かの世より飛び来たる矢にいなびかり 野見山朱鳥

所収:『野見山朱鳥全句集』内『愁絶』より 1971 牧羊社

思うことに、かの世より飛び来たる矢というのは果たして幻ではない。否、それは間違いなく幻ではあろう。かの世より矢など飛び来るはずもない。それはどんな矢であろうと、うつつの世で質量を伴うはずはないのである。飛びざまこそ美しくとも所詮幻想の矢に過ぎぬ。いなびかりと幾ら重ね合わせようともそれは幻であって、朱鳥が言語遊戯的に見出した修辞に過ぎない。

しかしそれは朱鳥も承知のこと。朱鳥が筆をとり一句をしたためるとき、虚構がリアリティを帯びる。矢は美しく枝分かれしつ放物線を描き、地上を轟かす。風を鳴らし立てながらわたくしの眼前を通っていく。いなびかりが矢を一瞬光の照らすところとする。いやいなびかりそのものが矢なのだ。照らすのもいなびかり、照らされるのもいなびかり。あらわになる幻の矢の影かたち。そしてそのとき、矢が風を切る音をぼくたちは確かに聞くだろう。虚構のなかのリアリティというものに近代俳句が名を付けたところが写生であったということをぼくらは思い出さねばならない。

果たして朱鳥は写生の作家だったのだろうか。上記の理由でなら、ぼくはそれを首肯したい。それは朱鳥の生涯と決して未分化ではない。戦後俳壇に彗星のごとく現れ、虚子をして「茅舎を失ひ今は朱鳥を得た」と言わしめた書き手でありながら、病床に伏し、空想の中で激烈な句を記した。そういう人物像に鑑みたとき、ぼくは写生という言葉が似合う俳人はむしろ高浜虚子より、高野素十より、同時代の波多野爽波より、野見山朱鳥だと思う、というのは言い過ぎだろうか。

記:柳元

小鳥来て湖に雨続きけり 阪西敦子

所収:『俳コレ』邑書林 2011

 「小鳥来る」は秋の季語。さっぱりとした読後感のある1句。
 「小鳥来る」は字面や、歳時記で引けば『白髪の乾く早さよ小鳥来る』(飯島晴子)などがでることから分かるように、日差しの明るさなどをイメージさせる季語であり、それに「雨」を配したことに意外性がある。
 句の内容はシンプルで静けさに満ちていて、静物画を見ている気分になる。が、小鳥という小さなモチーフから、「湖」(場所)、「雨」(空間)、「続きけり」(時間)、と語を順に連ねることで、どんどんとイメージを広げていく句の構成は非常にダイナミック。

記:吉川

ひかる絃肺胞がひらきゆく海霧 宮本佳世乃

所収:『三〇一号室』港の人 2019

 宮本の第一句集『鳥飛ぶ仕組み』(現代俳句協会、2012)では、〈ひまはりのこはいところを切り捨てる〉、〈ともだちの流れてこないプールかな〉、〈鍵さして抜いて涼しくなる準備〉など、すらすらと流れていくような言葉のリズムと雰囲気に、一歩不思議な視点や発想が加わって、涼しげで独特な手ざわりの句群が光る句集になっていたと思う。

 第二句集『三〇一号室』では、第一句集の傾向も残してはいながら、より古くからの「俳句っぽさ」(型、のようなもの)が色を濃くしており、私としてはやや窮屈そうに見える句が多くあった。ただその中で掲句は、言葉の雰囲気、流れ、発想ともに美しく、ひろびろとしており、第二句集の中では特に一押しの句になった。

 実際の景は想像しにくい。光っている絃。肺胞が、海霧をひらいていく。肺胞は酸素と二酸化炭素を交換する場所であり、体内に数億個存在する。海霧のなかで呼吸しているのだろうか。
「肺胞がひらきゆく海霧」は、体のなかの肺胞の内部で起こっている微小なことなのか、肺胞を通して今体外へ出されようとしている海霧、のような大きい運動に目を向けたことなのか、分かり切らない。肺胞という数億の小さい組織に、海霧という大きな現象が繋げられて強引に景を揺り動かす力になっていることは分かる。
「ひかる絃」との繋がり方も分かり切らない。絃を弾こうとするときに息を吸い込んでいるということか。ただ絃がそこに在るだけなのか。

 想像する光景がうまくまとまらない中で、「ひかる」「絃」「肺胞」「ひらきゆく」「海霧」という単語たちの空気感が心地よく伝わってくる。「ひかる」「ひらきゆく」の平仮名の動詞のやわらかさと、「肺胞」や「海霧」という漢字の硬そうな熟語の格好良さがうまく絡み合って存在している。「ひかる」「肺胞」「ひらきゆく」のハ行の音も空間を和らげている。分からないが、見ているだけで伝わってくる絶妙な感覚。
 これは良い味わい方ではないのかもしれないが、絃や肺胞や海霧が一句に同居している、同時にそこに居合わせたからこうならずにはいられなかった、というような句である気がして、その偶然の共振というか、句(世界)の緊張・弛緩を見ているだけで満たされていってしまう。夏の静かな空気感と句の語の雰囲気にただ圧倒されてしまう。

 あるときには自分が絃を弾いているような気持ちになり、あるときは空中に絃が浮かんでいるのを幻視しているような気持ちにもなる。

 私は、この見るたびに姿を変えてしまうような、眩しくどこか不安定な句に惹かれている。『三〇一号室』には、他に〈キツネノカミソリ金網の向こうは水〉〈風光る丘の話をしてゐたる〉、〈いちめん青麦ひとりひとり浮く〉、〈ブルドーザー中学校のプールに苔〉などがある。

記:丸田

日々明るくて燕に子を賜ふ 飯田龍太

所収:『忘音』(牧羊社 1968)

 コロナ禍の当初より、とどのつまりこういう事なんだなと、ひとりで納得していた。

 まず注意しておきたいことがある。掲句の読みとして「毎日が明るいので燕が子を身ごもった」というように、接続助詞「て」を原因・理由と取り、明るさと妊娠を結びつけることが出来る。しかし、それはいかにもロマンチック・ラブ・イデオロギーであり、一句としての色彩を欠くように、私は思う。

 日々が明るいこと。燕が身ごもったこと。この二つの事象はまったく別の〈自然〉の事実として存在し、そこに関連を見出すことは、人の意志の操作である。その意志の操作を掲句は寄せつけない。

 日々が明るい、結構なことである。明るいとは感度であって、幸福につながる。しかし幸福とはせず、外が明るいと事実を差し出す。明るさは所与のところであり、心の状態で多少の差はあれども、受動的に感じるより他はない。

 そして「賜ふ」と、敬意が表されている。子は天からの授かりものだから、神様ありがとう。などの世にあふれた考え方ではなく、もっと懐はふかくあるのではないだろうか。畏敬と既成の熟語を利用してしまえばそれまで、読みから大切な部分を見失っている気もするが、要するに〈文化〉より以前の〈自然〉に対しておののく、これは受身な態度になるのも仕方がない。

 他でもなく、この二つの事実を並べたところに、龍太の操作は当然あるだろう。また、ここまで述べたような効果を狙っていた様子も感じる。ただしその操作は決して、因果関係で繋げさせるためではなく、二つの事実に通底する〈自然〉の大きさを、読み手に意識させるためである。そしてこの鑑賞もまた、私の意識の操作である点で野暮に違いない。一句は一句として受け止めるべきである。

記︰平野

                                    

虹を懸け時が到ればまた外す 山口誓子

所収:『和服』1955 角川書店

地球という星があり続けるに当たって不必要としか思えない現象が幾つかあって、虹という現象もその一つだと思う。

虹は、どことなく他の自然現象とは異質で、特別な感じがする。単純にその色遣いの豊富さであるとか、天に架かるはるけさに心打たれるのかもしれない。時たま現れる神秘性もまたその感覚を強めるのだろう。

世界各国、様々な民族が虹に対する神話なり俗説を持っていると思われ、虹の根元には財宝が埋まっているという言説しかり、虹を蛇とみなす神話類型しかり、文化人類学的にも非常に考察のしがいのある代物となっている。

さて、山口誓子の句においては、神とでも言うしかないものが虹を懸け、そして暫くすればまた外すのだ、という。機知を感じさせる把握で鼻につかないわけではないけれども、もし神がそういった気まぐれで虹の架け外しを行っていると考えれば何処となく可笑しい。もう少し他にやることがあるのではないか。

記:柳元

暮れまぎれゆくつばくらと法隆寺 加藤楸邨

所収:『加藤楸邨句集』(岩波 2012)

俳句を始めたころに好きだった一句、もちろんいま見てもよい句だと思うのだが、勘どころに多少の変動がある。というのも以前はその空間、つまり薄明るい背景に一点の黒として燕が紛れていく姿。そして滲むような暮色に浮かびあがる、法隆寺の屹然とした縦の存在感、と一枚絵の美しさに惹かれていたのだ。

ところが現在は句の丈にながれる時間の長さ、もしくは多重さに心惹かれる。それは燕から渡り鳥として、眼前に至るまでの来歴の想像が膨らみ、法隆寺は世界最古の木造建築と言われるように、その歴史としての厚みは言うまでもないだろう。そして掲句のような景色はこれまで幾度も、繰りかえし現われては消えて、現われては消えて。反復しながら現在まで失われることはなかった、それは翻って無常である。

時間と空間が織りなす網目を自分たちは生きていて、その一瞬を切り取ることだって可能なのだ。そしてその網目のなかに居てこそ、景色は景観ではなく豊かさをもって現われてくるに違いない。

                                    記 平野

岩魚飼ふ大雪山の雪解水 長谷川櫂

所収:『蓬莱』 2000 花神社 

長谷川櫂も前書で述べているように、大雪山にすみなす岩魚すなわちオショロコマは、太古の昔に湖が陸に封じ込められてから独自の進化をとげた岩魚と言われている。が実際のところは陸封型だけでなく降海型もいるようである。しかしながらオショロコマの個体数は減少の一途を辿っており、現在は殆どが陸封型とも言われているから長谷川が前書で書いているところも間違っているわけではないのだろう。

大雪山というのはタイセツザン、と呼ぶ。北海道の中心部を貫く峰々(北海道最高峰の旭岳、活火山の十勝岳などなど)をまとめてそう呼びならわし、大雪山という山が存在するわけではない。大雪山は7月ごろまで雪渓が残り、蒼く澄みきった山容はいかにも北海道の山と言った感じがする。

さて、その雪解水で、大雪山は岩魚を飼っているのだと長谷川櫂は述べる。ここには多少の擬人化がある。けれど思えばアイヌの人たちも、山々を男女の神々に見立て、様々な神話を作ったことを思えば、この擬人化は心地よく受け入れられよう。たしかに鈍く照り輝く岩魚のうす翠いろの肌は、神の恩寵に思える。

記:柳元

しづかなる水は沈みて夏の暮 正木ゆう子

所収:『静かな水』春秋社 2002

 句集のタイトルにもなっている有名な1句。多くの人が知っているにも関わらず、敢えて取り上げるのは上手い鑑賞ができるからでなく、夏を迎えると毎年思い出してしまうからだ。
 日が暮れると夏の空は藍色へと変わる。それを映して川や池の水の表情もまた複雑に変わる。「しづかな水」と書かれることで、水には色んな水があること、水の複雑な表情を思い出す。僅かな日差しを反射する「眩しい水」、しぶきを上げて勾配を下る「せわしない水」、水面を微かに波立たせる「ゆるやかな水」、それらより深いところに、夕暮れの藍よりも深くある「静かな水」。様々な水に思いを馳せた最後に「静かな水」に思いを馳せると、安らぎとも、さびしさとも言いえない感覚を思い出す。例えば、小学校から家まで川沿いの道を歩いて帰った時のこと、釣りを終えて道具をしまいながら見た池のこと。
 「しづ」、「水」、「沈」のz音の連なりが水の静けさの深く深くへと誘ってくれる。
 気に留めていなかった感覚をピタリと、しかし余白を残しながら言い当てた1句。

花火 これ以上の嘘はありません 福田文音

所収:黒川孤遊 編『現代川柳のバイブル─名句一〇〇〇』理想社 2014*

 そんなにもはっきり言ってしまうなんて、と驚きで虚を衝かれた。花火という、どう考えても、どう書いても綺麗に映ってしまうような現象を、「これ以上の嘘は」ないとバッサリ断ち切る。その潔さにかっこいい、と思う。

 この「これ以上の嘘はありません」については、読みがいくつか考えられる。花火が嘘であるとして、(花火と、それにまつわるものに対して)否定的な見方をしているようにも考えられるし、花火を嘘としつつも「最上の嘘である」と、嘘の(ような)輝きを褒めている、ともとれる。どちらもが混ざっているようには思うが、私としては前者に傾けて読みたい。
 というのも、これは俳句とは違って川柳である。これが俳句であれば、季語を綺麗に高めようとするのではないかと思う。嘘のようにきれいな花火、と花火に帰ってくるような作り方で。しかし、「花火」のあとに一字空けをして即座に嘘だと否定するのは川柳らしく、季語(としての力)が無効化されている。花火という夏や秋の現象だけでなく、「花火」と発せられた会話や、そう書かれた文章もここに含まれているような感触がある。
 そのため、書いてしまえば美しく「なってしまう」ものに対して、それに何の気を遣うことも、恐れることもなく、美しさを簡単に出して楽しんでしまっている人たちに向けて、そんな嘘ある? と責めているように感じられる(私だけが被害妄想的にそう読んでいるだけかもしれないが)。

 ただ、このメッセージは、同様に、この句自身にも適用されることになるだろう。「これ以上の嘘はありません」と指摘する材料として、嘘みたいに美しくて(俗な表現をするならば)エモい「花火」を持ってきているわけで、この句自体も、その「嘘」の恩恵を受けていることになる。
 しかし、無自覚に発言するのと、それを「嘘」と分かっていながら敢えて使うことには差がある。表面的には同じ「花火」でも、この主体から発せられる「花火」の方が信頼できるだろう。――と書いてから気づいたが、「嘘」と分かっていながら使うのは、本当に信頼できるだろうか。それはずる賢く乗っかっているだけで、むしろ、純粋に無自覚な方が、まだいいのではないか。でも、無自覚な、言ってしまえば暴力的な使用と、それに気づいて「嘘」だと指摘することは、大きく懸隔しているから問題はないのか……?

 とぐるぐる考えるに至る。少なくとも確実に言えるのは、この句を、最初に書いたように「花火を嘘だなんて、かっこいい」だけで終わらせてしまっては、「花火」と同じである、ということである。この句によって何が問題視され、これを言うことでこの句の中で何が起こっているのかを考えていくことが、この句の(誠実な)味わい方なのではないかと私は思う。

 私は、これが川柳であることから、例えば俳句の季語を思い浮かべる。この句の「花火」には「桜」「月」「雪」「風光る」「五月雨」と季語を入れてみても、同じようなことが言えるようにも思う(掲句の、花火であったからこその妙味からは離れてしまうが)。蓄積、と言ったら聞こえはいい表現だが、これも良い良いと言われ続けてきた単語にすぎない。その単語を出すだけで、今まで積み重ねられた良さ、文脈、作品を良いように得られる(得ないようにしようとすると、かなりの困難が付き纏う)。もはや嘘として楽しんでいる節もある。もちろん、そこが良さでもあるから、バランスが大事になってくるだろう。
 俳句に限ったことではないが、何か言葉を発するとき、言葉を使用することで生まれる効果や、言葉と同時に利用しているもの(権力、蓄積など)に、鋭敏に反応していかなくてはいけないと思わせられる作品だった。

*当書には出典等明記されておらず、私も初出が調べ切れておらずアンソロジーからの孫引きになってしまっている。確認でき次第追記したい。

記:丸田

梅雨寒し忍者は二時に眠くなる 野口る理

所収:『しやりり』ふらんす堂 2013

 ちょうど、昨日今日が「梅雨寒し」だろう。
 「忍者」なんて俳句では中々見かけない語だけれど、「忍者は二時に」(ninja wa niji ni)の音の反復が生み出すリズムのよさで、浮くことなく1句の中に馴染んでいる気がしてくる。「梅雨寒し」(tsuyu samusi)「眠くなる」(nemuku naru)の「u」音の連なりもリズムを生んでいるかもしれない。声に出して読むと非常に楽しい。
 書かれてあることは非常に滑稽だ。忍者には深夜2時でも見張り(?)のような仕事があるのだろう。それでも季節外れの寒さに、それとも一定のリズムを刻む雨の音に眠くなってしまう……。
 内容が滑稽なのは勿論、断定の思い切りの良さという表現の面でもおかしみが滲んでいる。だんだん「忍者は二時に眠くなる」というタイトルのB級時代劇コメディーがあるような気がしてきた。

記:吉川