所収︰『崖にて』現代短歌社、2020
相当嬉しかったんだろうと思う。どれくらい嬉しいかは直接言われていないが、「ジン・ジン・ジンギスカン」のノリの良さに任せているところから充分にそれは伝わってくる。ジンギスカンが歌詞に入っているノリのいい曲と言って思いつくのは、西ドイツのグループ・ジンギスカンの「ジンギスカン」と、北海道ソング(?)である仁井山征弘の「ジンギスカン」。ジンギスカンバージョンは「ジン・ジン・ジンギスカ〜ン」の感じ、仁井山征弘の方は「ジンジンジンジンジンギスカン、ジンジンジンギスカン」の感じで、表記的には前者の方が掲歌には近い気がする。ただ、声に出したときのリズムだと、「うれしくてじん/じん/じんぎすかん」の詰まっていく感覚が面白くなり、これを「ジン・ジン・ジンギスカ〜ン」と読んでしまうと、「うれしくて」の後に大きい一呼吸が空いてしまうことになり、それまでのきっちりした定型のリズム感が損なわれる。そのため速度的には仁井山版のスピードで読みたい。実際の所何でもいい。これらの曲でない可能性は十分にある。
嬉しい、という感覚について思うとき、私は、自分が何かをして嬉しいというのがまず最初に思いつく。その後に、何か良いことをされて嬉しくなることが思いつく。
友だちが短歌を「ばかにしないこと」が嬉しい。この、何かを「しないこと」が嬉しい、という感覚は、一回何かを経ているように思われる。例えばこれなら、いつも短歌を口にすると馬鹿にされることが多々あって、だから馬鹿にしないだけで嬉しいと思うようになった、というふうに。だから、この言い方は、相当に嬉しかったんだろうなと思った。
それにしては一瞬気になるのが「ジン・ジン・ジンギスカン」。ページをめくってざっと目に入るぶんだけで言えば、かなり雑な表現にも思える。ただそれも、短歌への愛からくるものなのだろうと思う。一首の中で自由なことをやっていることに、短歌への信頼が窺える。途中までしっかり定型なのも、また。
短歌の中で短歌の話をするメタな歌はままあるものだが、短歌の中で短歌を擁護する、わたしは短歌と両想いだ的なことを言う作品はそこまで見ない(老成した歌人の十を超えたあとの歌集とかには見られるが、若手にはあまり見かけない印象がある)。「ともだち」「うれしくて」の平仮名への開き、「ジンギスカン」の素材の選択から見える若さ(もっと言えば能天気さ)が、短歌の中でまで短歌を守ろうとする堅さと一見相反しているようで、そこがこの歌の魅力であると思う。ずっと気ままであったり、ずっと真剣で真顔であったりではなく、どちらもが重なりながら現れる。
本当に信頼している上で、だからこそ自由に遊ぶ、という歌が北山あさひには多い。短歌っぽい短歌や、自由気ままな短歌、政治を鋭く突くような短歌など、色んな面が現れて見えてくるところが読んでいて楽しい。
ちなみに、初谷むいに、〈ばかにされてとても嬉しい。どすこいとしこを踏んだら桜咲くなり〉(『花は泡、そこにいたって会いたいよ』2018)という歌がある。ある種の開き直り方に共通するものはあるように思う。何を嬉しいと思って、嬉しいから何をしようと思うのか。感情の理由と行方に着目すると面白い。
記︰丸田