ある朝の大きな街に雪ふれる 高屋窓秋

所収:『白い夏野』(龍星閣 1936)

はじめて読んだ句集は『白い夏野』で大学図書館から拝借した。いま目の前に俳句を読み始めようとする人がいて、『白い夏野』を手にしていたとしよう。きっとその人に僕は歩み寄って、やめておいた方が無難だよ、と声をかける。しかし、なぜなのか。はじめて読んだときの感触として、特に難しいことは書かれていなかった。それどころか表題の「頭の中で白い夏野となつている」は分かりやすいほどで、真っ白な眩暈の感覚に魅了されていた。

俳句史における『白い夏野』の位置を踏まえてから、この句集は読んだ方が良い。だから「難しい」と初心者に向けて言う。それは俳句に脳をおかされている人の了見で、まっさらな初心者からしてみれば心底どうでも良い。事実、『白い夏野』は初心者であるところの僕を魅了した。それどころか、かつての自分は今よりも強烈な清新さを一句一句から感じ取っていたように思う。

掲句はちょうど三年前の僕が『白い夏野』から十三句を抜き出した、そのうちの一句である。単純明快で、解釈をあまり要しないだろう。単調につづく日常のある朝、カーテンを開いてみたら一面の雪景色だった。眼を圧するような白に意識は奪われ、そのまま視点がつり上がっていく。圧倒するばかりの雪に心をうたれる視点人物とその人を中心に広がっていく街という空間、人にも建物にも雪は等しく降る。すべてが雪に埋もれている。

広々とした世界にかつての自分は惹かれた。既存の俳句に飽き足らず、逸脱しようと試みた窓秋だからこそ、初心者の自分と波長が合ったのかもしれない。本当に、真剣に、初心者に勧めるべき俳句とは高屋窓秋に違いない、と皿洗いをしながら思った。

記:平野

コンドルの貧乏歩きも四日かな 飯島晴子

所収:『寒晴』 本阿弥書店 1990年

飯島晴子はたびたび動物園で吟行をしたというから、掲句もその時の1句だろう。

首から頭にかけて毛にも羽にも覆われていない点や、鳥特有の重心が定まっていないかのような歩き方は確かに貧乏くささを感じさせる。高村光太郎に「ぼろぼろな駝鳥」という詩があるとおり、鳥とみすぼらしさを結び付けるのは特段目新しいものではない気もするが、この句は季語の采配がおもしろい。
三箇日が明けて四日、というのは仕事はじめの人も多く、「四日」はなんでもない1日でありながらも普段よりも俗な空気感をまとっている。「四日」という季語のなんでもなさによって、この句は鳥の心に寄り添おうとする高村光太郎の詩とは異なり、コンドルの様と「四日」の響き合いに重きを置いた、軽みのある1句となっている。

記:吉川

面接のごとく向き合ふ初鏡 鷹羽狩行

所収:「俳句」2020年12月号「家居」特別作品50句より

 新年気持新たに鏡に向い合う。鏡の映る己の姿も淑気満ち満ち、見慣れた顔も新規の物事を成し遂げんとする面持か。あるいは時間を倶にしてきた己の顔立を改めて眺め波瀾曲折の人生を振り返っているか。顔は歳月に鑿を震わせた彫刻である。深く刻まれた皺にはおのれの来歴が書き込まれる。我が国の歴史書「大鏡」「増鏡」や中国の歴史書「資治通鑑」を思い出せば分かるように、鏡は過去を写して未来を占うものであった。

 かつて鏡には魔物が棲んでいた。鏡は人を惑わせた。希臘神話のナルキッソス、白雪姫のお妃様、コクトーの映画「オルフェ」等を思うがよい。彼らはみな鏡の魔力にあてられてしまった者たちである。しかしかつて青年を誘惑した自己愛や希死観念も、年を経て減衰した。老いは鏡を磨き上げる。曇りなく、磨かれた鏡には観念の隔てなく己自身が映る。今まじまじと見つめよう。面接されるのも己、その彼を判じるのも己である。

記:柳元

ノートパソコン閉づれば闇や去年今年 榮猿丸

所収:『点滅』ふらんす堂 2013

角川俳句歳時記によれば、「去年今年」という季語には一瞬で去年から今年へと移行していくことへの感慨があるという。それに依るのであれば、ノートパソコンで仕事をしている間にいつの間にか新年を迎えてしまった句であると考えられる。

同句集には「箱振ればシリアル出づる寒さかな」、「ダンススクール西日の窓に一字づつ」といったカタカナ語の使用と、ドライな文体が特徴の句が多く、少しハードボイルドな印象を受ける。
掲句もそうした1句だろう。「闇」という単語は含まれているものの、「ノート」の間延びした響きや、情景描写に徹する句の在り方によって、「新年まで働かなければならないブラック企業の闇!」といったイメージを喚起するのではく、あくまでも物質、空間としての闇という視覚的イメージを喚起する。
この句、句集の文脈の中では「去年今年」という言葉にも、ようやく仕事が終わった感慨、安堵感などは読み取りにくいように思う。そうした淡々とした年越しの在り方に私は現代の生活のリアルさを感じる。

記:吉川

春禽にふくれふくれし山一つ 山田みづえ

所収:『手甲』(牧羊社 1982)

山は動かないものとして心のより所になる。ながい冬をぬけ、ひっそり閑とした山に鳥がさえずる。春の到来は声をもって知らされる。気温が上がりはじめ、活気を取り戻していく山の様子を「ふくれる」と表現した。そこには生命への視線があり、鳥の声をいっぱいに溜めて、山の生命はふくれていく。このとき山という静は動に転じる。

鳥と山の交感、それは山田の他の句、例えば「山眠るまばゆき鳥を放ちては」にも見られる。この句において眠る山は厳粛な静であって、なおかつ鳥を放つという動でもある。山は外観落ち着きながら、その生命はいつも蠢いているのだ。

記 平野

霜の太杭この土を日本より分つ 加藤楸邨

所収:『まぼろしの鹿』1967年・思潮社

掲句には前書として

一日本人として(六句)
十二月中旬、二日にわたりて砂川を訪ひ、ここに迫るものをわが目にとどめる。同行知世子。

と記され、以下の五句が続く。

葱の芽の毛ほどの青さ守り育て
彼等約してここに静かな冬野を割く
冬欝たる麦をわが目に印し置く
霜に刈られてその香切切たる襷
さむし爆音保母は戸毎に子を戻す

 これらの句群は前書と発表年からして砂川闘争に当たって書かれたものだ。砂川は現在の東京都立川市に位置し、日頃より在日米軍機の離着陸における危険と不安に晒されていた(過去形で書いたが米軍基地は今なお日本に残っている)。そこへ基地用地を更に拡張しろとアメリカが日本政府へ要請したことを受け、住民たちは闘争を開始する。この運動は左派政党や労働組合、学生や文学者などを巻き込んだ社会現象となった。そして加藤楸邨(1905-1993)もこの問題に関心を強く持った一人だった。

 彼が「馬酔木」を辞して以降に顕著な、硬質で密度の文体が今は殆ど失われたことについて考えてみたい。師秋櫻子をして難解と言わしめる彼等の文体は、現代において史的に読もうとするものの肌感覚としては1970年代あたりには読者からの支持を失っているように感じる。

 勿論そこには戦後は終わり豊かな消費社会の到来や、学生運動の失敗などの象徴的な出来事の勃発が背景にはあっただろう。資本主義文化を謳歌し始めた読者には、彼等の革新的な文体は息苦しいだけであっただろうし、もっと開放的でゆとりがあり、分かり易く平明で、非政治的な、季語と癒着する穏やかな韻律が好まれたのだと思う(そしてはそれは現代においても尾を引いているだろう。平明さはあたかも詩形における道徳律であるように振舞う教条的な御仁が絶えないのもこのあたりをすっかり内面化してしまったのだろうと思うし、後述するがある種の表現主義もこれを補完するものだ)。

 呼吸や饒舌や韻律との連関の中で、ある種の典型的な左翼的思想と接着するのが加藤楸邨らに顕著な当時の文体だった。これらを共有するのは例えば金子兜太であり、赤城さかえであり、古沢太穂、原子公平、田川飛旅子、沢木欣一などであろう。仏の思想家サルトルが用いた用語である「アンガージュマン」は散文のための思想であったことを思い出してもよい。今にして思えば、社会との連帯のための散文性を取り込んだ文体が彼等だったと言えよう。

 そしてそれ以後、前述のような学生運動の敗北などを受けて、純日本的な韻文精神へ立ち戻らんとするバックラッシュが起こる。それが大まかに言えば1970年代以後であり、おのれの文体を非政治的であると信じたがる現代の書き手たちの直接的な祖の誕生であろう。

 初期作品を除けば澄雄や龍太は生活に根ざしつつも極めて純日本的だったし、高柳重信に端を発する前衛は芸術至上主義的でありながらそこにはノンポリめいた仕草が付き纏っていた。

 現代の俳句界は、自分も含めて、未だに生活と平明さの結託、あるいは表現主義とノンポリ仕草の結託を盾にした、1970年以後の非政治的な書きぶりの振幅に収まる書き手ばかりが見受けられるように思うというと書きすぎだろうか。だが非政治的なところに人間はない。楸邨のパラダイムに立ち戻るということでなしに、楸邨に学ぶことはまだあるように思う。

記:柳元

もう何も見えなくなりし鷹の道 佐々木六戈

所収:『セレクション俳人08 佐々木六戈集』

 鷹という季語の一つの側面は狩に用いられることだろう。この場合は鷹匠などの傍題とセットで思い起こされ、そしてすでにこのような飼い殺しの鷹のあわれは正木ゆう子が

かの鷹に風と名づけて飼ひ殺す

と書き留めた。しかし生物ピラミッドの頂点に君臨する王者たる威厳を喪っていない鷹というものもまだ自然界には辛うじて残っている。そしてその中でも寒くなれば日本を脱出して南国へ避難する経済的余裕を持つ鷹というものもいて、それがサシバなどの渡りをする鷹である。彼らは日本の温暖湿潤な夏を楽しみ、冬は東南アジアの森林で寒さを凌ぐ。彼らが渡ってゆく様子を寒さに耐えつつウォッチして喜ぶ人間もいるらしい。

 何羽もの鷹が群れて螺旋を描くように上昇する「鷹柱」という季語はまさにその渡りの最中を捉えたものだ。鷹は賢い。上昇気流の発生する場を逃さず、その気流に乗ってまずは高度を稼ぐ。そしてその稼いだ位置エネルギーを徐々に運動エネルギーに変えつつ滑空することで、エネルギーを節制するのだ。上昇気流というのが起こる場所は限定されるため、自然にそこに鷹が集まり柱に見えるという寸法である。

 六戈氏が寒晴の空に描いた鷹の道というのは、この螺旋状の上昇の道、そしてその後の滑空の道に他ならない。その道ははるか東南アジアまで続く。六戈氏は日本に立ち尽くし、その道が掻き消えるのを見つめる。他の寒禽の句もよい。

寒禽の胸から腹へ風の渦

寒禽の聲一發で了りけり

上座なる一羽の聲に寒威あり

 佐々木六戈は1955年、北海道士別生まれ。「童子」に所属している。また2000年に「百回忌」で第46回角川短歌賞を受賞しており、詩形問わず巧みに語を操る。次の月曜日は六戈氏の短歌を鑑賞の予定。

記:柳元

ひといつかうしろを忘れ小六月 飯田龍太

所収:『遅速』(立風書房 1991)

単純なようでいて意味がはっきりとしない、ただ忘我の境に立っていることだけ伝わる句として鑑賞していた。ここに原子公平『浚渫船』より〈水温むうしろに人のゐるごとし〉を並べてみると、もっと身近に引きつけて解釈することも出来そうだ。若いころに詠まれたの原子の句に対し、掲句は龍太最後の句集となった『遅速』に収録されている。つまり若年と老年の意識の違いが見える。

青春という過渡期において多くが誰かに見られているような感覚で苦しんだろう。いたるところに眼があり、光りを帯び、じっとり絡んでくる。想像上の視界の中で自らの行動を抑えつけてしまい、なし崩し的に悪い方向へ流れていく。原子の句にはこうしたある種の感じやすい青年の怯えが伺える。一方で龍太の句はそうした眼の範囲から逃れ、ゆうゆうと過ごすだけの老いのゆとりがある。

また、意識の違いは取り合わされた季語によってより明白になるかもしれない。原子の句は「水温む」と冬から春への温かさを感じていながら冬に意識が寄る語であるのに対し、龍太の句は「小六月」と冬にいながら暖かさを感じている。青春という時期は明るく満ち足りていると同時になにかうすら寒い暗さが奥に潜んでいる。それは温さや生命の横溢だけでない「水温む」に通じる一方で「小六月」は年を得て、あとは死にゆくだけの冬にありながら老いの充実を感じさせる語であると思う。

記 平野

天は二物を与へず愛しき放屁虫 有馬郎人

所収:『天為』2020.12

「放屁虫」はゴミムシの類い、捕まえると悪臭を散らすとされる。ゴミムシという名を与えられた所以は彼らが獲物とする小昆虫がゴミに群がるからであるとされるが、当のゴミムシからすると堪ったものではない。彼らは彼らでおのれの食事を得るための最適な場所を正当な理由で陣取っているのであって、近代的衛生観念などというものは人間の常識、糞喰らえなのである。しかしながら有馬氏はそんな「放屁虫」も「愛しき」ものとする。それは「放屁虫」すらも神の被造物であり、人間から見たその単純な身体の造りは、神の愛、アガペーの降り注がれることを可能性として排除するものではないからだろう。有馬はここで、ある種の超越的な付置からの強引な愛を宣告する。

ここで明確にしておかねばならないのは「天は二物を与へず」というのは現世的に見れば間違いなく嘘であるということだろう。環境が偏る以上、はっきりとこの世においてギフトとして見出されるものには偏重が出てくる。「天は二物を与へず」というのはそういう不平等を覆い隠す極めて都合の良い言葉である。しかし、前述のような、等しく降り注がれる神の慈愛の前にはある種の公正公平な関係が切り結ばれるのであって、有馬がここで述べる「天は二物を与へず」というのはこういうキリスト教的な観念、「最後の審判」のような絶対的な未来の時制が確保されていることによる、ある種の諦念による公平さのようなものが前提になっていると思う。

しかしそれでも現世利益的に動く蒙昧なわれわれにとっては「天は二物を与へず」は所詮「天は二物を与へず」でしかない。有馬氏が行った様々なこと(それは俳句以外のこと、例えば公職にあったときの、現在から見れば愚策と評するしかないような諸々のこと)はこういうズレから来るものなのかもしれない。それは先見の明や政治的手腕などに起因することではなくて、有馬氏は「愛の人」なのであり、我々はそうでは無かった、ということなのかもしれない。そんなことをつらつらと考えながら、この文章を書いている。ただ、こんな修辞に満ちた駄文を読むよりも有馬作品を読む方が何千倍もよいと思う。「天為」のサイトでは有馬氏の近作が読める。ご冥福をお祈りします。

記:柳元

棹ささんあやめのはての忘れ川 高橋睦郎

所収:『花行』(ふらんす堂 2000)

芭蕉とほぼ同時期の生まれである池西言水に「菜の花や淀も桂も忘れ水」の句がある。この句を高橋の師にあたる安東次男は「忘れ水」の語が『後拾遺集』の大和宣旨の歌「はる〴〵と野中に見ゆる忘れ水絶間〳〵をなげく頃かな」に由来するとして〈菜の花の黄一面に心を奪われているというより、むしろ、黄一面の中に光の反射をたよりに水の在りかを探る意識の方が強いように受け取れる。「忘れ水」とは、このばあい、そうした遠い何ものかを探る放心とやや郷愁を帯びた表現でもあろう。〉と言っている。

このとき掲句はひとつの決意のように読める。つまり「忘れ川」という現代の人々が忘れかけた遠い何ものかをあやめのはてに見出し、そこに自ら棹をさし、大きな流れに乗って書いていく。個人は歴史のうねりの中を流れる不確かなものでしかなく、高橋睦郎は別のところ(『友達の作り方』)で「卓れて没個性的な詩である俳句」と言っていた。忘れ川に身を任せる決意は個人にとって怖ろしいものだろう。しかし遠い地平にまで連れていってくれるものでもあるはずだ。ところで、あやめは文目とも書ける。こうした遊び心も句中にはあるかもしれない。

記 平野