大晦日のエスカレータに 乗せられ 堀豊次

所収:黒川孤遊編『現代川柳のバイブル─名句一〇〇〇』理想社、2014*

「乗せられ」の反転のさせ方が光る一句。
 おそらく、エスカレーターに自分から乗っているにもかかわらず、「エスカレータに」運ばれているようだと考えた、という読みがシンプルだろう。一応、「乗せられ」は誰か他の人に押されてエスカレーターに乗ってしまった、という風に読むこともでき、そう考えると若干テイストが変わってくる。エスカレーターの中でぽつんと自分の発見が浮き上がってくるものと、他者によって無理矢理自分がエスカレーターに巻き込まれてしまうもの。ただ大晦日ほど人が集まっていれば、押されて乗ってしまうことは容易に起きそうだから、後者の読みだと「 乗せられ」があまり効かなくなってくるため、やはりシンプルな読みの方が合いそうだ。

 この句が何故か新鮮に思えるのは、エレベーターとの感覚の違いからだと思われる。どちらも自分から乗るものではあるが、エレベーターは連れていかれる感が強い。エスカレーターは乗っている最中も自身は歩くことが出来るし、箱型のエレベーターよりも運んでくれる感は少ない(個人的に)。もしこの句が「エレベーターに 乗せられ」だったら、たいして驚くものは無かった。もしかしたら、エレベーターよりもエスカレーターの方が、私たちはナメてかかっているのかもしれないとも思ったりした。
 ちなみに、私の地元は田舎であったため、町にエスカレーターは一基しかなく(農協にあった)、他の町に行ったときも、エスカレーターでさえドキドキしながら乗っていた。だから小学生のころの自分がこの句に出会っていたら、何を当たり前のことを(そりゃ「乗せられ」るものだろうと)、と思ったかもしれない。それを思えば、近くにデパートがあったり電車の駅があったり、そういう都市、都会の生活になじんでいる人の方が、この句に対する驚きは大きいのかもしれない。

 蛇足ではあるが、個人的に「大晦日」以外のことも考えたくなる。生活感あふれる「大晦日」もいいが、もしこれが「天国のエスカレータ」であったり、「まひるまのエスカレータ」であったりしたら。それこそ最初に述べた通り、「乗せられ」が発見としての反転ではなく、乗せられることの恐怖に変わっていくことになるが、それはそれで面白そうである(そう書いていて気付いたが、大晦日であることによって、エスカレーターに乗りながら年を越してしまう可能性も匂わせられているような気がする。時をまたぐエスカレーターに乗っているような。大晦日のそんな時間まで動いているエスカレーターがあるかどうかは怪しいが、そういう時間というエスカレーターにも乗せられているような感覚も、なんとなくこの句を良い雰囲気にしているように思う)。

 webサイト「週刊俳句」にて、樋口由紀子さんがこの句から「考えてみれば、人生は『させられ』の連続である」と述べている(2011年12月30日)。自分は自分で生きているかと思ったら、実は生きさせられているのかもしれない。そういう当たり前と思っていることが逆転するときの、寒気がするような不安と気持ちよさが、この句の一字空きに詰まっているのかもしれない。

*初出は、筆者は確認できていないので、この句が収録されているアンソロジーを置いた。上述した樋口さんの確認によると 「天馬」2号(河野春三編集発行 1957年)収録とのこと。

記:丸田

チャールズ・シュルツ倒れし後もチャーリーは獨身のまま白球を追ふ 佐々木六戈

所収:『セレクション歌人14 佐々木六戈集』邑書林

チャールズ・シュルツは言わずとしれた漫画『ピーナッツ』の作者であり、世界で一番有名なビーグル犬・スヌーピーの創造者である。チャーリーというのもスヌーピーと同じく『ピーナッツ』の登場人物であり、どこか冴えないが心優しい少年である。チャーリーの前にはいつも失敗が待ち構えるわけだが、彼のひたむきな姿勢に心打たれ、内向的な趣きや卑屈さに共感した読者は世界中に居るはずだ。

さて、作者シュルツは2000年に死去したわけだが、大きく育った作品というものは恐ろしいもので、作者の亡骸などは目もくれずに、人々の記憶と想像力のもとで膨らみ続ける。『ピーナッツ』も例外ではなく、登場人物たちは物語的運動をやめない。死後20年経った今日でも哲学的思索が繰り広げられる漫画は増刷され、スヌーピーの長閑なほほ笑みはTシャツにプリントされる。チャーリーの恋も実らないまま、のろのろと白球を追い続ける。

ただ佐々木六戈が用意した「独身のまま」という措辞はどこか丸顔の少年に似合わない。『ピーナッツ』の世界を考察するウェブサイトを幾つか見たところ、チャーリーは1950年の連載時は4才、1971年の連載時は8歳らしく、そこからさして背丈が伸びていないことを考えてもせいぜい彼は小学校低学年のはずである。この年齢には結婚も何もない。「独身のまま」という措辞は時間的な成長がないお約束ごとの世界にはそぐわないのだ。

つまり氏は、チャーリーに対して漫画的設定からの逸脱を夢見ているのである。ここには成長したチャーリー・ブラウンがいるのではないか。作家の死によってチャーリー・ブラウンがお約束ごとから解放され、時間が正しく進み始め、大人になり、チャーリーが「赤毛の女の子」なり彼が憧れる想いびとと結ばれる世界線が可能性としては準備される。なのだけれども、なのだけれども、チャーリーは「独身のまま」……そういう措辞なのだ。大人になってもスヌーピーと戯れ白球を追う有り様はさながら独身貴族(?)である。ルーシーやライナス、サリー、他の登場人物らはどうなっているのだろう。チャーリーと同様に、シュルツが造形した通りの物語を遂行しているのだろうか。それとも。

チャーリーの関して言えば、ここに自分が知っている世界が継続している嬉しさと一抹の悲しさを思ったりもするのだが、ぼくらにそんな権利を行使される言われはなくて、連載が停止したのちにチャーリーがどんな人生を選びとっていようと彼の勝手であろう。彼はいつもいつでも白球を追っているのであり、そしてまた追っていなくともよいのである。ともかく幸せあれ!

記:柳元

もう何も見えなくなりし鷹の道 佐々木六戈

所収:『セレクション俳人08 佐々木六戈集』

 鷹という季語の一つの側面は狩に用いられることだろう。この場合は鷹匠などの傍題とセットで思い起こされ、そしてすでにこのような飼い殺しの鷹のあわれは正木ゆう子が

かの鷹に風と名づけて飼ひ殺す

と書き留めた。しかし生物ピラミッドの頂点に君臨する王者たる威厳を喪っていない鷹というものもまだ自然界には辛うじて残っている。そしてその中でも寒くなれば日本を脱出して南国へ避難する経済的余裕を持つ鷹というものもいて、それがサシバなどの渡りをする鷹である。彼らは日本の温暖湿潤な夏を楽しみ、冬は東南アジアの森林で寒さを凌ぐ。彼らが渡ってゆく様子を寒さに耐えつつウォッチして喜ぶ人間もいるらしい。

 何羽もの鷹が群れて螺旋を描くように上昇する「鷹柱」という季語はまさにその渡りの最中を捉えたものだ。鷹は賢い。上昇気流の発生する場を逃さず、その気流に乗ってまずは高度を稼ぐ。そしてその稼いだ位置エネルギーを徐々に運動エネルギーに変えつつ滑空することで、エネルギーを節制するのだ。上昇気流というのが起こる場所は限定されるため、自然にそこに鷹が集まり柱に見えるという寸法である。

 六戈氏が寒晴の空に描いた鷹の道というのは、この螺旋状の上昇の道、そしてその後の滑空の道に他ならない。その道ははるか東南アジアまで続く。六戈氏は日本に立ち尽くし、その道が掻き消えるのを見つめる。他の寒禽の句もよい。

寒禽の胸から腹へ風の渦

寒禽の聲一發で了りけり

上座なる一羽の聲に寒威あり

 佐々木六戈は1955年、北海道士別生まれ。「童子」に所属している。また2000年に「百回忌」で第46回角川短歌賞を受賞しており、詩形問わず巧みに語を操る。次の月曜日は六戈氏の短歌を鑑賞の予定。

記:柳元

ふるさとがゆりかごならばぼくらみな揺らされすぎて吐きそうになる 山田航

所収: 『水に沈む羊』 港の人 2016

山田航はブログ(http://bokutachi.hatenadiary.jp/entry/20160420/1456822716)にて歌集『水に沈む羊』について『地元と学校が嫌いな人のために詠みました。』と説明している。今回とりあげる短歌における「ふるさと」、ブログの説明にある「地元」はどのような場所が想定されているのか、歌集の他の歌も読むと分かってくる。

果てなんてないといふこと何処までも続く車道にガストを臨む

ゴルフ打ちっ放しの網に桃色の朝雲がかかるニュータウン6:00

延々と伸びてゆく車道沿いにある「ガスト」や「ニュータウン」という語から分かるように、山田が「ふるさと」「地元」として想定したのは、特定のどこかでなく、かつどこにでもる「郊外」なのではないだろうか。

「郊外」は上記の歌にある通り「ゆりかご」のように住みやすい。しかし、赤ちゃんを喜ばせるための「ゆりかご」のやさしいゆれが、「ぼくら」にとっては吐き気をもたらす悪なのである。ことごとく平仮名にひらかれた「ふるさと」「ゆりかご」にはそれらに対する皮肉や憎悪が伺えるようにも思う。

私自身、広島市の中心部から離れた新興住宅街で子供の頃を過ごした。何も不都合を感じた記憶はないけれど、公園と特に深い面識のない人が住む家が立ち並ぶだけの退屈な場所だった。
嫌悪感など特に深い理由があるわけではないが、私は広島という「ふるさと」に帰る進路は選ばなかった。そんな今だからこそ、この歌が「ぼく」の歌でなく、「ぼくら」の歌であることを少しありがたく思う。

記:吉川

ともだちが短歌をばかにしないことうれしくてジン・ジン・ジンギスカン 北山あさひ

所収︰『崖にて』現代短歌社、2020

 相当嬉しかったんだろうと思う。どれくらい嬉しいかは直接言われていないが、「ジン・ジン・ジンギスカン」のノリの良さに任せているところから充分にそれは伝わってくる。ジンギスカンが歌詞に入っているノリのいい曲と言って思いつくのは、西ドイツのグループ・ジンギスカンの「ジンギスカン」と、北海道ソング(?)である仁井山征弘の「ジンギスカン」。ジンギスカンバージョンは「ジン・ジン・ジンギスカ〜ン」の感じ、仁井山征弘の方は「ジンジンジンジンジンギスカン、ジンジンジンギスカン」の感じで、表記的には前者の方が掲歌には近い気がする。ただ、声に出したときのリズムだと、「うれしくてじん/じん/じんぎすかん」の詰まっていく感覚が面白くなり、これを「ジン・ジン・ジンギスカ〜ン」と読んでしまうと、「うれしくて」の後に大きい一呼吸が空いてしまうことになり、それまでのきっちりした定型のリズム感が損なわれる。そのため速度的には仁井山版のスピードで読みたい。実際の所何でもいい。これらの曲でない可能性は十分にある。

 嬉しい、という感覚について思うとき、私は、自分が何かをして嬉しいというのがまず最初に思いつく。その後に、何か良いことをされて嬉しくなることが思いつく。
 友だちが短歌を「ばかにしないこと」が嬉しい。この、何かを「しないこと」が嬉しい、という感覚は、一回何かを経ているように思われる。例えばこれなら、いつも短歌を口にすると馬鹿にされることが多々あって、だから馬鹿にしないだけで嬉しいと思うようになった、というふうに。だから、この言い方は、相当に嬉しかったんだろうなと思った。

 それにしては一瞬気になるのが「ジン・ジン・ジンギスカン」。ページをめくってざっと目に入るぶんだけで言えば、かなり雑な表現にも思える。ただそれも、短歌への愛からくるものなのだろうと思う。一首の中で自由なことをやっていることに、短歌への信頼が窺える。途中までしっかり定型なのも、また。

 短歌の中で短歌の話をするメタな歌はままあるものだが、短歌の中で短歌を擁護する、わたしは短歌と両想いだ的なことを言う作品はそこまで見ない(老成した歌人の十を超えたあとの歌集とかには見られるが、若手にはあまり見かけない印象がある)。「ともだち」「うれしくて」の平仮名への開き、「ジンギスカン」の素材の選択から見える若さ(もっと言えば能天気さ)が、短歌の中でまで短歌を守ろうとする堅さと一見相反しているようで、そこがこの歌の魅力であると思う。ずっと気ままであったり、ずっと真剣で真顔であったりではなく、どちらもが重なりながら現れる。
 本当に信頼している上で、だからこそ自由に遊ぶ、という歌が北山あさひには多い。短歌っぽい短歌や、自由気ままな短歌、政治を鋭く突くような短歌など、色んな面が現れて見えてくるところが読んでいて楽しい。

 ちなみに、初谷むいに、〈ばかにされてとても嬉しい。どすこいとしこを踏んだら桜咲くなり〉(『花は泡、そこにいたって会いたいよ』2018)という歌がある。ある種の開き直り方に共通するものはあるように思う。何を嬉しいと思って、嬉しいから何をしようと思うのか。感情の理由と行方に着目すると面白い。

記︰丸田

ひといつかうしろを忘れ小六月 飯田龍太

所収:『遅速』(立風書房 1991)

単純なようでいて意味がはっきりとしない、ただ忘我の境に立っていることだけ伝わる句として鑑賞していた。ここに原子公平『浚渫船』より〈水温むうしろに人のゐるごとし〉を並べてみると、もっと身近に引きつけて解釈することも出来そうだ。若いころに詠まれたの原子の句に対し、掲句は龍太最後の句集となった『遅速』に収録されている。つまり若年と老年の意識の違いが見える。

青春という過渡期において多くが誰かに見られているような感覚で苦しんだろう。いたるところに眼があり、光りを帯び、じっとり絡んでくる。想像上の視界の中で自らの行動を抑えつけてしまい、なし崩し的に悪い方向へ流れていく。原子の句にはこうしたある種の感じやすい青年の怯えが伺える。一方で龍太の句はそうした眼の範囲から逃れ、ゆうゆうと過ごすだけの老いのゆとりがある。

また、意識の違いは取り合わされた季語によってより明白になるかもしれない。原子の句は「水温む」と冬から春への温かさを感じていながら冬に意識が寄る語であるのに対し、龍太の句は「小六月」と冬にいながら暖かさを感じている。青春という時期は明るく満ち足りていると同時になにかうすら寒い暗さが奥に潜んでいる。それは温さや生命の横溢だけでない「水温む」に通じる一方で「小六月」は年を得て、あとは死にゆくだけの冬にありながら老いの充実を感じさせる語であると思う。

記 平野

着古した服に似ている神秘に出会う人よ スプーンとスプーンとナイフ 瀬戸夏子

所収︰『かわいい海とかわいくない海 end.』書肆侃侃房、2016

 内容的にはかなり静かな歌だと思っているが、韻律や歌の展開のさせ方から表現の激しさがうるさく聞こえてくる。深海と水面に起こる荒波の二つを透かして見ているような感覚を抱く。

 それぞれ読んでいくが、まず「着古した服に似ている」について。私は、よれていたりどこかがほつれていたりしている服で、でも沢山着てきたから愛着があって愛おしく思う、くらいにイメージしている(愛着、という言葉が、「愛しく着る」に見えてくる)。これを、古びたもの感を強く取って、早く捨てたいとか、早く新しい服に移りたい、と考えることもできる。ここをどうイメージするかによって、景の立ち上がり方が異なってくる。

 次の「神秘に出会う人よ」について。「着古した服に似ている」が、「人」に掛かっている可能性も無くはないが、変な人がノーマル神秘に出会うより、「人」が変な神秘に遭遇してしまう事件性の面白さを取りたく、ここでは置いておく(ただ、そういう神秘に出会うのは神秘と同等に特殊な人と捉えることも可能であり、韻律のスピード感も合わせて、最初の措辞を「人」に掛けて読むこともできる、また後述)。
 着古した服のような神秘。神秘とはそもそも、人知では届かないような不思議や秘密を指す。「着古した」を愛着と取るとき、人知から離れたものに対して人間的な妙な愛着を感じているのが妙である。「出会う」と初めて遭遇したように言っているのにもかかわらず「着古した」なのは、何度も味わっていたりずっと身につけていたかのようである。デジャヴのような感覚で、見たこともない神秘であるはずなのに何故か懐かしく愛着を覚える、というふうに読むのがいいだろうか。
 一方、「着古した」を古ぼけて早く捨てたい、新しいものへ移行したいという感情として取ると、「神秘」がやや皮肉っぽく見えてくる。神秘というと畏れ多かったり綺麗だったり謎めいて素敵! 的な受け入れられ方がされたりする。が、この読み方であれば、例えば旧習であったり古びた価値観であったりを敢えて「神秘」と言い直して、まだそんなものを崇めて服みたいにずっと身につけているのか、と述べているように考えられる。

 私は最初、完全に先の愛着の読み方で読んでいた。美しい神秘、それに遭遇する人、それにぶつけられる謎の映像(情報、表現)。しかしそれだと、「人よ」が引っかかることになる。音数的にも、別に「人よ」ではなくて、個人的に自分が神秘に出会って愛着を感じた、という話にしてしまうことは出来る。それを破って他者に拡げていくこと、呼びかける(詠嘆とも読める)ことの必要が、いまいち分からなくなってしまう。
 これが、捨てたいものとして考えたとき、「人よ」が分かりやすくなる。そういうある意味神秘的な旧習に好んで出会いに行く人々よ、聞こえているか、と「人」に対して怒りを向けているという読み。だんだん読み返すたびにこちら側寄りで考えるようになった。
 ただ、愛着でかつ皮肉にも読むことは出来る。先ほど「〜に似ている」を、「神秘」に掛けるか「人」に掛けるかという話も述べたが、それは感じている人によって分岐する。

 分岐をまとめると(ここでは「人」≠主体として)、
①「着古した服」は愛着あるものか、捨てたくて次に移行したいものか。
②「〜に似ている神秘」と感じたのは「人」か主体か。
 もちろん「着古した服」への感覚はその二つに限ったことではないため、読みはもっと広がっていくと思われるが、大きく考えるとこの二点で考えられる。

「本人が愛着を感じる神秘と出会った。その人へ」というタイプ、「本人は愛着を感じているある意味神秘的な旧習に、また(好んで)出会おうとしているめでたい人へ言いたいことがある」というタイプ、「私にとってはとっくに古びたものを、明るい神秘として受け止めて出会う人へ」というタイプなどなどが考えられる。
 しかし、そもそも「着古した」には愛着も離れたい願望も、どちらとものニュアンスが含まれているであろうし、「神秘」にも素敵さや畏れ、分からないからとりあえず格をあげて謎として無視する、などさまざまなニュアンスがあるため、はっきり分類することは出来ない上に、する意味はほとんど無い。
 ただ、上の句の部分に何らかの皮肉や批判の意を汲み取ろうとするならば、「着古した服」か「神秘」の箇所で、主体と「人」の感覚のねじれが生まれていることになることを確認したかった。

 そしてようやく「スプーンとスプーンとナイフ」を考える。一字空きがなされてリズムよく並べられる。銀色の食器が(テーブルの上に並んでいるか、同じ場所にしまわれているかなど位置情報を欠いて)現れることを、まったくの美しい光景として読むことも出来るが、明らかに何か意味がありそうな雰囲気と、前半の皮肉の気配から、詳しく考えたくなる。
 ナイフよりスプーンの方が多い。例えばフランス料理を食べるときのテーブルを想像したとき、そこにはスプーンよりもナイフが多くある。そしてナイフと同じくらいフォークがある。この歌ではフォークが消えて、スプーンが増え、ナイフが減っている。ただ「ナイフとスプーンとスプーン」ではなく、「スプーンとスプーンとナイフ」。スプーンの多さにも目が行くが、やはりナイフの鋭利さは最後の体言止めによって残っている。それはむしろ強化されているほどである。湖と湖と滝、と言ったら滝の落下のイメージが強くなるように。スプーンにはない切れ味と危険さが特に現れている。
 とりあえず具体的にどういう食事風景なのか、と考えていくような歌ではない。食事かどうかすら分からないが、主体は「スプーンとスプーンとナイフ」を発見/想像した、ただそれだけである。それをどう思っているのかまでは分からない。

 皮肉や批判という線をここに繋げるとしたら。制度、社会、性、宗教、年齢、文化……。一つ多い「スプーン」は何で、たった一つ未だ切れ味を持つ「ナイフ」は何か。また述べられていない「フォーク」はどうなっているのか。そして前半と繋ぎ合わせたとき、「ナイフ」は武器となって「人」を指すことになるのか、「人」そのものが「ナイフ」であると指摘することになるのか。歌の輝きや勢いは収まっていくのか、増していくのか。

 鑑賞としてはそこをどう読むかを明かして語っていくべきなのだろうが、私はそれを固定して語りたくない。「着古した」と「神秘」の揺れと、過剰とも言えるくらいの清潔な「スプーンとスプーンとナイフ」の情報の絞り方が魅力である歌に、何かをどんどん当てはめてパズルのように解くことは、それこそ「着古した」短歌の読み方なのかもしれないと思うからである。なんだか素敵な比喩と神秘と銀のカトラリーからなる歌としても、最後まで皮肉の効いた高潔な歌としても読めうるという、この歌の豊かな魅力を紹介して終わりたい。

記︰丸田

天は二物を与へず愛しき放屁虫 有馬郎人

所収:『天為』2020.12

「放屁虫」はゴミムシの類い、捕まえると悪臭を散らすとされる。ゴミムシという名を与えられた所以は彼らが獲物とする小昆虫がゴミに群がるからであるとされるが、当のゴミムシからすると堪ったものではない。彼らは彼らでおのれの食事を得るための最適な場所を正当な理由で陣取っているのであって、近代的衛生観念などというものは人間の常識、糞喰らえなのである。しかしながら有馬氏はそんな「放屁虫」も「愛しき」ものとする。それは「放屁虫」すらも神の被造物であり、人間から見たその単純な身体の造りは、神の愛、アガペーの降り注がれることを可能性として排除するものではないからだろう。有馬はここで、ある種の超越的な付置からの強引な愛を宣告する。

ここで明確にしておかねばならないのは「天は二物を与へず」というのは現世的に見れば間違いなく嘘であるということだろう。環境が偏る以上、はっきりとこの世においてギフトとして見出されるものには偏重が出てくる。「天は二物を与へず」というのはそういう不平等を覆い隠す極めて都合の良い言葉である。しかし、前述のような、等しく降り注がれる神の慈愛の前にはある種の公正公平な関係が切り結ばれるのであって、有馬がここで述べる「天は二物を与へず」というのはこういうキリスト教的な観念、「最後の審判」のような絶対的な未来の時制が確保されていることによる、ある種の諦念による公平さのようなものが前提になっていると思う。

しかしそれでも現世利益的に動く蒙昧なわれわれにとっては「天は二物を与へず」は所詮「天は二物を与へず」でしかない。有馬氏が行った様々なこと(それは俳句以外のこと、例えば公職にあったときの、現在から見れば愚策と評するしかないような諸々のこと)はこういうズレから来るものなのかもしれない。それは先見の明や政治的手腕などに起因することではなくて、有馬氏は「愛の人」なのであり、我々はそうでは無かった、ということなのかもしれない。そんなことをつらつらと考えながら、この文章を書いている。ただ、こんな修辞に満ちた駄文を読むよりも有馬作品を読む方が何千倍もよいと思う。「天為」のサイトでは有馬氏の近作が読める。ご冥福をお祈りします。

記:柳元

棹ささんあやめのはての忘れ川 高橋睦郎

所収:『花行』(ふらんす堂 2000)

芭蕉とほぼ同時期の生まれである池西言水に「菜の花や淀も桂も忘れ水」の句がある。この句を高橋の師にあたる安東次男は「忘れ水」の語が『後拾遺集』の大和宣旨の歌「はる〴〵と野中に見ゆる忘れ水絶間〳〵をなげく頃かな」に由来するとして〈菜の花の黄一面に心を奪われているというより、むしろ、黄一面の中に光の反射をたよりに水の在りかを探る意識の方が強いように受け取れる。「忘れ水」とは、このばあい、そうした遠い何ものかを探る放心とやや郷愁を帯びた表現でもあろう。〉と言っている。

このとき掲句はひとつの決意のように読める。つまり「忘れ川」という現代の人々が忘れかけた遠い何ものかをあやめのはてに見出し、そこに自ら棹をさし、大きな流れに乗って書いていく。個人は歴史のうねりの中を流れる不確かなものでしかなく、高橋睦郎は別のところ(『友達の作り方』)で「卓れて没個性的な詩である俳句」と言っていた。忘れ川に身を任せる決意は個人にとって怖ろしいものだろう。しかし遠い地平にまで連れていってくれるものでもあるはずだ。ところで、あやめは文目とも書ける。こうした遊び心も句中にはあるかもしれない。

記 平野

あなたはおかあさん正真の雪正真の白  宇多喜代子

所収:『記憶』角川学芸出版 2011

私は自分の母のことを幼い頃から「おかあさん」と呼んでいるので、「おかあさん」と呼び掛けられることはさもありなん、と思う。だがこの句は「あなたはおかあさん」と念押ししてくる。この句では、私にとっては深い意味はない「おかあさん」の呼びかけが、あなた=母であると規定する(もしくはその事実を確認する)切迫した言葉へと意味を変えている。

そこに続く「正真の雪正真の白」もまた念押しといえるフレーズである。俳句においては基本的に、「雪」と書けば大気中の水蒸気が氷の結晶と化して降ってきたもののことを指すし、「雪」は「白」であるにも関わらず、偽りなく「雪」であり、その雪が「白」であることを強調する。

当然と思われることを念押しする切迫した言葉の連なりとして現れると、その当然と思われることに至る前に私は立ち止まってしまう。あなた=おかあさんなのだろうか、雪=白なのだろうか。
答えが「はい」であることに変わりはない。しかし「はい」と答えながら恐ろしくなってしまう。美しい「雪」、清廉潔白をイメージさせる「白」と並んで書かれた「あなたはおかあさん」は、一人の人間に、美しく清廉潔白な母親という役割を付与しているような気がするからだ。
私は男性であり、おそらくこの句における「おかあさん」になることはないから、想像でしかないが、この「あなたはおかあさん」は非常に重く、時にを人を苦しめる言葉であるだろう。

作者は雪と白で「おかあさん」を寿ぐことを意図したのかもしれず、かなり独りよがりな読み方かも知れない。

記:吉川