蟇と生れて爆音下なる高歩み 加藤楸邨

所収:『加藤楸邨句集』(岩波書店,2012)「まぼろしの鹿」

新興住宅地を抜けると、年中湿っぽく、どの家の壁も蔦で覆われているような、ほんとうに人が住んでいるのか不思議になるくらい、ヒッソリとした場所に出る。そこでよく、ヒキガエルを見かけたなとおもいだす。

この世に生まれ出ることは、ヒキガエルとしてでも、たとえ他のかたちの生物だとしても、まずはじめの暴力的にさらされる経験で、選びようのない体をあたえられ、選びようのない環境に放りだされる。

空から爆弾がふってくるようになったのも、ここ百年くらいのことで、この時代に私が生きているというのは偶然にほかならない。空爆は人を選ばずに、ただそこに居合わせたというだけで、人を死へといざなう暴力だが、ありがたいことに私は空爆にさらされる経験をまだしていない。

ヒキガエルとして、爆弾降りしきるなかで生まれる。暴力にさらされつづける中でのこの高歩みはさまざまに解釈することができる。周囲に惑わされず毅然としているともとれるし、周囲に気づかぬマヌケともとれるし・・・・・・。でも、思うのは、ヒキガエルとして生まれたからには高歩みして体を動かすほかなく、高歩みを寓意や象徴として解釈する以前の、その肉体のかたちで生きなければならないことへの悲しみが、高歩みそのものに宿っている。

楸邨といえば人口に膾炙しているヒキガエルの句は《蟇誰かものいへ声かぎり》だけど、このスローガン的なヒキガエルより、生の悲しみに触れるような、掲句におけるヒキガエルのありように私は軍配を上げたい。

とはいえ、ただ体を前に進める身ぶりよりも、誇示・反抗するヒキガエルが必要とされる時代はあり、そして現在、わざわざこんなことを書かなくてはならず、どもった口ぶりになっていることへの苛立ちが、私にはある。

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掲句の収録された『まぼろしの鹿』は第2回(1968年)の蛇笏賞。掲句は「寒雷」(1953.9)が初出。

記 平野

ブルーデージーこころにさきがけて涙 神野紗希

 所収:「noi」vol.4

 涙はほしいまま流したり止めたりすることが出来ぬ。むろん噓泣きとか演技の涙というものはあろう、意識して涙を流すことは出来る、しかしそれは涙ではなくて単なる水に過ぎぬ。

 涙とは、言葉の網目がこころのうちに感情を発見するよりも先に、頬につめたくつたう感触でわがこころの機微を教えてくれるものだ。感情はいつも涙に遅れて見つけられる。遅く来た理性の言葉によって名前が与えられる。

 涙がいつもいちばんはやい、嬉しいとき悲しいとき悔しいとき、感情的緊張に立ち会えば、涙という機構はいつもそれを素早く感知して、わたしに知らせた。涙はこころの下部組織でない。涙は涙として独立し、迅速に動いた。涙はなにより涙を流す主人を慰めんとして、一番先に駆け付けた。涙はこころの換喩として美しいのでない。涙はそれ自体のはやさをもって美しいのだ。 

 ブルーデージーはキク科フェリシア属の植物。ブルーデージーという名前がついているけれどもデージー(雛菊)とは種類が異なるようだ。淡い青がほっそりした花弁にやわらかく行き渡るさまが優しい。

記:柳元

一月の滝いんいんと白馬飼ふ 飯田龍太

所収:『麓の人』(雲母社, 1965)

「いんいん」はおそらく「殷殷」。大きな音が鳴り響く様を示すらしい。

飯田龍太には「一月の川一月の谷の中」という名句があるが、「一月」という季語の扱われ方は両者似たような趣を感じる。
「一月」はその文字面の簡素な佇まいによって、詩情を抜きに冬の滝の存在感を描く。
この句の場合は「いんいんと」という中七のダイナミックな表現・音声の響き、そして下五の「白馬飼ふ」の神話的な詩情(不勉強だが、白馬は日本では昔から神と親和性があるはずだ)に対して「一月の滝」がぐっと句を引き締めている。

「いんいんと」とがそのまま「白馬」に連なることで、滝の白い水しぶきと、白馬のイメージが重なるのが美しい。

記:吉川


なんらかの解決策のあるごとくプラネタリウムの扉へ寄りゆく 大滝和子

所収:『銀河を産んだように』(砂子屋書房、1994)

 プラネタリウムに行った経験は1度か2度あり、それも幼少期のことだから、ほとんど記憶にない。なんとなく、大人になったらいくらでも、休日にプラネタリウムへお気軽に行けると考えていた。実際成長してみると、プラネタリウムがそこらじゅうに無いことも、あったとしてそこへ行く休日もそれほどないことも分かってくる。だから、私の中のプラネタリウム像は未だにその時のままで止まっていて、良い感情も悪い感情もそこにはなく、ただ人造の星とその解説を見聞きする素敵なうすぐらい空間 というイメージしかない。

 この大滝の歌は、上の句が「なんらか」「解決策」「ある」とア段の軽快なリズムで続き、「プラネタリウム」というロマンチックな語の登場を歓迎しているような印象がある。韻律面では。一方、内容面では、「解決策のあるごとく」とあるため、いま主体にはこれという解決策が無く、ぼんやりと悩みを抱えていそうな様子が描かれている。
 この序盤の韻律の軽快さ・単調さが意味の暗さと食い違っている微かな違和感が、下の句の破調で増幅されることになる。/「プラネタリウムの」「とびらへよりゆく」で88になっている。扉へ寄っていくその瞬間もまだ、有効な解決策が思い浮かんでいない。その時の足取りの遅さ。文字面では非常にシンプルな歌だが、感情の機微がうまく韻律と合致している、豊かな歌であると思う。

 この歌、私は最初三句目を見間違えてしまい、「あるごとき」として読んでしまって、あとから気付いて読みを変えた。それによって気づいたことだが、もし「ごとき」であれば、上の句の内容は直後の体言である「プラネタリウム」にかかるため、この「扉」を開けばなんらかの解決策が得られそう、という希望のある明るい歌になる。しかしこの歌は「ごとく」であり、用言である「寄りゆく」にかかるため、解決策がありそうで無い歩み、を表す。
 ということは、この歌で「扉」へ寄っていって、それを開くということが、どういうことを表すことになるのか。扉を開いて、プラネタリウムの空間を脱すれば、解決策が手に入るのか、入らないのか。そもそも、解決策が欲しくてプラネタリウムに入ってきたのではないのか。このまま解決しないまま扉を開いて出ていっていいのか……。/三句目が「ごとく」であることによって、希望とも焦燥とも取れる状態で歌が保存されており、その空気感が私は好きだった。

 ここで一つ、書きながら気づいたことがある。太字にした部分について。私はどうやら無意識に、この歌を【プラネタリウムに入って観終わった後、出ていくために扉へ寄っている】という景で読んでいる。しかし、自然な気持ちで眺めてみると、【悩んでいる主体が、解決策を見出すためにプラネタリウムに今入ろうとしている】という景の方が多数派なのではないか、という気がしてきた。これから出る歌なのか、これから入る歌なのか、どちらが妥当なのだろうか。
 私が、これから出る歌として読んだ要因を書きだしておくと、最大は「あるごとく~寄りゆく」の部分である。これから入る人が、「寄りゆく」と言うだろうか、と思った。解決策がそこにありそうだと思ったのなら、これからロマンチックなプラネタリウムに入るなら、悩んでいるといってももう少し歩みは滑らかなんじゃないか。「扉へ向かう」でも「扉へ歩く」でも良かったはず(その方が定型に収まるし、「歩く」なら「あるごとく」と韻も踏める)。しかしここがわざわざ時間を取るような8音であることが、なんとなく入場ではなく退場だと思わせた。/もしこれが、「あるごときプラネタリウムの扉」だったら、入場だと考えたと思う。扉を開けることの期待があるから。/あとは、(そこまで意識してはいなかったが、)仮に恋愛を下敷きに考えた場合、「プラネタリウムに行ったら解決するだろう」よりも、「プラネタリウムを二人でも見てもなお解決策は見つからなかった」方が、より面白いと思ったから。そしてその暗さを、この歌に直感で感じ取ったと言える。 

 入出場どちらなのかという読みは、各読者の頭の中で広げていただきたいと思うが、私はこの歌はうすぐらくてとても好きである。小さな星のように「解決策」という漢字三文字が光って見える。ただしその足取りは暗い。

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 当該歌集は、再収録されて短歌研究文庫から発刊されており(『「銀河を産んだように」などⅠⅡⅢ歌集』)、入手しやすくなっている。個人的には大滝は第二歌集である『人類のヴァイオリン』がお気に入りで、ぜひ読んでいただきたい。以下好きな歌。

良いほうに解釈してもヨーグルトに砂まぶしたる味がしている  『銀河を~』

子を売りて人形を買う母親のいずこにかあるごとく雨降る  『人類の~』

このノブとシンメトリーなノブありて扉のむこうがわに燦たり  同

わたくしの風の眠りを食むようにセロリスティック、コーンフレーク  同

夕風にチェックスカートひろがりてわが踏みている階段見えず  同

声帯をなくした犬が走りゆく いたしましょうねアジュガの株分け  『竹とヴィーナス』

記:丸田

悲鳴  丸田洋渡

 悲鳴  丸田洋渡

水道をどのようにして秋の水

西洋の怪談五色唐辛子

金木犀きずつくきんみらいの杵

包丁を寝かせ切る柊の花

陸橋のおもしろい腰が覗くよ

悲鳴で列ととのう夜の大白鳥

人影を人が出てきてクリスマス

雪予想して楽器店前楽器

雪は雪打ち震撼のピアノ室

とぷとぷと除雪車は夜船のように

気持ちより言葉がイルミネーション街

ジェラートのピクセルアート雪ふる窓

稲妻に縫製が褒められている

氷湖底より銀の婚・金の婚

幻はどうしておいしそうな月

怖いなら黙っておかなくちゃ戦前

電柱に雪広告の高さまで

採氷や太陽をつかった時計

雪晴の手術台から身を起こす

椿展おおきな声がした気がした

若菜野の濃みどり若菜のみならず 皆吉爽雨

『三露』(牧羊社 1966)

新年は新年で、師走とはちがう忙しさがあって、それは生活のメインが自宅へ移ったときの家族・親戚間でおこなわれるコミュニケーションの気忙しさである。

たとえ、年初くらいはだらだらしてやろうと決め、酒をたしなみながら、ソファーやベッドあるいはフローリングに身を横たえて過ごしたとして、それは職場というマジメさを求められる場からちょっと自由になったにすぎず、家では家のはたらきがあり、家を支えるための挨拶があり、どうにも逃れられない窮屈さがあちこちから迫ってくる。

もっとも、それらのワズラワしさをすべて遮断してしまい、気のおもむくままに過ごすことも可能だけど、それはそれで非情な、毅然とした立ちふるまいを必要とし、結局のところ私なんかはまとわりつく情にほだされて面倒ごとを引き受けてしまう。だからこそ情を綺麗サッパリ拭える人には心のどこかで憧れを抱く。

さて、掲句について。

正月も六日になると新年の忙しさもひと段落ついて、仕事もはじまり、そろそろ気分を入れ替えてみようかなとおもう。野に出て、ひややかな空気にさらされて、家の雑事も仕事もわすれてゆっくりしてみる。なるべく、世間の喧噪からはキョリを置いたほうが良いだろう。

力強く、日を照りかえす濃いみどりの野面を前にしてひと息ついたあと、みずからも野にまじって、若菜のあいだを逍遙する。腰をひくく落としてみれば、疎ましい家のうちの臭気とは別の、いきいきとした草や土が匂い立ってくる。

若菜を摘んでいるうちに、ささやかな草が一つ二つと目につくようになってくれば、だいぶ余裕が出てきた証拠で、若菜だけをもとめず、そのほかの草もひとしく愛でているような楽しい気分が掲句にはある。また、自然とまじわることで、身にまとわりついた家の空気からも、若菜野という言葉の垢からも抜けだして、心が自由にあそびだしている感じもある。

そもそも若菜野は春の七草がそれぞれ入り交じり生い茂っている野であり、そこにプラスして別の草も生えているというのは、とても賑やかで、エネルギッシュで、それゆえ何となくおめでたい。

掲句の中心は、若菜以外の草を見つけたことへの驚きにあるのではなく、広闊な野にあそぶことによって生まれる新鮮な気分であり、もっと言えば、気分の変化によってうつり変わっていく、風物のおもしろさである。

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掲句の収録されている『三露』は第1回蛇笏賞の受賞句集。

個人的に蛇笏賞を順番に読み進めることをやっているが、一句鑑賞は出来ていないので、帚の場を借りて鑑賞を進めていきたい。蛇笏賞句集を読む① 皆吉爽雨『三露』|平野

noteでは掲句を含め計20句書き出している。『三露』にあたっていただく契機になると大変ありがたい。

記:平野

巨悪ありこれを裁けず年新た 赤野四羽 

週刊俳句第976号 2026年新年詠より

 安倍晋三氏を銃撃して殺害した山上徹也氏(「被告」という言い方は俳句鑑賞の場においては凡そ相応からぬように感じるので「氏」とする)の公判が始まった。氏のパソコンの復元データの中には「散弾銃の作り方」というテキストファイルがあってここに「巨悪あり。法これを裁けず。世の捨て石となるための覚悟と信念のためにこれを記す」という文言があったという。

 つまり「巨悪ありこれを裁けず」という赤野四羽氏の措辞は引用であって、その意味で山上氏の間接話法ですらあると言ってよかろう。この間接話法を俳句的強度を担保しながら成立させたのが赤野氏の手柄であるといってよい。山上氏の旧統一教会の宗教二世としての境遇には同情を禁じ得ない(それが殺人の論理を肯定はすることにはならないことも申し添えておかねばならないが)。

 山上氏の実存のかかった言葉を俳句形式に持ち込み固着させんとすることは、ジャーナリズムが統一教会問題に対する反省が見えない高市早苗氏の「働いて働いて働いて働いて働いてまいります」という言葉を持ち上げたり、「サナ活」とやらを喧伝するのとは対極にある営みであるとはひとまず述べておきたい。そういう同時代的付置においてこそこの間接話法は意義深かろう。

 とまれ俳句形式に持ち込んだことで普遍的に読まれうるものにもなるはずで(それこそ法で裁けなければ実力行使をしてよいと粗雑に読み替えれば、トランプ氏のベネズエラ侵攻肯定句にすら読み得ることもまた恐ろしいが)、山上氏の私的な言葉がその文脈が抹消されて普遍に開かれるにはまだ早過ぎるだろう(少なくとも鑑賞においては積極的に普遍化するのはあまり誠実でないように思う)。

 山上氏が文字どおりの一世一代の賭けのような状況で「巨悪あり。法これを裁けず」と文語文法を選択していたことに私は関心を寄せる。データが復元されたものであるからには、山上氏はこのテキストを一度自分の手でパソコン上で抹消した訳であり、その行為をそのまま受け取れば、山上氏はこの言葉を残すつもりはなかったということになるが(とはいえデータが警察に事件後復元されることを見越していたのではないかとも思うが)、そういう、残るか残らないか分からないが、しかし紛れもなく自分の実存がかかった言葉を自分のために書きつける必要がある際に文語文法を選んだことは、私はもう少し考える必要があると思う。それは単なる表層的な恰好よさから選ばれたのか、自分自身を誇張したり鼓舞したり国家が国民を動員するような男性的な言葉としてあったのか、定型感覚の安寧のようなものがあったのか、伝統に連なり普遍化したい欲望があったのか。それは分からないにしても、同時代的な連帯に心を寄せることが出来ない人間のナイーブさは、いかにキッチュであろうとも文語が掬い取った(掬い取るしかなかった)ということを妙に痛ましく思った。口語で書けないことというものもある。

 結審は二〇二六年一月二六日。検察は無期懲役を、弁護側は懲役二〇年以下を求めている。

 話は変わるが、週刊俳句の新年詠では他に〈魔羅抜いて神馬はるかなる一粲〉九堂夜想、〈パエリアの大きな貝やお正月〉千野千佳、〈おとうとに姉われ淡し年賀状〉津川絵理子、〈初春の吸物を麩の一回り〉野城知里、〈繪歌留多のねむたき色をひろげたり〉常原拓、〈邂逅や冬褐色の木をあふぎ〉依光陽子、〈明けましてじねんじょほりに忌が六つ〉ちねんひなた、〈夕べより雪の二日となりにけり〉対中いずみ等を楽しく読んだ。

 今年も帚はのんびりやっていきます。よろしくお願いします。

記:柳元

氷林午餐 柳元佑太

  氷林午餐(ひやうりんごさん) 柳元佑太

氷林へ婚擧げに來つ地下鐵(めとろ)にて
銀杏落葉水漬きて金や擧式明日
親と酌めば凍星擧式前夜たり
銀河凍つ窓邊に手紙(ふみ)を書く妻に
摩し合ひて飛べり不眠の綿蟲ら
冬日掌に熱く汲むべし妻化粧ふ
枯木らと妻の化粧ひを呆け待つ
むさゝびやドレス着ずとも抑(そも)妻美し
瀨に息(やす)む馬いや蒼き冬の婚
氷る馬たは易く出來異性婚

氷斧(き)る神父三人や午寂(ひるしづか)
日矢氷りあり敎會は椅子の默
吾らの爲めや讚美歌も狐火も
吾れ神を持たざるゆゑに冬木に誓ふ
家父長として野兎を追ひ廻す
風上へ鷹流れ初む婚いよゝ
梟の懶(ものう)き晝を婚禮す
雪意有り皿にサーモン橫たはり
來し方に惡友多き氷かな
ケーキ入刀水禽の柔(やはらかさ)

自選五十句 丸田洋渡

 自選五十句  丸田洋渡

片栗の花サーカスのはなれわざ
襖から立方体が見えている
春のたましいの全体的な腐敗
足は汀に飛行機のおもてうら
レモネード空はいつでも回転式
子どもにも大人のめまい蝶撃つ水
かき氷法学に紙のイメージ
罰すこし快ひとりでに洩れだす葡萄
水鉄砲も当てるなら心臓に
一瞬の鵺の感電死と蘇生

梨重くして夜の雲朝の雲
水の建築すると眺めている方へ
月は骰子ひと睡りして賭ける
碁の部屋にせせらぎがせせらいでいく
筍や銀色の銀行に行く
きのこにも秘密いろいろ空とぶ雲
鮟鱇や炬燵のなかに足のゆび
ひととおり鮫ねむらせて雪の夜
うどん屋のくもり硝子や大白鳥
空間に斧おいてある雪のはなれ

木々の木の葉の葉脈のつめたい痾
角砂糖崩壊その他もろもろも
未来の風邪のみどりのくすり春三日月
空中の蜂に格子状のあやうさ
電源は遠いところに白椿
鏡みるとき蛇映りこむ蛇遣い
よい日よい風ひめおどりこ草の首
うぐいすの雲雀方言大切に
風として萍みていたら教室
かたつむり真っ逆さまのシャンデリア

そのころの草矢眩しく電気を感じる
眼とは愛とはさみどりの一枚布
藤はまだ一睡もしていない
鍵として舌つかうとき向こうも鍵
ともすれば死のねむけ梅花藻の花
眼球に老化と朽化ネオンテトラ
火が蠟に憑いている百物語
みんなしてオペラの俘からすあげは
天の川その水しぶき薄い服
はてしない印刷室に蛸がいる

川には良い思い出ばかり秋のUFO
ひつじ雲こころ渋滞しはじめて
秋海棠思い思いの席に着く
牡丹なら椿で倒すカードゲームは奥が深い。
胡桃ホテル戦争を話しますかね
天使と銃どちらかが勝つ雪催
雪煙には眼球が曇るなあ
雪の日の気分は火 死なないでいたい ね
文字はまだ手紙の上に鶴の恋
覚醒の映写機は海を流した

 2020年4月から、2025年11月までの自選。

 漢字の読みについての補足
 襖(ふすま)、鵺(ぬえ)、骰子(さいころ)、萍(うきくさ)、俘(とりこ)。

自選五十句 平野皓大

  自選五十句  平野皓大

春の日を浅くつくして豆腐桶
雲も木も左へ走り馬糞風
若駒や夢中を生れ来る如く
絵踏へと風に遅れてついてゆく
薄氷をあくびで揺らし布袋尊
落第や鯉のやうなる髭が欲し
一幅の半ばに孤舟田螺鳴く
馬むかし宛なく走る椿かな
のどけさに人集りあり馬賭博
好きな虫集めてゐれば大朝寝

春闘を官庁街の側から見
凧日和体操をしてゐたりけり
回廊の冷えてあるべし灌仏会
人去りしあとの寂しさ甘茶仏
花時をほとんど本へ神田川
雑木を愛し桜を守りけり
十薬の花ふつくらと上を向く
暮らしつつ径を覚えて河鹿笛
夏燕渚疲れの人びとへ
学問の雲の重なり立葵

すーつと来て朝顔市の風貌に
遊ぶ蛭はたらく蛭を考へる
夜釣人水虫のこと楽しげに
夢に人現れなくて水中り
来るものは来て宵宮の席余る
太陽のあらねど暑し瓜膾
その攫ふ肉が最後やバーベキュー
敗戦日クロール疲れ腕に脚に
国またいつか一枚の秋簾
秋雲のこの大きさは二人掛け

相撲観覧予定あり屍に
馬券散る秋晴の牝馬をたたへ
ゐてくるるそちらも秋か月の道
君からも見ゆる芒を飾りけり
衣被ながき梯子と仕事して
きちきちや掘り捨てられし芋を踏み
幽人枕蟲跳びまはる跳びまはる
糸瓜や母親はふと蛇のかほ
虫老いて喜怒哀楽を自在にす
北吹くや亀はぽつくりゆくものと

その人の愛せし玩具日短
かく引けと大根引に手を重ね
寒灸心が泣いてゐる人に
日が通り風が通りて竹瓮かな
毛糸編む心の翳り小さくし
初空に糸の流るることすこし
長く浮く三日の凧の渚かな
寒稽古雑巾掛をみしみしと
絵襖の虎のごろんとしてゐたり
あたたかし寝物語に象が出て