大やんま渾身ひかりきつて死す 鷲谷七菜子

所収:『銃身』 牧羊社 1969 

鷲谷七菜子の句をそう多くは知らない身だが、彼女の俳句の特徴は暗さを抱えた叙情性や、刹那的な美的感覚にあると理解している。だからこそ、この句集の後書きには少し驚かされた。

後書きには『甘美な叙情を俳句の出発の起点とした私にとって、不得手中の不得手である写実の道に体当たりしようと決心したのはその頃からであった。そうして私にとっては〈もの〉は次第に仮象から実体へと移っていったのである。』とあり、この句集はそうした俳句観の変化のさなかに書かれた句が多く含まれているようだ。
そう言われると確かに掲句も蜻蛉の死体という実体を描いた句ではあるが、「渾身」「ひかりきつて」という表現は辞書的な意味での「写実」の表現ではない。むしろそこには、精一杯生きた蜻蛉の生命の輝きを死に様に読み取ろうとする鷲谷七菜子独特の美的感覚が伺える。

『私は自然の内奥深く閉ざされた真理の扉を、ほんの少しでもいいから自分の手で開いてみたい。』とも後書きには書かれている。鷲谷七菜子にとっての「写実」 は「自然の真理」に至る手段であり、その「真実」が先述の「渾身」「ひかりきつて」に表れているということなのだろう。
しかし後の世代に生まれた読者としては、鷲谷七菜子の描き出す「真実」というものが俳句の歴史の中で何度も繰り返し書かれた叙情であることを知っているが故に、「真実」ではなく俳句独特の「虚構」であるように感じてしまうのが淋しい気分である。

記:吉川

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