不二曼荼羅図   柳元佑太

自宅から富士山頂までひとりで歩いて俳句を作った記録

プロローグ

 これは自宅(川崎市高津区)から富士山山頂までの道のり、距離にしておよそ130キロ、標高差3760mを踏破を試みた記録である。同行者無しの単独歩行である。御盆期間である8月12日から16日を利用した。

 富士登山自体は平安時代の都良香(みやこのよしか)(834~879)の著した『富士山記』に山頂の詳しい様子があるから平安時代から行われていると考えられているが、噴火活動の著しい活火山であるからしてまだ信仰登山は一般的で無かったようだ。噴火活動が落ち着いてきた室町時代以降、修験者による登山が行われ、江戸時代に富士講という形で大衆に一般化した。今回の私の試みは江戸時代に流行していた富士講を模したものである。当然、現在一般的である五合目からの登山口は使わずに、古くから使われている富士吉田浅間神社を起点とする古道を登っている。

 また、兼ねてより温めていた連作「不二曼荼羅図」の制作も兼ねており、純粋登山のストイシズムや霊山に登らんとするスピリチュアリズムに基づくものというよりは、道中の土地との関係を切り結んで句作する様をメタに記録したいという一種のロードムービー的欲望に従ったものと解していただいて構わない。メンタリティは『水曜どうでしょう』である。

 ちなみにわたしは富士山に憧れたことは一度もない。観光地化され整備され尽くした山、ベタついたナショナリズムの記号に祀りあげられ厚塗された山容。その質量に反比例するような空虚さ。北海道にあるわたしの地元からは大雪山連邦がよく望める。あちらの方が標高は低くとも、よほど清浄、自分の心を寄せるには自然なものだった。上京してからは冬の晴れた日には偶に遠くに姿を見せる富士山の悠容さは、天邪鬼な人間には決して心惹かれるものではない。むしろあの絶対性は、うしろめたいところのある人間の暗い部分を指弾するようなそんな気持ちを齎しやしまいか。

不二の鬱氣海(えーてる)に漏れ首都や冬

 かつて明治政府は、江戸時代のジャポニスムの遺産を利用して富士山をナショナリズムの表象に仕立てた。唱歌「ふじのやま」にあるように富士山は「富士は日本一の山」として、ナショナルシンボルを担ったのだ。かくて近代に富士山とネーションとの結びつきが誕生した。

愛國や中止(えぽけ)の濤を圖像(いこん)とし

 今夏、国立近代美術館にて行われている展示「記憶をひらく 記憶をつむぐ」(2025.7.25-10.26)は芯の通った展示で、いかに富士山がナショナルシンボルとして用いられてきたかも示されていて興味深かった。

 例えば「紀元二千六百年:奉祝国民歌」の第三番では「うしほゆたけきうなばらにさくらとふじのかげおりて」と歌われているし、あるいは横山大観は「紀元二千六百年奉祝記念展覧会作品」として「山に因む十題」のうち「乾坤輝く」と題された作品に富士の図像を描いた。また「大東亜戦皇国婦女皆働之図秋冬の部」でも画面上部にイコン的に富士が配されている。富士は菊花、桜とともに大日本帝国の象徴となっていた。名だたる文学者や画家も戦争に協力し富士を描いたのだ。

Zipanguや記號の不二を弄(もてあそぶ)
逝く四季や楽土に啼かば狂鳥(くるひどり)

  日本人は国威発揚のため富士山を利用したと言えるが、しかし、富士山に利用されているのはむしろ日本人ではないか。戦時中本土の空襲のために飛来したB29は富士山を目印として進路を定め、その後東京地区へと向かうために東へ舵を切ったという。富士山はいわば、敵国を日本に導き入れもしたのである。こうした富士山の「裏切り」にも関わらず、戦後富士山は平和の象徴として記号的意味が読み替えられ、変わらず国民に愛され、日本国土の精神的中心点、ネーションの遠近法を安定・固定させるための消失点としての役割を今も失っていない。富士フイルム、富士そば、不二家、富士通、あらゆるものに富士の名が冠されていれば、銭湯の壁にも富士が描かれている。富士山は巧妙に文化的に生きながらえ、文化的に力を失わない。

 そういう意味において富士は大変に強かであり、記号的怪物であろう。桂信子〈たてよこに富士伸びてゐる夏野かな〉(『樹影』所収、立風書房、1991年)が奥底にグロテスクさを抱えているように思うのは、富士のその記号的な怪物性に触れ得ているからだと思う。富士は戦争がひとたび起こればまたその豊かな山肌を我々に披露、誘惑し、自身を画家に描かせ、あるいは詩人に歌わせるだろう。

いざなへり不二は贅肉(しし)無き容(かたち)みせ

 だからこそ、私の今回の富士登山において、象徴記号としての山肌を実際に踏みしめ、富士山というのが単なる巨大な玄武岩塊であることを、自分の足の裏で確認したいのだ。富士山がただの大地の皺に過ぎないことを明らかにしたいのだ。あるいは、記号としての富士を自分の言語空間の中で飼い慣らしたいのだ。富士を記号から少しでも奪還して、身体的実感に還元したいのだ。はたまた私も富士の記号に奉仕する壮大な虚構の一員になってしまうかもしれぬ。はたしていかに。

わたくしも不二浮世繪の繪空事

1日目(8月12日)川崎市高津区~八王子市

 晴れ。朝5時に家を出る。登山靴やザック、レインウェアなどは揃っている。基本的に富士登山口までの道中は舗装路をゆくことになるからスニーカーの方が歩きやすそうだと思ったが、登山靴を持っていくのは重たすぎると判断して登山靴で街を歩くことにする。この判断がのちのち私を苦しめることになる。

 この日は八王子までの約30キロを歩く。7時間ほどの歩行時間を見込んでおり、休憩を挟んでも15時頃には着く予定である。運動強度と暑さに慣れることがこの日の目標であるが、幸い気温は30度前後と、比較的過ごしやすい予報である。

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 田中裕明に〈ここに岡本太郎のオブジェ三尺寝〉(『櫻姫譚』所収、ふらんす堂、1992年)という句があるが、家の近くにある岡本太郎のオブジェのある川崎市高津区の二子公園がこの旅のスタートである。オブジェは母であるかの子を讃えたもの。対岸には世田谷区の二子玉川が見える。このあたりからでも冬の澄んだ日には富士が遥かに見えることがある。

 しばらく多摩川沿いを歩いていく。早朝河川敷を歩いていると存外多くの人が歩くことを習慣にしていることが分かる。虫が鳴いていて朝夕は秋の気配すらあって、風が吹き草は倒れ、雨後の匂いが強くする。進行方向右手には多摩川が流れ、昨夜の雨にも関わらず堰によって見事に治水に成功している。この流域は古来より何度も洪水の被害に見舞われていて、多摩川との緊張関係がこのような美しい堰として結実にするのは何となく心惹かれるところがある。

草神や川を太らせ昨夜(きぞ)の雨

 土地の記号との格闘において、徒歩という手段が必ずしもその一助になるとは考えないが、とはいえ、自分の中の安易さを相手取る一機会くらいにはなるはずだ。江戸時代に流行した富士詣は、有志グループである講を組織して、徒歩で富士山を目指した。それは観光という眼差しが成立する前の、富士山を霊山とみなすパラダイムのものである。これを模すことで、近代以前の土地感覚、すなわち土地の実感を得ることができるのではないかという淡い期待もある。

 一時間ほど多摩沿線道路を歩けば、登戸、中之島を通り過ぎる。一歩の蓄積による単調な疲労の心地よさ。身体が持っている所与のリズムが炙り出される感じ。このあたりから丹沢山が視界にくっきりと望むことが出来るようになって、自分の進む先が見えているということにモチベーションが上がる。むろん私の目的地は丹沢山の奥にある富士山であるわけだが。しばらく道沿いに進んで、稲田堤、矢野口を通過して、稲城大橋を通って多摩川を渡る。中央道に行き当たるので、ここからは中央道に並走する中央道側道をひたすら西へ進む。多摩川ボートレース場や東京競馬場を横目に進んでゆく。この中央道側道が曲者で、左手の視界が中央道で遮られるために道を歩く喜びが少ない。歩いても歩いても景色が変わらずこのあたりでかなり意気消沈した。それでもかなり忍耐して歩く。府中本町、分倍河原、西府、谷保を過ぎるあたりで中央道側道に別れを告げて、再び多摩川方面へ。

 4時間ほど歩き通しでさすがにつらくなっていたので、1時間ほど河川敷で休む。土手にどかっとザックを下ろして、靴を脱いで、川眺めたり持ってきた文庫本を読むような時間は日常においても必要だと思う。このあたりに来ると多摩川中流である。私は下流の川があまり好きではない。河口近くのあのとろんとした磯まじりの匂いや、動いているのか分からないあの緩慢な弛緩しきった水面はどうも好きにはなれない。その点、中流あたりになると水の流れに張りが出て、清浄な感じがする。

 気づかないふりをしていたが足の皮が水膨れになって剥けていて、現代の人間の皮膚の脆さを思う。例えば西行が、例えば芭蕉が、靴擦れ(草履ずれ?)したりしたろうか。筋肉痛になったろうか。なっていたとしてもテクストには残っていないわけだから、彼らの美学がそう選別させたのだろう。テクストに書かれなかった苦労に思いが至すのは自分が歩いたからこそだ。

 再び歩き出す。行政区画的にはこのあたりは日野市である。このあたりから如実にロードサイド型の景色に変わってゆく。大きな箱型のUNIQLOやデカデカとした看板を掲げた一階が駐車場になっているファミレス等。地元の北海道旭川が典型的なロードサイド型の街なので、親しみを感じる。多摩モノレールも見える。

CoCo壱の今此所讃を偽風土記

季節風(モンスーン)よ直線(せん)が舫へる単一軌道(モノレール)

 八王子市に入る。八王子は太古はメタセコイアの森でありハチオウジゾウと呼ばれる巨象が闊歩していたようだ。象の化石が2001年に北浅川右岸河川敷(清川町の対岸)で発見され、2010年に新種として認定されたという。牙は1.6メートルの長さというからかなりの大きさで、目の前に想像の象の像を立ち上げてみればその威容に怯まざるを得ない。

死象步(ほ)す後世界爺(めたせこいあ)の夢うゝつ

 14時頃、八王子駅に着く。今日は八王子駅宿泊のホテルで予定なので無理をせずに身体を休めることにする。遅めの昼食でラーメンを食べたが塩分が身体に染み渡った。そして足がほぼ棒のようになってきていたので、駅前の商業施設のなかのドラッグストアでサロンパスを購入した。体力的な消耗はさほどないのだが、足や関節にかなり負荷が来ているため、明日以降は足にいかに負担をかけないかが肝要になってくると思った。

 ドラッグストアの支払い時に「桑都ペイ」での支払いが可能という表示を目にし、桑ということは八王子は絹の産地だったのだろうかと思って調べてみるとやはり桑の一大産業であって、絹がよく作られたようだ。八王子周辺で生産された生糸はいったん八王子宿に預けられ横浜に運ばれ、輸出され外貨を獲得するための貴重な輸出品となったらしい。絹の輸出商との直接やりとりをする都合で幕末から明治にかけては外国人商人もわりに八王子を訪れた。当時ヨーロッパでは蚕の病である微粒子病が流行り、ヨーロッパの養蚕産業が壊滅的状況だったことも、日本の養蚕産業においては追い風であったようだ。八王子と横浜を結ぶ道は絹の道と呼ばれている。

すべて蠶(こ)の夢花街も大學も

2日目 8月13日 八王子市~大月市

 曇り。5時30分から歩き始める。今日は八王子市から大月市まで歩く。距離にして53km、およそ12時間歩かねばならない格好だ。ほぼ中央本線に並走するかたちで甲州街道を歩くことになる。大月のもう少し手前の上野原あたりで泊まる手もあるのだが(今思えば確実にこれが正解だった)、富士登山の余力を残すために3日目の負荷を軽くするためには2日目に出来る限り距離を稼いでおきたいという意図があって2日目に最長距離を持ってきた。

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 八王子市を南下してまず町田市を目指す。7時頃に東京家政大学町田キャンパスのあたりを通過する。このあたりは軽い峠になっており、昨日の歩行が足にかなり効いているのを感じる。筋肉痛もあるのだが足首が踏み出すたびに痛む。むろん歩き方の問題もあろう。この程度でオーバーユースになるのが恥ずかしい。騙し騙し歩いていると、痛みがもはや「そういうもの」として、所与のものとして感じられてくる状態になってくる。意識すると痛みが戻るので、頭の中を空っぽにして、歩くことそのものが私であるかのような状態を保つようにして、進む。フレデリック・グロは『歩くという哲学』(谷口亜沙子訳、山と渓谷社、2025年)で次のように述べている。「私が言いたいのは、歩くことによって自分に出会おうとしているわけではないのだ、ということだ。長年の自己疎外から解放されて、自分に出会い直すとか、本当の自分だの、失われたアイデンティティだのを取り戻すだとか、そういった話ではないのだ。歩くことによって、人はむしろ、アイデンティティという概念そのものから抜け出すことができる。」グロの主張するところは一理あるが、とはいえ、身体的疲労からは自由にはなれない。結局のところ私というものはこの身体からは自由になり得ないのだ。それでもコギトなどというものが解体されてゆく感覚に関してはその通りであると思うし、その心地よさは確かにある。

吾步くゆゑに吾無し四方夏野

 町田市を抜けて相模原市に入る。相模原市は選挙をしているようで、至る所に選挙のポスターが貼られていた。余談だが私は旅先に選んだ町が選挙をしている可能性が高い。町の生臭い空気感が少しく感じられてなんとなく好きだ。3時間ほどして津久井湖が見える。生の、飼いならされていない自然が増えてくる。津久井湖は渇水気味と見えて何となく張りがない感じだが、とはいえ巨大な水の塊が見えてくると興奮する。

ダムに浮く徒(あだ)なる芥蜻蛉(あきつ)飛ぶ

 津久井湖は横に長く、永遠に感じられるくらい津久井湖の横を歩く。歩いても歩いても右手に津久井湖があって頭がおかしくなりそうだ。津久井街道はアップダウンも激しい。登りは別に良いのだが、下り坂にかかると足首が爆発する寸前の痛みを訴える。足首だけ火事になっているようである。

足首に不定(アンフォルメル)の火事育つ

 足首が疼きを激烈に主張するから、主体の座に今居座っているのは足首に他ならない。そのほかのものは後景にしりぞき、今此所にあるのは足首それだけであるような錯覚を覚える。もはや私はいない。足首だけがある。足首だけが存在する。座って休んでサロンパスを張り替えたりしながら何とか進む。

肉叢(ししむら)へ神速しかとサロンパス

 11時頃、相模湖が見えてくる。兎にも角にも長めの休憩をとって足首の負荷を減らしたい一心で休憩できる場所まで歩く。途中、相模湖の対岸まで渡し船があるらしく、それを利用するか最後まで迷ったが、なんとか堪える。意地である。ファミリマートでアイスを買って湖畔で食べる。体温が身体の内側から下がっていくのを感じた。昨日のラーメンといい、飽食とはまた別の食べる喜び。靴を脱いで、湖畔に足を伸ばして横になる。あまりにも心地よく30分ほどうとうとした。目覚めると筋肉が固まってしまって、歩くのが容易ではない。引きずるようにして甲州街道を歩いていく。このあたりで右足の登山靴のソールがはがれかけてくる。

 上野原駅を通過したのは15時頃。このあたりから空模様が怪しく小雨が降ったり止んだりを繰り返す。幸い登山に備えてレインウェアは持っていたしザックカバーもあるから装備面での問題は無かったが、体力は消耗する。まして足首は相変わらず疼きやまず、苦悶の表情を浮かべながら歩いた。四方津、梁川、鳥沢、猿橋。このあたりはもうほとんど記憶がない。どう歩いて何を考えていたかはほぼ覚えていない。特に猿橋などは日本三奇橋と呼ばれる名所らしいがもうそういうことに気を配れるような余力はなかった。18時頃に日が暮れても着かず、歩道もない夜道を忘我の状態で進んだ。雨にも降られ、全行程の中でいちばん辛かったのがこの15時から20時頃である。さすがに中止し帰宅したい気持ちに何度もなる。

蛇と化し陰毛の野を歸去來(かへらなむ)

 20時30分ごろ、大槻市街に着く。江戸時代には甲州街道の45ある宿場のうち12宿が現在の大月市内にあったという。富士詣の人々も多く利用していた宿場であるから、富士詣気分になるかと言われるとそんなことはなく、とにかく足首が痛い。それだけである。満身創痍で東横インに辿り着く。風呂に入ってサロンパスを貼って皮のむけた足の裏の消毒をする。しかし何よりも問題なのはやはり足首で、この痛みをどうにかしない限り富士登山も無理であろう。明日朝の足首の状態によっては、徒歩での移動を諦めて電車で富士吉田まで移動する決断が必要である。明日一日歩かず、足首への普段の蓄積を避ければ富士登山への希望も繋がれよう。

3日目(8月13日)大月市~富士吉田市街

 大月市を出て富士吉田市へと向かう。この日は距離にして21km、およそ5時間ほどの歩行の予定であった。朝5時に起き足首の状況を確認したところ、やはり接地しときに鈍痛が走るので、泣く泣く電車移動を選択せざるを得ないと考えた。であるならば始発まで時間もあることだから、もう少し寝ていようと考え、布団に潜り込む。7時半に再び起きて、ホテルの簡単な朝食を食べて、電車を利用するたびに大月駅へ向かう。大月駅へ向かう方角には富士山が見えるはずなのだが、曇っており見えない。富士詣と言いながらまだ富士山を一度も見れておらず、富士の実在を疑い始める。大月駅の改札を抜けようとするとき、ここまでの約80kmを徒歩移動で来たのにここでギブアップすることの悔しさが湧く。踵を返し、富士吉田市へ徒歩で向かうことに決める。こう書くと格好良いが、合理的理性が意地によって鈍麻するというだけのことである。撤退判断が出来ないことによって破滅した指導者は歴史上たくさんいる。

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 大月市から桂川に沿うように南下すると都留市に入る。都留市も大きな市でなかなか脱出させてくれない。途中リニア見学施設が見える。中央道側道に沿いながら歩いていくと都留市街で、さらに進むと都留文科大学が見える。また田原の滝という滝もあって、ここは芭蕉も訪れて句を詠んだようだ。

 このあたりは少し懐かしい。というのも、以前丸田洋渡がこのあたりに住んでいて、2018年だからお互い大学2年生のときの年越しのときに丸田宅に招いてもらった(押しかけた)記憶がある。田原の滝も案内してもらった。この時は年越しうどんを自作して、どろどろの何かが出来上がった記憶がある。あれはなぜ失敗したのだろうか。いま思えば別茹でにせず、汁で煮たのかもしれない。何にせよ良い思い出である。

 登山靴のソールが両足とも剥がれたので、コンビニで布テープを巻いて補強する。登山靴は3年から5年が寿命と言われているが、高校生のときから使用しているものだから寿命は全うしたとはいえよう。しかしアスファルト歩行が登山靴にダメージを与えていたのは間違いない。このあたりからいつのまにか139号は「ふじみち」と名付けれていて、富士急行線に並走しながらただひたすらに歩いていくと、ついに富士吉田市である。そして進行方向に富士がようやくその姿を見せた。曇っていて全容は明らかでないが。

夏大虛(なつぞら)や不二に鈍して麓人(ふもとびと)

 ホテルに14時頃チェックインして、身体を休める。エレベーターが点検のため止まっていたから4階までなんとか上がる。なんだかんだと100キロを歩き通したわけだから、我ながらよく頑張ったと思う。富士山に登頂したい気持ちよりも富士山まで歩けるかどうかの方に興味の重心があったので、この時点でかなり満足している。とまれ、足首の負担がさらに蓄積したことは言うまでもない。ドラッグストアで追加購入したサロンパスを貼って早々に眠る。サロンパスさまさまである。気休めかもしれないが人間には気休めこそ必要なものなのだ。

4日目(8月15日)富士吉田市街~里見平星観荘(6合目)

 4時30分に起床する。カーテンを開ければまだあたりはほの暗いが晴れていて、富士山の全容を初めて望むことができた。ご来光目当てのヘッドライトの列は麓からも望むことができる。身支度をして、北口本宮富士浅間神社を目指す。なんだかんだと富士吉田市も広いので、寿駅最寄りのビジネスホテルからは1時間と少しかかる。

 北口本宮富士浅間神社は古くから富士講の起点となっていた神社である。祭神は富士山を表象する女神である木花咲耶姫。夫からの疑念を晴らすために火の中で出産した木花咲耶姫であるが、その逸話から、富士山を御神体とする浅間神社の浅間大神と融合し、富士山の神となったようである。富士山の神であった浅間大神は、もともと木花咲耶姫とは別だったのだが、木花咲耶姫に飲み込まれた。

神は神呑み込み育つ槍霞(やりがすみ)

 境内に入ると一気に空気が冷んやりとして心地よい。富士浅間神社を右に進むと、冨士講の開祖・角行、中興の祖・村上光清、食行身禄を祀っている祖霊社がある。かつてはこのルートを登るしかなかったが、五合目まで車で行けるようになってからはこのルートは廃れてしまい、ほとんど利用者がいなかった。富士山の世界文化遺産化を受けて、このルートも再興が目論まれ、再整備されているようである。

 遊歩道を歩き始めると、地面がふかふかしている。いかにこれまで歩いていたアスファルトが硬かったかというのを思わされる。足首にも優しく何よりそれが嬉しい。

 ただ、このルートの恐ろしいところは、富士浅間神社が1合目であるわけではないというところだ。富士浅間神社から2時間ほど歩いてようやく「馬返し」と呼ばれる1合目付近に到達する。森林浴のような感じもあって、至る所に熊出没注意と喚起の札が貼られていることを除けば大変快適で楽しかった。富士登山のピーク期にも関わらず馬返しまでは誰ともすれ違わなかったから、やはり富士浅間神社から登る人はかなり少数なのだと思う。

 2時間歩いてようやく1合目、このあとはどうなってしまうのかと不安もありながらであったが、2合目、3合目、4合目、5合目と、それぞれ30分ずつくらいで経過することができる。途中、崩れ朽ち果てた茶屋を幾つも通り過ぎ、改めてこのルートが廃れた道であることを思う。なんだかんだと11時30分には五合目の佐藤小屋に到達する。ここで鍋焼きうどんを食べたのだが信じられないほど美味しかった。コシのないやわやわのうどんではなく、強烈なかみごたえのあるいわゆる吉田うどんである。

 佐藤小屋のすぐ上にある星観荘が今日の宿泊場所である。想定ペースをかなり巻いてしまい昼12時ごろには着いてしまったので、小屋前のベンチにタープを張ってもらって待たせてもらった。朝が早かったこともあってうたたねをした。ゆったりと時間が流れる。この小屋は2325m地点にあって、ちょうどこのあたりを境にして、森林から砂礫が多くなり、いわゆる富士登山の景色となってくる。体力に余力があったので7号目、8合目の山小屋でもよかったかもしれないと思いつつ、小屋が快適だったので文句は言えない。

 ご来光を頂上で見たい気持ちはさほどないので、明日は午前3時くらいから行動を開始し、7合目あたりで見れればよいと思っている。5合目から頂上までは7時間ほどと言われる。日の出を望むためには22時ごろに小屋を出ねばならず、さすがにそこまでの気力はない。夏季は携帯の各キャリアが電波を設置しているため、電波が届くことを良いことに携帯でプロ野球を見て過ごす。山の天気が変わりやすいというのは本当で、雨が降ったり晴れたりを繰り返していた。二段ベットの二段目で寝ていたから、雨音が屋根を打つ音が間近に聞こえる。かなり強い雨だったがそれもそれで心地よかった。

5日目 8月16日 里見平星観荘(6合目)~富士山頂

 午前2時に目が覚めて外に出てみれば晴天、満天の星空である。細かく普段は視認できない細やかな星々も明瞭に見える。風もほぼ無い。6合目はほぼ植物が無くなり、ということは植物を食べる虫や、その虫を食べる鳥もいないから、一切の音がない。無音なのである。自分の呼吸音以外音のしない静かな空間。単独行の喜びである。山小屋で用意してくれた朝飯を持って歩行を始める。

しのゝめの山の鎭まり肉醬(しゝびしほ)

 かつてカントが『実践理性批判』の結びの言葉で「我が上なる星空と、我が内なる道徳法則、我はこの二つに畏敬の念を抱いてやまない」と述べ、道徳法則と併記されるほどのものとしての星空を価値づけていたことに私はむしろ心打たれるわけだが、星空を讃えるカントの気持ちも分かるというものだ。月は半月ながら、これほど月が明るいと思ったことは一度もない。星あかり、月あかりの中を、ヘッドライトを装着して登り始める。

星垂れて靈(たまゆら)の濃き鳥獸(とりけもの)

 山頂でご来光を見る人たちは既に小屋を出発しているから、他の登山もほとんどいない。麓の富士吉田市の灯りも輝いて見える。サン=テグジュペリの『夜間飛行』(仁木麻里訳、光文社古典新約文庫、2010年)冒頭には飛行機から麓の灯りをこう描写する。「村々にはすでに灯火がともされて、その明かりが星座のようにまたたきを交わしている。ファビアンもまた、機体のポジションライトをまたたかせて村々にこたえるのだった。いまや大地は光の呼びかけに満ちている。どの家も海にむかって回転する灯台の灯のように、広大な夜にむかってみずからの星をともしていく。ひとの生を支えるいっさいが、すでに煌めいていた」。灯りひとつひとつに人々の生活をみてとるのはもはや通俗的かもしれないが、そのような感慨も覚えよう。

 本8合目あたりで午前5時となり、日の出を迎える。あいにく日輪をくっきりと見ることが出来なかったが、朝日というのは平地で見ても否が応でも清々しい気持ちになるものだから、夜が明けていくのを多少感じられただけでも感謝せねばならない。感謝をする、いったい何に? 仏に? 神に? 結局のところ、合理性が通じない自然を前にすると形而上学的なものが思考のすきまに入り込むということなのだろうと思う。こういう目的語なき感謝のようなところから形而上学的観念が育っていくのだろう。

 雲海も見ることが出来、日矢が雲海の上部に刺さっている。河口湖や自衛隊の演習地や山中湖なども一望できる。

太日矢の犇(ひし)めきて射す捨聖(すてひぢり)

 午前7時頃には9合目に着く。このあたりからはガスってしまい、そこから先は小雨の中をただひたすらに進んでいく。布テープで補修していた登山靴もさすがに持たず、何度もはがれてしまう。布テープを貼りなおすが、雨で濡れているから粘着力が弱く何度も貼りなおす羽目になる。気温は7度ほどのため、立ち止まるたびに汗が冷えて体温が奪われる。

 午前7時半に登頂する。雨が降っており視界が悪いので、御鉢巡りはせずに下山することにする。山頂に到達したという達成感はさほどなく、自分でも拍子抜けするほどあっけない登頂だった。

地衣類の世や俗界を日照雨(そばへ)越し

 午前10時に5合目の富士スバルラインまで降りてくる。そこからはバスと電車に乗って帰宅した。特に電車は中央本線の特別快速に乗ったこともあって、とんでもない速さで東京まで着いた。こんなものが出来てしまったら、そりゃあパラダイムも変わるだろうと思った。私がへとへとになって歩いた大月から八王子までなんて、うとうとしていたら過ぎ去ってしまった。

エピローグ

 結局のところ、自宅から富士山山頂まで歩いたところで、自分が劇的に変容することもない。成長することもない。インドに行って世界が変わるという軽薄な自己啓発と同様で、距離にして130キロ、標高差3760mを踏破したところで別に何も変わらない。それはそれでむしろ心地よい。残ったのは筋肉痛と疲労骨折気味の足首、壊れた登山靴だけである。

 ただ記号としての、シンボルとしての山肌を踏み尽くしたことは痛快だった。富士山が巨大で平凡な玄武岩塊であることを、単なる著しい起伏たることを足裏で確認したのだ。が、何か身体に根ざした霊性も同時に看取していないと言えば嘘になる。思考のはざまに入りこんでくる形而上学的な感覚をメタに認知しながら歩けたのも面白かった。悟りも開かなければ唯物主義者にも徹しきてない俗人であることが確認出来たのだった。

聳ゆれば俗人登り不二詣

「不二曼荼羅図」70句

不二曼荼羅圖   柳元佑太

不二の鬱氣海(えーてる)に漏れ首都や冬

愛國や中止(えぽけ)の濤を圖像(いこん)とし

Zipanguや記號の不二を弄(もてあそぶ)

逝く四季や樂土に啼かば狂鳥(くるひどり)

夏濤や記號が不二を飼ひ慣らし

いざなへり不二は贅肉(しし)なき容みせ

わたくしも不二浮世繪の繪空事

峙(そばだ)つやソシュールの世をそヾろ神

草神や川を太らせ昨夜(きぞ)の雨

堰爲して水鎖すならひ花河童

生者死者ビル屋上に蹴鞠せり

人間に皮膚の貼り付くすゝきかな

季節風(モンスーン)よ直線(せん)が舫へる單一軌道(モノレール)

郊外やチュッパチャプス舐め戾す

郊外は四角形(はこ)の壓政空廣き

竝木は櫻番號(ノンブル)が團地統ぶ

蠶(こ)の流行り病ひに夏の闌けにけり

すべて蠶(こ)の夢花街も大學

幻はこにかみのるた南門

桃中華永劫回歸してゐたり

CoCo壹の今此所讚を僞風土記

ENEOSやまします鱏(えい)も終日(ひねもす)寢

鱗(うろくづ)や太陽(ひ)は沈むとき最徐行

晴天や荒地に外科が剥き出しに

世の蔦よ次は方舟(ふね)より人類(ひと)排さん

死象步(ほ)す後世界爺(めたせこいあ)の夢うゝつ

遊步者(フラヌール)よ隕石雨ふる郊外を

燕子花逸書匿ふ時空あり

ダムに浮く徒(あだ)なる芥蜻蛉(あきつ)飛ぶ

肉叢(ししむら)へ神速しかとサロンパス

足首に不定(アンフォルメル)の火事育つ

吾が唇(くち)と吾れ接吻す汗のあぢ

神は神呑み込み育つ槍霞(すやりもや)

觀光客(ツーリスト)木花咲耶姫(さくやびめ)踏み殺す哉

メフィスト憑く日本人第一主義(にほんじんふぁうすと)に

Google Map 愚なり久遠の暮れつ方

胎內を老師の訪へる風土記かな

吾步くゆゑに吾無し夏不二に雪

足の上(へ)の胴(トルソ)孤獨ぞ野永遠

火の鳥は今生終へき灰の夏

眞實の蔦のほのほの木花咲耶姫(さくやひめ)

太初(はじめ)に默ありき八月不二默(もだ)す

夏大虛(なつぞら)や不二に鈍して麓人(ふもとびと)

何らかや不二と夏野を隔(わけへだて)

蛇と化し陰毛の野を|歸去來(かへらなむ)

大虛(そら)涼し鳩の屍體(かばね)も九想圖に

夏野永遠淨土への途(と)に滅(き)えむ靈(たま)も

眞夜不二のいたヾきを飛ぶ僧と鱒

マグマの布(ふ)敷く上(へ)踊らん曼荼羅圖

犬儒派に不二は火の淚(なだ)流し給ふ

相模湖に水女(ナンフ)こそ存(い)め月の夏

鑢鱒(やすります)日がな日輪荒れどほし

盜まれしかの鱒の痣忘るべし

日輪に月輪に夏瘦せにけり

道行映畫(ロウドムウビイ)日がな日責めや瓜すヾなり

不二が吾を見詰めしよ以後病みとほす

極樂や氷りつゝ噴く記紀の山

夏の不二曖昧模糊にして明瞭

病むも又たひとの快樂(けらく)や夏の不二

排泄す富士の慈愛を持て餘し

病み拔けば不二こそ噴かめ曼荼羅圖

花癡りて萼(うてな)醒めたり御國の忌

旅籠屋の風の鍋燒饂飩かな

しのゝめの山の鎭まり肉醬(しゝびしほ)

星垂れて靈(たまゆら)の濃き鳥獸(とりけもの)

然(しか)すがに火蜥蜴(サラマンダー)のさゝめ言(ごと)

太日矢の犇(ひし)めきて射す捨聖(すてひぢり)

懷かしの雨の山上他界かな

地衣類の世や俗界を日照雨(そばへ)越し

聳ゆれば俗人登り不二詣

作品7句「脳天壊了」(「俳句」2025.5)をどう書いたか  柳元佑太

旅先で

 旅の目的は幾つかあった。第一に香月泰男の絵を見ること。香月はシベリアの抑留体験を持つ画家である。院生のときに足利の美術館で一度、初期の「兎」という絵を見たのだが、それ以来わりと気に入っている。山口県長門市は彼の出身地で、そこに小規模ながら美術館がある。

 第二に、門司港に行くこと。ここは舞鶴と並んで引き揚げ船の受け入れ拠点でもあった。シベリア抑留及び引き揚げに解像度を上げたいという気持ちがあった。そしてせっかく引き揚げのことを考えるのであれば自身も船旅で、つまり横須賀から新門司までフェリーでの船旅を試みてみようというわけだ(ちなみに21時間かかる)。吉田知子の「ニュージーランド」という短編を読んで以来、私は船旅がかなり好きになっている。

 第三に角島灯台に登ること。「登れる灯台スタンプラリー」なるものへの参加を年初に思い立った。登れる灯台は全国に16か所点在していて、一回の旅で一つの灯台に登るとすると、単純に各地へ16回も旅をする口実が出来る。単純に辺鄙な海辺に行くのも好きだ。

ぼくはこれまで、ひとりで旅をするということに、ひどくこだわってきたように思う。ぼくにとって旅は、なによりもまず、魂が自分を脱して飛翔する時であったから、知っている人といっしょに行くことで、いつでもその人(たち)をとおして、変身する以前の自分につれもどされるということを好まなかった。自分をその過去とつなげてしまう同行者のいないときの方が、魂はとおくまでゆくことができる。 真木悠介「方法としての旅」

 真木がかつてこう述べていたが、一人旅にはそれにしかない良さというのがある。 魂の飛翔というほど格好いいことを言うつもりはないけれど、やはり一人で見知らぬ土地のなかを誰でもない人間として歩くというのは嬉しい。見慣れない植生の花に立ち止まることもできれば、港の野良の猫をつかのま追いかけたりすることも出来る。旅ごころも旅のうれいもほしいままだ。

兵隊シナ語を使って

 北海道出身ということもあって季語というものをそもそも「自分の言葉」と思ったことが一度もなく(北海道において季節は歳時記的運行などしない)、最初からファクションとしてしか接してこなかった。季語というものが持つ帝国主義へのロマンティシズムや、あるいはそもそも俳句それ自体が否応がなく引き寄せてしまってように見えるナショナリズム的美学に(正しい日本語とは何か? 自然な日本語とは何か? 平明でわかりやすい日本語とは何か? そしてそれはだれにとってか?)、いかにからめとられずに、あるいはからめとられながらも抵抗の痕跡をのこすか。そういう意識は常にあったが、はっきり言えばこれは私の惰性から、季語は手放せずにいたことに、意識的に手を入れたかった。

 このとき、手掛かりになるだろうと思って温めていた句材というかアイデアが、兵隊シナ語である。兵隊シナ語とは日中戦争勃発後に日本陸軍将兵の間で使用された、日本語と中国語のクレオール言語である。戦争に伴う臨時言語だったため日本の敗戦と共に使用されなくなったが、戦後に戦争経験者が俗語として使うことがあった。私はこれを吉田知子の短編「脳天壊了(のうてんふぁいら)」にて知った。「脳天壊了」は「頭がいかれちまったな」くらいの意味である。

 兵隊シナ語は、ひとつには正格な日本語、端正な日本語、美しい日本語というイデオロギーを破壊する。また、俳句が俳句である以上どうしても抱え込んでしまうナショナリズムをそもそも明示的に抱え込んでいる言語であるから、ナショナリズムが透明化される恐れがない。こういう見通しがあって、旅の中でなんとか兵隊シナ語を用いた連作を作ろうと考えたのだった。そういうこともあって、旅先には門司や長門など、引き揚げのことを考えうる土地を選んだ。

本を読みつつ旅をする

 旅に出る前には家の本棚から数冊本を抜いていく。吉田健一は旅先で本を読むなんて愚かだみたいなことを述べていたが、私は旅が入れ子構造になる感じがあって、旅先で本を読むのは好きだ。つまり本を読むということがそれ自体ある意味では旅なのであって、旅先で本を読むということはある意味では実際の旅の他に書物の世界の中の旅をするという、二重の旅をするということになる。その二つの旅が交感照応するような本をもっていけたらしめたものだと思っている。

 もちろん、思いのほか時間がとれなかったりして読めないこともままあるし、それはそれでいい。今回は『シベリヤ物語 長谷川四郎傑作短編』(ちくま文庫、2024年)をもっていくことにする。短編というのは実際の旅の隙間に読めるから具合がいい。長谷川四郎は元満州鉄道の社員で、徴兵され、シベリアに抑留されている。

 船は真夜中に横須賀を出た。一週間の勤労に窶した身体は眠りを欲していた。眠いが寝付けない。ツーリストAという部屋はありていに言えば、カプセルホテルのようなねぐらで、横たわる人間をいかに省スペースで運ぶかということが考えられている合理的な作りをしている。価格は一万円と少し。移動費と宿泊費を兼ねていると思えば安い。船が揺れるのと、隣室のいびきで睡りは断続的であるのだがそれもまた一興である。どうせ眠れぬのならと思って本業の仕事を少し進めていたら、いつの間にか眠っていた。

 昼過ぎ、姉妹船とすれ違うとアナウンスがあったから甲板に出てみる。いかにも春の海というのどかな淡い海がとろんと広がっていて、船と船はすれ違いざまに呼応するように汽笛を鳴らし合う。同じ運行会社のバスがすれ違う時、運転手同士が手を挙げて挨拶するのを見るのは何となく好きなのだけれど、船の汽笛はやや過剰演出の感もあって興が削がれる。しかし、そんなことはどうでもよくなるくらい波は穏やかだ。 

 船には露天風呂やサウナもついている。豪奢だ。自衛隊員二人組とサウナで一緒になる。以前大洗‐苫小牧のフェリーを利用したときも自衛隊と乗り合わせたから、自衛隊の移動手段としてフェリーというのは常套なのかもしれない。東京だと自衛隊員の存在をさほど思わないけれど、地方だと自衛隊というのは急に距離が近くなり可視化されるものの一つだ。地元・旭川にも駐屯地があって、国道を自衛隊のトラックがよく通っていた。自衛隊への勧誘のポスターは至るところにあり、親の職業が自衛隊という友人は沢山いた。サウナの自衛隊の二人組は、駐屯地のサウナよりは温度が熱くないとか、帰投するときに時間を巻くためにコンビニに寄らないはずだとか平和な話をしていた。

 霞がかった島々が、昼の潮のうえに現れては流れてゆく。

 船室で読書をする。黒パンと酸っぱいキャベツ、貧しいロシア人農夫たち、抑留された日本兵。ロシア人にも日本兵にも分け隔てなくパンを振る舞うロシア人寡婦の腕のうぶげの金、野菜集積地と鉄道、礼拝堂と名付けられた死体置場。

 本を閉じてデッキに出れば、鮮烈な春の夕焼けが左舷の九州側に沈んでゆく。右舷には愛媛の半島が見えて、半島の山並みに尾根に風車が立ち並んでいる。けざやかな夕日光線が小波を照らしをかける。

門司の安宿で句を書く

 門司港についたのは21時頃。一瞬尻込みしてしまうくらいたいへん奥ゆかしく朽ちたビジネスホテルが今日の宿だ。

 このご時世一泊4000円だが、部屋自体は快適である。船の中の読書でかなり言葉が頭の中に滞留する状態を作り出せたので、ここで集中して句を作ることにする。かつて満州からの引き上げ拠点であった門司という空間の地霊に身を預けつつ、これまで自分の中に蓄積していた植民地、引き揚げ、抑留の言葉を引っ張り出してくる。言葉として相手取りたい語は、スプレッドシートにメモしてある。

 これらの語を没入の足がかりにして、自分を「場」として言葉に明け渡す。到来するものを受け止めたときの身体の起こりが言葉に現れる。ロゴスと結びつく秩序ある言語では無く、過去の人物の実存が食い込んだ混沌として、語を感じながら、それを受け止めて引き込む。参照した言葉と身体が擦れあい、身震いする身体の手応えを、現象界に持ち込む。どこまで自分がそれに介入して俳句という鋳型に押し込むのかはかなり一回性の強い判断だけれど、そのあたりは一方でかなり理知的、構成的に処理をする方だと思う。それでいてなお統御しきれない言葉の混沌があるから、スリリングである。

 過去と現在が混線的に入り混じる句が20句くらいが一気にかけたので、眠る。わたしにおける参照性とはいま現在このようなものであって、あるテクストと意図を持って親愛的な距離を仮構する営みとか、あるいはデータベースを利用した技術至上主義とか、そういうのにはほぼ興味が無くなって久しい。元来、参照というのは意図的なものになり得るはずがなかったのだ。このあたりは「ねじまわし」5号で書いているので、どうぞ。

レンタカーで事故を起こす

 早起きして車を借りて走らせる。俗にいうペーパードライバーだがこういう思い切りはいい方だ。関門海峡を渡って北上、下関市街を抜けて長門・萩の方面へ。途中で観光地化している角島灯台に寄ったのは「登れる灯台スタンプラリー」に参加するためだ。無事印をもらう。風も穏やかな春の海で、灯台は春の日差しをやわらかく照り返している。浜木綿が風にゆれ、鳶の声が遠くから響いていた。

 もう少し車を進めると千畳敷という高原があった。この高原からは日本海が見えるという触れ込みである。車を走らせてみる。だだっ広い駐車場には人っ子ひとりいない。日本語には油断大敵という言葉があるが、流石人口に膾炙しているだけはあって、一定程度真理を言い得ているようだ。縁石に車の前部から突っ込んだ。

 焦りつつ車を降りて車の下部を覗き込めば、バンパーがしっかり破損している。レンタカー会社に言われた通りにふもとの警察署に電話をかけて事故を報告する。パトカーが高原に到着するまでは1時間ほどかかるということだ。

 もうすでにこのとき私は泰然自若と構えはじめていた。杜甫に〈国破れて山河在り〉という詩句があるが今回は〈車破れて山河あり〉といったところで、私がいくら焦ったところでパトカーが早く来るわけではない。春の海はおだやかで、山の木々は芽吹き、春の風が優しく吹き抜けていく。昨日作った句を推敲しつつ、パトカーの到着を待った。表題句「腦天壊了(のーてんふぁいら)藪の齒醫者は天卽地」はうまく説明できないがこのときにスッと出来て、しばらくこの作り方で自分は自分のことを面白がれるなと思った。

 駆けつけてくれた警察官は優しかった。車を借りる際に入れるだけ保険に入っておいたので賠償などはなかった。保険は大航海時代に香辛料貿易への出資リスクを下げるために発明されたらしい。保険は発明であるとこのとき強く思った。

記:柳元

遠州号〈特集・旅吟〉

 2025年3月22日・23日、帚のメンバー4人で遠州地方(静岡西部、浜名湖など)へ一泊二日の旅行に行きました。その際の各人の旅吟15句を掲載しています。柳元が担当した旅行記もあわせて、旅の様子とそれぞれの作品をご笑覧ください。

(以下、各タイトルをクリックすれば作品へ飛びます)

〇俳句15句

・平野皓大灯台

・丸田洋渡流木

・柳元佑太

・吉川創揮ぼけた

〇旅行記

・「遠州旅行記」(記:柳元)

鰻  柳元佑太

鰻  柳元佑太

春休鰻を食ひにゆきにけり

茶畑は送電塔を連ね冷ゆ

さんぐわつの砂丘の奧に都市の夢

春の灘光は粒として流れ

半島を沖に突き出す椿かな

霾や原發に塔あらまほし

鳥歸る砂丘に尾根の生れて消ぬ

靑空の淡きを野燒げむりかな

美しき穢土を棲みなす子猫かな

朝日なほ霞が濾せど濃かりけり

みづうみの春の濤ともいへぬもの

春は曙卓に地球儀天球儀

湖照るや旅も朝寢の癖拔けず

久方のひる花冷を氣象病

春愁ひ湖上に鳶と日を吊れば

ぼけた  吉川創揮

 ぼけた  吉川創揮

パン用のオリーブオイル黄水仙

鴨達を追わずに鴨のありにけり

海へ行く春おしゃべりな運転手

金ヘルメットみるみる遠く春の海

人に影ふたつ発電所に桜

顔中に春一番の分厚さよ

ネーブルや階段を吹き抜ける声

先生の話の調子シクラメン

石裏のぬくきを掌に移す

珈琲や白波の散るぼけた景

紋黄蝶砂に光の紛れある

鰻屋の春の闇てふ湖のうえ

桜鯛タイムマシンはこないので

囀やじようろを吊るす銀金具

遠ざかるもの眩しくて春の旅

流木  丸田洋渡

 流木  丸田洋渡

灯台に消火器ふたつ春疾風

よい日よい風ひめおどりこ草の首

黄信号みな一瞬のラナンキュラス

流木の流れ来たことすら忘れ

春濤に錆びるともなく砂丘かな

提灯のような音して凧売場

磯鵯かつて校歌に雲の描写

山椒は泳ぐ鰻を大昔

椿落ちはじめて湖のスポーツ

春の夜の卓球台のふかみどり

山桜ホテルのミニ自販機の水

はじめてのパニーニ紫木蓮の朝

軽鴨のいまのいままで水の上

起きている孟宗竹が夢のように

春や今句友が塁を回りくる

灯台  平野皓大

 灯台  平野皓大

梟を正面に描く春の皿

花の雲灯台まではすこし山

何時の間に桜博士となられしか

朧なり貝殻売のとほき耳

貝つぶら灯台つぶら鳥帰る

龍天にのぼる砂塵を厭ひつつ

腰かけによき流木や春北風

永き日や佇ちて砂丘のあちこちに

東京へ行きたさうなる凧一つ

民宿夜道百ほどは落椿

朝寝して窓一枚を挟み湖

風呂の子の昨日凧揚げせしとかや

巣燕や時計の音を裏に聞き

ここ断たば橋の崩落木瓜の花

また旅へ花粉症のかほで会はん

遠州旅行記

 丸田洋渡の運転するレンタカーの乗り心地は素晴らしく快適だ。青い日産マーチは茶畑の中を滑らかに進んでいく。直近に自損事故を起こしたぼくを助手席、平野皓大と吉川創揮を後部座席に乗せる。

 茶畑を横断するように送電塔がリズミカルに幾本も連なっている。黄砂なのか花粉なのか霞なのか判別がつかない春の淡いもやが彼方へと流れていく。神羅万象が明らかに春の様相だ。

 丸田洋渡は軽口を叩きながらハンドルを軽快にさばく。赤くなった目をこすりながら窓を開けた平野皓大に、花粉症なのに何故開けたのかと吉川創揮が突っ込む。平野皓大は笑いながら何か言ったが窓は閉めない。春風が吹き込んでくる。皆がどことなく春の旅に心が浮かれているようだった。

海へ行く春おしゃべりな運転手   吉川創揮

 ぼくらは二七歳になる。「帚」は十代の頃から縁が続いている仲間で、気心が知れている中ではあるけれどでもそれほどべた付いた付き合いをしているわけでもない。つかず離れずというと冷たい感じがするからそれとも少し違うのだけれど、少なくともぼくにとっては飾らずに、自然体で付き合える数少ない(というか無二の)友人たちであることは間違いない。久闊を叙したり、だらだらとどうでも良い話をしたりしながら、車は岬の果ての灯台へを目指して走っていく。静岡の黄信号は短い、と嘘か本当かわからないことを丸田洋渡が言う。

黄信号みな一瞬のラナンキュラス   丸田洋渡

 掛川駅から二十分ほど車を走らせれば、眼前にすぐに太平洋があらわれた。海の水面に午前の日差しがきらきらと反射している。日々の労働で身をやつしているぼくらの中に旅ごころがむくむくと湧き上がってくる。恒例になりつつあるぼくらの小さな春の旅に、ぼくらははやくも充足の気配を感じとる。

 旅の充実を決めるのは、事前の準備とか、旅行先とか、費用とかでなくて、ひとえに自己の魂の飛翔だ。これは結構微妙なもので、どんなに遠い土地に赴いても、何か些細なことに起因して日常からのくびきを逃れることに失敗し、離陸することが出来ないこともままある。けれども遠州の春の海は、確実にぼくらを刺激した。塩梅よく魂の軽やかさを感じていた。

 ロードサイドには今は運転を停止している浜岡原発が見えたり、思いのほか大きいプロペラの風力発電機が見えたりする。電気は周縁で作られ中央に供給される。

 霾や原發に塔あらまほし   柳元佑太

 市街を抜ければ岬だ。進行方向右手には遠州灘が輝きを放っている。海の照り返しの柔らかな眩しさをもろに受けながら進む。沖の方には霞越しに船の影が動いていた。

 目的地だった白亜の建造物が見えてくる。岬の小高いところに置かれているそれは御前崎灯台である。灯台には螺旋階段が設えてあって、ドラクエみたいに一列になって灯台内部をぐるぐると廻って、思っていたよりも急な段差を急かされるようにのぼる。

 おお、とか、わあ、とか、ぼくらは思わず感嘆の声をあげた。地球、としか言いようがないパノラマだった。沖の方では黒潮と駿河湾の瀬流がぶつかっている。一帯には暗礁群が潜んでいるらしい。かつては船の難所だったようだ。

 灯台に吹き付ける海風はすさまじかった。平野皓大が案外怖がっているのも面白い。丸田洋渡はいったいどういうことか分からないけれど、眼鏡を吹き飛ばされていた。景色を堪能して見晴台を後にしようとした吉川創揮は年配の観光客に話しかけられて話の切り上げどころを失って風に吹きさらされていた。

貝つぶら灯台つぶら鳥帰る   平野皓大

 灯台のふもとには誓子の句碑があった。「句碑の割には良い句だね」と含みのある言い方をしたのは「帚」の面々のうち誰であったか。句碑というものは現代においてなお観光資源になるわけでもなく、ほとんどの人がその意味内容を理解しない空虚さがあるのに、その権威性が何かしらの信心を要求する間抜けさがある。空虚、権威、間抜け。そしてそれは句碑というよりも俳句そのものの本質ではないか。

 灯台からもう少し車を走らせると砂丘がある。砂丘というとてっきり鳥取にしかないものかと思っていた。ひかえめな砂丘というよりはしっかりと海を遮るくらいには壁をなしている。砂に足をとられながら砂丘をのぼり、海に向かって降りていく。春の日差しに白く輝きながら、太平洋が穏やかに波を淡く浜に打ち付けている。心地よい静けさを感じる。春の太平洋は確かに穏やかなのだけれども、しかし何か強度が潜性しているようなところがある。ぼくらは何を言うでなくばらばらに散っていく。

永き日や佇ちて砂丘のあちこちに   平野皓大

 砂丘側を振り返れば、私以外の帚の三人が、砂丘中腹の乾ききった二メートルほどの流木にベンチよろしく腰かけている。横一列に三人が座っている様は如何にも微笑ましい。かまびすしげに会話するわけでもなく、しかしてんで別のことを考えているわけでもなさそうで、春の海を眺めて、何かを考えたり談笑したりあくびをしたりしていた。

 浜松でレンタカーを乗り捨てて、鉄路で浜名湖の北岸に移動する。天竜浜名湖鉄道の始発である新所原駅にはうなぎ弁当が売っていて、うなぎという食べ物の魔力というか、その三文字を見たときにそのことしか考えられなくする力のようなものがある(結局ここでは購入しなかったが夕食はみんなでうなぎを食べた)。

 湖畔は海辺とは別の種類の静けさがあって、桜が控えめに咲いていたり、燕がせわしなく巣を建築していたりする。自然なゆったりとした時間の流れがそこにはあって、普段いかに時間を操作可能なものとして管理して忙しく過ごしているかを逆照射的に思わざるを得ない。そんなことを言ったって賃労働者として自分の時間を切り売りするしか生計をたてるすべがないのでせんないのだが。

 宿では卓球をし、思いのほか盛り上がる。丸田洋渡はテニス経験者なので、一人だけコマンドにスマッシュがあって、ずるいと言えばずるかった。

春の夜の卓球台のふかみどり   丸田洋渡

 暁のころおもむろに起きだして、日の出をみた。冷え冷えとしたほのぐらい湖を、ピンク色の太陽光線が照らす。朝風呂に入ったりベランダから湖を眺めたり、朝寝をしたり、思い思いに朝を過ごす。

湖照るや旅も朝寢の癖拔けず   柳元佑太

 適当に入った喫茶店のモーニングのパニーニを丸田洋渡や吉川創揮が絶賛していたり、「さわやか」のハンバーグを食べ損ねて無駄な移動をしたり、みなで東京に帰った後にぼくの草野球の試合を応援しにきてくれたり(彼らが見ている前で満塁本塁打を打てたことは生涯忘れることはないだろう)、まだまだ記したいことはあるのだけれど、このあたりで筆をおこうと思う。

 「帚」がどういう集団になっていくのかはぼくらにも読めないところがあって作品を発表出来ていないのは忸怩たるところがないわけではない。ただ確実なのは、「帚」というのは、友情のひとつの形態に便宜上ついた名前だということである。友情が続く限りはたぶん「帚」はなくならない。

 また旅に行こう、みんなで。

遠ざかるもの眩しくて春の旅   吉川創揮
また旅へ花粉症のかほで会はん   平野皓大

〈ゆるやかなわたしたち〉について おぼえがき   柳元佑太

 この批評は2024年12月28日(土)に開催された第128回現代俳句協会青年部勉強会「名付けから始めよう 平成・令和俳句史」の柳元作成レジュメをほぼそのまま掲載したものです。勉強会では私の他に赤野四羽さん、岩田奎さんがパネリストとして参加し、それぞれ基調発表&クロストークをしています。俳句史の新たな議論の種を作りだせていると幸いです。アーカイブが視聴可能ですので、ぜひお申しこみください!

1.新たな共同体〈ゆるやかなわたしたち〉の勃興

 元号が令和となってから結成された俳句共同体を思いつくままに挙げてみる。「楽園」(堀田季何主宰、2020年-)、「麒麟」(西村麒麟主宰、2022年-)、そして「noi」(神野紗希/野口る理代表、2024年-)。もう少し遡れば「蒼海」(堀本祐樹主宰、2018年-)などもある。

 時代的な分析を試みれば、東日本大震災を契機とした「繋がり」「絆」の称揚や、コロナ禍を背景とした非オンラインでのコミュニケーションの見直しは「人間はリアルな共同体無しでは生きられない」という感覚を醸成した。とはいえ我々は、家父長的な共同体に所属し、個を集団に奉仕させ、個をすり減らしたいわけではない。しかしインターネットでの緩やかなつながりよりはもう少ししっかりと繋がりたい。

 このような共同体回帰のニーズの具体的な現れが、前述の俳句共同体なのではないか。先に断っておくと私はこのうちどの団体にも関わっておらず参与観察できているわけではない。これから言表しようとしていることは、以上の団体に当てはまらない部分の方がむしろ多いと思うから、あくまでもたたき台として使われたし。

 ここでこの現代的な共同体のありようを〈ゆるやかなわたしたち〉と名指してみたい。ゆるやかに〈わたし〉を包摂する〈わたしたち〉。フラットながらもどこかナイーブで、安易で、欺瞞めいていて、それでいてほっとするような〈ゆるやかなわたしたち〉。運動体としての連帯を可能にしながら、ときにわたしを疎外して困惑させる〈ゆるやかなわたしたち〉。私の周りを霧のように取り囲んでいるものはこの〈ゆるやかなわたしたち〉的な共同体であるということには、少なくとも私には身体的実感がともなうように思う。今、この時代に立ち現れている〈ゆるやかなわたしたち〉という共同体のありようを言表してみたい。またこの共同体性は俳句にどのような影響を及ぼしているのか。

2.〈ゆるやかなわたしたち〉の特徴

 代表的な俳句共同体の類型を図にした。以下、この図をもとに説明したい。

 伝統的結社前衛的文学共同体〈ゆるやかなわたしたち〉
中心家父長カリスマわたし(たち)
目的(芸事としての)俳句の上達(文学としての)表現可能性の追及わたしの生の充実
イデオロギー無(「隠れたカリキュラム」として存在)
時間感覚円環的直線的(進歩主義)今・ここ
読みのモード私小説的テクスト論的(「作者の死」)制作における実存の重視(「作者の死」の死)
他者の句に対して批評言語化

 

3-1.中心

 伝統的結社は家父長が中心となって形作られ、ツリー状の構造を持つ。また前衛的文学共同体はカリスマが中心となって形作られ、相互承認が原理であることが多いが、実際はカリスマからの承認によるところも多く主宰や代表が中心となる点においては、伝統的結社とさほど構造が変わらないとみてよい。対して〈ゆるやかなわたしたち〉はその中心は〈わたし(たち)〉である。むろん主宰や代表が存在しており、選があることも多いからして、いっけん主宰や代表が中心の権力構造のように見えるが、〈ゆるやかなわたしたち〉において主宰や代表はあくまでも〈わたし〉のために存在している。

投句欄には選句がありますが、欄の選者は「先生」「師」としてではなく、一冊の雑誌を世に出す立場として、編集権限で句を選びます。 それぞれの「誌友」を「作家」として照らし出す心で選句にあたります。作品発表の場として、方向性の指針を得る羅針盤として、投句欄を生かしてもらえたら幸いです。(「noi」X公式アカウントより)

 共同体は〈わたし〉に対しての絶対性をもたない。あくまでも共同体は「作品発表の場」であり「方向性の指針を得る羅針盤」でしかない。ここにおいてかつてのように、共同体のために〈わたし〉が存在するのではなく、〈わたし〉のために共同体が存在すると言ってよい。しかしこれは自己中心的というわけでなく、むしろ〈わたし〉が複数集まることにより立ち上がる倫理というものが濃厚にある。

3-2.目的

 〈わたし〉が中心となるとおのずから目的も変わってこよう。伝統的結社は「芸事としての俳句の上達」を目的とし、前衛的文学共同体が「文学としての表現可能性の追求」をすることに対して、〈ゆるやかなわたしたち〉においては「わたしの生の充実」が第一義である。とはいえ芸事としての俳句の上達や、文学としての表現可能性が目指されていないわけではない。むしろこれらを媒介として「わたしの生の充実」が目指されている。しかしながら、「わたしの生の充実」をなげうってまで「芸事としての俳句の上達」や「文学としての表現可能性の追求」を行おうとする風潮がもはや無いこともまた事実であろう。かつてのようには一応は文学的ポーズとして表現至上主義的な身振りをとって資本主義外部の価値を目指すことは諦められている。終わらない資本主義の中でいかに「わたしの生の充実」を最大化するかということ、このニーズにこたえたサードプレイス的な共同体であると言えよう。

3-3.イデオロギー

 伝統的結社と前衛的文学共同体は基本的にそれぞれに固有のイデオロギーを持つ。「花鳥諷詠」であるとか「有季定型」であるとか「俳句の周縁の探求」とかを思い浮かべればよい。そのイデオロギーとの思想的合致により共同体が選ばれる。対して〈ゆるやかなわたしたち〉は、語弊を恐れずに言えば、イデオロギーは無い。より正確に述べるのであれば、「イデオロギーが無い」ことをイデオロギーとしている。これは自由、多様性、寛容というリベラルな諸価値と親和性が高い。

野をめぐるように自由に創作に打ち込み語り合う場を作りたく。(「noi」X公式アカウントより)
楽園俳句会は俳句・連句を中心とした詩歌結社です。/俳諧自由の理念に基づき、俳諧普及のため、堀田季何によって2020年3月20日に設立されました。(楽園俳句会HPより)
僕は基本的には有季定型の句を作ります。ただし選句は作品として良ければ採る、というシンプルな選を心掛けます。口語や文語、又は破調や無季であろうともその考えは変わりません。作品の出来が全てですので、それぞれの作句スタイルをこちらが限定することはありません。(麒麟俳句会HPより)

 〈ゆるやかなわたしたち〉は多様な〈わたし〉たちを迎え入れるために、イデオロギーを全面に出さない。しかしながら、ここで本当にイデオロギーが無いかどうかは疑問である。ここで「隠れたカリキュラム(Hidden Curriculum)」という教育社会学の概念を援用したい。これは学校の中でカリキュラム化はされていないものが意図しないままに非公式的に生徒に伝わってしまうということを指す(例えば、教員における主任や管理職のジェンダーが男性ばかりだと「女性は社会的に活躍できない」というメッセージを伝達してしまう)。〈ゆるやかなわたしたち〉も「隠れたカリキュラム」を持つと考えることが出来る。例えば西村麒麟が「作品として良ければ採る」「作品の出来が全て」とどんなに言ったところで、ある価値判断がそこにある以上、そこには依拠しているイデオロギーがある。句会において虚子の句を引用することが多ければ、虚子が「隠れたカリキュラム」となっている。こうした「隠れたカリキュラム」は、イデオロギーが明確になっていて相対化も容易であった以前に比べてやや厄介であると言わざるを得ない。

3-4.時間感覚

 時間感覚も共同体において異なっている。伝統的結社は「円環的時間」、前衛的文学共同体は「直線的時間」である。ここにおいて特筆すべきは前衛的文学共同体における「直線的時間」であって、これは史観としては進歩史観として捉えなおすことが出来る。俳句においては俳句表現史が一歩ずつ着実に前進している(前進してしかるべき)と信じることが可能になるためには、ある程度はこの進歩史観を前提としなければいけない。

今号では「俳句史を進める」という大きな話をしようと思う。/作品固有の価値とは何か、あえて極論すれば、それは唯一無二性ということになる。そして、過去・現在において、存在しなかった句を書き、誰もなし得なかった仕事をする、それこそが俳人の価値と言える。(板倉ケンタ「現代俳句時評 時評ではなく」「俳句」2024.12より)

 板倉が半年間書いていた時評において顕著だったのはこの素朴ともいえる進歩史観である。しかしながらこの進歩史観はどれくらい信じ得るのか。あるいはもっと踏み込めば「俳句史はそもそも進めないといけないものなのか」という板倉時評において所与となっているこの前提はもう少し問われてもよかったはずだ。あるいは板倉が半年間、ときにセンセーショナルな言葉でもってこの進歩史観が共有されていないことを嘆きつづけたこと自体が、すでに進歩史観の時代が終わっているということの証左になるかもしれない。

「鬣」っていうコミュニティのテンションには「俳句表現史というものを見据えて、そこを踏まえつつ、自分なりの新たな一句、まだ見ぬ一句、書かれざる一句というものを立ち上げていくっていうことを、どこまでも追及することは諦めちゃいけないんじゃないか」っていうことがやっぱりどっかにあると思うんですよ。そこを完全に否定するっていうテンションはないと思うんですよね。だけど、私はそこにちょっと……疑問を持ってるんですね。そういう立場はすごく尊重はするんですけど、ただ私はそういうものがだいぶきついなって思いながらずっと過ごしてきていたんですよ。二十代の私は、こんなに前に進めない感じで、でも前に進めないことに対して否定的に捉えたくないっていう気持ちがあったというか。つまり「昨日と同じ今日があって何がいけないのか」と。「俳句は昨日のような今日を書くような形式じゃないのか」と。(外山一機「特集 俳句だった前衛」後編『ねじまわし』第9号より)

 外山一機は、期せずして板倉の言説と真っ向から対立する考えを示している。俳句表現というものを考え抜いてきた前衛的文学共同体の遺産を屈折しつつも引き継いでいる外山が、俳句表現史の更新に関して、諦念に似た感覚をいだいているということは非常に示唆的であろう。「昨日のような今日」というのは「円環的」な時間と言っていいし、俳句表現史を自分の手によっては進めえないことのナイーブな肯定である。もし俳句が「進歩史観」から取りこぼされた者の切実さを託しえない詩形なのだとしたら、つまり「進歩史観」を信じ得る人間によってのみ俳句のメイン・ストリーム(そんなものがいまだあるとして)が形成され、それ以外の人間は周縁で自己慰撫に耽っていればいいというのが俳壇一般の認識になるべきなのだとしたら、それは果たして思い描くべき未来の姿なのだろうか。

俳句には伝統という側面がある。作品固有の唯一無二性を考えた時に、極論、「伝統」自体に価値は無い。誰かがすでにやっていることをなぞっても、その俳人はいなかったことと同じとすら言える。(板倉ケンタ「現代俳句時評 時評ではなく」「俳句」2024.12より)

 様々な事情で「進歩史観」から脱落せざるを得ない製作者がいる。「昨日のような今日」を書かざるを得ない人間がいる。「過去・現在において、存在しなかった句を書き、誰もなし得なかった仕事をする、それこそが俳人の価値」であり「誰かがすでにやっていることをなぞっても、その俳人はいなかったことと同じとすら言える」のだろうか。また、そもそもその唯一無二性を判定するのが特殊な個人であらざるを得ない以上、その特殊な個人の判定によって誰かが「いなかったことと同じ」になる価値体系は危ういと言わざるを得ない。ジャーナリズムがいかに恣意的であるかは言を俟たないし、周縁はいとも容易く消去されるだろう。それに、俳句は50音から17個とるという極めて単純な順列組み合わせで表し得ているという立場に立つなら、そもそも「唯一無二性」などは現在の人類の技術的制約により制限された視野の中だけに立ち現れる、甘美な夢でしかない

 とはいえ、では「進歩史観」を完全に捨て去ることは出来るのか。自分の表現が何か新しいものであることを願わず、それが「史」なるものの前進に寄与せんとすることを願わずに書いていけるのか。このアポリアに対して、〈ゆるやかなわたしたち〉はどのように対処していくのかというのが、目下の興味である。〈ゆるやかなわたしたち〉は(少なくとも正面から)「直線的時間」を共有してはいない。かわりに採用される時間感覚は「今・ここ」である。「今・ここ」における自己実現、「今・ここ」において書くことによって都度再構成され、見る/見られる「わたし」。あるいは「今・ここ」における他者、こういったものの中に豊かさを見出そうとしているように思えるが、どうだろうか。

3-5.読みのモード

 伝統的結社は「私小説的」に、前衛的文学共同体は「テクスト論」的に読解が行われることが多い。特に後者におけるいわゆる「作者の死」は、一見すると不可逆的なパラダイムシフトのように思えた。しかしながら「ゆるやかなわたしたち」においては、この一度死んだはずの作者が復権してきていると言わねばならない。

書き手の反映を基本とするロジックは、その後、テクスト制作における実存の重視として、彼ら(柳元註:保坂和志と佐々木敦)の意図からずれつつも時代の推移としては順当に一般化したと考えられます。具体的には、「日記」や「随筆」、「私小説」や「生活史(ライフヒストリー)」の流行、そして社会的主題の表出を書き手の実存との関係(の有無)のもとで評価する制作/批評観の主流化といったかたちで。(山本浩貴『新たな距離』フィルムアート社、2024)

 書かれた言葉は、その時代性やその言葉を取り囲む権力勾配の中でしか厳密には理解不可能であるし、特に多様な「わたし」の在り方を認めようとすればするほど、それらを一つの普遍的な言語としてみなすのではなく、個々の肉体や精神から立ち上がる一回性のある発話としてみなす方が適切になってくる。

3-6.他者の句に対して

 伝統的結社は「選」をし、前衛的文学共同体は「批評」をする。昨今はこの「批評」の不在が叫ばれて久しい。これは〈ゆるやかなわたしたち〉において採用されるシステムが「批評」ではなく「言語化」だからであると考える。「批評」から「言語化」へと、緩やかにシステムが変化していると思われる。

 「言語化」の称揚は俳壇に限らず一般的な潮流とみえて、書籍タイトルに「言語化」を含む図書の出版件数を調べてみると、2016年から2020年では215件だったのに対して、2021年から2025年では421件もの図書が出版されており、ほぼ倍増している(国立国会図書館サーチ、2025年2月10日閲覧)。自己啓発本の分野でも「言語化」は大きな脚光を浴びていて、社会自体が「言語化」に対して肯定的な価値づけを与えているといってよい。では「批評」と「言語化」はどう違うのだろうか。

批評とは竟に己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか(小林秀雄『様々なる意匠』1929年)

 「批評」というものが小林秀雄の言う通りのものだとすれば、「批評」は「己れの夢(=自己)」が起点である。「批評」は自己と他者が交わるため否応がなく傷つくときがある。そういうことを覚悟のうえで止揚しあう場としてかつて「批評」というものはあった。「己れの夢」と「他者の夢」との差分を認めながらも「己れの夢」として語る。そこにまず間違いなくマッチョな価値観があったことは否めないが、それが作品の水準を担保する機能があったこともまた事実だろう。

 他方で、「言語化」は他者の作品そのものが起点であって、すでにそこに客体として存在しているものを、所与の前提としたうえで、いかに語り損なわずに語り起こすかかというゲームである。だから「言語化」では、「上手に読む」ということは起り得ても、相手の作品それ自体は所与の前提だから、大きな枠組みでの価値観の対立の止揚などは起らない。「言語化」は建前としてそこにすでにあるものを明確にするだけであって、語弊を恐れずに言えば創作的な行為ではない。相手の作品それ自体を所与の前提として受け入れるという態度を「優しさ」とか「誠実さ」とかと呼ぶかどうかは私は判断しかねるが、踏み込んではいけない自己と他者の境界が規定されて、より他者倫理が強くなったのは事実だろう。一例として、私は「俳句甲子園」に18回大会から今まで関わってきていてその変化を定点的に観測しているが、俳句甲子園は明らかによしとされる価値観が「言語化」になったと思う。

 以上、ざっと〈ゆるやかなわたしたち〉についてのおぼえがきを示した。

銃よりもおもしろい  丸田洋渡

 銃よりもおもしろい  丸田洋渡

金魚売あわれあらわれては消えて

火祭の煙る浴衣や帰っても

霧しゃべる理髪師がおとす銀の道具

がむしゃらに歩くがいこつ百日紅

火が蠟に憑いている百物語

麒麟にも犬のともだち居待月

つながりのきれいな電車糸もみじ

鈴の色して会いにくる人も木も

よるの署の紙とぺんしる下弦の月

栗色の俳書にお似合いのランプ

ほんとうに砂の砂糖や秋うらら

おにぎりに謎の魚や神無月

新雪や毒の知識がすこしずつ

冬の日の銃よりもおもしろい花

ミルクティーみたいな冬のサスペンス

こせこせとクリスマスだから音楽

全身が仄明るくて蜜柑風呂

ガム噛めば梅のにおいの空は雪

俳句むずかし厚焼き玉子用の皿

   ❆

シャッターは生まれる前に押している

命綱なんてあるわけ山桜

寒天のみるみるうちに夏みかん

花火かとおもえば戦争のテレビ

あるまじきところに心ところてん

風鈴や島から島へ橋ひとつ

甲板に私が立っていて触る

幽霊はバターのにおい半夏生

原っぱのトランペットの子と話す

桟橋へ月見えすぎているような

山椒の木や人生は涼しくして

いわし雲三日後のこと考える

消えやすい秋の子どもの遊び方

卵のない卵パックの風通し

鶺鴒や哲学が哲学で紙

てのひらに文字書いている秋思かな

秋の夜コンビニが想像できる

お月見のおもちをもちあげるおもち

日向にも好き好きあって十月など

水族は三日月を考えている

ばらばらも非ばらばらも鯛ごはん

窓枠に窓ちゃんとある秋の朝

鶏頭や爆弾処理班の休日

チェロ色の大学前の停留所

口癖に口は欠かせず冬薔薇

かえりみる百舌鳥ことばからもう一度

凍土や小学校を遠回り

宇と宙のうかんむり感鐘氷る

荷づくりは窓を見ながら春の雪

一文字も書けていない花柄の遺書

   ❆

雪のなかで銃をうまく想像できない。


*読み:仄明るい(ほの-)、鶺鴒(せきれい)、百舌鳥(もず)