ふるさとがゆりかごならばぼくらみな揺らされすぎて吐きそうになる 山田航

所収: 『水に沈む羊』 港の人 2016

山田航はブログ(http://bokutachi.hatenadiary.jp/entry/20160420/1456822716)にて歌集『水に沈む羊』について『地元と学校が嫌いな人のために詠みました。』と説明している。今回とりあげる短歌における「ふるさと」、ブログの説明にある「地元」はどのような場所が想定されているのか、歌集の他の歌も読むと分かってくる。

果てなんてないといふこと何処までも続く車道にガストを臨む

ゴルフ打ちっ放しの網に桃色の朝雲がかかるニュータウン6:00

延々と伸びてゆく車道沿いにある「ガスト」や「ニュータウン」という語から分かるように、山田が「ふるさと」「地元」として想定したのは、特定のどこかでなく、かつどこにでもる「郊外」なのではないだろうか。

「郊外」は上記の歌にある通り「ゆりかご」のように住みやすい。しかし、赤ちゃんを喜ばせるための「ゆりかご」のやさしいゆれが、「ぼくら」にとっては吐き気をもたらす悪なのである。ことごとく平仮名にひらかれた「ふるさと」「ゆりかご」にはそれらに対する皮肉や憎悪が伺えるようにも思う。

私自身、広島市の中心部から離れた新興住宅街で子供の頃を過ごした。何も不都合を感じた記憶はないけれど、公園と特に深い面識のない人が住む家が立ち並ぶだけの退屈な場所だった。
嫌悪感など特に深い理由があるわけではないが、私は広島という「ふるさと」に帰る進路は選ばなかった。そんな今だからこそ、この歌が「ぼく」の歌でなく、「ぼくら」の歌であることを少しありがたく思う。

記:吉川

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