係の人に喪服を着つけられている母は折り紙のように見えた 竹中優子

所収:『輪をつくる』角川書店、2021

 比喩の強い歌。

 私が、何を以て比喩の強弱を捉えているかについて改めて考える。/「母は太陽のようだ」という文章を例として考えると、こういう直喩の場合は、喩えられる元(「母」)と喩え(「太陽」)の間に、なにかの共通点や類似点がある。たとえば、陽気なところ、熱いところ、眩しいところ、など。/その共通点を一文の中で明かそうとすれば、「母は太陽のように眩しい」、「母の朗らかさは太陽のようだ」などの形になる。「母は太陽のようだ」という文は、つまりその共通点を明示せずに省略した形であるとも言える。

 そのとき、喩えられるものと喩えの距離が遠ければ遠いほど、比喩として強いと私は感じている。/”距離が遠い”だと曖昧なので、いくつかの言い方で言い換える。/共通点が明示されていない形で、かつその共通点がすぐには推測できないとき、比喩の強度は高いと思う。また、その喩えるものと喩えと共通点の三者の、組み合わせの認知度・流行度にも左右される。/「元始、女性は太陽であった」は平塚らいてうが「青踏」創刊号(1911年)の巻頭言として書いた言葉であるが、これがよく知られているため、母→太陽は知られている喩えではある。そして仮に「明るい」が共通点だった場合、太陽を使って眩しさを表現することはあるあるだし、母が明るいという話も、別に珍しいものではない。/だからこの三者は近く、比喩としては弱いと感じる。

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 比喩が強ければ強いほどいいのか、という議論はここでは保留する。私自身は、とりあえず定型詩のなかで直喩をするのであれば強い方が良いと考えている。「(まるで)~のように」「みたいな」と音数をわざわざ取る目立つ技法だから、それに見合うくらいには強くないと甲斐が無いというか、小さく終わってしまうことになると思う。

 今回挙げた竹中優子の歌については、比喩が強く、それゆえに良い歌であると思う。

 なぜ強いと感じるかを、先ほどと同じように考えてみる。喩えられる元が「母」、喩えが「折り紙」、共通点は明示されていない。/共通点が書かれていないだけで、何をもってこの比喩が付けられたかの可能性が固定されないので複雑性が高い。/喪服を着つけているシーンを考えると、なんとなく寂しそうな雰囲気だけは直感で想像される。仮に「寂しさ」が共通点としたとき、母→寂しさは葬儀の雰囲気からも分かるとして、折り紙→寂しさは少し分からない。なんとなく分かるが、太陽→眩しい ほどに明確ではない。
 この時点でまず、直喩の形を取っているから見た目的には分かりやすいが、内容的にはまだ不明な部分があることが分かる。
 そのうえで上の句を改めて考えると、「係の人に喪服を着つけられている」は音数をたっぷり使った言い方であることに目が行く。強引に圧縮すれば、「喪服の母は折り紙のよう(に〇〇)だった」で足りるわけだから、「係の人」の暈けた言い方や「着つけられている」という受動態は、貴重な17音分を使ってもなお言いたかったことだと推測される。/とすると、先ほど明示されていなかった共通点は、この部分をヒントにするのが妥当だろう、と思う。
 でも、その部分だけでは、どうして「折り紙」なのかが、ぴったりと腑に落ちることは無い。いくつか想像はできる。老化や悲しみで表情がくしゃくしゃになっているところと、折り紙の折り目を喩えた、とか。人が手で折っていくたびに折られるがままになってしまう折り紙と、係の人にされるがままの母を重ね見た、とか。でもそれだったら、「完成」に向かっていくはずだから、喜ばしいことに思えるけど、それは葬儀の悲しさと矛盾して感じられる、とか。

 こんなに分かりやすそうに書かれているのに、比喩がすとんと腑に落ちない。それはこの比喩が珍しいからであり、わざと共通項が隠されているからであり、つまりこの比喩が強いからであると思う。/見たことの無い斬新な比喩だけど言っていることはめちゃくちゃ分かる というタイプの強い比喩も存在する。この歌も、「くしゃくしゃ感」や「されるがままの状態」が明示されていたら、そういうタイプになっていたと思う。

 母が折り紙のように見えて、どう思ったのかを言わず、「ように見えた」で留めていることによって生まれている効果は、その比喩の強化が一番大きいがもう一つあると考えている。それは、〈比喩する者〉の態度の演出、である。

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 この歌を見てぎょっとしてしまうのは、比喩自体の新奇性よりも、その〈比喩する者〉の態度の測れなさに対してだと感じる。この歌のなかではつまり、母を見ている(おそらく娘の)主体のことである。
 仮に、母の姿を見て、何かを感じ取って、それが脳内で折り紙に繋がったとして、それを言葉にしていいのかどうかという分岐がまずある。喩えとはいえ、母を折り紙のようだと思ってしまっていいのか。良いも何も、そう見えてしまったものは仕方ない、のか。
 この発想が、言葉になって、作者によって短歌になり、ここに発表されたことによって、少なくともこの主体は「折り紙のように見えた」ことを隠そうという気はないことが分かる。思っても言わない、ではなくて、思ったことを言った、形になっている。/たとえ、主体の母がこの短歌を見たとしてもいいと思っているのかどうか、は知らないし、読みにもそれは関わってはこないが、喩えられるものが近親者であり・比喩する者が自身である場合、どう喩えるかはナイーブな話にもなってくる。

 この母本人が打ち暮れている悲哀、にも想像が行くし、しわくちゃな母を折り紙とした主体、あるいは自分の意思がなく他の人にされるがままの母を折り紙とした主体、が今考えていること、も想像する。/折り紙のように見えて悲しい、とも取れるし、折り紙のように見えてしまったことで主体の感情の糸がぷつんと切れた重大な場面とも取れる。主体の感情の糸が先に切れてしまっていたからこそ、「係の人」「着つけられている」というのっぺりした見え方をして、「折り紙のように見え」てしまったのかもしれない。

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 母と折り紙の間にある共通点は何なのか。主体は、それを何だと思ったのか。そして何を思いながらこれを言葉にし、作者は短歌という形式でそれを保存したのか。上の句の言い方が、ヒントになりそうに見えたが、むしろ可能性を広げていく。
 共感ベースで読もうかとも思うが、じゃあこの歌を読んで共感しようとするとき、私たちはどの部分に共感するのか。母なのか、主体なのか、「折り紙のように見えた」なのか、それを短歌にしようとする作者の心持ちなのか。そのすべてなのか。
 一首のうちにさまざまな人物の気持ちが去来するような、強い比喩による良い歌であると思う。


 というのが、私の読みである。この歌を鑑賞しようと決めてから、書いては消し、書いては消し、書ききるまでに一か月かかってしまった。こういう、「分かる」ことと「分からない」ことが同時に起きていて、その両面が保持されていることの複雑な面白さを言葉にするのはたいへん難しい。
 とにかくこの歌の上手いところは、比喩よりも、その比喩の見せ方、持って行き方だと思う。それをどうにかして言葉にしたいと思ったが、うまく行ったかどうかわからない。

 竹中優子は、短歌では2016年に「輪をつくる」で角川短歌賞受賞、2021年に同名の歌集を刊行。詩では詩集『冬が終わるとき』、小説では2024年に「ダンス」で新潮新人賞を受賞し、芥川賞候補にノミネートされた。マルチなジャンルで結果を残しており、どれについても竹中らしい表現の強さとしなやかさがあり、素晴らしい書き手だと思う(私は『冬が終わるとき』がお気に入り)。

 同歌集内にも喩の強い歌が多々あり、

お尻の穴を見ているような他人の恋 本を読むため海へ出かける
三角定規で平行の線を引くときの力加減で本音を話す
馬のようなたてがみのような連休が終わってお湯をぴたぴた溜める

 など。こんなに強い比喩が続いているのに、けろっとしている佇まいが不思議だなと思う。
 以下、同歌集で私が他に好きな歌。

若い女をいずれ私は憎むだろう花びらに似た半開きの口
くちびるを嚙めば光るよビトイーンライオン歯ブラシコンパクトふつう
感情として不可能/という通知表 校門までの坂道くだる
小説はもう書いてない友達が車から顔出して笑ってくれた

記:丸田

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