鯛焼が冷めて野球をまぶしく見る 大塚凱

所収:『或』(ふらんす堂、2025年)

 凱さんはけっこう良い球を投げる。比喩ではなくベースボールの話である。筑波山の宿の前の道路でキャッチボールをしたのは、私も凱さんも学生だったから、だいぶ前のことだ。凱さんは小さなテイクバックから(そのフォームからかつては内野手だったのでないかと推測するが)スピンの効いたボールを放ち、ボールは糸を引くようにしてグラブに収まる。『或』にも野球の句が少なくないと言える程度には野球を材とした句がある。

恋びとを呼ぶナイターのうねりのなか 005

後逸を墓参の人が投げ返す 019

代走が木の実みたいにすぐ還る 019

鯛焼が冷めて野球をまぶしく見る 046

ナイターの歓声遠く尿熱く 136

涸れ川よふりさけみれば盗塁死 150

 これらが技術的に良く出来ていることは当然として、これらを見て思うのは、ある熱狂のただ中に素直に身を置けないナイーブさである。野球を向日的に楽しむ訳ではなく、どこか醒めた観察者の位置におのれを設定する。〈鯛焼が冷めて野球をまぶしく見る〉であるとか〈ナイターの歓声遠く尿熱く〉は、まさしくそうしたポーズが野球という場において行われたものと見える。熱狂と自分のあいだには距離が設定されている。

 けれども〈恋びとを呼ぶナイターのうねりのなか〉からも分かる通り、そこに疎外されながらも何ゆえか身を置こうとする態度も見える。ここにあるのは冷笑という態度とも違う。思うに、熱狂から身を引き剥がすのではなくて、そのうちに消費的に留まって、ナイーブに微笑むか、理知による処理が的確に行われる(「木の実」の喩や「ふりさけみれば」の言語遊戯など)。そしてこれが、『或』に見られる根本的な態度なのだろうと思う。『或』という句集で通奏低音的にとられるこの態度には、正直少し辟易するところがないわけではない。演出的私性の仮構が鼻につくということもまあそうなのだが(それはしかし他の句集だってそうだろう)、何よりもこうしたナイーブさも理知的な技術も、とはいえ「それが行われることが熱狂そのものに何ら働きかけない感じ」がするのだ。そして作中主体もあるいは作者もそれを了解している感じがする。野球という卑近なことに対してもそうだし、資本主義とか、アメリカの覇権主義とか、終わらない日常とか、震災とか、オウムとか、それらに対しても概ね似たスタンスがとられているように感じる。

 つまり、わたしは、初読のとき、幾らか記号的・演出的に処理されたものとはいえ「諦め」のようなものを『或』からはつよく受け取ったのだった。どこにも外部がない息苦しさの反復、そのなかで生きていくしかないという感覚が『或』という句集に立ち込めている。これらを書き留めたことは言うまでもなく『或』の達成ではあるが、とはいえ、『或』がそう簡単にそのオルタナティブを示さなかったこと(と私は思っているのだけれど)が、大塚凱の世界認識の厳しさ・リアリズムなのだとすれば、それがしんどく、悲しかったのかもしれない。この世界がそういう世界であることは(自分の実人生だけでもお腹いっぱいなくらい)知っているから、そういうことよりも、この世界でどう遊べばいいのかをわたしは教えてほしかったのかもしれない(実世界で凱さんがそういう風にかつて関わってくれたように)。周囲の『或』読者と話したときにこの感覚は分かり合えないところだったから、ひっそりと胸の内に感想をしまっていたのであった。

 ところで、春先の時期の休日は、プロ野球のキャンプ映像を見ながしながら作業をすることが多い。ノッカーがグラウンドにひたすらと打球を打つ。黙々と選手が捕球して、握り変え、流れるように送球して、元の位置に戻る。そのさまをだらだらと見る。これまでに積み重ねられてきた数限りなき反復が、その選手の動きに与える洗練された美しさ。それが、選手のその一回性ある身体の動きを通じて、この世にあらわれでるのには見とれる。

人っ気ひとつない侘しい球場で、彼らの野球はいかにも、妖しい美しさにみちあふれ、社会の誰からもかえりみられずに、むしろ、退廃にちかい孤絶の状態で、狂おしい饗宴をくりひろげている。人間のからだが、あのように伸び、曲がり、蹴り、投げ、走ることから、いわば、舞踊のエッセンスともいえる美の造形にむかって、もてる力のすべてを集中する。その集中の過程で、ひとはじふんの性格をしり、個性をみつけ、運命をかんじとり、世のなかを生きていく意味をわかりかけてゆく。彼ら選手たちのプレーが美しくうつればうつるほど、ひとびとの心のなかに、野球は生活そのものを反映する実体となってゆくのではないだろうか。(虫明亜呂無「名選手の系譜」より)

 いまはわたしは『或』の句を、職業野球のノックのように眺めることが出来る。書きつけられた句を、書くという営為の末端にあるものとしてとらえ、その末端から、書くという営為そのものを、ノックの一連の身体所作を、その送球から逆回転的に想像するようにして眺めなおすとき、書かれたことを虚心に受け取るよりも充実した何かを、受け取ることができるのではないか。『或』はこういう読みにおいて、その洗練を強度として見せてくれる。それはテクニックというよりもテクネーと呼ばれるような、それ自体作者の生と関わりあったありようを開陳しているはずで、それを感受するとき、『或』は諦念の句集ではなくなる、と思った。

記:柳元

真白き箱折紙の蟬を入れる箱 生駒大祐

所収:『水界園丁』(港の人、2019年6月)p.112

話は遠回りになるが去年、吉田秋生作の漫画『BANANA FISH』をふと思い立って一気に読んだ。NYのストリートギャングのボスの青年アッシュと、日本からやってきた普通の青年英二が「バナナ・フィッシュ」という謎のワードを追う中で大きな陰謀に巻き込まれてゆく、といったあらすじ(話の内容はこの句とは全く関係ないがよい作品なので未読の方は是非)。

ラストページは天井視点からの日光がいきわたる室内の風景。
細い線に縁どられて浮かび上がる「白」が印象的なこのページに「真白き」掲句を思い出した。

掲句には作為性(貶しているわけではない)が多分に含まれている。
「箱」のリフレイン、単なる「白」ではなく「真白」、そして生きている「蟬」ではなく「折紙の蟬」そして、その「折紙の蟬」を箱に入れる、という意味は理解はできるが背景は見えにくいシーン。
上記が醸す虚構の匂いは、折紙の蟬を白い箱に入れるという行為に見え隠れする「祈り」なのか「哀悼」なのかそういった類の感情を生々しく描くことはしない。逆にその感情を捉えにくく、茫漠とさせ大きな「余白」を作る。
その作為された「余白」にこそ私はより、「祈り」や「哀悼」を見出してしまう。

「真白き箱」」の中の暗闇、その中の「折紙の蟬」、箱に入れるときに感じる「折紙の蟬」の薄さ・軽さ、折紙を折るという行為に加えてそれを箱にしまうという丁重さ……。

『BANANA FISH』のラストシーンも、掲句も、作為された余白の曖昧な雄弁さを私は好んでいるのだなと気づかされる。

『水界園丁』は装丁も非常に素敵な句集で、滲むような文字のフォント、ページの手触りや余白がこの句をより引き立てている。是非句集を手に取って読んでほしい。

記:吉川



プリン・ア・ラ・モードの模型ガラス越し 頭おかしくなるならちゃんと 絹川柊佳

所収:『短歌になりたい』(短歌研究社、2022.5)

 上の句の詰まるリズムと描写から、刺すように下の句が広がっていく。
 きれいすぎて・つらすぎて、感情が極まって「頭おかしくなる」、あるいは、頭がおかしくなるくらい感情がいっぱいだ、という言い方はいろいろなところで見かける。そういう表現からこの歌が突出しているのは、「ちゃんと」まで言い切ったことにある。/適当に「頭おかしくなる」と言っているのではなくて、「頭おかしくなる」とはどういうことかを想像して、それに向き合って、「なるならちゃんと」まで思考を届かせたことの誠実さが表れている。

 当然のことながら、「ちゃんと」「おかしく」なった場合、困るのはこの主体の方なのに、きっぱりと「なるならちゃんと」と言い切れるそのスタンスのかっこよさ、潔さがある。そしてそれが「プリン・ア・ラ・モード」の言い方や、「模型ガラス越し」のリズムの詰まりと内容の透明感・近くにあるのに遠い感覚 と響きあっている。

 作者の絹川がどこまで意図して作っているかは分からないが、「アラモード」「ガラス越」「頭お」の部分が、a → o の流れで重なっており、見た目以上に発声したときに音が気持ちいい。この韻律の流暢さ(むしろaからoに上下する忙しなさ)が、「頭おかしくなるならちゃんと」をより裏側から支えているというか、インパクトを強めていると思う。

 そしてこの歌は、プリンアラモードのことが大好きすぎて頭がおかしくなりそうだという読みと、頭おかしくなる理由とプリンの模型はそこまで関係ないという読みの2種類が考えられる。まあ、プリン大好き読みも面白いが、90%は後者の読みで合っていると考えられる。関係ない、というか、それが悩みの直接の種ではないが、悩んでいることを思い出させるトリガーとして「プリン~模型ガラス越し」が機能したということだと思う。/思い切ったことを真剣に言う切実な歌で、それを韻律がしっかり支えている、ずっと記憶しておきたい歌の一つである。

『短歌になりたい』は良歌ばかりで、引きはじめると大量に好きな歌はあるが、特にこの歌に関係するような歌をいくつか紹介する。

わたしがわたしを守ってあげる シャーペンの芯を多めに詰める
目を閉じて限定ボイス聴いた夜 心の位置に灯っていった
音もなく上から下に降る雪を見ていた人格が消えるまで
極端に大きいものか極端に小さいものにしか惹かれない 私の人生は筒の中
後戻りできないように無理をしてきたのに ちょうちょ型水溜まり

 これは絹川が特にそうというよりは、単に私が、心が遊離するような・自分を客観視するような文章が好きだから、そういう歌を意識的に集めているというだけのことかもしれない。/「わたしがわたしを」の時点で、思惟する私と、対象の私の二つが分離している。そこにシャーペンの仕組みが重なってくる。/「心の位置」。灯る心と、それを把握する主体(脳・気持ち)。/「人格が消えるまで」のはっきりとした言い方。ただ私はこの歌に暖かさを感じていて、それは「消える」という自動詞的な言い方にある。”人格を消す”という他動詞の言い方であれば冷たいなと思うけど、「消えるまで」だから、ぎりぎり「人格」に対しては少し優しそうに見える。/「人生は筒の中」。頭がおかしくなったら困るのは主体、と同じように、自分の人生を「筒の中」と例えることで辛くなるのは主体自身じゃないのか? と心配になる。意外にけろっとしているものなのか、開き直って言っているのか分からないから、どう声をかけていいか分からない歌。/「無理をしてきた」とここではっきりと心のことについて述べている。この歌における「ちょうちょ型水溜まり」は、機能として「プリン・ア・ラ・モードの模型ガラス越し」と同じだと思う。プリンの歌と合わせて、悲しく切実な名歌だと思う。

 というように、自分自身や心について、ガラス越しに眺めてあっさりと言い切るような姿勢が見られる。この妙なさっぱりの気質が、定型詩である短歌と相性がいいと傍から見て思う。余計なことを語らせない短歌と、余計なことを語る気が無い作者と。/絹川のnote(https://note.com/kngwshk/portal)で作品がときおり更新されているため、ぜひそちらをチェックしていただきたい。いつになるかは分からないが、第二歌集がもしいつか刊行されるとすれば、本当に心から楽しみにしている。

記:丸田

 

蟇と生れて爆音下なる高歩み 加藤楸邨

所収:『加藤楸邨句集』(岩波書店,2012)「まぼろしの鹿」

新興住宅地を抜けると、年中湿っぽく、どの家の壁も蔦で覆われているような、ほんとうに人が住んでいるのか不思議になるくらい、ヒッソリとした場所に出る。そこでよく、ヒキガエルを見かけたなとおもいだす。

この世に生まれ出ることは、ヒキガエルとしてでも、たとえ他のかたちの生物だとしても、まずはじめの暴力的にさらされる経験で、選びようのない体をあたえられ、選びようのない環境に放りだされる。

空から爆弾がふってくるようになったのも、ここ百年くらいのことで、この時代に私が生きているというのは偶然にほかならない。空爆は人を選ばずに、ただそこに居合わせたというだけで、人を死へといざなう暴力だけど、ありがたいことに私は空爆にさらされる経験をまだしていない。

ヒキガエルとして、爆弾降りしきるなかで生まれる。暴力にさらされつづける中でのこの高歩みはさまざまに解釈することができる。周囲に惑わされず毅然としているともとれるし、周囲に気づかぬマヌケともとれるし・・・・・・。でも、思うのは、ヒキガエルとして生まれたからには高歩みして体を動かすほかなく、高歩みを寓意や象徴として解釈する以前の、その肉体のかたちで生きなければならないことへの悲しみが、高歩みそのものに宿っている。

楸邨といえば人口に膾炙しているヒキガエルの句は《蟇誰かものいへ声かぎり》だけど、このスローガン的なヒキガエルより、生の悲しみに触れるような、掲句におけるヒキガエルのありように私は軍配を上げたい。

とはいえ、ただ体を前に進める身ぶりよりも、誇示・反抗するヒキガエルが必要とされる時代はあり、そして現在、わざわざこんなことを私は書かなくてはならず、どもった口ぶりになっている。

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掲句の収録された『まぼろしの鹿』は第2回(1968年)の蛇笏賞。掲句は「寒雷」(1953.9)が初出。

記 平野

ブルーデージーこころにさきがけて涙 神野紗希

 所収:「noi」vol.4

 涙はほしいまま流したり止めたりすることが出来ぬ。むろん噓泣きとか演技の涙というものはあろう、意識して涙を流すことは出来る、しかしそれは涙ではなくて単なる水に過ぎぬ。

 涙とは、言葉の網目がこころのうちに感情を発見するよりも先に、頬につめたくつたう感触でわがこころの機微を教えてくれるものだ。感情はいつも涙に遅れて見つけられる。遅く来た理性の言葉によって名前が与えられる。

 涙がいつもいちばんはやい、嬉しいとき悲しいとき悔しいとき、感情的緊張に立ち会えば、涙という機構はいつもそれを素早く感知して、わたしに知らせた。涙はこころの下部組織でない。涙は涙として独立し、迅速に動いた。涙はなにより涙を流す主人を慰めんとして、一番先に駆け付けた。涙はこころの換喩として美しいのでない。涙はそれ自体のはやさをもって美しいのだ。 

 ブルーデージーはキク科フェリシア属の植物。ブルーデージーという名前がついているけれどもデージー(雛菊)とは種類が異なるようだ。淡い青がほっそりした花弁にやわらかく行き渡るさまが優しい。

記:柳元

一月の滝いんいんと白馬飼ふ 飯田龍太

所収:『麓の人』(雲母社, 1965)

「いんいん」はおそらく「殷殷」。大きな音が鳴り響く様を示すらしい。

飯田龍太には「一月の川一月の谷の中」という名句があるが、「一月」という季語の扱われ方は両者似たような趣を感じる。
「一月」はその文字面の簡素な佇まいによって、詩情を抜きに冬の滝の存在感を描く。
この句の場合は「いんいんと」という中七のダイナミックな表現・音声の響き、そして下五の「白馬飼ふ」の神話的な詩情(不勉強だが、白馬は日本では昔から神と親和性があるはずだ)に対して「一月の滝」がぐっと句を引き締めている。

「いんいんと」とがそのまま「白馬」に連なることで、滝の白い水しぶきと、白馬のイメージが重なるのが美しい。

記:吉川


なんらかの解決策のあるごとくプラネタリウムの扉へ寄りゆく 大滝和子

所収:『銀河を産んだように』(砂子屋書房、1994)

 プラネタリウムに行った経験は1度か2度あり、それも幼少期のことだから、ほとんど記憶にない。なんとなく、大人になったらいくらでも、休日にプラネタリウムへお気軽に行けると考えていた。実際成長してみると、プラネタリウムがそこらじゅうに無いことも、あったとしてそこへ行く休日もそれほどないことも分かってくる。だから、私の中のプラネタリウム像は未だにその時のままで止まっていて、良い感情も悪い感情もそこにはなく、ただ人造の星とその解説を見聞きする素敵なうすぐらい空間 というイメージしかない。

 この大滝の歌は、上の句が「なんらか」「解決策」「ある」とア段の軽快なリズムで続き、「プラネタリウム」というロマンチックな語の登場を歓迎しているような印象がある。韻律面では。一方、内容面では、「解決策のあるごとく」とあるため、いま主体にはこれという解決策が無く、ぼんやりと悩みを抱えていそうな様子が描かれている。
 この序盤の韻律の軽快さ・単調さが意味の暗さと食い違っている微かな違和感が、下の句の破調で増幅されることになる。/「プラネタリウムの」「とびらへよりゆく」で88になっている。扉へ寄っていくその瞬間もまだ、有効な解決策が思い浮かんでいない。その時の足取りの遅さ。文字面では非常にシンプルな歌だが、感情の機微がうまく韻律と合致している、豊かな歌であると思う。

 この歌、私は最初三句目を見間違えてしまい、「あるごとき」として読んでしまって、あとから気付いて読みを変えた。それによって気づいたことだが、もし「ごとき」であれば、上の句の内容は直後の体言である「プラネタリウム」にかかるため、この「扉」を開けばなんらかの解決策が得られそう、という希望のある明るい歌になる。しかしこの歌は「ごとく」であり、用言である「寄りゆく」にかかるため、解決策がありそうで無い歩み、を表す。
 ということは、この歌で「扉」へ寄っていって、それを開くということが、どういうことを表すことになるのか。扉を開いて、プラネタリウムの空間を脱すれば、解決策が手に入るのか、入らないのか。そもそも、解決策が欲しくてプラネタリウムに入ってきたのではないのか。このまま解決しないまま扉を開いて出ていっていいのか……。/三句目が「ごとく」であることによって、希望とも焦燥とも取れる状態で歌が保存されており、その空気感が私は好きだった。

 ここで一つ、書きながら気づいたことがある。太字にした部分について。私はどうやら無意識に、この歌を【プラネタリウムに入って観終わった後、出ていくために扉へ寄っている】という景で読んでいる。しかし、自然な気持ちで眺めてみると、【悩んでいる主体が、解決策を見出すためにプラネタリウムに今入ろうとしている】という景の方が多数派なのではないか、という気がしてきた。これから出る歌なのか、これから入る歌なのか、どちらが妥当なのだろうか。
 私が、これから出る歌として読んだ要因を書きだしておくと、最大は「あるごとく~寄りゆく」の部分である。これから入る人が、「寄りゆく」と言うだろうか、と思った。解決策がそこにありそうだと思ったのなら、これからロマンチックなプラネタリウムに入るなら、悩んでいるといってももう少し歩みは滑らかなんじゃないか。「扉へ向かう」でも「扉へ歩く」でも良かったはず(その方が定型に収まるし、「歩く」なら「あるごとく」と韻も踏める)。しかしここがわざわざ時間を取るような8音であることが、なんとなく入場ではなく退場だと思わせた。/もしこれが、「あるごときプラネタリウムの扉」だったら、入場だと考えたと思う。扉を開けることの期待があるから。/あとは、(そこまで意識してはいなかったが、)仮に恋愛を下敷きに考えた場合、「プラネタリウムに行ったら解決するだろう」よりも、「プラネタリウムを二人でも見てもなお解決策は見つからなかった」方が、より面白いと思ったから。そしてその暗さを、この歌に直感で感じ取ったと言える。 

 入出場どちらなのかという読みは、各読者の頭の中で広げていただきたいと思うが、私はこの歌はうすぐらくてとても好きである。小さな星のように「解決策」という漢字三文字が光って見える。ただしその足取りは暗い。

 *

 当該歌集は、再収録されて短歌研究文庫から発刊されており(『「銀河を産んだように」などⅠⅡⅢ歌集』)、入手しやすくなっている。個人的には大滝は第二歌集である『人類のヴァイオリン』がお気に入りで、ぜひ読んでいただきたい。以下好きな歌。

良いほうに解釈してもヨーグルトに砂まぶしたる味がしている  『銀河を~』

子を売りて人形を買う母親のいずこにかあるごとく雨降る  『人類の~』

このノブとシンメトリーなノブありて扉のむこうがわに燦たり  同

わたくしの風の眠りを食むようにセロリスティック、コーンフレーク  同

夕風にチェックスカートひろがりてわが踏みている階段見えず  同

声帯をなくした犬が走りゆく いたしましょうねアジュガの株分け  『竹とヴィーナス』

記:丸田

悲鳴  丸田洋渡

 悲鳴  丸田洋渡

水道をどのようにして秋の水

西洋の怪談五色唐辛子

金木犀きずつくきんみらいの杵

包丁を寝かせ切る柊の花

陸橋のおもしろい腰が覗くよ

悲鳴で列ととのう夜の大白鳥

人影を人が出てきてクリスマス

雪予想して楽器店前楽器

雪は雪打ち震撼のピアノ室

とぷとぷと除雪車は夜船のように

気持ちより言葉がイルミネーション街

ジェラートのピクセルアート雪ふる窓

稲妻に縫製が褒められている

氷湖底より銀の婚・金の婚

幻はどうしておいしそうな月

怖いなら黙っておかなくちゃ戦前

電柱に雪広告の高さまで

採氷や太陽をつかった時計

雪晴の手術台から身を起こす

椿展おおきな声がした気がした

若菜野の濃みどり若菜のみならず 皆吉爽雨

『三露』(牧羊社 1966)

新年は新年で、師走とはちがう忙しさがあって、それは生活のメインが自宅へ移ったときの家族・親戚間でおこなわれるコミュニケーションの気忙しさである。

たとえ、年初くらいはだらだらしてやろうと決め、酒をたしなみながら、ソファーやベッドあるいはフローリングに身を横たえて過ごしたとして、それは職場というマジメさを求められる場からちょっと自由になったにすぎず、家では家のはたらきがあり、家を支えるための挨拶があり、どうにも逃れられない窮屈さがあちこちから迫ってくる。

もっとも、それらのワズラワしさをすべて遮断してしまい、気のおもむくままに過ごすことも可能だけど、それはそれで非情な、毅然とした立ちふるまいを必要とし、結局のところ私なんかはまとわりつく情にほだされて面倒ごとを引き受けてしまう。だからこそ情を綺麗サッパリ拭える人には心のどこかで憧れを抱く。

さて、掲句について。

正月も六日になると新年の忙しさもひと段落ついて、仕事もはじまり、そろそろ気分を入れ替えてみようかなとおもう。野に出て、ひややかな空気にさらされて、家の雑事も仕事もわすれてゆっくりしてみる。なるべく、世間の喧噪からはキョリを置いたほうが良いだろう。

力強く、日を照りかえす濃いみどりの野面を前にしてひと息ついたあと、みずからも野にまじって、若菜のあいだを逍遙する。腰をひくく落としてみれば、疎ましい家のうちの臭気とは別の、いきいきとした草や土が匂い立ってくる。

若菜を摘んでいるうちに、ささやかな草が一つ二つと目につくようになってくれば、だいぶ余裕が出てきた証拠で、若菜だけをもとめず、そのほかの草もひとしく愛でているような楽しい気分が掲句にはある。また、自然とまじわることで、身にまとわりついた家の空気からも、若菜野という言葉の垢からも抜けだして、心が自由にあそびだしている感じもある。

そもそも若菜野は春の七草がそれぞれ入り交じり生い茂っている野であり、そこにプラスして別の草も生えているというのは、とても賑やかで、エネルギッシュで、それゆえ何となくおめでたい。

掲句の中心は、若菜以外の草を見つけたことへの驚きにあるのではなく、広闊な野にあそぶことによって生まれる新鮮な気分であり、もっと言えば、気分の変化によってうつり変わっていく、風物のおもしろさである。

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掲句の収録されている『三露』は第1回蛇笏賞の受賞句集。

個人的に蛇笏賞を順番に読み進めることをやっているが、一句鑑賞は出来ていないので、帚の場を借りて鑑賞を進めていきたい。蛇笏賞句集を読む① 皆吉爽雨『三露』|平野

noteでは掲句を含め計20句書き出している。『三露』にあたっていただく契機になると大変ありがたい。

記:平野

巨悪ありこれを裁けず年新た 赤野四羽 

週刊俳句第976号 2026年新年詠より

 安倍晋三氏を銃撃して殺害した山上徹也氏(「被告」という言い方は俳句鑑賞の場においては凡そ相応からぬように感じるので「氏」とする)の公判が始まった。氏のパソコンの復元データの中には「散弾銃の作り方」というテキストファイルがあってここに「巨悪あり。法これを裁けず。世の捨て石となるための覚悟と信念のためにこれを記す」という文言があったという。

 つまり「巨悪ありこれを裁けず」という赤野四羽氏の措辞は引用であって、その意味で山上氏の間接話法ですらあると言ってよかろう。この間接話法を俳句的強度を担保しながら成立させたのが赤野氏の手柄であるといってよい。山上氏の旧統一教会の宗教二世としての境遇には同情を禁じ得ない(それが殺人の論理を肯定はすることにはならないことも申し添えておかねばならないが)。

 山上氏の実存のかかった言葉を俳句形式に持ち込み固着させんとすることは、ジャーナリズムが統一教会問題に対する反省が見えない高市早苗氏の「働いて働いて働いて働いて働いてまいります」という言葉を持ち上げたり、「サナ活」とやらを喧伝するのとは対極にある営みであるとはひとまず述べておきたい。そういう同時代的付置においてこそこの間接話法は意義深かろう。

 とまれ俳句形式に持ち込んだことで普遍的に読まれうるものにもなるはずで(それこそ法で裁けなければ実力行使をしてよいと粗雑に読み替えれば、トランプ氏のベネズエラ侵攻肯定句にすら読み得ることもまた恐ろしいが)、山上氏の私的な言葉がその文脈が抹消されて普遍に開かれるにはまだ早過ぎるだろう(少なくとも鑑賞においては積極的に普遍化するのはあまり誠実でないように思う)。

 山上氏が文字どおりの一世一代の賭けのような状況で「巨悪あり。法これを裁けず」と文語文法を選択していたことに私は関心を寄せる。データが復元されたものであるからには、山上氏はこのテキストを一度自分の手でパソコン上で抹消した訳であり、その行為をそのまま受け取れば、山上氏はこの言葉を残すつもりはなかったということになるが(とはいえデータが警察に事件後復元されることを見越していたのではないかとも思うが)、そういう、残るか残らないか分からないが、しかし紛れもなく自分の実存がかかった言葉を自分のために書きつける必要がある際に文語文法を選んだことは、私はもう少し考える必要があると思う。それは単なる表層的な恰好よさから選ばれたのか、自分自身を誇張したり鼓舞したり国家が国民を動員するような男性的な言葉としてあったのか、定型感覚の安寧のようなものがあったのか、伝統に連なり普遍化したい欲望があったのか。それは分からないにしても、同時代的な連帯に心を寄せることが出来ない人間のナイーブさは、いかにキッチュであろうとも文語が掬い取った(掬い取るしかなかった)ということを妙に痛ましく思った。口語で書けないことというものもある。

 結審は二〇二六年一月二六日。検察は無期懲役を、弁護側は懲役二〇年以下を求めている。

 話は変わるが、週刊俳句の新年詠では他に〈魔羅抜いて神馬はるかなる一粲〉九堂夜想、〈パエリアの大きな貝やお正月〉千野千佳、〈おとうとに姉われ淡し年賀状〉津川絵理子、〈初春の吸物を麩の一回り〉野城知里、〈繪歌留多のねむたき色をひろげたり〉常原拓、〈邂逅や冬褐色の木をあふぎ〉依光陽子、〈明けましてじねんじょほりに忌が六つ〉ちねんひなた、〈夕べより雪の二日となりにけり〉対中いずみ等を楽しく読んだ。

 今年も帚はのんびりやっていきます。よろしくお願いします。

記:柳元