クレヨンの黄を麦秋のために折る 林桂

所収:『銅の時代』(牧羊社 1985)

クレヨンを折ったのはなぜだろう。

麦の穂を描くために、折れたクレヨンの尖りを利用したから……実用的に考えるならば何ら不足のない読みに思える。しかし果たしてそれだけで良いのだろうか。

クレヨンは幼さのイメージと結びつく。クレヨンを折るという行為には幼さから脱すること、いわば成熟への願いが込められる。麦秋を(描く)ために、クレヨンを折らなくてはならない。そこには折る必要性があり、焦燥感に駆られているようにさえ思う。幼い自分のままで、麦秋を描くことは出来ないのだ。

このとき描かんとする麦秋とは「母」である。鬼房の「陰に生る麦尊けれ青山河」を引き合いに出すまでもなく、麦は生命力と強く結びつく。生命を供給してくれるのが大地であり、人類は「母」なる大地の懐に抱かれながら成長してきた。ものを描く第一歩は、対象を自分から引き剝がす事だという。「母」の懐に抱かれていたままでは、決して「母」を描くことは出来ない。だからクレヨンを折って成熟することで、麦秋という「母」から乳離れをしようとする。

掲句の初出は昭和49年。作者が21歳の時で、ちょうど今の僕らとおなじ歳の頃だ。『銅の時代』の帯文で、加藤郁乎が「林桂君の青春喪失を祝福しよう」と記している。江藤淳の『成熟と喪失』を思いうかべながら、背景となる時代と、その心理への影響、そして現在との差がぼんやりと見えてくる。

記:平野

桟橋の絵に掛けかへた自室だが、僕が戻つて来ることはない 松平修文

所収:歌誌『月光』No.54

木組みの浮き桟橋には穏やかに波が寄せ、帆を畳んだヨットが繋ぎ止められて上下する。港の様子のなかでも桟橋の景は殊に美しい。飛んでいる海猫に光が散らつく。絵に写し取られると優しげな波音は失せてしまうが、海に反射する光は染料を得てカンバスの上に定着する。

僕は桟橋の絵に自室の絵を掛け替える。絵が窓の役割を果たすなら、室内からはその桟橋の景が見えたに違いない。海の光はその部屋を明るくしたのだろうか。おそらく明るくしただろう。

松平修文は北海道出身、画家でもあった。掲歌は遺稿「よいいちにちを」から。迫る死が意識されながら書かれたものであるはずである。2017年の11月に直腸癌で永眠している。

記:柳元

かたちなき空美しや天瓜粉 三橋敏雄

所収:『鷓鴣』(南柯書局 1979)

なんてことない景色が妙に懐かしく、頭のなかでしばらく咀嚼していると、思いもよらない記憶をたぐり寄せてしまうことがある。どこで見たのかも分らないし、自分で眼にしたはずがない景色に出会ったりする。

八月十五日の空は雲一つない快晴で、明瞭としない天皇の言葉によく分からないまま首を垂れていた。というような話をよく聞く。それで、戦後、あまりに晴れた夏空を見上げていたら、当時のことを思い出してしまう。こう話は続くわけだが、僕には夏の空がそのまま終戦の記憶につながる事はない。体験していないのだから当然の話だ。

でも、掲句を読んだときに八月十五日の空が眼の前に広がった。それが単なる晴れた空ではなく、確かに終戦の日の空だと分る。実際には見ていないから、昔テレビかどこかで作られた空が重なっているのだろう。へんてこな空だと思う。言われてみれば確かに空はかたちがない。この不定形というのが自由な想像を許す。様々なイメージを空に仮託して、もの思いに耽ることを可能にする。視野に区切られた空が空の全てではないし、眼前に広がる空は太古より変わりがない。不定形なのに変わりがない。青の奥の茫洋とした空間に歴史が隠されている気がする。そんな空の面を雲は自在に流れるばかりである。

記:平野

すすみ来し空間かへす一蛍火 山口誓子

所収:『青女』中部日本新聞社 1950

山口誓子の蛍の句と言えば、同じ句集におさめられている「蛍獲て少年の指みどりなり」が有名だろうか。この句とはまた違う趣が掲句にはある。

こちらに向かって飛んできた1匹の蛍が引き返していった、というだけの内容ではあるが、「空間」という語の選択がこの句に奥行を与えている。蛍の光は小さく周囲を照らし、まさに空間を立ち上げる。こちらに来た蛍がまた引き返すことで、蛍が立ち上げる空間はより強く意識され、暗い視界の中、蛍が飛んできた暗がりだけが奇妙に浮き上がる。蛍を見るという体験にある不思議な感覚、その1つを言い留めている1句なような気がする。

記:吉川

バスが来るまでのぼんやりした殺意 石部明

所収︰『現代川柳の精鋭たち』(北宋社 2000)

 バスが来るまでぼんやりとした殺意を抱く。抱く、というほどでもないかもしれない。ぼんやりと頭のなかが、体が、殺意でいっぱいになっている。バスが来たあと、この殺意はどうなったのだろう。消えたのか、忘れたのか、違う気持ちに変化したのか。その殺意は「ぼんやり」と言いながら、たしかに「バスが来るまで」はあったという事実に、ひやりとするものがある。バスがもし永遠に来なかったらと思うと、更に……。

記︰丸田

寝室や冷房が効き絵傾き 太田うさぎ

所収:週刊俳句 第691号 https://weekly-haiku.blogspot.com/2020/07/10_19.html?m=1

一読して読み直したとき、上五を「冷房や」に空目した。掲句の上五は「寝室や」である。いやしかし、意味からして普通、上五は「冷房や」として書き始めるのが定石なのではなかろうか。季語の方が上五や切れとは膠着するから。

そういう風に思ってしまうのは、ぼくが(われわれが)季語に思考を促されるかたちで句型を決定することが多く、句を書くときだけでなく読むときにも無意識にその手順を再現してしまうからだと思う。つまり「冷房」が季語だから、上五や切れと親和的だろうと思い、頭の中で勝手に上五や切れを「冷房」を置き換えて、「冷房や寝室にして絵傾き」くらいで掲句を無意識に別の次元で認識している自分がいる。そしてその自分に否をつきつけるぶん、読みのスピードが落ち、句の読みがメタになるのである。

掲句はそういう定石をハックしていることがその旨味の主たる部分と言わないまでも面白みのそれなりの部分を占めていて、となると、その読みの定石をハックしているか否か、というときに、言うならば勝負を賭けられているのは、われわれの読み手の偏差値に対してであり、読みの共同幻想に対してであり、読みの信頼性に対してなのである。こういうことを書くと、エリーティシズムだとか蛸壷的だとか何とか言われがちだけれど、しかしそういう風に書かれている句に対して誠実さを示す方法は今のところぼくはそのメタに応答する読みを試みることにしかないと思う。その営為の善し悪しはまた別にして。貨幣経済が信頼をもとに再生産していくというのが何となくよく分かった。

記:柳元

たとへなきへだたりに鹿夏に入る 岡井省二

所収:『山色』 永田書房 1983

「たとへなきへだたりに鹿」というフレーズは人間と鹿の距離感を言い留めている。
ディズニーのアニメーション映画『バンビ』(1942)に代表されるように、多くの人は鹿を無垢で純粋で触れがたい動物としてイメージする。だからこそ鹿は、親しみを覚えながらも犬のように愛でる対象でもなく、猪のように恐れる対象でもない。野山でふと出会う鹿と人間には近く、遠い「たとへなきへだたり」があるのだ。

この人間と鹿の間にある微妙な距離、そこから生まれる緊張感が「夏に入る」と、季節と動詞による動きが加わることで上5中7の空気とはまた違う味わいが生まれる。
「入る」という動詞は鹿の動きのことのようにも思える。人間と鹿が見つめ合うことで生まれていた「たとへなきへだたり」の緊張感は、鹿が動くことによって失われる。その緩んだ瞬間に、時間の流れが、夏という季節が現れたのだろうか。

抽象的な言葉の連なり故の透明感と句の内容が合っている。

記:吉川

緑色の受話器は海に沈みつつ呼べどとこしなえの通話中 蝦名泰洋

所収︰『イーハトーブ喪失』(1993 沖積舎)

 受話器から海という単語の移動距離は大きいように思うが、それをほとんど違和感がないくらいに呑み込ませてしまう映像の力がある。
 描かれていることとしては、緑色の受話器があり、それが海に沈んでおり、「呼べど」、とこしなえ(≒とこしえ≒永久)の通話中であったということ。海中に落ちて行く緑の受話器が頭の中に映る。

 この歌において、「呼べど」が非常に大きな役割を担っており、これがあることで実感と奥行きが生まれていると考えている。
 もし、「呼べど」が無く、さらりと繋がっていたとすれば、〈緑色の受話器は海に沈みつつ今もとこしなえの通話中〉くらいになるだろう。こう見ると、緑の受話器が海に沈んでいて、それは永久の通話中である、というシンプルなものに落ち着く。海の中で電話なんて、もう壊れてしまっているはずで不可能にもかかわらず、今も何かと確かに通話している、という不思議な話だ。その通話先の相手が誰(何)なのかも気になるが、こちら側が何なのかも気になる。「海」?「受話器」自身?それとも……。

 ここで「呼べど」があることで、急に話が変わる。永久の通話中であることを強調しているというのはあるが、それよりも誰かがその受話器へ電話をかけていることが強く表れる。ただただ受話器が通話中に入っているわけではなく、呼んでいるのに! という切迫したリアルな状況が加えられている。誰かにとっては出てほしいのに、一向に通話中に入っている。これによって、「とこしなえ」のニュアンスも若干変わってくる。永遠に受話器が通話しているという幻想的な話に終わらず、呼んでいるのに永遠に出ない、その永遠に死の影が薄く見えてくる。もちろんそうとは限らないが、海難事故などで人が死んで、その人へ電話をかけているが、繋がらない、というような……。

 ここで一つ改めて思うのは、「呼べど」なのであって、「かけても」ではない点である。電話といえば次に来る動詞は(自分の中では)「かける」や「きる」が多い。この歌も、私は実際のところ、電話をかけても通話中だった、くらいのニュアンスで最初は受け止めていた。ただよく考えて、「電話をかけても」と「呼んでも」では、やや違ってくるなと思った。もちろん電話の内容にもよるところだが、「呼ぶ」はより切実なもののように感じる。
 というのも、「呼ぶ」という行為は、相手が「通話中」だと分かった後になされることのように思うからである。電話をかけて、繋がらず相手が「通話中」だったとき、わざわざ相手(例えばその名前)を呼ぶことはない。通話中だったから時間を空けてまたかけ直したとき、また「通話中」、時間を空けてまたかけてまた「通話中」だったときに初めて、「おい○○、電話に出てくれよ!」というような、「呼ぶ」行為が出てくるのではないだろうか。そうやって、電話をかけて、「通話中」、「呼ぶ」、「通話中」を繰り返すことで、「とこしなえの通話中」がそこで認識されるのだと思われる。ただふつうに電話を「かける」のではない、電話に出てほしいとその相手を何度も求めつづける気持ちが「呼ぶ」に詰まっているのではないか、と考える。それ故に、「呼べどとこしなえの通話中」には重みと海のように深い悲しみがある。

 この「呼べど」に着目したのは他にも理由があり、それは映像の切り替わりの問題である。ただ受話器が落ちていてそれが通話中だったというのなら、海と緑の受話器だけで映像は片付く。しかし、「呼べど」の入り込みによって、一気に事態が変わる。

 映像の中心が沈下中の受話器であることには変わりないとして、上述の事情で、「呼べど」であるからには、必死に求めて呼んでいる誰かがいるはずだと考えられる。すると、沈んでいる受話器(海)と、関係ない場所で電話をかけている誰か(陸のどこか?)という二つの景色が浮かんでくる。
 神の視点で、落ちて行く受話器は通話中であると述べるだけで終わるところが、「呼べど」という気持ちが入った行為が入れられることで、呼んでいる側が存在し、その人が「とこしなえの通話中」を感じていることが見えてくる。

 となると疑問になってくるのが、その呼んでいる側の人は、相手の「緑色の受話器」が、今「海に沈」んでいる最中なのを知っているかどうかということである。
 知らないから、何度もかけて、通話中だなあと思って、呼んでいるのか。はたまた、受話器が沈んでいて、繋がらないことを分かっているにもかかわらず、何度も何度も電話をかけているのか。後者だと、「とこしなえの通話中」であることの悲哀が倍増して伝わってくる。

 どちらかを特定するまでは出来ない。ただ、沈んでいる受話器と、呼んでいる誰かとがいるだけである。事情は後からついてくるものであり、語られない限り分からない。「呼べど」によって発生した語られていない事情が、この歌に奥行と謎をもたらしている。

 「呼べど」以外の点として、韻律は下の句の句またがりの心地よさを評価したい。「よべどとこしな/えのつうわちゅう」のなめらかな跨り方が海に沈んでいる動きと重なるようで、一層この歌を印象づけていると思う。これは完全に個人的な感覚の話になるが、「(よべ)どとこ」の部分の o 段の連続から「(とこ)しな」と、 a 段になっていくことで水面に上がっていくような明るさがあり、「つうわちゅう」の u の音で伸びていくことで、さっきの明るさは錯覚で、やっぱり沈んでいる最中なんだ……と思わされるような気になった。

 また同じ作り手として、単語の持ってきかた(ワードセンス?)が良いと、純粋に思った。「受話器」「通話中」の単語はこれだけなら電話しているだけの小さな話になりそうな所を、「緑色」というさりげない色の立ち上げ方と「とこしなえ」という少し特殊ぎみの副詞を持ってくることでオリジナルな話になった。「海」を持ってくるとだいたい急に素敵になってスケールが大きくなるから甘えて使う人がいるが、これは完全に海を味方につけて使いこなしていると思った。メタな見方であるので歌の解釈とは関係ないが。
 どのパーツもこの歌を描くのに欠けても増えてもいけなかった、というような、単語に行き渡る気配りのようなものが見えて、個人的にはそこにも好印象な歌である。

 一体この緑色の受話器は今、誰(何)と、何を通話中なのかという魅力的な謎を残して、この歌は記憶されることになる。私は、いつでもこの謎に耽られるよう、頭のなかの海にはいつも、緑色の受話器を沈めている。

記︰丸田

日向ぼこあの世さみしきかも知れぬ 岡本眸

所収:『矢文』(富士見書房 1990)

そりゃあ、あの世はさみしいでしょうよ。と一読して思ったものの、ではこの世はどうか? と問えば、同じものでさみしいものでしょうと答えている。その手順を踏んでみてから、掲句が現世の温かさ、肯定感に支えられた句だと気付かされた。それにしても『矢文』である。〈汗拭いて身を帆船とおもふかな〉とか〈生きものに眠るあはれや龍の玉〉とか、生の幸せが確かにあって、身体的な実感で捉えられている。ぽかぽかの日にあたりながら呆ける幸せが日向ぼこだとしたら、身体を捨てて速さを求める若い者の反対をゆく、老いの幸せというべきだろう。僕もいつかは味わいたいものだ。

                                    記 平野

きつねのかみそり一人前と思ふなよ 飯島晴子

所収:『春の蔵』永田書房 1980

きつねのかみそりはヒガンバナ科の植物で、お盆の頃になるとややオレンジがかった朱色の花を咲かせる。花弁は6枚あって、そのいちまいいちまいが鋭い形状をしている。山中で狐が剃刀として使っているのだろうという連想からこう言った呼び名になったようである。

「一人前と思ふなよ」という呼びかけがこの季語と呼応するのは、剃刀というものが髭なり体毛を剃るものであり、剃刀を使い始める時期がちょうど大人と子供を分ける境目に当たるからだろう。

思えば初めて剃刀を使ったのは中学生の時で、産毛のような毛が口周りに生えてきて濃くなっていくものだから気持ちが悪かった。それを見兼ねた母親が安全剃刀を与えてくれたのだが、妙に気恥ずかしかったのを覚えている。

記:柳元