遠くにあるたのしいことの気配だけ押し寄せてきてねむれない夜 永井祐

所収: 所収:『広い世界と2や8や7』左右社 2020

遠足や修学旅行の前日、ワクワクして眠れなかった、というのはもはや定型文。だけどこの歌で書かれていることはそれとは違う。

遠足や修学旅行と先ほど書いたけれど、この歌における「たのしいこと」がそれとは限らないだろう。「遠く」にあり、「気配」でしかなく、「押し寄せて」くる(私は押し寄せる、という表現から1番最初に波を思う)もの。例えば、「春」という季節だとか、そういうものを私は想像したい。
何にせよ、この歌における「たのしいこと」はあまりにもぼんやりしている。しかし、予感というのはぼんやりとしているもので、そこに感覚としてのリアリティーを感じる。

遠足や修学旅行の定型文と違うもう1つの点は、高揚感というものが主体の中に存在するものではない、ということだ。この歌の「たのしいこと」はあくまでも気配として主体に「押し寄せて」くるのみであって、その主体の中から高揚感は生まれたものではない。なんなら、上6の醸すゆるやかな雰囲気もあいまって、この主体は「たのしいこと」の「気配」の中で淋しさを感じているような気さえしてしまう。

「ねむれない夜」に至るには、ねむれない理由、物語が書かれるものだけれど、この歌が書くのは感覚であり、それこそがJ-POPの歌詞でも多用される「ねむれない夜」というありきたりなフレーズの新たな面を描き出しているように思う。

龍太忌  柳元佑太

 龍太忌  柳元佑太

春愁の光の鹿を射殺しつ

龍太忌や花は性器をあらはとす

春晝の雄蕊を魔羅と思ひ見つ

情欲や空に花粉の河のあり

太陽に金絲の殖ゆる花粉かな

花粉吸ふ快樂にくさめ夥し

杉花粉えろすたなとす現とす

龍太忌や花粉症をば囃しける

眼球も花粉刑なれ龍太の忌

三寒の四溫殺しや裸婦の服

水田を歩む クリアファイルから散った真冬の譜面を追って 笹井宏之

『ひとさらい』 書肆侃侃房(2008年)

よくよく考えなくても、なぜ「真冬」なのに「水田を歩む」なのかと思うところ。「譜面を追って」いたら季節が巡って夏になったと読むことは可能だが、この歌の物語性の薄さに則ると、そういうストーリーにあまり寄りかからずに読みたい(これは私の好みの問題だが)。

クリアファイルの反射する光、そこから冬の日差しの中で散る譜面、そして水田の反射する光、とこの歌では淡い光が羅列され、そこに仄かに「追う」主体の姿が浮かんでくる。鑑賞者自ら「追う」主体として、物語や意味に担保される以前の淡い光そのものが持つ抒情を楽しむべきな気がしている。

記:吉川

セロテープカッター付きのやつを買う 生きてることで盛り上がりたい 永井祐

所収:『広い世界と2や8や7』左右社、2020

制服にセロハンテープを光らせて(驟雨)いつまで私、わらうの/山崎聡子
あめいろの空をはがれてゆく雲にかすかに匂うセロファンテープ/笹井宏之
疲れっぱなしの下半期 百均の幅の小さいセロハンテープ/武田穂佳
自分はこれからもっと悪くなる 見なくてもわかる 幅の小さいセロハンテープ/同

 セロハンテープといってぱっと思い出す歌を並べてみた。その透明さからくる素敵な雰囲気が詩的に昇華されていくものもあれば、生活圏内で多用する道具としての一面が濃く出ているものもある。

 永井の歌は、どちらかというと生活の中の一道具としてのセロハンテープ感が強く出ている。「カッター付き」であることで一気にストレスフリーになるセロハンテープ。もし詩的なものとして「セロテープ」を見つめるなら、カッターがついていようがついていなかろうがさほど関係ないだろう。「付きのやつ」という言い方からも、より便利なものだとなんとなく捉えられているだけで、それ以上のものは見られていないように思う。
 この、ふつうセロハンテープといえば思い浮かんでしまうような透明な素敵さを、ほぼ無視して道具として押し出すことが、逆に詩的に感じられてくる。

 下の句では、「生きてること」自体の素晴らしさで「盛り上がりたい」と言う。たしかに、生きつづけていること、生きられているということは常に奇跡の上で成り立っている。生きて、社会の中で動いて、忙しく色んな事を考えていると、つい生きていること自体の奇跡を忘れてしまう。改めて生きれていることで盛り上がりたい、という主体の気持がとても分かる。
 ここで面白いのは、その感覚が生じたきっかけが、カッター付きのセロテープを買ったという点である。見過ごして忘れてしまうようななんてことのない幸福、というのを、そんな小さな道具が引き出しているというのが面白く、感動的である。ここで、うつくしいセロハンテープの透明さが、主体に人生まで透かして見せて、こう感じるに至ったなどと無理矢理詩的に解釈していくことも可能ではあるが、ここではそれはしない。セロハンテープを詩的な要素として使っているから良くなっているのではなく、敢えて道具的な側面を言うことでそんな道具から考えたのかと思わせ、飛躍自体の詩的さを全体で増幅している点が優れているのである。

 実際この歌は、いち道具から思考が飛び過ぎているのに、さほど違和感なく受け入れられるのは、それくらい思考というものは常日頃からぶっとんでいるんだということが、無意識のうちに分かっているからなのかもしれない。上の句と下の句というテンプレートを持つ短歌は、その形からして、そういう生活上の思考の飛躍を記すのにはぴったりな形なのだろうと、永井祐の歌を見て改めて思う。

 とだいたいこの歌に関してはそういう把握(小さい道具に端を発して、生きていること自体の嬉しさに目を向けたという歌)だが、最後の「盛り上がりたい」には若干アクというか、すっと飲み下せない何かがあるように思う。
 この「盛り上がりたい」を、テンションの高いクラブでのダンスや、友達と集まってするパーティーのようなものとして考えると、急にみんなを巻き込んでいるのが気になる。生きてることを「みんなで」盛り上がりたい、となると、そこに事情を見てしまう。何もかもみんなと感情を共有したいという若者的な感覚なのか、みんな生きてることの奇跡を忘れてしまっている、そうさせられてしまうような忙しく圧をかける社会があると非難する意図があるのか。
 「盛り上がりたい」をひとりの、自分自身内で完結する感情と考えると、「たい」が気になる。~したい、という言い方は、その時点ではそれが叶っていないことを意味する。空を飛びたい、と言えば、今は空を飛んでいない。ご飯を食べたいと言えば、今はご飯を食べていない空腹な最中だと考えられる。「盛り上がりたい」とは、今、またそれまでは生きてることだけでは盛り上がれていなかったことを意味する。ここでも、生きてること自体の大切さを忘れさせてしまっていた原因をいろいろ想像してしまう。
 カッター付きセロハンテープから、「生きてることで盛り上がりたい」と思えた、その思えたということに希望を見たいが、主体は果たして今後生きてることで盛り上がり続けることは出来るのだろうか。買った一分後には、そんなこと言ってもやっぱりそれだけじゃやってられないよね、と熱が冷めてしまうかもしれない。
 この歌に、生きてることで盛り上がるぞ~と嬉しくなっている主体を見るのか、生きていることだけでは正直盛り上がれないと分かっていて寂しくもそう言っている主体を想像するのか、私/みんなが生きていることだけで盛り上がれるような世界になればいいのにと祈りに近い感情を抱いている主体を想像するのか。はっきり見えるようで、見えない、まさにセロハンテープの歌だなあと思ってしまう。 

記:丸田

螢籠一夜明くれば乾きゐて 宗田安正

所収:『個室』(深夜叢書社 1985)

橋本多佳子の〈螢籠昏ければ揺り炎えたゝす〉が下敷きにあるとして、情念が燃え上がるような多佳子の句に比べると、いかにドライな目線をもっていることか。最後の力を振り絞って燃えたあとの、抜け殻、燃えて、燃え尽くして、それでおしまい、そんな螢をあざ笑うみたいに、ことごとく我が事から引き離し、心も乾き、ニヒルな笑みを浮べ、そんな自分をさらに他人として眺め、燃えていた時間をばからしく思う。ゐて、と突き放す、若かったんだな、と思わずにいられない。俳句から離れていったという宗田、その十九歳から二十四歳までの句が『個室』に収められている。

記 平野

春日井建『未青年』を読む

柳元佑太

春日井建20歳の時に刊行された『未青年』(作品社・1960)という歌集は初めから伝説となるべき要素を抱え込み、なるべくして伝説となったような歌集である。17歳から20歳までの歌を所収した一青年の第一歌集に三島由紀夫の序文つき。しかも三島由紀夫をして「われわれは一人の若い定家を持ったのである」と言わしめている。

大作家が無名の青年の序文を執筆することを訝しく思うむきもあろうが、春日井を三島に紹介したのは敏腕編集者の中井英夫。中井英夫は「短歌研究」「短歌」の編集長を務めた所謂「前衛短歌」の仕掛け人、黒幕である。彼が著した『黒衣の短歌史』を読むと、中井が当時十代後半だった春日井に格別目をかけ、総合誌での作品発表の機会を与えていたことが分かる。要するに平たく言えば春日井にはジャーナリズムの中に後ろ盾もあった。その歳において得られるものとしては最高のものと思われるバックアップのもと『未青年』は世に問われ、世の歌人に賛否ありつつも熱狂的に迎えられ、センセーションを生んだ

また春日井の『未青年』以後の歌集の一般的な評価が余り高くはない(ようにぼくから見える)ということも、相対的な『未青年』の価値を高めてしまっているように思える。『未青年』以後の春日井に向けられた読者のかような眼差しには同情を禁じ得ないが、しかしそのような受容こそが『未青年』を「伝説」に押し上げたのも事実であろう。

とはいえ、伝説など犬も喰わない。一読者として春日井のテクストに忠実に精神を浸して、『未青年』を受け取りたい。ある種の古典は、己に引きつけてある種強引に読まれることを待っている。だいたい、例えばドストエフスキーやサリンジャーを醒めた批評的な「大人」の精神で受け付けて何が得るところやある。精神的な成熟を迎える前の人間が一人部屋に籠り読むべき書という愚かなカテゴライズが許されるならば『未青年』もそのような種類の歌集であるように思うし、ぼくのごとき生意気な(!)未だ精神の青く熟していない読者の評を『未青年』が許さなければ嘘であろう。

さて『未青年』は以下のようなエピグラフから始まる。

少年だつたとき 海の悪童たちに砂浜へ埋められた日があつた あの日 首すじまで銀の砂粒をかぶつて みうごきできない僕が 泣きながら知つたのは何だつたろう 夕焼けの火影となつて立ち動く裸の少年たちにくみふせられたぼく そして 残照にまだ熱い砂に灼かれて 肌はきんきんといたむのだった ああ日輪 みんなの素足が消えていつた砂山のむこうから やがて青ざめた怒濤がおしよせ ぼくのいましめの砂が波にほどけるころひとりぽつちのぼくの真上には 病んだ 紫陽花のような日輪が狂つていた

鼻につくくらい甘美な文章である。ここにはマゾヒスティックな倒錯した快楽に目覚めてしまった非力で泣虫な少年がいる。このエピグラフが見事に導出した、受動的で脆弱な主体は、章の中で主題を変えながら、ナイーブさへの嫌悪(禁忌を侵犯しようとする動き)とそのナイーブさ自体の持つ深さへの逆説的な耽溺を行き来する。なお、一首ごとに評をつけるような野暮はやめようと思う。章から好きだった歌を選んで章ごとに感想を附したい。

「緑素粒」

大空の斬首ののちの静もりか没【お】ちし日輪がのこすむらさき

学友のかたれる恋はみな淡し遠く春雷の鳴る空のした

唖蝉が砂にしびれて死ぬ夕べ告げ得ぬ愛にくちびる乾く

埴輪青年のくらき眼窩にそそぎこむ与へるのみの愛はつめたく

プラトンを読みて倫理の愛の章に泡立ちやまぬ若きししむら

童貞のするどき指に房もげば葡萄のみどりしたたるばかり

われよりも熱き血の子は許しがたく少年院を妬みて見をり

白球を追ふ少年がのめりこむつめたき空のはてに風鳴る

青嵐はげしく吹きて君を待つ木原に花の処刑はやまず

石皿に噴水の水あふれゆけば乳にむせたる記憶の欲しく

粗布しろく君のねむりを包みゐむ向日葵が昼の熱吐く深夜

水仙の苔のしづむ眼の清くみどり児が知恵をふかめゐる冬

青年が恋愛感情を抱く。同性愛のようにもとれる。過剰な身体性を持て余しつつも積極的に動くことは出来ず、むしろ進んで自らの身体の観察者の位置に立ち、自然が火照った身体を冷ます。鬱屈とした性の芽生え。理性による抑えつけが性愛のとめどなさを保証する。濡れ滴るような、色彩的な叙情は圧巻。

「水母季」

襲ひくる兄の死霊を逃れむと帆を張れば潮の香がなだれこむ

水門へ流るる潮にさからひて泳ぎつつ兄の死も信じ得ぬ

生きをれば兄も無頼か海翳り刺青のごとき水脈はしる

潮ぐもる夕べのしろき飛込台のぼりつめ男の死を愛しめり

内股に青藻からませ青年は巻貝を採る少女のために

水葬のむくろただよふ海ふかく白緑の藻に海雪は降る

蝶の粉を裸の肩にまぶしゐたりわれは戦火に染む空のした

兄よいかなる神との寒き婚姻を得しや地上は雪重く降る

白猫の眼にうつされし灯が揺れて父の胸奥【むねど】にねむる軍港

舌根が塩に傷つく沖にまで泳ぐともわれはけだものくさく

亡くなった兄への愛、思慕と恐れ。兄への挽歌であるのだろう。兄と自分は鏡像関係にあるようにも読めるし、兄弟間での愛というものも仄めかされる。敗戦後十五年しか経っていないことを考えれば南洋で死んだ(とされる)兄のイメージはリアル。

「奴隷絵図」

ミケランジェロに暗く惹かれし少年期肉にひそまる修羅まだ知らず

エジプトの奴隷絵図の花房を愛して母は年わかく老ゆ

略奪婚を足首あつく恋ふ夜の寝棺に臥せるごときひとり寝

有頂天に生きてみづみづと孵化しゆく少年の渇を人らは知らず

火祭りの輪を抜けきたる青年は霊を吐きしか死顔をもてり

牛飼座空にかたむき遠くわれに性愛を教へくれし農夫よ

子を産みし同級の少女の噂してなまぐさきかな青年の舌

絵画や彫刻のモチーフが頻出。この辺りから家族や血の「待逃れがたさ」を朧げに感じ始める。〈子を産みし同級の少女の噂してなまぐさきかな青年の舌〉が男性の身体性の暗がりの中に発見している獣臭さは、案外表面的に見えるけども、キャッチーで届く。

「雪炎」

季めぐり宇宙の唇【くち】のさざめ言しろく降りくる冬も深まる

肉声をはるかに聴きてくだりゆく霧の運河にひたる石階

だみ声のさむき酒場に吊られゐて水牛の角は夜ごと黝ずむ

膝つきて散らばる硝子ひろはむか酔漢の過失美しければ

帰りゆくさむき部屋には抱くべき腕さへもたぬ胸像【トルソオ】が待つ

ことばなど失ひはてむ日がくると仰げり小暗く雪の舞ふ空

雪の冷たさの中に熱が見出されるという在りようは、この歌集における作中主体の在りようともリンクするのではないか。

「弟子」

ヴェニスに死すと十死つめたく展きをり水煙する雨の夜明けは

唇びるに蛾の銀粉をまぶしつつ己れを恋ひし野の少年期

刺すことばばかり選べり指熱くわれはメロンの縞目をたどり

石膏のつめたき筒をぬくめゆく若く愛されやすき両脚

無骨なる男の斧にひきさかれ生木は琥珀の樹液を噴けり

傷つけばなべて美し薔薇疹も打撲のあとの鈍き紫紺も

旅にきて魅かれてやまぬ青年もうつくしければ悪霊の弟子

太陽の金糸に狂ひみどり噴く杉のを描きしゴッホ忌あつし

ねむられぬ汝がため麻薬の水汲めば窓より寒く雪渓は見ゆ

力のある歌が並んでいる印象。師弟関係を性的な関係に読み替えていく作業が行われている。思えばこれまでの章でも、同性、血縁関係、師弟関係などの社会の中では性的関係に読み替えることを禁忌とされてきたものを、あえて侵犯している。

「火柱像」

磔刑の絵を血ばしりて眺めをるときわが悪相も輝かむか

ひとときを燃えて悔なし金環の陽が翳るときほそく息吐く

沈丁花の淡紫のしづむ午さがり未生の悪をなつかしむなり

星落ちて宇宙組織の脱落者のわれのみならぬことを哀しむ

両の眼に針刺して魚を放ちやるきみを受刑に送るかたみに

獄舎の君を恋ひつつ聴けり磁気あらし激しき海を伝へる電波

暗緑の菌糸きらめく石壁にもたれて形余の友を恋ひゐき

独房に悪への嗜好を忘れこし友は抜けがらとしか思はれず

軟禁の友を訪ひゆく夜くらく神をもたねば受難にも遭はず

罪を犯し獄へ向かう友人を見送る自分。自分は悪の途に踏み込むことはしない(いつだってこの作中主体は消極的である)にも関わらず〈独房に悪への嗜好を忘れこし友は抜けがらとしか思はれず〉などど述べる。悪への憧れがあるのだが、それを成就させないことにマゾヒスティックな快楽を覚えているようにすら見える。60年という時代を考えれば安保なわけで、独房などどいう語は同時代的状況とも確かに響き合っていたはずである。

「血忌」

晩婚に生みたるわれを抱きしめし母よ氷紋のひろがる夜明け

芽水仙に光が氾濫する昼は累々と毛嫌ひするものが増す

死せる兄生きゐる弟みな冥くながき血忌の胸ふかく棲む

「兄妹」

あばら骨つめたく軋みて氷上を追ひゆかり飢ゑしわれ男巫【おとこみこ】

雪まみれの二月といふにまざまざと干からぶ眼窩もつ兄弟か

千の嘘告げしつめたき愛のため少女の雨の日の夢遊病

「血忌」「兄妹」二つの章とも歌はやや弱い印象を受けたけれども、家族や血という主題についてより厚みが出ている。ただ、この先には天皇制の問題があるはずだけれども、春日井はそこまでは踏み込んでいない。これは春日井の手落ちであると思う。この歌集における唯一の欠点を挙げるとするなら、世界観の構築を優先して斬るべきもののすぐ近くまで到達しながら斬らなかったことを挙げたい。

「洪水伝説」

鉄舟を漕ぎゆか男みづみづと幾千のノアの水漬ける街

水ひかぬ路地の露店に骰子を振るわが欲望の鳥【イアンクス】の泥光る手よ

無尽数の白兎がとべる波がしら大洪水の後も騒ぎたつ

夜の海の絡みくる藻にひきずられ沈むべき若き児が欲しきかな

わが手にて土葬をしたしむらさきの死斑を浮かす少年の首

余剰なるにんげんのわれも一人にて夕霧に頭より犯されゆけり

最後の章。神話と名古屋(春日井健は愛知県の人である)をオーバーラップさせていて非常に読みごたえがあった。水の底に沈んだ大都市名古屋。ああこれだけ豊かな物語をカタルシスで終わらせてしまうんだなという微妙に残念に思う気持ちもありながらだが。

とはいえ春日井建『未青年』を通読して感じたのは、これを過去のものとして通り過ぎるにはあまりにも惜しすぎるということである。幸い、近々読本が出る水原紫苑をはじめとして、健に惹かれ、師事した歌人は多い。それだけ健のエッセンスは歌壇には分有されているはずだし、彼らからにじみ出る『未青年』を感じるのもそう悪くはないはずだ。

*春日井建の表記に誤りがある箇所がありましたので修正いたしました(2021年3月13日)

金沢 平野皓大

 金沢  平野皓大

北国や雪後の町をいくつ抜け

南天の葉の浮きさうな寒の雨

雪だるま百万石のどろまじへ

梅咲かす川淋しくて明るくて

ほつそりと加賀の軒端の雪雫

この国の鱈を昆布で〆るとは

木の芽風入浴剤を撒いてみん

餅食つてちらつく粉は粉雪は

雪吊にいつしかの鳶腹を見せ

駅のまへ雪吊の丈そろふなり

椅子に深く、この世に浅く腰かける 何かこぼれる感じがあって 笹川諒

所収:『水の聖歌隊』書肆侃侃房、2021

 椅子、深浅、「何かこぼれる感じ」となんとなく曖昧なもので構成されている。見過ごしてしまいそうになる薄味の歌で、たとえば「この世とは~だ」(塚本邦雄の「ことばとはいのちを思ひ出づるよすが」的な)みたいな切れ味のあるものは用意されていない。
 が、この一首は、この一首全体で、静かで鋭い切れ味があるように思う。

 上の句は読みがいくつか考えられる。ひとつは、椅子に深く座ることが、同時に、この世に浅く腰かけることであるという読み。椅子に座るという動作を通じて世界の真理に一瞬触れることになる。二つめには、椅子には深く座り、この世には浅く腰かけると別の行為として取る読み。この世に腰かけるには浅めでいい(浅めにしか座ることが出来ない)という、主体の態度が見えることになる。三つめには、椅子に腰かけたあと、しばらく瞑想のように浸って、空想(脳の遠く)でこの世に腰かけるという読み。「深く、」の部分に時間が置かれることになる。

「何かこぼれる感じがあって」。自分では分からないものが、分からないところで限度の量を迎えていて、零れる感じがした。それが主体自身の中でなのか、「この世」の方で起きたのかは分からない。
 この反応が、なんとも微妙で、だから、読みがどれになるかが特定できないでいる。個人的には、「あって」の部分がものすごくあっさりしていて他人事感があるなと思った。これを、椅子に座ったらいつのまにか「この世」に接続されて、とつぜん零れる感じがした、と巻き込まれたように考えることも出来るし、別に最初から「この世」に深く腰かける気など無く、「何かこぼれる感じ」にハマって度々腰かけているようにも考えられる。座ってしずかな瞑想の果てに、「何かこぼれる感じ」をようやく得て、その達成に自身でもびっくりして「あって」としか言えない(「あった」とは言えないくらいに)、とも考えられる。

 この歌に対して、こちらが浅く腰かけるのか、深く腰かけるのかで、「浅く」「腰かける」の印象や、「何かこぼれる感じがあって」の主体の感覚の見え方が異なってくる。椅子とこの世を繋げて深浅で分かりやすく提示して軽い下の句でおしゃれにしたとも、本当に椅子とこの世に真摯に対峙した結果得られたものをあいまいなままに述べているとも読める。読者の方々にそれは委ねられるが、個人的に私はどうかというと、半々かな、と思っている。歌集に収録されている他の歌を見てみても、水的な感性や感覚で世界を捉えたという静かな歌もあれば、今風なかるい口調と発想で書かれたものもあり、この歌に関してはちょうど半々だと思う。ただそれは悪い意味ではない。こういう世界や宇宙や真理や答えみたいなものに、思いがけず触れてしまったとき、リアクションは一様にしてこうなってしまうのではないか。この歌の曖昧さや軽さが、そのまま、深い部分に触れていることを表しているように思う。一首自体が、雰囲気として、切れ味を持っている。

 最後に、一応この歌は巻頭の一首であり、「こぼれる」という章のなかにある。『水の聖歌隊』というタイトルから含めて、水のような柔軟さと神聖さで、色んなところに着いてしまう、気づいてしまうような歌が多く、掲歌もその一つなのだろうと思う。

『水の聖歌隊』には他に、〈どの夏も小瓶のようでブレてゆく遠近 学生ではない不思議〉、〈そう、その気になれば天使のまがい物を増やしてしまうから神経は〉、〈分別と多感 夜には見えているはずだよ宇宙の巨大広告〉、〈優しさは傷つきやすさでもあると気付いて、ずっと水の聖歌隊〉などがある。

記:丸田

母と海もしくは梅を夜毎見る 岡田一実

所収:『記憶における沼とその他の在処』(青磁社・2018)

日が落ちて夜のとばりが降りる。母を連れ立っての夜の散歩には二た通りの道がある。一つ目は海を見に行く道。二つ目は梅を見に行く道。その日の気分や体力、天候条件などが母子の散歩のルートを決定する。すっかりルーチン化した行程は特に母子に感慨をもたらすこともない。しかしそこには習慣しかもたらす事の出来ない美しい静寂がある。家を出て、歩き、家へ戻る。むろん若干の会話はあるのかもしれないが、二者の成熟した関係性の落ち着きは静寂を損なわない。互いに抱いていたわだかまりは長大な時間が溶解させた。互いを老いゆくものとして意識したとき、母子関係というよりもひとりの個としてお互いがお互いを見つめ直す。

——そんなことがあったりなかったりする夜の逍遥である。道のりの途中には夜の海辺に打ち寄せる波音が待ち受け、あるいはともすれば妖艶にも見える梅の花が香りを放っている。春が来ている。構成的にも見える、冷徹な手つき、修辞の充実にも一言触れねばなるまい。

岡田一実氏は第四句集『光聴』を上梓されるとのこと。2021年3月25日発売。版元は素粒社。

記:柳元

ふたつ 吉川創揮

ふたつ      吉川創揮

咳く度に閃く池があるどこか

猫の目の現れて夜の底氷る

 映画『花束みたいな恋をした』 六句

観覧車を廻る明滅息白し

汝と歩く二月世界を褒めそやし

黙に差す春の波永遠の振り

つくづくしあんぱん割るに胡麻こぼれ

夢ふたつ違う夢にて春の床

地図の町名に汝の名つばくらめ

日・日陰蝶の表裏のこんがらがる

空のまばたきに万国旗を渡す