鯉涼し水を忘れしごとく居る 森澄雄

『所生』1989 角川書店

鯉が泳いでいる。ゆっくりと鰭に水を打ちつけて前進する。ときおりすっと屍のように浮き上がる。そして気まぐれに沈んでゆく。そこに意思ありやなしや。そういう鯉の容態が、自分の身体的な肌感覚に引きつけられた「涼し」という季語で掲句においては捉えられている。これによって、鯉が涼しげに泳いでいるのだという鯉の泳ぎの容態の形容でありながらも、どこか涼しいという言葉を通して、自分と鯉の身体感覚が接続されるような感覚があるのではないか。鯉が涼しいと感じれば私も涼しく、私が涼しいと感じれば鯉も涼しいと感じるような。「鯉涼し」というのはそういう上五であると思う。

そして、そういう風に鯉と身体感覚がシンクロしたとき、鯉の周りの水がふっと薄れて、鯉がただ一匹、宙に浮かび上がっているような、そしてその鯉自体がわたくしであるような、そんな感覚になる。「水を忘れしごとく居る」というのは、まさしくそういう瞬間をいうのだろう。私たち人間が、普段吸っている空気の存在を忘れているように、鯉もまた水を所与のものとして受け取っているのである。

記:柳元

青嵐あなたにはこゑをもらつた 小川楓子

所収:『天の川銀河発電所 Born after 1968 現代俳句ガイドブック』左右社 2017

 季語と印象的な台詞が取り合わされた1句。
 「あなたにはこゑをもらつた」というフレーズ。私は日常的に声を発するから「こゑ」を得て話すことができるようになった瞬間のことは分からない。けれど「こゑ」を貰ったその瞬間には生まれ変わったかのような瑞々しさがあるだろう。生まれ変わった感覚で感じる世界は瑞々しいだろう、と想像する。
 このフレーズに配される「青嵐」という語は青葉が茂る時期の強い南風のことだ。ただ、夏の生命力を感じさせるだけでなく、青嵐が触れたところから世界が瑞々しくなっていき、青嵐と共に視界が広がるようなそんな印象も受ける。
 「青嵐」、情報のない「あなた」、「こゑ」とこの句からは明確な景色が立ち上がることはない。ただ、茫漠とした視野に青嵐が吹き、そこに「あなた」に「こゑ」をもらった記憶がオーバーラップする。「こゑ」をもらうという掴みどころのない体験を、青嵐を配することで掴みどころのないままに、その感覚を明確に表現しているようなそんな気がする。上手く言えないのだけれど、白紙に線が書き加えられるようなそんな鮮烈な一瞬をこの句に思う。

記:吉川

父に雉啼きゐて濡れてゐない沖 柚木紀子

所収:『岸の黄』角川書店 1990

 父に雉が啼いている映像を、濡れていない沖に繋げていく。初めは像が不鮮明でも、考えていくほどに脳内で光景はなめらかになっていく。脳内で映像が溶接されていくときに発生する微かな閃光のようなものが深く心地いい。

 この句からは多くの映像が見えてくる。そして同時に、それを見せるための工夫も見えてくる。「父」「雉」「啼き」「ゐ」「沖」など i や ki の音による特徴的な韻律。「ゐて」と「ゐない」を一句に同居させていること。「父」と「沖」という二拍分の漢字一字で始まり終える構成、「濡れてゐない沖」という撞着語法的な表現。
 この過剰なほどの修辞等の工夫が、良くも悪くも、景をあやうく立ち上がらせる。それは非常に不安定である。言語が先に走っているような「濡れてゐない沖」とは果たしてどんな波を起こしているだろうか(「濡れてゐない」は雉に掛かっていて、沖が最後にぽつんと置かれているようにも読めるかもしれない)。本当に雉は「父に」啼いているだろうか。登場する父と雉と沖は、私にどう観測されているだろうか(同時に見えているのか、時間差があるのか、現実/非現実なのか)。

 この句についての鑑賞から少し離れてしまうかもしれないが、関連して述べたい。私はこのような過剰に操作されたように見える(表現がどう見えるかに特に集中して作られた)句が非常に好みで、ときにステンドグラスを想う。

 区切られた一部分の硝子の色だけを見ていれば分からないが、隣の硝子との繋がり、さらにはもう一つ遠くの、もう二つ遠くの硝子との繋がりを見て、曖昧な理解とともに視点を引いていくと全体像が見えてくる。理解がそこでようやく至る。しかし、基本的にステンドグラスは、初めからそういう見方はされない。先に全体像が見えていて、よく細部まで目を凝らすと、全体像からは遠く離れたシンプルな色が枠の中にただあるのが分かる。
 俳句も、上から一つずつ読んでいくとは言え、短さとリズムから、ほぼ初めから全体が見えている。そこから一つずつ表現を分析していくことになる。そういう意味ではステンドグラス的な鑑賞をしている。
 が、今回の掲句のようにレトリックが先行しているような句では、全体像がぼんやりとしか見えず、逆に個々の繋がりが先に分かってくる。そして繋がりから、全体像が鮮明に見えてくる。しかしそれは水を泡が上がっていくような自然な「見えてくる」ではなく、必死に見ようとして、個々を統合してようやく「見ることが出来る」あやうい一瞬の全体像であったりする。そのため、見るたびに変わっていたり、深く見ていくほど、簡単に像がほどけていく。
 この全体像が立ち上がり崩壊し立ち上がる特有の感覚に心惹かれる。見ようとしなければ見えない上に、深く見ようとするとかえって見えなくなる世界。
(一応補足として、もちろん、全ての句が多少なりとも表現にはこだわられているだろうし、細かく見れば全体が変わりうるという性質はレトリック先行の句に限るものではない。)

 鑑賞に戻り、最後に、「父」と「沖」が登場している高柳重信の句を紹介しておきたい。〈沖に/父あり/日に一度/沖に日は落ち〉、〈凧あげや沖の沖より父の声〉。柚木の句もそうだが、沖とともに存在することによって、空間を強く意識して父が存在させられているように思う。父という自身にとって強固であるような存在が、沖と並ぶことで、空間に向かって、稀薄になっていくような。しっかりとありつつ、しっかりと無い。雉は、本当に「父に」啼いているのだろうか? 父を通して、その先の虚空に啼いているのではないか? と句をステンドグラスのようにぼんやり眺めていて思う。

記:丸田

手をあげて遠のくものや稲光 川崎展宏

 所収:『観音』(牧羊社 1982)

 三橋敏雄には「手をあげて此世の友は來りけり」(『巡禮』 南柯書局 1980)

 同時期に書かれた句ではあるが、そこに意味はあまりないだろう。それよりも、戦時下に青春期を過ごした作家、または世代に特有の感覚があると思う。それは、自分が生きているのは偶然であり、戦後はついでに生きている余生のようなものだ、という感覚。

 「手をあげて」は天皇陛下バンザイと進んだ人びとの姿とも読める。掲句が発表された当時の読者は、実体験と簡単に結びつくのかもしれないが、現在ではこの読みはともすると読み過ぎになるだろう。どちらが誠実とかいう話ではなく、句を鑑賞することの困難さを感じる。時間的なものが間に横たわっていれば、いるほど。

 戦争と結びつけて考えるならば、遠のいていく仲間の背をただ見送るしかない、そこには哀悼の意が込められているはずだ、と後世に生きている自分は思う。しかし、そんなに甘い感傷ではなく、もっと苛烈な感情があったのかもしれない。

                                    記 平野

轢き癖の踏切梅雨を鳴りどほし 高橋睦郎

所収:『十年』2016 角川書店

いまは未だ無理でも、ひょっとすると数十年後にとてつも無く冴えた瞬間がやってきて、稲妻のようにこういう句が閃くときがくるかもしれない。

そう思うと、案外このまま俳句を続けていても良いかもしれないなぁと思うときがあって、俳句を書いていけるかどうかはそういう瞬間を幾つ積み重ねられるかにかかっているのだと思う。そういう勇気をくれる句として、覚えている句の一つ。不穏すぎるけれど。

記:柳元

集まつてだんだん蟻の力濃し 南十二国

所収:『俳コレ』邑書林 2011

大勢の蟻が食物に群がる様を平明な言葉で描いた1句。
特筆すべきは、「蟻の力濃し」という表現。蟻が群がる様を写実的に描写するのではなく、「力」というワードを用いることで、小さな蟻が集まった時の少し異様な迫力が伝わってくる。ただ客観的に観察するだけでなく、蟻の立場に一歩踏み込んだような表現によるリアリティ。また「濃し」という普通、色にかかる動詞を用いることで、蟻が密集した時にそのあたりが黒く見える様子が浮かんでくる。
少しグロテスクとも言えるような光景にも関わらず、「集まって」「だんだん」などののんびりした言葉のチョイスによって、さっぱりとした印象の句となっていて、明るささえ感じられる。

記:吉川

何もないが心安さよ涼しさよ 一茶

所収:『一茶三百句』( 臺灣商務 2018)

 「何」には「な」とふりがな。ブログに載せようとして調べたら、岩波の『新訂一茶俳句集』には載っていなかった。同時期に有名な「大の字に寝て涼しさよ淋しさよ」があるからだろうか。

 五月に入ってからめっきりと暑くなった。風通しの悪い部屋に住んでいるため、熱がこもってしまい如何ともしがたい。それでも夕方になれば涼が感じられる、日中は暑かったからなおさらのこと。本格的な夏に向けての前哨戦といったところだろう。秋口の涼しさとは違い、感覚が外へ開かれていく、そんなバランスの取りづらい時期でもある。

 掲句、「が」と逆説であるところにちょっとした凄味がある。「何もなくて」ならば、忙しい生活がやっと片付いて、ひと息ついている風である。しかしそんな平凡な感慨ではないのだ。日々なんにもないこと、それこそが心安い、そう言い切っている。力強い。

 台湾の訳本なので、ついでに。

 一無所有

 但心安――

 涼快哉          

         陳 ・張芬齡 訳

 読みが分からずとも、漢字の並びから雰囲気は伝わってくる。一・快の字が心境を強調しているようにも思える。

                                    記 平野

美しいデータとさみしいデータに雪 正木ゆう子

所収:「俳句」2020.5

自分が写真を撮るのは専らスマホでだ。ということは自分が主体的に撮った記録は全てデータで残っているのだな、と思った。自分の子どもが成長したとき、「あなたは幼い頃このような姿をしていたのだよ」とグーグルドライブへのアクセス権限を与える日が来るのかもしれない。

あらゆるものがデータで残る時代において、美しさやさみしさも変容したように思う。ベンヤミンの「アウラの喪失」を引くまでもないけれど、複製時代独特の美しさとさみしさというものがあろう。保存もコピーも出来る思い出。ワンタッチで消える思い出。

掲句におけるデータはどんなものなのだろう。「美しいデータ」と「さみしいデータ」という書かれ方からは具体的にうかがい知ることは出来ないけれど、ぼくたちは任意に、おもいおもいにこの余白に当てはまることが許される。

雪は、データと同じように降り積もるものだけれども、降って溶けて一回きりだ。「データに雪」というところは解釈が難しいけれど、まぼろしの雪がデータに降りつのるようなところを想像した。

記:柳元

十棹とはあらぬ渡しや水の秋 松本たかし

所収:『松本たかし句集』1935年

 船頭が棹で舟を10回も漕ぐことなく舟が向こう岸に着いた、という舟渡しの様子を詠んだ1句であろう。
 表現の抑制の塩梅が巧みだ。
 「渡し」の語の直後に「水の秋」と水のモチーフを置くことで舟渡しのイメージを補強している。また、直接舟という語を用いずに、動詞「渡す」を名詞にした形の「渡し」を用いることで船頭が棹で漕ぐ動きが見える。長い棹を静かに、しかし大きく動かす様は空間の広がりや、水の様子をイメージさせる。
 10回も漕ぐことはなかったのだから短い舟渡しであったのだろう。川幅の短さがイメージされる。舟に揺られる束の間は、秋のもつ儚さとも響き合うかもしれない。
 上5中7で、このように船頭の動作や川幅などの空間や、舟に乗っている短い時間をイメージさせることで、下5の「水の秋」は非常に活きてくる。「秋の水」は単に秋という季節の川や湖のことを指すが、「水の秋」は水が美しい秋という季節に思いを馳せる語である。「秋の水」よりも空間的にも時間的にもイメージの広がりが大きい「水の秋」という下5が、上5中7のイメージの広がりを受け止め、情緒の深い1句にしている。
 作者の松本たかしは能楽師の家に生まれ、能楽師を志すものの病弱のために断念した経歴をもつ。私は能に詳しくはないが、舟が登場する能の作品もあるようなので、そこにインスピレーションを得た1句なのかもしれない。

虹あとの通路めまぐるしく変る 鴇田智哉

所収:『凧と円柱』ふらんす堂 2014

 虹のあと、通路が目まぐるしく変わる。何度も見たことがあるようで、一度も見たことがない光景である。

 見たことがないものへの既視感。無いはずが、ありそうという感覚。
 この句を、できるだけ現実の説明がつくのように読むとすれば、「虹あとの」の「あと」を長めにとって、道路工事がなされてゆく街のことだと考えたり、「変る」を、実際の光景ではなく内側のイメージによる完全な錯覚、と考えたりするのが良いかもしれない。
 しかし、虹の雰囲気がこの句全体を覆っていること、虹が架かってしばらくすると消え、目撃できることがやや稀である性質を思うと、通路が虹と同じ時間くらいで変化を迎え、それを本当に目撃していて「めまぐるしく」と言っているように思われる。

 「あと」を、後ではなく跡と考えて、「通路」は虹自体を示し、虹という通路が消えかかり補うように空の道が変わっていく、というような読みも可能であるかもしれないが、その場合だと「めまぐるしく」があまり効かなくなること、そんなに「変」らないんじゃないか、ということで「あと」=後として解釈した。

 ①虹という空間的に高いものから、通路という地上のものへの視点移動、②虹の後に変わっていくという時間の経過、③因果関係とはまた違う、虹と通路の連動(陽にさらすと氷が融けるように……)を微かに思わせる点、この三つがしずかに重なっていることがこの句の魅力であろうと思う。通路が目まぐるしく変わるという実はよく分からないものが、既に感覚したことがあるようなものに変わる。

 『凧と円柱』では、他に〈蜜蜂のちかくで椅子が壊れだす〉、〈めまとひを帯びたる橋にさしかかる〉など、「ないようであり、あるようでない」光景が描かれたものが多くある。句集を読み終わるころには、この居心地が良いのか悪いのか分からない感覚がくせになっている。

(これは個人的な好みだが、「通路」という語の選択も気が利いていて、口調や語によって景がどう立ち上がるかを細かく意識している作家だと感じた。また、このページ上部の画像は、この句をイメージして制作した。楽しんでいただけたら幸いである。)

記:丸田