。この句は巧くはあって面白がれるんだけど、ほかの句になると多少の「こなれてなさ」を感じる。もしかするとそれは「ちゃんと書きなさいという命令」への応答の仕方として、無視を決めた句なのかも……洋渡くんが是とする川柳の「曖昧でいいという作り手への甘やかし」に対して過度に目くじらを立てている気がするな。
 口語ではないけど今井杏太郎みたいな、要素が少なかったり、面白い抜け感のある句は憧れで……最近の理想は合気道みたいな句です。力業で攻めてくるもの(ちゃんと書きなさいという要請)に対してそれとわからないテクニックで軽くかわす、ひょうひょうとした強みがある句は好きです。そこと川柳の違いや口語についてもっとちゃんと考えるべきで、いま思ったのは命令への応答の仕方です。あと保持という点については他者の異物として俳句を読んで、分からないものは保持しておくことでいつか分かると一回り大きくなれると思う。その点で川柳は異物も異物なので保持したいんだけど、ゲテモノ料理(この例えはよくないが)として除けてしまう。そこにかける調味料が欲しくてこのやり取りをしているわけだけどすこしづつなにが偏癖だったか分かってきた気がする。

丸田:命令に対して応答して仕上げていくことを思えば、ふつうの授業と自習、みたいな感じがしますね。(別に俳句が真面目で川柳が緩いという訳では無いので、何でも比喩で捉えるのは良くない癖ですね、申し訳ない。)
 「ぜんぶ」のくだりは同意です。「無視を決めた句」というのは、まさにそうですね。その中にも、葛藤を経て強固な意思で無視するに至ったものもあれば、無思考にただ命令には反したいというタイプのものもあればという感じなんでしょう……。そもそも川柳が、命令≒俳句に対して無視を決めた、的な見立ても、強引だけど出来なくもないのかも。曖昧さや命令への応答をどれだけ引き受けようとするかが、川柳は特に個々人に委ねられているところが、川柳は大きいのかもしれない。

「ひょうひょうと」は僕が平野くんの句に持っているイメージに近い感覚だったりします。飄々、って、意味からしてもそうだけど、その「攻めてくるもの」が存在しないと、生まれない雰囲気ですね。世の全員が飄々としていた場合、飄々と、とは言えなくなる。鍛えた力で打ちのめすのが正攻法だ、的な前提があってこその飄々さ。僕も川柳史を浅く浚った程度で適当言ってますが、川柳は全員が飄々としている、というのがもしかしたら(昔から)あるのかもしれない。

 前回答えそびれたものも含め、全体を通して文通の取り敢えずのゴールとしては、普段俳句に親しんでいる平野くんから見て、曖昧さや初めから命令を無視している印象のある川柳を、自身の成長のためにも一応理解出来るくらいまで持っていくために意見が欲しい、ということで。
 曖昧さについては、ただ曖昧なだけなものは除外するとして、敢えて曖昧にされているものはそこを味わう。俳句でも短歌でもない不安定さからくる、川柳であるがゆえに生まれる(生まれてしまう)曖昧さは、面白がることが出来たらより楽しめるかもしれない。これについては口語俳句や短歌との比較が有効な可能性がある。
 俳句よりもその傾向が強い、ジョーク的な可笑しい句(作者=主体の場合も多い)については、慣れれば読みやすくなるのかもしれない。俳諧とか俳句にも面白メインのものは多くあるから、季語の有無での差は色んなところに色んな形で出ていそう。主体とか作者が強く見えてしまうことの、言わば灰汁が、季語という目立つ具材で感じ無くなっている、とか。主体像含め今後も考えていく必要があるかも。
 詩型からの命令への態度については、全員がそもそも飄々としている可能性、最初から「川柳」が創作者に何も命令をしていない可能性があること、をとりあえず提示。平野くんの好みではないかもしれないけど、こう思うと保持しやすくなるのでは。僕が川柳に難なく入れたのは、僕自身が口語俳句を作っているので位置的に近かったことと、俳句から来る命令に背きたい、撃ち返したい感覚が長らくあって、その態度が川柳と相性が良かったこと、が大きかったんだろうと分析。
 というところで、答えられたかどうか分からないですがどうでしょうか……

平野:やり取りを重ねていくうちに分かってきたのは、川柳の本質的なところにある曖昧さと、良い悪いの価値判断としての曖昧さ、この二つをどこかない混ぜにして考えていたことです。川柳の本質的な曖昧さ(命令≒俳句への無視をしている川柳)を愛しつつ、それとは別に価値判断として、曖昧かどうかかを判別していかなくてはならない。とりあえず川柳の本質としての曖昧さを楽しみながら量を読んで行くことがスタートですね。それなしで色々意見してるのだから川柳を主戦場にしている人から見れば大変失礼なことを言っている。批判はコメント欄によろしくお願いします。

 また俳句との違い。つまり命令に答えるか否か、そのどちらの立場を取ったとしてもその中でさらに人それぞれの態度がある。という目線はやり取りがなければ自分の中に生まれて来なかったと思います。川柳が分からないから洋渡くんに聞いてみようという動機だけで、分析も不十分なままはじめたやり取りをここまで続けてくれてありがとう……自分勝手な話につき合わせてしまったようで申しわけないです。

 最後におかしい句について。これは求められている「おかしさ」が違うと思う。俳句は和歌の主情的なものの見方に対して、何かを相対化すること、その際に生まれる「おかしさ」であり、その相対化する手つきはさりげない方が良い。もっと言えば対象があって事後的に主体は現れるもので、主体はいない方が好ましいかもしれない(写生的な価値観の中においては?)で、その対象化をしているときの手つきに雑味が残ってしまうと句が簡単に俗っぽくなる。季語は物の相対化、もしくは言葉とのうまい距離の取り方に多くの利点があるはずです。でも川柳はその手つきの俗っぽさも肯定しているのかもしれない。俳句・川柳ともに対象を相対化しながら、川柳はより手つきを見せようとするところがありませんか?

丸田:便宜的に川柳を知っている側として会話しましたが僕も好きな部分だけ面白がって、好きなように作っていただけだったのでいざ「川柳とは」となるとここまで難しいんだなと……。俳句と混ざりあったままのざっくりした理解で進んでいたのでここで一回僕も考えられて良かったです。今回は一応川柳についてという事でしたが前段階を固めた位で、また経験値を積んでから、いつか川柳について②を話せたらいいかなと思います。

 俳句の相対化と手つきと主体、明瞭でありがたい。本当にそうですね。川柳は手つきが前景化していったジャンルだと思います。手つきを見せるマジックをしてるとしたら、主体をも、そのマジックのひとつの道具として見ている節が。だから(だから?)、物より人の方が相性がいいのかもしれない。物がどう存在しているとかよりも、それについて人がどう思っているかの方がよほど操作可能でこねくり回す余地がある。言わずに言う、に対して、わざと言いまくる、的な。俳句ではなかなか無いような、明らかに大嘘をついているタイプの句が川柳によく見られるのも、おそらくそういうことなんでしょう。雑味というかスパイスというか変わり種というか隠し味というか。俳句と川柳の味の違いがより鮮明に飲み込めた気がします。

平野:わざと言いまくる。言いまくってはいるけれど、像を結ばせるわけでもなく曖昧なまま。面白いですね。うん、ぜひ②やりましょう、そのときは川柳をやっている方や例句をもっと交えて具体的な話をしたいですね。
 長くなりましたが、どうもありがとうございました!

文通:佐藤智子『ぜんぶ残して湖へ』感想(柳元・吉川)

柳元:佐藤智子さんの『ぜんぶ残して湖へ』(左右社・2021.11)を読んでいきます。吉川と二人でこういう形で句集を読むのは久しぶりですね。よろしくお願いします。
さて、巻末の佐藤智子さんのプロフィールを見ると1980年生まれ、2014年作句開始とのことです。栞によると、佐藤文香さんが講師をつとめていたワークショップがきっかけなのですね。そして3年後の2017年『天の川銀河発電所』(佐藤文香編、左右社・2017)に入集となっています。ややジャーナリスティックな物言いで恐縮ですが、『天の川銀河発電所』の編纂者でもあった佐藤文香さんの隠し玉的なかたちで登場した作家という整理は出来そうです。個人的には池田澄子ー佐藤文香ー佐藤智子というかたちで受け継がれているところの共通性、それから差異に興味があるわけですが、焦らずしっかり句集の話をしたいところです。
まずはお互いに気になった句について話しましょうか。

吉川:よろしくお願いします。まず好きな句を3句ほど挙げてみます。

いはむやをや塾の階段では涼む

いはむやをやって大仰に切り出した割には大したことは言わないっていうユーモアが好きですね。なんか切れ字みたいに機能してるのもおもしろい。塾と古語の相性もよいですし、学生の気だるげな感じが見えてくる。

明日降る初雪台所でしゃがむ

初雪の予報を聞くとたしかに前日から心がそわそわする。そのそわそわが、特別な動作ではなく台所でしゃがむという日常の行為に込められるのが自然で生の感触がありますし、どこか敬虔な気持ちさえ感じられる奥行きがあるのが好きですね。

食パンの耳ハムの耳春の旅

カタカナと漢字の配置で目のリズムもよいし、耳から耳へ、そしてハムから春への音とイメージの繋がりも楽しい。食パンとハムが並ぶとサンドイッチを想像してしまうのですが、耳つきの手作り感のあるサンドイッチは思いつきの気楽な一人旅を感じさせます。
口語の言いかけ感を切れ字のように使ったりと口語のリズムの作り方が楽しい句が多い印象でした。柳元はいかがでしょう。

柳元:ぼくもその3句好きですね。というか、私は句集収録の句はわりにどの句も面白がれたたちなので、格別この句が好きだということでなしに、今のコンデションの自分にフィットする句、というくらいで選びますね。そういう風にアルバムを聴くときありますよね。
まずは表題句の

炒り卵ぜんぶ残して湖へ

句集タイトル『ぜんぶ残して湖へ』は、いわばこの句の中七下五だけ取ったかたちなわけですが、集名だけ見ると煩わしい人間関係とか、仕事とか、そういうもの全てをいったん放置して、湖へ向かった印象を受けました。ただ句に即すると〈炒り卵ぜんぶ〉を残して湖へ行った可能性の方が、わりとリーダブルな読みとして立ち上がるわけです。句からとられた集名でありながら、集名は句とは別の意味として立ち上がるという、こういう集名の付け方は、楽しいなと。思えば佐藤文香さんの『菊は雪』と同じ集名の付け方ですね。

茄子漬がすこしふしぎで輝きぬ

これは写生という文体が、視点としての主体を構築するのだということを如実にあらわすなと。智子さんの句はどの句もその傾向がありますが、世界に対しての居心地の悪さ、ズレ、不思議さを抱えた主体が仮構されるつくりになっています。つまり、不思議な世界を描いているということではなくて、世界に対して不可思議さを感じる〈私〉に諸々が結果的に収斂してゆくというか。最近の小説家だと村田沙耶香さん的な感じをパッと思います。……という評に対して、〈たちくらみ不思議がりたいだけでしょう〉という句が自己言及的に周到に用意されているようにも思えました。

スニーカー適当に萩だと思う

とかも良いですね。凝視とか、観察とか、そういう極めて俳句的な視覚制度を遠く離れている感じがします。かといって、前衛のようにオルタナティブな〈言葉〉それ自体世界を志向するわけではなくて、視覚とか、思考とかの糸を緩めることでたまたま見えてくるものをその都度面白がる感じというか。
吉川は口語のリズムや機能に着目してくれましたが、ぼくは総じて、世界に対して不思議な認知をする主体、という自己演出の巧みさみたいなものを面白がったように思います。ぼくはだいぶそういうの気になるほうで、口語俳句とされるものの自己演出感はかなり苦手なんですけど、今回は全然鼻につきませんでした。むしろピュアさすら感じるというか。

吉川:挙げてくれた句の中では〈炒り卵〉の句なんかは表題句なんだけれど、表題句然とした風格をだすのではなく、「炒り卵」で少し外すその感じが良い意味で気になっていました。(句→タイトルの順なんでしょうが)
私としては口語のリズムとかよりも主体の方の話をしていきたいですね。
句集の主体に関して私が感じたことは柳元と多分同じで。句に含まれる動詞の選択から主体の存在が明らかな句は多いんですけど、そこで現れる主体はキャラを被ってる印象はないんですよね。口語と自己演出が結びつきやすい印象はあるけど、そうではない。むしろ、自分が挙げた〈いはむやをや〉の句や、〈あなミントゼリーに毒を盛られたし〉の句は古語を自己演出として意図的に使っていて。口語の方が自然体に見えるんですよね。
口語俳句の力みがない感じから、この方は文語→口語じゃなくて口語から俳句を出発した方なんだろうなあと勝手に思いました。

柳元:あ、そのキャラをかぶってないというのは面白い視点かもしれません。「キャラ(再起的同一性)」っていうのは、あくまでも再起的な同一性なのであって、他者とのコミュニケートするなかで、相互確認的に安定させるしかないものしろものと言われますよね。だからキャラを安定させるためには、他者との場に繰り返し身を投じつつけるほかないわけなんですが、智子さんの句集に出てくる主体は、どうもそういう、他者とのコミュニケーションによって、キャラを再起的に安定させなきゃ!みたいな営みを全然志向してないというか、自己同一性への欲求みたいなのが、すっぽり抜け落ちてる感じがします。そういう意味では、現代人がSNSで四苦八苦しているみたいなありようは超越している感じがするんですよね。わたしはわたしですし、というような感覚が、他者の回路を用いないでも、アプリオリにある感じがするというか。だから、キャラをかぶるかんじが無いのかもしれない。ただ、ネガティブな意味合いで言われる「他者不在」というのともまた違う気がしていて。このへんどう思いますか?

吉川:「キャラ(再帰的同一性)」についてはうすいまた聞きをしただけなので、100%同意とは言えないけれど言わんとすることはすごい分かる。この感じは佐藤文香さんが句集の栞に書いていた「お一人様でことたりる感」と通じるものな気がします。
自己同一性の確認を人間の他者に求めない場合、「暮らし」が一つの手段として考えられると思うんですね。実際「暮らし」がモチーフになっている句は多くあって、〈冬を愛すビオフェルミンのざらざら〉〈オリーブのすっぱいパスタ明日にする〉とか。「暮らし」をテーマに据えると「他者不在」に陥りやすい(私の直感ですが)。それは、生活圏内のものは「私が主体的に営む暮らし」という基準のもと、「私」に全て取り込まれ従属してしまうからだと思うんです。
この句集が「暮らし」をベースにしながらも「他者不在」な雰囲気を持っていないのは、もちろん俳句という詩形が「季語」という他者を要請するからっていうのはあって。でもそれだけじゃなくて、「私」と「句のモチーフ」の距離が他者の距離感を保っている句が多くあるのも理由なのかなと。<秋は今三十デニールくらい 川>なんかで考えると、秋を三十デニールと捉えるのは誇張して言うと「私」の思考の枠組みに「秋」を取り込むことなんだけど、「川」が挿入されることで簡単には終わらない。句に「私」という主体はいても句全体に「私」の気配が充満している句はそう多くはないというか。
かなり直感で喋りましたが、この句集の「私」の「他者」への態度というか距離感というか、それが柳元にはどう見えてますか。

柳元:なるほどなるほど。「暮らし」について補足ですが、「暮らし」という視座で俳諧、連歌や和歌などから振り返ると、基本的には古来から脈脈と「暮らし」が文芸のベースにはなってますよね。でも昔は中間共同体があったから、「暮らし」を送ろうと思ったら否応が無しに他者と交わらざるを得ないわけで、「暮らし」をしてても他者不在にはなり得ない。
でも、都市化が進んで、伝統的家業が没落して、核家族が増えて、中間共同体が没落して、となったときに現代の「暮らし」は、やっぱり吉川が言うようなものになってしまいますよね。現代の都市生活者って他者と交わらなくても、全然生きて行けるわけで。COVID-19でより実感しました。もちろんこういう現代的な暮らしは、配達員の方とか、エッセンシャルワーカーの方に支えられているわけですけど、とはいえそういう方たちも、〈顔〉のある他者というよりは、非個性的なシステムそのものと対峙してるように思えるような設計になっている。携帯の画面をタップするだけで配達員が来る時間を選べて、ドア越しに置いていってもらえるわけですから。
そう思うと、智子さんの句には、そういうシステムが人間を阻害している感じが、どことなく漂っている。〈コンビニの食べていい席柳の芽〉とか。仄かに生権力が匂う。智子さんの立てる主体が奇妙なんだ、不思議ちゃんなんだ、みたいなことでは実は全然なくて、むしろ現代「暮らし」の形式そのものが奇妙なことになってるんじゃないか、智子さんが立てる主体がむしろ正常であるゆえに、世界との出会い方が不思議にならざるを得ないというか。不思議がらないと終わりなので、不思議がって記憶することが抵抗体になってる。句集末尾を飾る

忘れない冬の眼科の造形を

とか、感動的ですよ。
他者の話に戻せば、〈他者不在〉になってるんじゃなくて、〈他者不在であること〉の奇妙さを描いてるんですかね。後者には批評性がある。だからいざ他者が登場しても、

おじいさんとわたしで食べるちいさな無

みたいなことになる。現代の「暮らし」に身を浸す主体によってそれを照射する。
まあ、現代が置かれている状況についての俗流批評にかなり引きつけてしまったけど、そういう風に同時代的な問題意識を、真摯に重ね合わせて読める句集がある、ということが、俳句においてはもはや感動的です。

吉川:現代日本の主体を描いてる句集だなという認識はなんとなくありましたけど、じゃあその現代日本の主体ってどういうものなのかを考えると確かに柳元の言う切り口はこの句集の読み解き方の1つとして考えられますね。ただその切り口一つでは捉えられない句も多いところがこの句集のおもしろさだとも思う。<昨日は雪雪の日に差した傘><バスマットとりこみクリスマスはじめる>とか。色んな句があるし、句集の表情がゆるやかに移り変わるように句が並べられてる感じもする。色んな句はあるんだけど基本的に「生活」がテーマになっている、というか逆な感じがする。「生活」にアンテナを隅々まで張るというアプローチだからこそ、コンビニという都市の風景も、バスマットを取り込むクリスマスっていう個別的な経験も同じ句集に自然に同居してしまったというか。単に時代を映す鏡であるだけでなく、そこに「私」も存在していて、更にはそこに「季語」もあってと色んな要素が縒り合わさってる感じが私にとって魅力的なんだなと気づかされましたね。

柳元:そうですね。むろん私のさっきの議論はかなり粗雑で、この句集の豊かなところを捨象してしまっています。おっしゃるとおり、「生活」にアンテナを隅々まで張るというアプローチだからこそのヴァリアントを作ってますよね。豊かで多面的です。蛇足なんですが、これで思い出すのは、劉慈欣(りゅう・じきん)のSF小説『三体』(早川書房・2019)に、「智子(ソフォン)」という超微粒子ロボットが出てくるんです。ネタバレを避けるために簡略な説明に留めますが(とはいえややネタバレになりますが)、これは異星人が、地球人を監視するために作成した智恵のある粒子状のスーパーコンピュータなんです。もちろん意識もある。この「智子」なる粒子が地球に張り巡らされ、地球人の体内に取り込まれ、いちばんミクロのレベルで、地球人の日々の生活が逐一監視されるんです。いわば密着取材ですね。で、異星人の微粒子スパコンからすれば、地球人の諸々なんて何もかもが目新しく不思議に見えるわけですよ。上手く言えないんですが、この句集、そんな感じないですかね……ないかなぁ。

吉川:『三体』今後読むつもりなので薄目で文章読んでますけど、言いたいことは分かります。この句集の観察態度をエイリアン側の視点だと思う理屈は分かるけど、かなり人間味もある句集なのでそういう表現がしっくりこない自分がいますね。

柳元:そうですね、伝えるのが難しいな。エイリアンめいていて人間味がないということでは全くなくて、キリンジの曲の「エイリアンズ」みたいなイメージですね。〈まるでぼくらはエイリアンズ〉というあのサビの歌詞は、同種の恋人同士が愛し合っているのだけれど、どこかで他者の他者性を感じている、ということだと思うんです。みんな同種で分かり合えるはず(というかたちで社会が構築され動いている)のにそもそも本質としてみんな他者という感覚、というか。だから極めて人間的なジレンマがある気がします。
まとめがこれではいけないと思うので、好きな句を引いて締めますね。〈喉きゅっとしまるほど今行きたい橋〉。こういう感情が、理性とか常識とかに抑圧されず、嘘くさくない身体性を持って知覚されることを追体験させてくれることが、すごく嬉しかったです。

吉川:自分もその句好きですね。最後の橋でそこまで閉塞感のあった句がいっきに開けてくる構成が内容とマッチしている。
まとめではないですが、天の川銀河発電所で作品を初めて拝見した時とは印象が変わりました。それは句集としてまとめられることで自分が新しい読み方を発見できたからで、句集という形式ならではの旨味を再確認しました。
語れていないトピックもありますが今回のところはここで締めとします。ありがとうございました。

出目 平野皓大

出目 平野皓大
 
あるときの船尾に冬の日がつのる
人波のほうへ甍の千鳥ども
     *
双六の出目にまかせるあそびかな
日向ぼこ芯を抜かれてゐるごとし
熊穴へ入りてなにかしらをかかへ
     *
大群の柳葉魚のまがひものである
     *
かずのこの粒のからまる痰を噛む
垂らされてゐる照明におでん待つ
手を出さずして綿虫を求めたる
すかす屁に肚のしまりや雪礫
     *
紫の座り踊りのちやんちやんこ
あゆみ来る紙のふぶきの雪女
     *
鰭酒のみるみる冷えて鰭が浮く
枯蘆を横目にさはさはと言ひて
     *
春を待つ双眼鏡に目がふたつ