『三露』(牧羊社 1966)
新年は新年で、師走とはちがう忙しさがあって、それは生活のメインが自宅へ移ったときの家族・親戚間でおこなわれるコミュニケーションの気忙しさである。
たとえ、年初くらいはだらだらしてやろうと決め、酒をたしなみながら、ソファーやベッドあるいはフローリングに身を横たえて過ごしたとして、それは職場というマジメさを求められる場からちょっと自由になったにすぎず、家では家のはたらきがあり、家を支えるための挨拶があり、どうにも逃れられない窮屈さがあちこちから迫ってくる。
もっとも、それらのワズラワしさをすべて遮断してしまい、気のおもむくままに過ごすことも可能だけど、それはそれで非情な、毅然とした立ちふるまいを必要とし、結局のところ私なんかはまとわりつく情にほだされて面倒ごとを引き受けてしまう。だからこそ情を綺麗サッパリ拭える人には心のどこかで憧れを抱く。
さて、掲句について。
正月も六日になると新年の忙しさもひと段落ついて、仕事もはじまり、そろそろ気分を入れ替えてみようかなとおもう。野に出て、ひややかな空気にさらされて、家の雑事も仕事もわすれてゆっくりしてみる。なるべく、世間の喧噪からはキョリを置いたほうが良いだろう。
力強く、日を照りかえす濃いみどりの野面を前にしてひと息ついたあと、みずからも野にまじって、若菜のあいだを逍遙する。腰をひくく落としてみれば、疎ましい家のうちの臭気とは別の、いきいきとした草や土が匂い立ってくる。
若菜を摘んでいるうちに、ささやかな草が一つ二つと目につくようになってくれば、だいぶ余裕が出てきた証拠で、若菜だけをもとめず、そのほかの草もひとしく愛でているような楽しい気分が掲句にはある。また、自然とまじわることで、身にまとわりついた家の空気からも、若菜野という言葉の垢からも抜けだして、心が自由にあそびだしている感じもある。
そもそも若菜野は春の七草がそれぞれ入り交じり生い茂っている野であり、そこにプラスして別の草も生えているというのは、とても賑やかで、エネルギッシュで、それゆえ何となくおめでたい。
掲句の中心は、若菜以外の草を見つけたことへの驚きにあるのではなく、広闊な野にあそぶことによって生まれる新鮮な気分であり、もっと言えば、気分の変化によってうつり変わっていく、風物のおもしろさである。
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掲句の収録されている『三露』は第1回蛇笏賞の受賞句集。
個人的に蛇笏賞を順番に読み進めることをやっているが、一句鑑賞は出来ていないので、帚の場を借りて鑑賞を進めていきたい。蛇笏賞句集を読む① 皆吉爽雨『三露』|平野
noteでは掲句を含め計20句書き出している。『三露』にあたっていただく契機になると大変ありがたい。
記:平野

