手押しポンプの影かっこいい夏休み 長嶋有

所収:『春のお辞儀』ふらんす堂 2014

この句についてごちゃごちゃと書くのは無粋というものだが、「かっこいい」という形容詞がまるで感動詞のように機能しているのがこの句の妙だろう。「夏休み」というノスタルジーを含んだ季語が取り合わされることで、この句の「かっこいい」は子供のように素直な(子供を素直なものと簡単に受容するのは好きではないが上手い書き方が見つからない)純度100%の「かっこいい」となる。

手押しポンプがかっこいい、ではなく手押しポンプの影がかっこいい、となっているのも良い。影に注目すること、そこに「夏休み」が取り合わされることで句から浮かぶ映像がコントラストの効いた鮮やかなものになる。

最初子供のように素直な感動がこの句に表れている、と書いたが私はこの句の主体が子供であると限定はしたくない。同句集には次のような句も収録されている。

エアコン大好き二人で部屋に飾るリボン
ポメラニアンすごい不倫の話きく

どちらの句も無邪気な印象を受けるが、その主体はおそらく子供ではなく、大人のチャーミングさが現れている句だ。大人になっても手押しポンプを見たら興奮してしまう私としては、掲句もまた上記2句に連なる1句であってほしいと思っている。

記:吉川

羽根を打つために駆け出すそういえばこの世の第一印象は空 盛田志保子

所収:『木曜日』(書肆侃侃房、2020)

 羽根→手もと(打つための道具が何か想起される)→足(駆けだそうとしている)→(一瞬映像が消える(「そういえば」))→空。何でもない行動と、なんとなく思い出したことが、詩の上で奇跡的な出会いを果たしている一首。

 あまりにもそこにありすぎるせいで意識からは外れてしまうが、確かにずっと空は上にあり、風景の大部分を占めつづけている。「第一印象」という言葉(考え方)を使って周囲や世界を捉えるようになるのは少し成長してからにはなるだろうが、空が広くて青く、そこに辺り全部が包まれているような感覚は小さいころ誰しもが持つのではないか。
 この歌の「そういえば」は、読者(読む人間すべて)の感覚を呼びおこす、一番ちょうどいい言葉だと思う。そういえば空ってデカイよね、みたいな、改めて空を認識するにはちょうどいい距離・温度感。もし「そういえば」が無くて、

 羽根を打つためにわたしは駆け出した この世の第一印象は空

 このように改作したとすれば、たしかに清涼な空気はあるものの、下の句がやや唐突になってしまう。この人(主体)はそう思ったんだな、の段階で止まってしまう。「そういえば」くらいの感覚で思い出されることで、こちらも乗っかってそういえばそうだなと空に思いを馳せることになる。

 世界の第一印象とは、単に想像された頭の中の話だが、「羽根」「駆け出す」という素材・動きと、「そういえば」のおかげで、「この世の第一印象は空」だと思い出させるほどの青空がそこに広がっていることが見えてくる。言われてないのに、ここまで光景がくっきり見えてくる歌もそうそうないと私は思っている。
 もしかしたら、この世の第一印象は空だというのは、嘘かもしれない。第一印象は母親だったり、(産婦人科の病室の天井が)白い、とかそういうものだったかもしれない。ただ、駆け出したその瞬間には、それが嘘でないと自分に信じてしまうくらい、その空が迫力あるものとして感じられた。こういう、下の句でばっさり思い切った詩的な気づきを言うみたいな歌はたくさんあり、それがどう考えても嘘だろうというか、本当にそうか? みたいなものはよくある。ただこの歌に関しては、嘘であってもそう思わせるくらいの力が世界にあったことが(それを快く主体が感じたことが)分かるから、とても読んでいて腑に落ちる。

 わたくしが鳥だった頃を思い出す屋上で傘さして走れば  岡崎裕美子『わたくしが樹木であれば』

 どこまで遡って感じるのか、そしてそれをどこで、どういうことをするときに思い出したのか。岡崎のこの歌も、なんとなく似ていて思い出した。空を見ていると、思いもしないことまで、思い出さされてしまうかもしれない。怖くもあり、美しくもあることである。

記:丸田

夢の世の夢をばつさり松手入 大谷弘至

所収:「古志」(2021年 2月号)

はかない世を慈しんで夢の世と言う。弱々しさの蔓延する夢の世の「夢」の部分をばっさり切り落とすとき、眼の前にはグロテスクな「現実」が立ち上がる。それは夢と現が混じり合ったところの現実よりも生々しい「現実」である。その無謀とも言うべき感慨を包みこんでいるのが松手入という季語であり、季語によって、個人的な感慨は軽やかに乗り越えられ、大きな時空への一体化が図られる。個は消え去り、その代わりあらゆる時間・空間が渾然とした巨大な記憶ともいうべき宇宙が現出する。

この大きな時空への志向を可能にするのが季語への信頼である。信頼とは寄りかかることではなく、疑い続けた上でそれでもなお信じることに決める強さである。それは例えば小沢健二が『天使たちのシーン』で「神様を信じる強さを僕に 生きることをあきらめてしまわぬように」と歌ったところの強さに似て、ナイーブな青年の心を歌った小沢と異なり、掲句はそうした青年期を乗り越えた者が疑心の末に獲得した信頼を感じる。

この精神の強さが、夢の世ではなく「現実」を凝視しようとする掲句の態度に通じる。松尾芭蕉が説いたところの「虚に居て実をおこなふべし」に欠かすことが出来ないのは、この強さではないかと掲句を鑑賞しながら考える。神様を信じられるかどうか、これは人を信じられるか否かに通じ、人を信じられるとき自分も含めすべてを信頼する安らかさへ心は深まっていくのだろう。また、掲句に威勢をつける「ばっさり」は手垢のついた語であるため一層の効力を発揮している。〈平談俗語〉も合わせて思い起こしておきたい。

記 平野

孤児たちに映画くる日や燕の天 古澤太穂

所収:『古澤太穂句集』1955年

掲句には「中里学園にて」という前書があります。調べてみると中里学園は孤児院らしい。初出にあたれていないため掲句が書かれた時期は類推するしかありませんが、同時期に句集に収められている句との関係から推測すると敗戦直後、すなわち1945年から1955年の間であることは間違いないでしょう。

太穂は結核療養の後は終生横浜に住んでいました。運動などで飛び回っていたとは言え、やはり横浜に根差して書かれた句がやはり多いようです。横浜の孤児のことを考えるためには、その孤児の生育環境としての横浜を考えねばならないでしょう。そのためにまず横浜大空襲から話を始めます。

戦中、横浜の街に壊滅的な被害を与えたのは1945年5月29日の横浜大空襲でした。この横浜大空襲は白昼堂々行われました。これは焼夷弾が木造住宅の密集地に与える損害を計測することを目的とした米軍の実験的な大規模空爆であり、横浜市街を中心に大きな損害が出ることとなりました。「横浜大空襲体験講話」によると8000人から10000人の犠牲者が出ており、非戦闘員を狙った住民標的爆撃でした。以後横浜は焦土にバラックが点在することとなります。

『占領軍のいた街 戦後横浜の出発』(横浜市ふるさと歴史財団近現代歴史資料課市史資料室担当編 横浜市史資料室 2014年)に掲載されている戦後進駐軍が撮影した写真などを確認すると、桜木町駅の辺りは焼け残っているものの、市内は基本的に焼野原であることが分かります。

そして日本は敗戦を迎えます。1945年8月30日に厚木飛行場と横須賀港から占領軍の進駐が開始されました。厚木飛行場に降り立ち、タラップでコーンパイプを燻らせ、ポーズを撮るマッカーサーの写真は有名ですね。マッカーサーは日本側の出迎を断り、そのまま横浜に直行しました。このことが象徴的に示す通り、横浜は占領政策の中心拠点となりました。

8月30日から9月2日まで横浜の焼け残ったホテルニューグランドがマッカーサーの宿舎となり、東京に移転するまで同じく焼け残った横浜税関で執務をしていましたし、米軍の捕虜引揚の拠点でもありました。横浜は文字通り米軍の出入口、玄関だったのです(その名残は現在もキャンプ座間、厚木海軍飛行場、横須賀海軍施設などの米軍基地、あるいは根岸、相模原、池子の住宅施設が残っていることからも伺えると思います)。戦後の横浜は米軍と共にあったため米軍及び米軍基地の影響抜きに語ることは出来ません。

例えば米軍兵士相手の日本人娼婦の発生が挙げられるでしょう。中でも、黄金町は赤線地帯(半ば公認で売春が行われていた日本の地域)であり、黄金町周辺では米軍兵士相手の売春が公然と行われていました。不特定多数と関係を結ぶ娼婦もいましたし、特定の米軍将校の愛人となり囲われる「オンリーさん」も存在しました。そのような状況の中で、当然の帰結として米軍兵士の父親を持つ混血児「GIベビー」も誕生することとなります。太穂には〈巣燕仰ぐ金髪汝も日本の子〉という句が同時期にありますが、これはおそらくこの「GIベビー」のことでしょう。

また、寿町は大阪のあいりん地区や東京の山谷に次ぐドヤ街でした。寿町は戦後米軍の接収が解除された1956年以後に形成された比較的歴史の浅いドヤ街で、暴力団の流入もあり、放火や麻薬売買、流血事件などが絶えませんでした。身寄りがない独り者が流れ着くケースが多かったと思く、孤児も多かったようです。

太穂は以上のような「暗い」側面を持つ横浜に直面していたはずであり(ドヤ街の形成は『古澤太穂句集』以後ですが)、このような荒んだ横浜を直視する機会も多かったのではないかと思われます。そして、孤児というのは、こういう環境を所与として育っている者なのです。悪辣な環境の中で、身寄りもなく生活するのが横浜の孤児でした。

また横浜は横須賀港に大陸からの引揚孤児が居つく傾向にあり、また横浜駅が大きな駅であったから地方の孤児も集まって来ていたようです。このような背景に鑑みたとき、太穂が描いた孤児を取り巻いていたのは、現在のような洒脱な臨海都市ではなく、戦後も依然として混沌とした横浜であったと言えるでしょう。太穂の掲句を読むときに想像される横浜、孤児院の外側に広がる外部の横浜は、そういうものでなければならないと思います。

孤児は如何なる処遇を国や行政から受けていたのかについても検討しましょう。孤児に対する処遇については藤井常文『戦争孤児と戦後児童保護の歴史』(明石書店 2016)が詳しいです。そもそも孤児の問題が出てきたのは、当然のことながら戦後ではなく戦中からでした。戦争が激化するにつれ、親が出征して戦死した場合や、学童疎開で子だけが生き延びたケースが表面化し出すのです。

しかし、この頃は戦災遺児と位置付けられており、いわゆる一般的な孤児とは異なる位置付けがされていました。なぜなら戦災孤児は、戦争に殉じて亡くなった英霊たちの子であり、国の子なのです。ですから、最大限手厚く保護せねばならないというのが、戦時中に理念としてあったようです。

厚生省戦時援護課で企画された保護の方針の文言(戦災遺児保護対策要綱案)を見ても「殉国者の遺児たる衿持を永遠に保持せしむると共に、宿敵撃滅への旺盛なる闘魂を不断に涵養し、強く正しく之の育成を図り」とあり、行政政策においての「国子」としての位置付けが伺えます。

しかし、敗戦を受けて「国子」の扱いは「孤児」に戻ってしまいます。著者は人権保護的な理念からではなく治安管理的な理念から、戦後の孤児の保護政策が進められていたことを指摘しています。保護の方法が法律に定めが無かったため、実力行使的な収容が行われました。実際「狩り込み」と言われる、警察や職員による暴力を伴った孤児の一斉収容が1945年12月15-16日の両日に渡って行われ、この日は2500名にのぼる収容者が出たと『都政十年史』に記されています。

ちなみに「狩り込み」は俗称ではなく、行政の通知で平然と使われているところに、この時期の人権感覚がいかに鈍していたかが伺えます。せっかく収容しても施設の設備が不十分であり、衣食住の環境が整っていなかったために脱走者が相次ぐ。それをまた「狩る」。そして又逃げられては堪らないので、逃走防止のために服を着せなかったり、靴を与えなかったり、檻の中に閉じ込めたりする。このような施設が孤児たちにとって居心地が良いはずがなく、また脱走する、というようないたちごっこが続いていました。

法的な対応としては、1945年に「生活困窮者緊急生活援護要綱」が、1946年に「浮浪児その他の児童保護等の応急措置実施に関する件」と「主要地方浮浪児等保護要綱」が通牒されます。しかしこれらはどれも緊急措置的な側面が強く、実地的な対応に関することのほとんどは施設任せで、児童に配慮された内容とは言い難かったようです。そして1948年に児童福祉法が施行されることで、孤児院は児童養護施設となり、少しずつ人権に配慮されたものとなっていきます。

太穂が訪ねた中里学園は、1946年9月に県立の施設として開園しています(現在は閉園)。時系列的には1946年4月の国からの通牒を受け、県としても街に溢れる戦災孤児の収容の必要性を感じていたために開設されたものでしょう。中里学園がどのような保護施設であったのかについては資料にあたれなかったため類推することしか出来ませんが、充分な物資が確保されていたとは時勢的には考えにくいように思います。そのような時勢において、映画が上映される日というのは孤児たちにとっては非常に楽しみなものであったのではないでしょうか。

最後に、映画の内容はどのようなものだったのでしょうか。戦後の映画製作、上映にはGHQの統制があったことを忘れてはならないでしょう。

敗戦を受け、GHQの指令のもと、戦時の映画産業に対する国家統制は廃止されました。代わりにGHQが新たな方針を策定し、その指針に沿った映画産業の復興が試みられます。GHQは映画会社に対し「日本ノ軍国主義及軍国的国家主義ノ撤廃」など占領の基本目標に基づき「平和国家建設ニ協力スル各生活分野ニ於ケル日本人ヲ表現スルモノ」「日本軍人ノ市民生活ヘノ復員ヲ取リ扱ヘルモノ」「労働組合ノ平和的且建設的組織ヲ助成スルモノ」など 「映画演劇ノ製作方針指示」を示しました。ここでGHQは日本という国に民主主義を根付かせるための手段として映画を活用せんとしていたことが分かります。

また戦前の旧来的な思想に通ずるものは、製作だけではなく上映も禁じられていました。GHQは「反民主主義映画の除去に関する覚書」を発表し、国家主義や軍国主義の宣伝に利用された「封建的法典の遵奉、生命に対する侮蔑、武士道精神の強調」 などを内容とした日本映画を上映禁止処分とされています。

これを考えたとき、おそらく孤児院で上映されていた映画もこのような制約を多分に受け、民主主義的な新しい価値観に合わせた映画が上映されていたと考えて良いでしょう。太穂は「燕の天」という開放的で底抜けに明るい季語を取り合わせていますが、これにより映画の内容や、そのときの孤児院の気分が良く出ているのではないでしょうか。ある種の言祝ぎのような季語の斡旋に、太穂の戦後を喜ぶ朗らかさを感じます。

古澤太穂は1913年の生まれの俳人。本名太保(たもつ)、1913年に富山県上白川郡大久保村の料理屋兼芸妓置屋に生まれています。太穂は父死去による経済的困窮から母に連れられ東京、のち横浜へ転居。太保自身も家計を助けるため、様々な職を転々としつつ勉学に励み、1938年に東京外国語学校専修科ロシヤ語科を卒業します。しかし直後喀血、5年間の療養生活に入ることとなり、この療養生活中に水原秋桜子が主宰する「馬酔木」と出会い、1940年10月の「寒雷」創刊と同時に同誌に参加しています。以後は楸邨を師と仰ぎつつ、主宰誌「道標」や新俳句人連盟などを中心に活動しました。また俳句だけでなく政治運動や社会的な実践でも活躍しています。内灘闘争(石川県河北郡内灘町の米軍の試射場の設置に反対する運動、1952年から1957年の米軍撤退まで行われました)や松川事件(機関車転覆事故に関わる戦後最大の冤罪事件、1964年に全員無罪が確定)の支援を主とし、レッドパージの嵐吹き荒れる中で、大小様々な左派的な運動に精力的に携わっていました。

記:柳元

めまい  丸田洋渡

 めまい  丸田洋渡

ふしぎな舌もちあげ春の水琴窟

足は汀に飛行機のおもてうら

子どもにも大人のめまい蝶撃つ水

片栗の花サーカスのはなれわざ

とつぜんに雪の術中小さな町

岬の密室どこまでが蜂の領域

輪のような推理きんいろ函の中

騙りぐせある蜂に花史聞くまでは

水景に祠のきもち誰かの忌

桜ばな樹の怪ものの怪ゆめみるとき

さくら葉桜ネーデルランドのあかるい汽車 田島健一

所収:『ただならぬぽ』(ふらんす堂、2017)

 春になると思いだす一句。
 語が詰まって次々に情報が追加されていく。786と随分定型を逸れる形になっているが、「さくらはざくら」の音感・内容的な流れと、「の」で伸びた先の「汽車」という速度のあるもので締まることで、この句特有の緩急、なめらかさが生まれている。

 私にとってこの句は、こういうリズム感を特長とする俳句のなかで一番頭に焼き付いている。ただ、その魅力について、いまいち自分の中で言語化が出来ず、整理がついていない。未だにぼんやりとこの句を見ている。

 句のリズムやスピードが内容と合っている点が大きい気はする。表現によって立ち上げるスピードが、句から離れた技術の面だけに終わらず、内容の「汽車」や「さくら」→「葉桜」に返っていく、その誘導がきれいに、スムーズになされているところが、句として心地いい。田島健一の他の句を見ていても、韻を明らかに踏みましたという句や、言葉の連携をとことん外しましたという句よりも(そういう句が訴えかける「ふつうの句」への打撃や、脆い言語で建てた脆い建造物みたいなものにも惹かれるが)、そういう表現のリズムが内容と響き合っているものがとくに、良い味を出しているように思う。

 凧と汽車いずれものんき麦畑/大井恒行 (『大井恒行句集』ふらんす堂、1999)

  例えば汽車のこの句を見ると、「のんき」という言葉が、凧、汽車、麦畑の三方向へ伸びていて、なんとも穏やかな風景が想起される。好みの作品であるが、リズムというか流れとしては〈凧と汽車/いずれものんき/麦畑〉と一回一回止まってしまうというか、句の中の光景は動いたり広がったりしているのに、句自体のリズムがそれに伴って動いていないように思ってしまう。それが悪いわけではないが、そこが揃うとより気持ちよくなるのではないかと思う。
 詩は、その詩ごとに、それぞれのリズムがあるのではないかと、私は常に思っている。悠長でなだらかなものを、キレキレの575の定型に合わせにいくのは、いささか競技的というか、それもそれでどこを削ぎ落とすかのスリリングさはあると思うが、発想した瞬間の詩の持っているリズムは失われていくのではないか(長いこと俳句や短歌をやっていたら、そのチューニングに慣れ過ぎて、発想した瞬間からそういうリズムになっている、というのはあると思われる)。

 さくら葉桜の句は今の段階では、定型から外れようとするその手つきが見えすぎて好ましくないという評価を受けやすいのかもしれない。これがいつか、一番いいところに言葉を置いて詩に寄り添った特有のリズムを創出していると読まれるようになればいいなと思う。

 内容の面にも触れておこうと思うが、これがまたいまいち分かっていない。「さくら葉桜」は、開花している桜と、葉桜が同居している景色と見るのが良いのか、さくらはすぐに葉桜へと変わるという、時間を汲んだ見方をすればいいのか。「汽車」という語がまた絶妙で、そういう景色だけのことにも思えるし、時間のことにまで触れているようにも思える。
 ネーデルランドとは、オランダの本国での呼称であり、「低地の国々」という意味を持つ。私は個人的に世界史の時によく聞いた単語で、ネーデルランドという言い方には過去を回顧する感覚がある。大昔から時間をまたいでいるような、そんな汽車が見えてくる。
 この「さくら」は、果たしてネーデルランドにあるのか。桜を日本で見ていて、ネーデルランドには汽車があるという情報や映像を別に感じているのか。汽車は、桜の下を走っているのか。特定することは出来ない。
 ただ言えるのは、オランダには桜が咲いている道があって、そこを明るい色の汽車が通っている、その映像を見たという句だ、とのっぺり解釈したのでは面白くないということである。
「さくら葉桜」が喚起する時間の連続する感覚、と「ネーデルランド」との間に生まれる日本の植物と異国の感覚、そして「汽車」がそれらを強引にやわらかく貫いていく感覚、それらがイメージとして混然一体と「あかるい」中に結ばれていく。それもすごくなめらかなリズム・スピードをもって。こういう感覚ばかりの不確かな読みは嫌われるものかもしれないが、空気感とイメージとリズムが一致した/させた、非常に心地のいい美しい詩であると思う。私もこういう句から学んで、この傾向を深化させていけたらと思っている。

記:丸田

乾鮭の余寒の頭残りけり 岡本癖三酔

所収:『現代俳句集成 第2巻』(河出書房新社 1982)

ぶら下がっている鮭と聞けば高橋由一の『鮭』が思い浮かぶ。骨をあらわにして吊されている鮭の見開かれた眼や、紅と黒の印象的な対比に生死を見るわけだが、腸を抜いて吊し上げるという乾鮭の説明だけでも、死にながら生を露出する乾鮭の性質はよく分かる。上を向いたものとして由一が『鮭』を描いたため、どうしても縄を咥えている鮭の頭が想像されてしまうが、必ずしもそうとは言えず、尾をくくられ下を向いた鮭もまちがいなく乾鮭である。どちらにせよ印象に残る部分は重たげな頭なのだろう、長谷川櫂に〈乾鮭の頭もつとも乾びけり〉(古志)などの句があるように、乾鮭の頭部はよく人の眼を集めるようだ。吊された鮭は写生するように人を唆すのかもしれない。

掲句は『癖三酔句集』において春の部〈余寒〉に分類されている。頭が「残っている」と景を捉える気分はなるほど春らしい。「余寒の頭」という措辞が頭の一点に寒さを定めているようで面白い。ぶら下がったままの頭は、季節が連続してあるということを改めて気付かせてくれる。さらに「けり」が吊された鮭の姿を伝えるように響き、そこはかとなく寒気を漂わせる。一本筋が通った凜々しい句である。

石川桂郎の『俳人風狂列伝』などが伝えるように、父の遺した財産を元に屋敷に籠り、重い精神疾患を患ったなどといろいろ逸話のある癖三酔だが、高見順との関わりはあまり触れられていないように思う。高見順の母が営んでいた針仕事の得意先に岡本家があり、家が近所ということもあって少年時代の高見順は毎日のように癖三酔の息子と遊んでいたようだ。『我が胸の底のここには』によると「岡下家で過された私の時間が、私をして、書斎での孤独を何よりも愛するところの私たらしめた、かなり重大な原因と成っていることを認めない訳には行かないのである。」と岡下と変えながら、高見順は岡本の家の思い出を綴っている。詩や小説を書き始めるよりも前に、岡本癖三酔のもとで俳句を作っていたという。子どもの遊びとはいえ、与えた影響は大きかっただろう。高見順の一ファンとして記しておく。

記 平野

三輪山の背後より不可思議の月立てりはじめに月と呼びしひとはや 山中智恵子

所収:『みずかありなむ』(無名鬼・1968)

三輪山の背後から不可思議としか形容し難い月が昇った、はじめに月をツキという音と呼んだ人は誰なのだろうか」くらいが適当な口語訳でしょうか。掲歌は歌集の中では比較的平易な方の歌だと思います(だからこそ浅学な私でも取っ付けた訳です)。とはいえ、その平易さは山中智恵子のスケールの大きさを損なうものでは全くない。むしろ修辞による屈折や、韻律のふくよかさが織り込まれない分、下の句の「いったい誰が初めに月と呼んだのだろう」という疑問が、優しく響く感じがします。

三輪山は奈良県桜井市に位置する神話の山です。『古事記』にも物語の舞台として記載があり、その山体は現在も御神体として崇められています。また三輪山は山中智恵子の研究の対象でもありました。その三輪山から、月が昇ってゆく。

古代「月」という語が初めて発話された瞬間に山中智恵子が思いを馳せるとき、われわれは神話世界にいざなわれます。そして「月」を「ツキ」と初めて呼んだ古代の人間の眼差しを同じうして、夜空を見上げることになる。そのとき、月は太古の輝きを取り戻し、煌々と輝く。「太陽に"次ぐ"明るさ」だから「ツキ」という語源の説が有力であるようですが、この歌を読む限り、理屈などない、純粋な身体的な偶然性によってこの音が出たもので欲しいように私は思います。吉本隆明の「海」ばりの願望ではありますが、そうであって欲しい。古代の月と見紛えるような月との邂逅、そのカタルシス。

『みずかありなむ』は山中智恵子の第3歌集。山中智恵子の歌でも最も人口に膾炙しているであろう〈行きて負ふかなしみぞここ鳥髪とりかみに雪降るさらば明日も降りなむ〉から世界が始まります。歌集全体がコンセプチュアルに古典神話世界に遡行しつつ、水底で酸素を吸い込むように、非常に逆説的な形で、超越的な主体が戦後との繋がり方を探っているように思われます。耽美的なのだけれども趣味的でないという歌いぶりというのは、短歌史における一つの頂点でしょう。

記:柳元