広島や卵食ふ時口ひらく 西東三鬼

所収: 『三鬼百句』現代俳句社 1948

言わずと知れた句ではあるし、たくさんの評が書かれているであろうこの句に今更私が付け加えることはないのだが、この時期に読むことに意義があるだろうと思い取り上げる。

1945年8月6日に広島に原子爆弾が投下されてから約1年が経った広島を実際に西東三鬼が訪れた際に書いた句である。
その時に西東三鬼が見た広島の惨状は想像する他ないが、 1998年生まれであり戦争を知らない私がどれだけ想像しても足りないだろう。そんな中でもこの句が私の胸に迫ってくるのは「卵食ふ時口ひらく」は生き残った人間が生きてゆく描写であり、それは今生きている自分自身のこととして受け止めることができるような気がするからだ。

私は「生き残った」わけではなくただ「生きて」いる身だ。それでも8月にゆで卵を食べる時に「生」の重みを感じずにはいられない。

記:吉川

鮎呑むと鵜の背に燃ゆる線の見ゆ 加藤楸邨

所収:『加藤楸邨句集』(岩波書店 2012)

一本の線が強靱な力をもつ。単純だからこそ動かしがたく、手元のささいな揺らぎで主題も、そこに秘められた音楽も、なにもかもが変質してしまう。クレーやピカソの線描を見ていると、不安に似た、しかし安らぐような感想を抱く。美術に疎いため、さっぱり分からないものもあるが何となくそう思う。

今日イサムノグチ展に小一時間身を置き、分からないながら作品の間を行ったり来たりしているうちに、似たような感想を持った。そしてそれは、楸邨の『吹越』を読んだ時に感じたものと深く通じているように思えた。

楸邨は鵜の背に燃える線を見ている。同句集には〈つやつやと鵜の背鮎の背さびしけれ〉の句があり、鵜の濡れた背は楸邨にとって寂しさを思い起こすものなのだろう。しかしこうした感慨は人間に近いところで生じる。掲句は人間の理屈を離れて自然の側に沿う楸邨の眼が思われ、楸邨は鵜の背という対象を一本で描き切るような線を取り出している。

イサムノグチ展にも様々な線があった。峻峭とした線、まどかな線、おなじ丸みを帯びていても、艶っぽいものもあれば賑やかな印象のものもあった。しかしどの線も雄弁に語りかけるのではなく、まなざしを投げかけ、そのまなざしがそれぞれに引力を持つ。

楸邨の線は線から広がり、鵜の寂しさ、または鵜にとどまらない自然の寂しさへ到達しようとする。言葉で説明してしまうと嘘になってしまうような、一箇の、一瞬間の線がさりげない手つきで描かれている。

見えるはずのない生命の姿を一筆書きに描き出す。そこには居丈高な物言いと異なる、自然に対して敬虔な態度があるに違いない。単純な線に至るまでの凝視はその態度を持ち続けるところから生まれて来るのだろう。

記 平野

新しい駅が夏から秋へかな 上田信治

所収:『リボン』邑書林  2017

助詞が切字の「かな」に接続して1句が締められるという、あまり見ない形の1句。

今まで俳句を読む中で形成された印象として、切字の「かな」は他の切字と比べると一番静的でゆったりとした余韻を残すというものがある。(「や」や「けり」はスタッカートとでも言えばいいのか、余韻に重きを置かない切字のような気がする)
そんな認識を持っているので、この句の形は新鮮に映る。

「へ」は動作の帰着する場所を示す助詞で、句の意味的には「夏から秋へ」のあとに、(季節が)「移る」といった動詞が省略されていると考えることができる。だから、この句の「かな」は文法的には助詞を受けているのだけれど、印象としては動詞も受けている。動詞+「かな」というのもまたあまり見ない句の形で、「かな」で終わる有名な句がもつ地に足の着いた余韻とは違う印象を与える。

「が」というライトな助詞の選択、そして「へ」の終わり方がもたらす動的な印象がもたらす軽み、そして肩透かしを食らう「かな」の用法が夏から秋へと過ごしやすくなっていく気持ちの良い空気感によく合っているように感じる。新しい駅のさっぱりとした印象もまた気持ちよい。

記:吉川

壺焼やうすくらがりにくつくつと 清原枴童

所収:『枴童句集』(素人社書屋 1934)

日の暮れかかる頃に用意をしたのだろう。網に置かれた栄螺の焼き上がりを待っている間に日は没し、あたりはうす暗がりである。真暗でない、多少の明かりがあるのは炭火が盛んに燃えるためと読めば気は利いているが、実際はぼんやりとした薄明に栄螺の煮える具合が見えるはずだ。醤油を垂らし、殻口に濁と張った汁を眺める。くつくつと滾り出したならばいまに取って食べることも出来ようが、待つことを楽しむ気分が生じる。先延ばしを楽しむ心情と春の夕べの疲れた空気は重なり、栄螺に眼も耳も奪われ、香ばしい塩気は口や鼻に広がる。栄螺を待つ身体は晩酌だろうか、酒は冷やしてあるとなお良い。

記 平野

隋よりも唐へ行きたし籠枕 西村麒麟

所収:『鶉』私家版・2014年(【西村麒麟『鶉』を読む16】理想郷と原風景/冨田拓也https://sengohaiku.blogspot.com/2014/03/kirin8.1.html?m=1から孫引)

高校では世界史選択だったが漢字への忌避感が強くて中国史が大の苦手だった。だから随よりも唐の方がよろしいのだと言われても「へえ」とか「はあ」とか情けなく漏らして微笑するしかない。唐よりも随の方が年代が古いことくらいはわかるのだがそれくらい。たぶん唐代の方が文化が洗練されているのであろうし都も煌びやかなのだろうが、なにもぼくのような浅学無知が中国王朝についてあやふやな推測をしなくとも、この句の豊かな気分は十二分に伝わろう。

「随よりも唐へ行きたし」という台詞に鑑みるに気分はタイムスリップで、いうならば西村麒麟は時空を超えた遣唐使なのである。ここにおいて唐はとうに滅んだ王朝であるからこそ、簡単にユートピアに転ずるのだ(ユートピアとはこの世に存在しない場所の意である、というのは誰のジョークだったか)。実際に唐へ行ってみればおそらく唐も大したことはない。幻滅と望郷の念が仲良くやってくるはずなのだが、季語「籠枕」が座五で全体をよくひとまとまりに定着させるからこそ、彼は桃源郷世界でひたすら詩作と午睡にふける夢想をやめられないのである。

起きぬけに紹興酒くさいおのれの息をかいでみれば、桃源郷はもはや夢の彼方、日常に引き戻されるのだけれども、手元の籠枕の冷ややかさも存外悪くない。まあ唐などに行かなくともよいかなと考え直したりもして、よっこらせと起き上がる。

記:柳元

玉葱はいま深海に近づけり 飯島晴子

所収:『朱田』永田書房 1976

「近づけり」が難しい。玉葱が海に落ちて、深海へ沈む様を描写しているのだろうか。あまり想像できない状況だが、同句集に「孔子一行衣服で赭い梨を拭き」といった想像による句も含まれていることからその線を否定はできない。
しかし、深海に沈む様を句の肝としたいならば「落ちる」「沈む」といった動詞が適切であったはず。無理に思えるかもしれないが、身近にある「玉葱」がふと「深海」にシンクロして見えた瞬間を詠んだ句として解釈してみたい。

「玉葱」と「深海」は考えたこともない組み合わせだが、静かな土の中で何層もの皮(?)を積み重ねて結実した玉葱に飯島晴子は海の深みを見たのかもしれない。

『飯島晴子の百句』(奥坂まや著 ふらんす堂 2014)では、日本古来から「タマ」が大切にされてきたこと、そして「玉」を含む身近な野菜は「玉葱」だけであることが指摘されている。
同句集には「百合鷗少年をさし出しにゆく」という句が収録されているが、この句における「少年」は現実に実在する少年ではなく、語のイメージが形成する「少年」である。
掲句における「玉葱」もまた、飯島晴子にとっては抽象的なイメージとして書かれたのかもしれない。益々掴みにくい1句。

記:吉川

小さくて飯蛸をとる壺といふ 能村登四郎

所収:『芒種』(ふらんす堂 1999)

どこか港町をぶらぶらしている。はたと眼についた壺の大きさが普段見慣れている壺と異なる。尋ねてみれば、なんてことはない。飯蛸を取る壺だと言う。その瞬間に感じた素朴な驚きが「といふ」と他人の言葉を写す形になっているため、読み手にも直に伝わる。旅人としてその地を訪れているだけではなく、連綿と伝わる生活の知恵にまで手を触れ得た気分になる。住民たちにとって当たり前のことが旅人の眼をもって見ると新しい。

と思っていたのだが、壺の大きさが気になって調べると、弥生時代の遺物が多くヒットした。現在、この壺は使われていないのかもしれない。どこかの資料館で壺を眼にし、小さな壺で飯蛸を取っていた弥生人の生活に驚いたのだろう。ただ、その時、その場で、弥生人との対話が行われる。弥生人がこちらの質問に肉声をもって応えてくれているように書かれる。壺一つを挟んで、全く異なった時間を過ごす両者が邂逅しているのだ。

どちらにしろ自分の知らない他人の生活に驚き、ただ受け入れようとしていることに変わりはない。解釈するのではなくそのまま、新しい発見を喜んでいるようである。

記 平野

浮世絵に包む伊万里や春の雪 木内縉太

所収:「澤」2021年6月号

1856年頃、仏のエッチング画家のフェリックス・ブラックモンが、陶磁器の緩衝材として用いられていた浮世絵を浮世絵の魅力を仲間たちに伝えたことをきっかけとして、「ジャポニスム」と呼ばれる日本美術ブームが、欧州で始まったことは周知の事実であろう。

江戸時代が商業出版の時代だったことを考えれば浮世絵というものが安価であった理由に得心がいく訳で、大量に印刷された浮世絵は緩衝材にすら出来るほど安く手に入れられた。ゆえに伊万里は浮世絵に包まれる。しかし、その無造作さにこそ粋というものは宿るわけで、先のエッチング画家フェリックス・モンブランの心を打ったのも案外、その雑然としたものの中にあった輝きにあったのかもしらん。

そして木内句において伊万里を包む浮世絵もまた、このようなものであっただろう。高級な伊万里なのかあるいは低級な伊万里なのか分からないけれども、少なくともそれが浮世絵に包まれることで生まれる情緒や計らいのようなものを、人は喜んだことだろう。

春の雪という季語の質感が措辞をよく味わせてくれる。句全体の情緒の方向性を示すとともに、浮世絵の中にも雪が降っているような感覚をもたらしてくれる。あるいは、伊万里港にふとちらつく雪のようなものを思ってもよいはずで、海の水面に溶け込んでゆく春の雪は殊に美しい。帆を張り海をゆく舟に積まれた陶器が、欧州の画家を驚かすことはこの時点では誰も想像していなかった。

記:柳元

春いちばん製作委員会は謎 木田智美

所収:『パーティは明日にして』(書肆侃侃房、2021)

 アニメや映画などのクレジットでよく見かける製作委員会は、単独ではなく複数企業が出資した場合のその集合体を指す。といっても、いまいち実態は分からない。「は謎」のストレートな言い方(とその雰囲気)と、「春いちばん」の季語が合わさって、涼しげな一句になっている。「いちばん」と開いたことによって、一瞬「春/いちばん製作委員会は謎」と切れて読めるようにも見えて、季語と文字の上でも絡み合っている発想だと感じる。そしてそれが起きたのは、木田の必死な口語口調の挑戦があってのラッキーだろうと思う。

 また改めてきちんと触れたいと思っているが、木田の句集は良いように言えば宝がいっぱい入っている宝箱であり、悪いように言えば宝がいっぱい入っている宝箱である。色んなものが入っていることのバラエティの豊かさに惹かれる一方、やりたいことの方向が色んな方へ向きすぎて読みづらくもあった。
 たとえば、〈あした穴を出ようとおもう熊であった〉の嘘感(本当に熊がそう思ったかどうかはさておき、ちびまる子ちゃんのナレーションのように、誰かが勝手に熊のストーリーを語ろうとしていることの面白さ)、〈ひとがいてうれしい葡萄園に葡萄〉の短歌的な切れ感(自分が思ってること+それに共通した景色を挿入する形)、〈ラズベリータルト晴天でよかった〉、〈マスカット・オブ・アレキサンドリア両手で受け取る〉の軽い季語+一言の形、〈オーロラをつくる隠し味にケチャップ〉、〈おじぎ草こっちはおじぎしない草〉の面白発想、〈うしろ脚びよん毛刈りの羊たち〉の口語オノマトペを中間に挟み込むもの、〈ただいま金魚カルピスに冷え家の鍵〉の単語を詰め込んで連続させるやり方、〈濡れる星雀は蛤となれり〉の文語の名残の句などなど。

 あえて高校や大学の時期に作った(とあとがきに書いてある)文語の句を消すことなく残している点や、趣向を一つに連続させて並べているわけではない配置から、別にそういうところをこだわっているわけではないことが伺える。「パーティ」と題にあるとおり、その楽しさが一つの魅力としてあるのだろう。
 私個人としては、もう少し狙いを定めた数句が並んだところを見てみたい。上に挙げたマスカットの句で言えば、「わざわざカタカナの長い果物の名称をそのまま入れている」のが面白く、それを「両手で」物々しく受け取っているさまが面白い、というのは分かるが、面白ポイントはそこだけに終始してしまう(文字数の関係もあり)ため、どうしても俳句という視点をもってこの一句を見るとやや心もとないものがある。もしこれが7句ほど並んでいたら、古い季語やそればかりを使っている人たちへの挑戦という面が見えてくるだろう。そういう挑戦をしたいわけではないのかもしれないが、珍しい花の名前や現代の新しい単語で詠んだ句が間隔をあけてバラバラ見られる(そしてその間に文語のものがはさまったりする)のは、ややもったいないのではという気もした。
 ただ、この口語で色んなタイプの句が一冊にまとまっていること(作者本人がどこまで自覚的かどうかは分からないが)はかなり良いことだと感じている。童話的な嘘の句も、新しい季語への挑戦も、単語詰込み型も、擬音語投入型も、まだまだ作りこむ余地があることが確認できた。帯文を寄せている神野紗希も、そういう口語でのやりかたを探っていた一人だが、木田の方がより一層いろんな面を詰め込んできた感触がある。

 口語を使うことそれ自体が新しい時代はとうに終わっている、と私は思っている。その使い方を考えていかなくてはならない。木田は偶然発生的に、感覚でうまれた(ように見える)ものが多いが、たとえば福田若之や田島健一の感覚的な口語の俳句のそれとはまた違っている。どちらがいいというわけではなく。私が最近思っているのは、口語にはかなり強いパズル性と、その真逆の力とがある、ということである。緻密に構成することもできるし、何も考えないで喋ることも出来る、それが強みであると。(木田の句が何も考えていないと言っているわけではない)世界を見て発する言葉でもあり、世界を新しくつくるときの言葉でもある。そんな気がしている。
『パーティは明日にして』は、そういう、口語でこれから何を作って行こうかということを考えるきっかけが凝縮されている。木田本人が「句集らしくないタイトルになったことも気に入っている」と書いていたり、twitterで短歌を書いていることを述べていたりしたが、短歌と繋がることで見えてくる口語の新しい面が確実にある(私も同時に並行して作ることで実感している)ため、そういう進化もまた見られるかもしれない。また、現在川柳の流れもアツくなっており、この句集のなかでも無季の川柳っぽい句が見られた。これから木田の句がどう変化していくのか、もし第二句集が編まれることがあればそこにはどんなものが並んでいるのか、今後も楽しみに追っていきたい。

記:丸田

初蟬の短くなきてあとは風 桂信子 

所収:「船団」1999・3

鑑賞にかこつけたエッセイ風の小文になるのでご海容ください。

昨日、すっかり日も暮れ、疲弊の手ごたえを背負って、講師をしている勤務校から帰ってくるとき、ジー、ジー、という蝉の音を聴いた。印象にハッとするような驚きがあって、というのも、その瞬間は今年初めて蟬の声を聴いたような気がしたからで、しばらく記憶を遡ってみたのだけれども、どうやら蟬の声を最近聞いたような気もするし、聞いていないような気もする。はて、と、自分の記憶の不確かさに呆れているうちに、いつの間にか蝉の声もやんで、とうとうほんとうに今聞いたのが蝉の声なのかどうかすら、危うくなってくる。そもそも、蝉の音というのが自分の躰にきちんと蓄積していないような気がしてきて、蟬とはそもそもどのような声で鳴くものであったか、という経験との距離が遠く、よそよそしい感じがした。聞いたことがありながら、直感的には聞いたことがないような、そんな感じがしたのだ。

この理由には実は思い当たるところがあって、昔、高校生二年生の時にエヌ・エッチ・ケーの密着取材を受けたことがある。といってもぼく個人ではなく、ぼくが所属していた文芸部が取材を受けたのであった。俳句甲子園という高校生向け俳句大会の全国大会常連校だった(なにせ地方大会の出場校はたった三校だけなのだ)ぼくの高校は、北海道に立地しているという物珍しさや、名物顧問が今年で定年という話題性も手伝ってエヌ・エッチ・ケーの興味を惹くところがあったらしい。ドキュメンタリー形式の一時間番組で放送されるようで、ディレクターとカメラマンと音声担当者の三人が愛媛から派遣されてきた。

六月の北海道は涼しい。六月は白樺たちならぶ丘陵地帯やうすけむりのような色のラベンダーの季節である。それに北海道には梅雨がない。愛媛からきたエヌ・エッチ・ケーの三人組は、事あるごとに北海道の気候のすばらしさに触れ、君たちはこんなところで育つことが出来、恵まれている、というようなことを言った。

ディレクターはまだ二十代半ばの男性だった。確かKさんという名前だったはずだ。重ためのマッシュ・カットに落ち着いた話しぶりで、知性とユーモアを感じさせる人だった。カメラマンと音声担当者の技術スタッフは、どちらも共に中年に差し掛かるくらいの男性で、ひとりは気さくでひとりは無口、しかしどちらも、大きなカメラや、収音マイクを抱えるための筋肉を、ポロの半袖から覗く浅黒い腕に、みっちりと張りつけていた。そんな技術スタッフを束ね、てきばきと指示をだす若きKさんは、いやらしくない、清潔な自信にあふれていた。年上の技術スタッフ二人が、彼のことをKさん、とさん付けしていることからも、なんとなく彼ら三人組における力関係というか、少なくともディレクターのKさんが技術スタッフから敬意を払われる人であることが伝わった。ぼくも年の離れたお兄さんのような感覚をもって、Kさんに好感を抱いた。

さて密着というか定期的な取材が始まって数週間が経って、Kさんは、皆さんが蝉をとる画がほしい、と言った。その年の俳句甲子園のお題の季語のひとつに蟬が入っていたのである。ぼくら生徒と顧問はさっそくロケ車に詰め込まれて、蝉を求めて、車で一時間ほどの自然公園の中に入っていった。スタッフが用意したのか顧問が用意したのかもはや忘れてしまったが、捕虫網と虫籠も用意されていたはずで、ひとまず傍目から見れば、ぼくら一集団は相当な浮かれようであったのは間違いなく、当人たちもいささかの滑稽さを自覚しつつも、まあ、やはり楽しんではいた。

しかしながら、結論から言えば、蝉は全然鳴いていなかった。これは考えてみれば当然のことで、本州ですら六月上旬は蝉がまだ鳴きはじめであるのに、北海道でこの時期、蝉が鳴いているはずがないのである。果たして捕虫網はひとたびも振り下ろされることなかった。まぎらわしいことにスマートフォンでYouTubeの蝉の音の動画を流すいたずらを試みるむじゃきな部員もいて(たぶん当人はよかれと思ってやっていた)、一瞬期待するから余計に失望の感が強いというか、この行為は明らかにエヌ・エッチ・ケーの制作陣スタッフを苛立たせたように思う。結局、空の虫籠をさげ、ぼくらは帰りのロケ車に乗り込むこととなった。蟬狩りは無念の空振りに終わり、山歩きの疲労もそれなりにあって、ぼくらはくたくただった。軽い日射病のようにもなっていた。

ディレクターのKさんはその帰りにサービスエリアに寄ってくれた。Kさんは、ロケ車に戻ってくるときアイスを人数分買ってきた。棒つきの氷菓子で、それはそのときのぼくらの気分にうってつけだった。現金なぼくらは疲労を忘れて大喜びして、Kさんにお礼をいった。すると、Kさんはそれには答えずに、いい画がとれなかった、と独り言ちた。ストレスがたまったときは散財に限る、というようなことも言った。それをきいたぼくらは無言になって、何か言いようのない罪悪感にとらわれながら(別に、それはけっしてぼくらのせいではなかったのだが)溶けてゆく氷菓子を必死で啜ったのだった。

後から聞くところによると、この番組はKさんのエヌ・エッチ・ケー愛媛における卒業制作のような位置づけであって、この政策を終えるとKさんは東京に転勤することになっていたようである。幸い、その年のぼくらの高校は全国大会でそれなりに勝ち上がったから、番組の盛り上がりにはそれなりに貢献出来たはずで、蝉の画が撮れなかったことを補って余りあるはずだった。しかし、蝉の音は真理として聞こえないものである、知覚しえないものである、というような不可思議な感覚を、今もなお、ぼくは引きずり続けているのであった。

ところで蝉といえば、最近、大学院の先輩の中国人留学生の張さんの随筆を読む機会があった。これは和辻哲郎のある文章を下敷きとしながら、蝉の音について述べる「蟬音」と題された巧みな小文であった。ぼくはこのタイトルを初めてみたとき「蝶音」と空目したことを告白しなければならない。おそらく張――チョウ――という名前の響きが、どこからともなく一匹の蝶々を連れて来ていたのだと思う。ぼくは蝶音というものを想像したとき、意外にも、簡単にその音を思うことが出来た。ぱたぱた、などという音は、無論じっさいには聞こえない。けれども、するするとストロオを伸ばしたり縮ませたりして、巧みに花の蜜を吸い上げる音だとか、風の中で羽根をふるわせるときの葉擦れのような音、あるいは鱗粉をはらはらと地に落とす音というのは、聞いたことが無いのに、直接的に聞いたことがある。そのような気分にさせるのであった。

記:柳元佑太