手袋にキップの硬さ初恋です 藤本とみ子

所収:『午後の風花』文學の森 2013

手袋越しでも切符の硬さを感じとるなんて、この句の主体の感覚は(恋故にだろうか)非常に鋭敏になっているのだろう、と最初は読んでいたが調べてみるとどうやら違うような気がしてきた。
自動券売機登場以前に使われていた電車の切符は硬券と呼ばれ、厚紙のため今の切符よりもしっかりと硬いらしい。
この句は硬券があった時代の初恋、と解釈した方がいいだろう。

私自身は硬券が使われていた時代を知らないので想像でしかない部分は多いが、学生の初恋だろう。
通学する電車の中で初恋の相手を見かけた時の胸の高鳴りと緊張の混ざったひたむきな思いがキップの硬さに集約されているような気がするし、素手よりも感覚がおぼつかない手袋の状態でキップをしっかりと握っているのも初々しさや真っすぐな思いを感じさせる。
上5中7のイメージを喚起する力の豊かさが下5の甘いフレーズが上滑りしないように働いている。

そしてこの句の肝、「初恋です」である。
突然句の中に現れる口語の真っすぐな印象は句の内容にマッチしているし、まるで現在のことかのように言い切る口調が、初恋をノスタルジーに取り込むのではなく、初恋をした当時の感情を生き生きと伝えてくれる。

記:吉川

飛び込みの水面が怖くなかった頃 神野紗希

所収:『すみれそよぐ』(朔出版、2020)

 文章の書き出しのような句であり、書きおわりのような句である。そうあの頃は――と言って思い出すようでもあり、かつての記憶が走馬灯のように湧いてきて、そういえばあの時は飛び込みをするなんて全く怖くなんて無かった――と思っているようでもある。

 前句集『光まみれの蜂』(2012)から八年空いて今回の句集が発刊されたが、結婚や出産という人生の大きなイベントに沿いながら、考えながら句が綴られていくものになっている。前句集と異なる感触として、自身の現状をかなりの頻度で回顧している印象がある。〈牡蠣グラタンほぼマカロニや三十歳〉のように、いま私は三十歳なのだ、という感覚、これが前句集には無かったように思う(今の自分がどうであるかを考えるよりも先に行動や発想に移っているような勢いの良さが、それはそれで前句集の魅力であった)。
『光まみれの蜂』では〈飛び込みのもう真っ白な泡の中〉、〈校舎光るプールに落ちてゆくときに〉という句があったが、これらとはまた違った局面を描いた、良句であると思う(「飛び込み」が、ではなく、「水面が」である点など……)。「なかった頃」の語感も、前句集を引き継いでいるようで個人的に感動した。

 全体として母として子に接する句が多く、句における口語性は幼稚さや世界を初めて目にした時のような新しさと合体しながら現れている。口語のそういう一面もまた新しい感覚として見られたように思う。

 他に〈子が蟻を踏んできょとんと死ぬって何〉、〈友の恋あら大変シュトレンの胡桃〉、〈鳥交るラインマーカーきゅうううう〉、〈産み終えて涼しい切株の気持ち〉など。

記:丸田

満月の冴えてみちびく家路あり 飯田龍太

所収:『童眸』角川書店 1959

 窓を閉めて布団の中でうずくまっていても西武新宿線の発着に伴うアラーム音が聞こえるくらいには駅とアパートが近い。物件というのは駅に近づけば近づくほど家賃が高くなるものだから、当然ぼくが住んでいる幾築年数を経た六畳ユニットバス物件でも家賃がそれなりに高く、奨学金とバイト代からの捻出には月ごとに難渋する。

 しかしそれでもいわゆる駅近物件を選ぶ利点はあると言わざるを得ない。出不精で外出への精神的障壁が大きい人間は、駅への徒歩所要時間が短ければ短いほど所用の完遂確率も上がるのだ。であるからして、情緒もへったくれもない極論を言えば、自分の感性を刺激したり興奮させるようなものが、家と駅の間に無ければ無いほどよいのである。旨い焼物を出す飲食店のダクトから漏れる油臭に気を削がれたり、飼猫なんだか野良猫なんだか分からない薄汚れた猫と遭遇して全てが面倒くさくなって自室に引き返すという徒労がなくとも済むのだ。所用を済ませて家に帰るとなっても同様で、疲弊した体をベンチで休めたり、定食屋に吸い込まれたり、フィリピンパブの卑猥な呼び込みに反応せずに真っ直ぐ家に至ることが出来る。

 ここまで書いて思うのは、多分情報量の問題なのである。駅と家を結ぶ間の道なりに提示されている情報量が充実(自分の脳の処理能力から言えば飽和)しすぎていて、それに中てられることによる精神の疲弊が所用の完遂確率を下げていたのである。だからせめてもの抵抗として、駅近物件を選ぶことで精神が猥雑な情報に晒される時間を減らそうとしていたのだ。当然ここで思うのはなぜ自分が東京に住んでいるのかということ、のちのち田舎に帰った方が良いのではないかということである。ここで地元の北海道の家路を思い浮かべてみるわけであるけれども、畑や樹々や川があるばかりで、そこには記号的な意味に還元されない静けさが横たわっていたはずだ。幼少期からそのような土地で涵養された脳の情報処理能力が、たった数年程度住むばかりで都市の過剰な情報に適応できるとは、とてもではないが思えない。

 そういうことを一層思うのは、例えば龍太のこのような句を読んだときである。いったい都市に住んでいて、満月が冴え冴えするような感覚によって導かれるような家路の経験を得ることが出来るのだろうか。なるほど満月は都市にも田舎にも平等に掲げられるわけであるけれとも、その視覚情報が、おのれを冷たく灼きつけるようなものに感得されることは本当にあるのか。月明かりを際立たせるための全き闇こそ、ここでは必要に思われるし、それが猥雑なネオンによって打ち消されるようならそれこそ不可能に思えてしまう。まして、都市の過剰な情報すら所与のものとして受け取れるように形成された都市在住者の視覚のコードにおいて、そもそもそういう知覚の可能性が開かれているのかすら疑わしく思える。逆に言えば、神秘的とも言える月光がおのれの近くに冷え冷えと差し迫ってくるような経験を、言語から再生可能なようなかたちで一七音に封じ込めている龍太の凄みこそ、ここでは思うべきなのであろう。

記:柳元

儀後 丸田洋渡

 儀後   丸田洋渡

儀のなかの奇術しかるべきときに鷲

十六夜の身の欠損に新たな身

半癒半壊人と鹿入り交じり

角見せて錯覚の木の裏を鹿

罰すこし快ひとりでに洩れだす葡萄

枝豆に眼一回転する思い

水と子と水の子のくるおしい舞踊

光には光語があり長い吐瀉

虚実ある雪の虚に腕朽ちてゆく

伝承を激しく理解した 雪月花

萍のみんなつながるまで待つか 飯島晴子

所収:『儚々』角川書店 1996(「儚」は異体字)

『儚々』は飯島晴子の生前最後の句集。

飯島晴子には非常に表現が平明な句がいくつかある。例えば『儚々』に収録されている〈寂しいは寂しいですと春霰〉〈昼顔は誰も来ないでほしくて咲く〉とか。掲句もそうした系列の句として位置づけられるだろう。
平明ではあるが、読解が簡単というわけではない。一見これらの句は直情的だが、言葉が上滑りしているとでもいうべきかそこにある意図や感情は見えてこない。

一つ一つは小さい萍が水面を埋め尽くす様には淡い恐ろしさがある(私が集合体を見るのが嫌いだからかもしれない)し、萍の生える場所は水流のない池であるから停滞した印象も受ける。「つながるまで」という表現からは、萍の成長する時間が見えてくる。
この句は様々なイメージを喚起するが、それに対して何の文脈もなく「待つか」と思う主体が登場することが、前段で述べたこの句の読みにくさである。
理屈を飲み込んで、この句で展開されるイメージとそれを待つ主体の二物衝撃に思いを馳せることがこの句を読むにあたっては必要な気がしている。

この二物衝撃が表現の平明さ口語的な軽さとは裏腹な、切迫した印象を与える1句にしている。

記:吉川

夜の駅に溶けるように降りていき二十一世紀の冷蔵庫の名前を見ている フラワーしげる

所収︰『ビットとデシベル』書肆侃侃房、2015

 とにかくカッコいい歌である。どこがというと、まずは目で見て分かる「二十一世紀の冷蔵庫」の物のかっこよさ。昭和、またそれ以前の年代を生きた人から見た未来としての「二十一世紀」は何だかハイテクな最先端の雰囲気があり、まさに二十一世紀のみを生きる現在の者として見ると改めて現在を再認識しようとするその視線がクールだと思える。もっと言えば、数百年後(地球という世界、文学というものがその時まで残っているとして)から見た大昔としての「二十一世紀の冷蔵庫」も、また丁度よく古びた味がありそうで良い。
 わざわざ「二十一世紀の」と言われると、自分もたいして知らない冷蔵庫史なるものに思いが馳せられる。並んでいる冷蔵庫にも歴史があり、その進化の途中の冷蔵庫が目の前にあるわけである。そこで観光客のように感動するのではなくて、その「名前を見ている」。なんともあっさりしていて、カタカナや英語の、もう何が何だか分からない造語を目にする。まるで、「冷蔵庫」に目が留まったんじゃなくて、「名前」だけがボンッと飛び込んできてどうにも気になって立ち止まった、というふうに見えてくる。この奇妙な主体、ただなんとなく気持ちは分かる……というへんてこな共感で満たされる。そう思うと、「二十一世紀の」というのはなんだか馬鹿にしているようにも思える。内容だけでなく名前までも、よく分からないものになってきている、というような(「名前を見ている」だけであるから、主体が実際その名前に対してどう思っているかは分からない。かっこいいと思っているのか、かわいそうに、と思っているのか、はたまたダサいと思っているのか……)。

 かっこいい点二つ目として、声に出したときオーバーする韻律と、それに内容が巧く合っているところがある。この歌をどう声に出して読むかは人によって違うかもしれないが、私は〈よるのえきに/とけるようにおりていき/にじゅういっせいきのれいぞうこのなまえをみている〉という風に読んでいる。こうしたときの下の句の溢れ方が、「溶けるように降りてい」く主体の様子と重なって、のろのろとした夜の空気感が十全に伝わってくる。一方で、「溶けるように」と言いながら「二十一世紀の冷蔵庫」というシャープな(文字だけ見てもキリっと締まったような)空気のあるフレーズが差し込まれることで、自分は溶けるようでありながら、そこにある冷蔵庫はただそこに涼しく佇んでいるという対立が生まれて、一首の世界がより深まっている。この温度差・速度差が、さらっと述べられているところがクールである。

 そして、一首をもう一度上から読みなおすときに深く気づく、「夜の駅に溶けるように降りていき」、「冷蔵庫」の映像のつなぎ方が秀逸である。「冷蔵庫の名前」ということは、冷蔵庫が見える場所に来ているか、冷蔵庫の宣伝や広告を見かけていることになる。私は「名前を見ている」ことの臨場感を得たくて、電器屋の近くを通りがかって見かけたのだろうと想像している。状況の視線の誘導のさせ方、駅~冷蔵庫の距離感が良い。

 ここまで書いていて初めて気がついたが(何十回も見て読んでしていたはずが)、私は完全にこの歌を「夜の駅を」として読んでしまっていた。駅から降りて、のろのろと歩き、電器屋に差し掛かったところで、そこに飾られている冷蔵庫の名前がパッと目に入って見ている、という景を想像していた。
 しかし本当は「夜の駅に」であった。そうなると、駅に向かって溶けるように降りて行っているため、もしかしたら坂の上など位置的に上の場所から駅に向かって降りていき、駅にどろどろと入り込んで、そこで冷蔵庫の名前を見ていることになりそうである。そうなると、この冷蔵庫の名前はどこで見かけたことになるのだろう。駅の宣伝ポスターにあったのか、電車に乗りながらスマホなどで冷蔵庫を調べて名前をぼんやりと見ているのか。いずれにしても、名前に気になっている点は不思議な主体である。ひとえに自分の誤読のせいだが、急に場所が分からなくなってくる。頭の中で主体が溶けるように脳内を彷徨している。

 主体はどこで(何で)、なぜ「二十世紀の冷蔵庫の名前」を見ているのか、そしてどう思ったのか、これからどこへ向かうのか、冷蔵庫の名を見て思ったことはその後の主体の歩みにどう影響していくのか。語と韻律と世界が冷たく、そして長く光る一首である。

記︰丸田

雪中にふる雪満開とぞ言はむ 平畑静塔

所収:『平畑静塔全句集』(沖積舎 1998)

言いたいと抑制している。言葉は秘められ、体内で熱せられる。音は雪のなかに消え、自分と雪以外の気配もまた消えていく。雪との静かな対峙、まなざしに慈愛が宿り、自然との温かな交流が生まれる。雪は降りつづいているが、いまが満開でいつか止み、そして溶けてしまう。老人が若者を眺め、若き日を懐かしみ、自らの終わりを予感するような、諦念。自然への肯定、生滅への肯定が確かにここにはある。

記 平野

みづうみに鰲を釣るゆめ秋昼寝 森澄雄

所収:『鯉素』永田書房 1975

岩井英雅が『森澄雄の百句』の中で掲句を紐解いているのだけれどもこれが中々森澄雄らしいエピソードを引いていて面白い。

盆休みの八月、澄雄は四泊五日の旅をし、伊吹山に登った翌日に琵琶湖に浮かぶ多景島に渡った。生駒山地の南部にある信貴山へ登ったのは五日目。おみくじを引くのが好きな澄雄が朝護孫氏寺でひくと、五言絶句が記されていて、結句の「重ネテ鰲ヲ釣ル釣を整フ」が豪気で大変気に入ったという。鰲は想像上の大海亀。

白状すると先ほど森澄雄らしいエピソードと言ったのは「おみくじを引くのが好き」というところで、こういう言ってしまえば仕様もない俗っぽさを進んで引き受ける人間臭さに、どうしようもないよろしさと、鑑賞文をそういう消費の仕方で興じてしまう自分のはしたなさを思うわけだが、掲句には直接の関係はない。

さて、岩井が述べるように鰲(ごう)というのは想像上の大海亀であるようだ。てっきり適当な小魚と解して素通りしていたのだか、大亀となるとかなり句としてはやや大味な句になる。鰲というのは例えば龍宮神話で浦島を連れてゆく亀を鰲と呼んだりもするし、あるいは『金鰲』という小説が朝鮮最初の小説として李朝時代に金時習によって書かれていたりするようなのだが、いずれにせよ表象として鰲というのは空想の動物であり、であるからこそ夢の中でしか成立しないのだ。

とはいえ、掲句は夢オチなどといった愚劣な語りの形式と一緒にしてはいけない。掲句がそういった足の早い一発芸と根本から異なるのは、夢を見ることそれ自体はうつつの営みであり、脳の束の間の遊戯が生活の中に組み込まれているものであることを秋昼寝という淡さが担保しているからである。生活に根差しているという感覚を措辞がしかと持っており、だからこそ夢であってもそれは生活の中のものなのだ。それは森澄雄というコンテクストがあるからなのかもしれないが、だからなんだというのだろう。亀は釣れるものなのだろうか、亀を釣る為の釣り針というのはどういうものなのか、如何なる強度をもつ釣竿で釣り上げるのだろうか、そういう疑問を淡くぼんやりとした身体感覚で包み込む季題が「秋昼寝」である。湖の水面もどことなく澄んでいる感じがしてくる。

記:柳元

馬肥えぬ叩きめぐりて二三人 橋本鶏二

所収:『ホトトギス雑詠選集 秋』(朝日新聞社 1987)

大木を叩くように打ちつけた手のひらをはねっ返すその胴体はよく肥え引き締まり、外見からして力が漲っているのが分かる。今日、11月1日、アーモンドアイが芝のGⅠレース最多となる八勝目をあげ、過去の名馬たちの記録を乗り越えた。といっても競馬は血のスポーツであり、過去の名馬の血は脈々とアーモンドアイにも流れこんでいる。ポッと出の天才が地図を大きく塗り替えたというより、血の改良によって、なるべくして記録は塗り替えられたと言えるだろう。今年の競馬界いえば、牝馬三冠と牡馬三冠がはじめて同年度に達せられ、いずれも無敗という運・実力の強さ。ゴール板を一番に駆け抜けて、騎手は馬の首を二度、三度と叩く。ウイナーズサークルでは馬主や調教師も思い思いに、背や尻をなでる、叩く、触れる。それは労うようであり称えるようであり喜びを伝え分かち合うようであり、馬と人の交流は今も昔も変わらず肌と肌によってなされる。

記 平野