蟬の目の岬育ちの寂かな目 秋元不死男

所収:『万座』(角川書店、1968年)

どこまでも続くとおもわれた陸も岬に出るといよいよその先は海で、波のうねりの大きい日は岩壁にぶつかる波の、底知れない響きが迫ってくるのです。

長いこと岬の土中ですごした蟬たちにとって、海鳴りの恐ろしさというのは常識でしょう。もしかすると蟬のなかには、幼いころ子守唄のように聴いていた海鳴りの響きを覚えていて、喧しい鳴き声に、海鳴りのリズムをひそませる者もいるのかもしれません。

掲句は、真鶴岬七句と前書きされた句群の最後に置かれています。〈灼鳶の声先細り岬細る〉からはじまって、掲句の一つ前には〈崖打つてのぼる濤音蟻地獄〉が並びます。

波は力づよく、恐ろしく、まわりの音どころか人の命も奪います。それは事故かもしれませんし災害かもしれませんし、『万座』に戦後の空気が色濃くおさめられていることをおもえば海没した兵士たちのことも頭をよぎります。

私は海軍贔屓で、もし自分の分身を様々な時代に派遣できるとしたら、分身の用意が100体いや1000体もあれば、1人は海軍兵学校に送ってみたいと思っています。勿論それはロマンとしての海軍であって、自らの死を引き受けているわけではない、無責任な想像ですが。

船に乗って戦地におくられる海兵たちはいわば死にゆくわけです。甲板に出て、相撲を取ってみたりしていても、死ぬまでの寸暇を楽しむような体の悲しみが、あとの時代を生きる私たちの目には見えてきます。

いま、もし、その体を死にゆく体と呼ぶならば、戦後には生き延びてしまった体というものもあったのでしょう。不死男の代表句ともいわれ、『万座』におさめられている〈終戦日妻子入れむと風呂洗ふ〉には、そうした類いの悲しみがあって、平穏な社会になって妻子ができて内風呂ができて、しかし生活の狭間に、過去が身を離れずにつきまとっているような疲労感を読み取ってしまいます。

潮風の吹きつける岬の木にしがみつき、腹を震わせて鳴く蟬の目も同じような悲しさや疲労感を帯びているようです。蟬の寂かな目は、陽を受け白飛びしながら陽を照りかえす海の広がりの底に、あまたの思いが沈んでいることを知っています。

海のことを母なる海と呼び、人の意思を超えた巨大な存在としての海を讃えることも一つの祈りですが、それでも人の世界には人の感情があり、海に融和されない塊として心中に留まります。悲しみや怒りを見つめ、決して溶けることのないその痛みを抱える目が、寂かな目なのだと思います。

記 平野

鯛焼が冷めて野球をまぶしく見る 大塚凱

所収:『或』(ふらんす堂、2025年)

 凱さんはけっこう良い球を投げる。比喩ではなくベースボールの話である。筑波山の宿の前の道路でキャッチボールをしたのは、私も凱さんも学生だったから、だいぶ前のことだ。凱さんは小さなテイクバックから(そのフォームからかつては内野手だったのでないかと推測するが)スピンの効いたボールを放ち、ボールは糸を引くようにしてグラブに収まる。『或』にも野球の句が少なくないと言える程度には野球を材とした句がある。

恋びとを呼ぶナイターのうねりのなか 005

後逸を墓参の人が投げ返す 019

代走が木の実みたいにすぐ還る 019

鯛焼が冷めて野球をまぶしく見る 046

ナイターの歓声遠く尿熱く 136

涸れ川よふりさけみれば盗塁死 150

 これらが技術的に良く出来ていることは当然として、これらを見て思うのは、ある熱狂のただ中に素直に身を置けないナイーブさである。野球を向日的に楽しむ訳ではなく、どこか醒めた観察者の位置におのれを設定する。〈鯛焼が冷めて野球をまぶしく見る〉であるとか〈ナイターの歓声遠く尿熱く〉は、まさしくそうしたポーズが野球という場において行われたものと見える。熱狂と自分のあいだには距離が設定されている。

 けれども〈恋びとを呼ぶナイターのうねりのなか〉からも分かる通り、そこに疎外されながらも何ゆえか身を置こうとする態度も見える。ここにあるのは冷笑という態度とも違う。思うに、熱狂から身を引き剥がすのではなくて、そのうちに消費的に留まって、ナイーブに微笑むか、理知による処理が的確に行われる(「木の実」の喩や「ふりさけみれば」の言語遊戯など)。そしてこれが、『或』に見られる根本的な態度なのだろうと思う。『或』という句集で通奏低音的にとられるこの態度には、正直少し辟易するところがないわけではない。演出的私性の仮構が鼻につくということもまあそうなのだが(それはしかし他の句集だってそうだろう)、何よりもこうしたナイーブさも理知的な技術も、とはいえ「それが行われることが熱狂そのものに何ら働きかけない感じ」がするのだ。そして作中主体もあるいは作者もそれを了解している感じがする。野球という卑近なことに対してもそうだし、資本主義とか、アメリカの覇権主義とか、終わらない日常とか、震災とか、オウムとか、それらに対しても概ね似たスタンスがとられているように感じる。

 つまり、わたしは、初読のとき、幾らか記号的・演出的に処理されたものとはいえ「諦め」のようなものを『或』からはつよく受け取ったのだった。どこにも外部がない息苦しさの反復、そのなかで生きていくしかないという感覚が『或』という句集に立ち込めている。これらを書き留めたことは言うまでもなく『或』の達成ではあるが、とはいえ、『或』がそう簡単にそのオルタナティブを示さなかったこと(と私は思っているのだけれど)が、大塚凱の世界認識の厳しさ・リアリズムなのだとすれば、それがしんどく、悲しかったのかもしれない。この世界がそういう世界であることは(自分の実人生だけでもお腹いっぱいなくらい)知っているから、そういうことよりも、この世界でどう遊べばいいのかをわたしは教えてほしかったのかもしれない(実世界で凱さんがそういう風にかつて関わってくれたように)。周囲の『或』読者と話したときにこの感覚は分かり合えないところだったから、ひっそりと胸の内に感想をしまっていたのであった。

 ところで、春先の時期の休日は、プロ野球のキャンプ映像を見ながしながら作業をすることが多い。ノッカーがグラウンドにひたすらと打球を打つ。黙々と選手が捕球して、握り変え、流れるように送球して、元の位置に戻る。そのさまをだらだらと見る。これまでに積み重ねられてきた数限りなき反復が、その選手の動きに与える洗練された美しさ。それが、選手のその一回性ある身体の動きを通じて、この世にあらわれでるのには見とれる。

人っ気ひとつない侘しい球場で、彼らの野球はいかにも、妖しい美しさにみちあふれ、社会の誰からもかえりみられずに、むしろ、退廃にちかい孤絶の状態で、狂おしい饗宴をくりひろげている。人間のからだが、あのように伸び、曲がり、蹴り、投げ、走ることから、いわば、舞踊のエッセンスともいえる美の造形にむかって、もてる力のすべてを集中する。その集中の過程で、ひとはじふんの性格をしり、個性をみつけ、運命をかんじとり、世のなかを生きていく意味をわかりかけてゆく。彼ら選手たちのプレーが美しくうつればうつるほど、ひとびとの心のなかに、野球は生活そのものを反映する実体となってゆくのではないだろうか。(虫明亜呂無「名選手の系譜」より)

 いまはわたしは『或』の句を、職業野球のノックのように眺めることが出来る。書きつけられた句を、書くという営為の末端にあるものとしてとらえ、その末端から、書くという営為そのものを、ノックの一連の身体所作を、その送球から逆回転的に想像するようにして眺めなおすとき、書かれたことを虚心に受け取るよりも充実した何かを、受け取ることができるのではないか。『或』はこういう読みにおいて、その洗練を強度として見せてくれる。それはテクニックというよりもテクネーと呼ばれるような、それ自体作者の生と関わりあったありようを開陳しているはずで、それを感受するとき、『或』は諦念の句集ではなくなる、と思った。

記:柳元

プリン・ア・ラ・モードの模型ガラス越し 頭おかしくなるならちゃんと 絹川柊佳

所収:『短歌になりたい』(短歌研究社、2022.5)

 上の句の詰まるリズムと描写から、刺すように下の句が広がっていく。
 きれいすぎて・つらすぎて、感情が極まって「頭おかしくなる」、あるいは、頭がおかしくなるくらい感情がいっぱいだ、という言い方はいろいろなところで見かける。そういう表現からこの歌が突出しているのは、「ちゃんと」まで言い切ったことにある。/適当に「頭おかしくなる」と言っているのではなくて、「頭おかしくなる」とはどういうことかを想像して、それに向き合って、「なるならちゃんと」まで思考を届かせたことの誠実さが表れている。

 当然のことながら、「ちゃんと」「おかしく」なった場合、困るのはこの主体の方なのに、きっぱりと「なるならちゃんと」と言い切れるそのスタンスのかっこよさ、潔さがある。そしてそれが「プリン・ア・ラ・モード」の言い方や、「模型ガラス越し」のリズムの詰まりと内容の透明感・近くにあるのに遠い感覚 と響きあっている。

 作者の絹川がどこまで意図して作っているかは分からないが、「アラモード」「ガラス越」「頭お」の部分が、a → o の流れで重なっており、見た目以上に発声したときに音が気持ちいい。この韻律の流暢さ(むしろaからoに上下する忙しなさ)が、「頭おかしくなるならちゃんと」をより裏側から支えているというか、インパクトを強めていると思う。

 そしてこの歌は、プリンアラモードのことが大好きすぎて頭がおかしくなりそうだという読みと、頭おかしくなる理由とプリンの模型はそこまで関係ないという読みの2種類が考えられる。まあ、プリン大好き読みも面白いが、90%は後者の読みで合っていると考えられる。関係ない、というか、それが悩みの直接の種ではないが、悩んでいることを思い出させるトリガーとして「プリン~模型ガラス越し」が機能したということだと思う。/思い切ったことを真剣に言う切実な歌で、それを韻律がしっかり支えている、ずっと記憶しておきたい歌の一つである。

『短歌になりたい』は良歌ばかりで、引きはじめると大量に好きな歌はあるが、特にこの歌に関係するような歌をいくつか紹介する。

わたしがわたしを守ってあげる シャーペンの芯を多めに詰める
目を閉じて限定ボイス聴いた夜 心の位置に灯っていった
音もなく上から下に降る雪を見ていた人格が消えるまで
極端に大きいものか極端に小さいものにしか惹かれない 私の人生は筒の中
後戻りできないように無理をしてきたのに ちょうちょ型水溜まり

 これは絹川が特にそうというよりは、単に私が、心が遊離するような・自分を客観視するような文章が好きだから、そういう歌を意識的に集めているというだけのことかもしれない。/「わたしがわたしを」の時点で、思惟する私と、対象の私の二つが分離している。そこにシャーペンの仕組みが重なってくる。/「心の位置」。灯る心と、それを把握する主体(脳・気持ち)。/「人格が消えるまで」のはっきりとした言い方。ただ私はこの歌に暖かさを感じていて、それは「消える」という自動詞的な言い方にある。”人格を消す”という他動詞の言い方であれば冷たいなと思うけど、「消えるまで」だから、ぎりぎり「人格」に対しては少し優しそうに見える。/「人生は筒の中」。頭がおかしくなったら困るのは主体、と同じように、自分の人生を「筒の中」と例えることで辛くなるのは主体自身じゃないのか? と心配になる。意外にけろっとしているものなのか、開き直って言っているのか分からないから、どう声をかけていいか分からない歌。/「無理をしてきた」とここではっきりと心のことについて述べている。この歌における「ちょうちょ型水溜まり」は、機能として「プリン・ア・ラ・モードの模型ガラス越し」と同じだと思う。プリンの歌と合わせて、悲しく切実な名歌だと思う。

 というように、自分自身や心について、ガラス越しに眺めてあっさりと言い切るような姿勢が見られる。この妙なさっぱりの気質が、定型詩である短歌と相性がいいと傍から見て思う。余計なことを語らせない短歌と、余計なことを語る気が無い作者と。/絹川のnote(https://note.com/kngwshk/portal)で作品がときおり更新されているため、ぜひそちらをチェックしていただきたい。いつになるかは分からないが、第二歌集がもしいつか刊行されるとすれば、本当に心から楽しみにしている。

記:丸田

 

蟇と生れて爆音下なる高歩み 加藤楸邨

所収:『加藤楸邨句集』(岩波書店,2012)「まぼろしの鹿」

新興住宅地を抜けると、年中湿っぽく、どの家の壁も蔦で覆われているような、ほんとうに人が住んでいるのか不思議になるくらい、ヒッソリとした場所に出る。そこでよく、ヒキガエルを見かけたなとおもいだす。

この世に生まれ出ることは、ヒキガエルとしてでも、たとえ他のかたちの生物だとしても、まずはじめの暴力的にさらされる経験で、選びようのない体をあたえられ、選びようのない環境に放りだされる。

空から爆弾がふってくるようになったのも、ここ百年くらいのことで、この時代に私が生きているというのは偶然にほかならない。空爆は人を選ばずに、ただそこに居合わせたというだけで、人を死へといざなう暴力だけど、ありがたいことに私は空爆にさらされる経験をまだしていない。

ヒキガエルとして、爆弾降りしきるなかで生まれる。暴力にさらされつづける中でのこの高歩みはさまざまに解釈することができる。周囲に惑わされず毅然としているともとれるし、周囲に気づかぬマヌケともとれるし・・・・・・。でも、思うのは、ヒキガエルとして生まれたからには高歩みして体を動かすほかなく、高歩みを寓意や象徴として解釈する以前の、その肉体のかたちで生きなければならないことへの悲しみが、高歩みそのものに宿っている。

楸邨といえば人口に膾炙しているヒキガエルの句は《蟇誰かものいへ声かぎり》だけど、このスローガン的なヒキガエルより、生の悲しみに触れるような、掲句におけるヒキガエルのありように私は軍配を上げたい。

とはいえ、ただ体を前に進める身ぶりよりも、誇示・反抗するヒキガエルが必要とされる時代はあり、そして現在、わざわざこんなことを私は書かなくてはならず、どもった口ぶりになっている。

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掲句の収録された『まぼろしの鹿』は第2回(1968年)の蛇笏賞。掲句は「寒雷」(1953.9)が初出。

記 平野

ブルーデージーこころにさきがけて涙 神野紗希

 所収:「noi」vol.4

 涙はほしいまま流したり止めたりすることが出来ぬ。むろん噓泣きとか演技の涙というものはあろう、意識して涙を流すことは出来る、しかしそれは涙ではなくて単なる水に過ぎぬ。

 涙とは、言葉の網目がこころのうちに感情を発見するよりも先に、頬につめたくつたう感触でわがこころの機微を教えてくれるものだ。感情はいつも涙に遅れて見つけられる。遅く来た理性の言葉によって名前が与えられる。

 涙がいつもいちばんはやい、嬉しいとき悲しいとき悔しいとき、感情的緊張に立ち会えば、涙という機構はいつもそれを素早く感知して、わたしに知らせた。涙はこころの下部組織でない。涙は涙として独立し、迅速に動いた。涙はなにより涙を流す主人を慰めんとして、一番先に駆け付けた。涙はこころの換喩として美しいのでない。涙はそれ自体のはやさをもって美しいのだ。 

 ブルーデージーはキク科フェリシア属の植物。ブルーデージーという名前がついているけれどもデージー(雛菊)とは種類が異なるようだ。淡い青がほっそりした花弁にやわらかく行き渡るさまが優しい。

記:柳元

一月の滝いんいんと白馬飼ふ 飯田龍太

所収:『麓の人』(雲母社, 1965)

「いんいん」はおそらく「殷殷」。大きな音が鳴り響く様を示すらしい。

飯田龍太には「一月の川一月の谷の中」という名句があるが、「一月」という季語の扱われ方は両者似たような趣を感じる。
「一月」はその文字面の簡素な佇まいによって、詩情を抜きに冬の滝の存在感を描く。
この句の場合は「いんいんと」という中七のダイナミックな表現・音声の響き、そして下五の「白馬飼ふ」の神話的な詩情(不勉強だが、白馬は日本では昔から神と親和性があるはずだ)に対して「一月の滝」がぐっと句を引き締めている。

「いんいんと」とがそのまま「白馬」に連なることで、滝の白い水しぶきと、白馬のイメージが重なるのが美しい。

記:吉川


なんらかの解決策のあるごとくプラネタリウムの扉へ寄りゆく 大滝和子

所収:『銀河を産んだように』(砂子屋書房、1994)

 プラネタリウムに行った経験は1度か2度あり、それも幼少期のことだから、ほとんど記憶にない。なんとなく、大人になったらいくらでも、休日にプラネタリウムへお気軽に行けると考えていた。実際成長してみると、プラネタリウムがそこらじゅうに無いことも、あったとしてそこへ行く休日もそれほどないことも分かってくる。だから、私の中のプラネタリウム像は未だにその時のままで止まっていて、良い感情も悪い感情もそこにはなく、ただ人造の星とその解説を見聞きする素敵なうすぐらい空間 というイメージしかない。

 この大滝の歌は、上の句が「なんらか」「解決策」「ある」とア段の軽快なリズムで続き、「プラネタリウム」というロマンチックな語の登場を歓迎しているような印象がある。韻律面では。一方、内容面では、「解決策のあるごとく」とあるため、いま主体にはこれという解決策が無く、ぼんやりと悩みを抱えていそうな様子が描かれている。
 この序盤の韻律の軽快さ・単調さが意味の暗さと食い違っている微かな違和感が、下の句の破調で増幅されることになる。/「プラネタリウムの」「とびらへよりゆく」で88になっている。扉へ寄っていくその瞬間もまだ、有効な解決策が思い浮かんでいない。その時の足取りの遅さ。文字面では非常にシンプルな歌だが、感情の機微がうまく韻律と合致している、豊かな歌であると思う。

 この歌、私は最初三句目を見間違えてしまい、「あるごとき」として読んでしまって、あとから気付いて読みを変えた。それによって気づいたことだが、もし「ごとき」であれば、上の句の内容は直後の体言である「プラネタリウム」にかかるため、この「扉」を開けばなんらかの解決策が得られそう、という希望のある明るい歌になる。しかしこの歌は「ごとく」であり、用言である「寄りゆく」にかかるため、解決策がありそうで無い歩み、を表す。
 ということは、この歌で「扉」へ寄っていって、それを開くということが、どういうことを表すことになるのか。扉を開いて、プラネタリウムの空間を脱すれば、解決策が手に入るのか、入らないのか。そもそも、解決策が欲しくてプラネタリウムに入ってきたのではないのか。このまま解決しないまま扉を開いて出ていっていいのか……。/三句目が「ごとく」であることによって、希望とも焦燥とも取れる状態で歌が保存されており、その空気感が私は好きだった。

 ここで一つ、書きながら気づいたことがある。太字にした部分について。私はどうやら無意識に、この歌を【プラネタリウムに入って観終わった後、出ていくために扉へ寄っている】という景で読んでいる。しかし、自然な気持ちで眺めてみると、【悩んでいる主体が、解決策を見出すためにプラネタリウムに今入ろうとしている】という景の方が多数派なのではないか、という気がしてきた。これから出る歌なのか、これから入る歌なのか、どちらが妥当なのだろうか。
 私が、これから出る歌として読んだ要因を書きだしておくと、最大は「あるごとく~寄りゆく」の部分である。これから入る人が、「寄りゆく」と言うだろうか、と思った。解決策がそこにありそうだと思ったのなら、これからロマンチックなプラネタリウムに入るなら、悩んでいるといってももう少し歩みは滑らかなんじゃないか。「扉へ向かう」でも「扉へ歩く」でも良かったはず(その方が定型に収まるし、「歩く」なら「あるごとく」と韻も踏める)。しかしここがわざわざ時間を取るような8音であることが、なんとなく入場ではなく退場だと思わせた。/もしこれが、「あるごときプラネタリウムの扉」だったら、入場だと考えたと思う。扉を開けることの期待があるから。/あとは、(そこまで意識してはいなかったが、)仮に恋愛を下敷きに考えた場合、「プラネタリウムに行ったら解決するだろう」よりも、「プラネタリウムを二人でも見てもなお解決策は見つからなかった」方が、より面白いと思ったから。そしてその暗さを、この歌に直感で感じ取ったと言える。 

 入出場どちらなのかという読みは、各読者の頭の中で広げていただきたいと思うが、私はこの歌はうすぐらくてとても好きである。小さな星のように「解決策」という漢字三文字が光って見える。ただしその足取りは暗い。

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 当該歌集は、再収録されて短歌研究文庫から発刊されており(『「銀河を産んだように」などⅠⅡⅢ歌集』)、入手しやすくなっている。個人的には大滝は第二歌集である『人類のヴァイオリン』がお気に入りで、ぜひ読んでいただきたい。以下好きな歌。

良いほうに解釈してもヨーグルトに砂まぶしたる味がしている  『銀河を~』

子を売りて人形を買う母親のいずこにかあるごとく雨降る  『人類の~』

このノブとシンメトリーなノブありて扉のむこうがわに燦たり  同

わたくしの風の眠りを食むようにセロリスティック、コーンフレーク  同

夕風にチェックスカートひろがりてわが踏みている階段見えず  同

声帯をなくした犬が走りゆく いたしましょうねアジュガの株分け  『竹とヴィーナス』

記:丸田

若菜野の濃みどり若菜のみならず 皆吉爽雨

『三露』(牧羊社 1966)

新年は新年で、師走とはちがう忙しさがあって、それは生活のメインが自宅へ移ったときの家族・親戚間でおこなわれるコミュニケーションの気忙しさである。

たとえ、年初くらいはだらだらしてやろうと決め、酒をたしなみながら、ソファーやベッドあるいはフローリングに身を横たえて過ごしたとして、それは職場というマジメさを求められる場からちょっと自由になったにすぎず、家では家のはたらきがあり、家を支えるための挨拶があり、どうにも逃れられない窮屈さがあちこちから迫ってくる。

もっとも、それらのワズラワしさをすべて遮断してしまい、気のおもむくままに過ごすことも可能だけど、それはそれで非情な、毅然とした立ちふるまいを必要とし、結局のところ私なんかはまとわりつく情にほだされて面倒ごとを引き受けてしまう。だからこそ情を綺麗サッパリ拭える人には心のどこかで憧れを抱く。

さて、掲句について。

正月も六日になると新年の忙しさもひと段落ついて、仕事もはじまり、そろそろ気分を入れ替えてみようかなとおもう。野に出て、ひややかな空気にさらされて、家の雑事も仕事もわすれてゆっくりしてみる。なるべく、世間の喧噪からはキョリを置いたほうが良いだろう。

力強く、日を照りかえす濃いみどりの野面を前にしてひと息ついたあと、みずからも野にまじって、若菜のあいだを逍遙する。腰をひくく落としてみれば、疎ましい家のうちの臭気とは別の、いきいきとした草や土が匂い立ってくる。

若菜を摘んでいるうちに、ささやかな草が一つ二つと目につくようになってくれば、だいぶ余裕が出てきた証拠で、若菜だけをもとめず、そのほかの草もひとしく愛でているような楽しい気分が掲句にはある。また、自然とまじわることで、身にまとわりついた家の空気からも、若菜野という言葉の垢からも抜けだして、心が自由にあそびだしている感じもある。

そもそも若菜野は春の七草がそれぞれ入り交じり生い茂っている野であり、そこにプラスして別の草も生えているというのは、とても賑やかで、エネルギッシュで、それゆえ何となくおめでたい。

掲句の中心は、若菜以外の草を見つけたことへの驚きにあるのではなく、広闊な野にあそぶことによって生まれる新鮮な気分であり、もっと言えば、気分の変化によってうつり変わっていく、風物のおもしろさである。

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掲句の収録されている『三露』は第1回蛇笏賞の受賞句集。

個人的に蛇笏賞を順番に読み進めることをやっているが、一句鑑賞は出来ていないので、帚の場を借りて鑑賞を進めていきたい。蛇笏賞句集を読む① 皆吉爽雨『三露』|平野

noteでは掲句を含め計20句書き出している。『三露』にあたっていただく契機になると大変ありがたい。

記:平野

巨悪ありこれを裁けず年新た 赤野四羽 

週刊俳句第976号 2026年新年詠より

 安倍晋三氏を銃撃して殺害した山上徹也氏(「被告」という言い方は俳句鑑賞の場においては凡そ相応からぬように感じるので「氏」とする)の公判が始まった。氏のパソコンの復元データの中には「散弾銃の作り方」というテキストファイルがあってここに「巨悪あり。法これを裁けず。世の捨て石となるための覚悟と信念のためにこれを記す」という文言があったという。

 つまり「巨悪ありこれを裁けず」という赤野四羽氏の措辞は引用であって、その意味で山上氏の間接話法ですらあると言ってよかろう。この間接話法を俳句的強度を担保しながら成立させたのが赤野氏の手柄であるといってよい。山上氏の旧統一教会の宗教二世としての境遇には同情を禁じ得ない(それが殺人の論理を肯定はすることにはならないことも申し添えておかねばならないが)。

 山上氏の実存のかかった言葉を俳句形式に持ち込み固着させんとすることは、ジャーナリズムが統一教会問題に対する反省が見えない高市早苗氏の「働いて働いて働いて働いて働いてまいります」という言葉を持ち上げたり、「サナ活」とやらを喧伝するのとは対極にある営みであるとはひとまず述べておきたい。そういう同時代的付置においてこそこの間接話法は意義深かろう。

 とまれ俳句形式に持ち込んだことで普遍的に読まれうるものにもなるはずで(それこそ法で裁けなければ実力行使をしてよいと粗雑に読み替えれば、トランプ氏のベネズエラ侵攻肯定句にすら読み得ることもまた恐ろしいが)、山上氏の私的な言葉がその文脈が抹消されて普遍に開かれるにはまだ早過ぎるだろう(少なくとも鑑賞においては積極的に普遍化するのはあまり誠実でないように思う)。

 山上氏が文字どおりの一世一代の賭けのような状況で「巨悪あり。法これを裁けず」と文語文法を選択していたことに私は関心を寄せる。データが復元されたものであるからには、山上氏はこのテキストを一度自分の手でパソコン上で抹消した訳であり、その行為をそのまま受け取れば、山上氏はこの言葉を残すつもりはなかったということになるが(とはいえデータが警察に事件後復元されることを見越していたのではないかとも思うが)、そういう、残るか残らないか分からないが、しかし紛れもなく自分の実存がかかった言葉を自分のために書きつける必要がある際に文語文法を選んだことは、私はもう少し考える必要があると思う。それは単なる表層的な恰好よさから選ばれたのか、自分自身を誇張したり鼓舞したり国家が国民を動員するような男性的な言葉としてあったのか、定型感覚の安寧のようなものがあったのか、伝統に連なり普遍化したい欲望があったのか。それは分からないにしても、同時代的な連帯に心を寄せることが出来ない人間のナイーブさは、いかにキッチュであろうとも文語が掬い取った(掬い取るしかなかった)ということを妙に痛ましく思った。口語で書けないことというものもある。

 結審は二〇二六年一月二六日。検察は無期懲役を、弁護側は懲役二〇年以下を求めている。

 話は変わるが、週刊俳句の新年詠では他に〈魔羅抜いて神馬はるかなる一粲〉九堂夜想、〈パエリアの大きな貝やお正月〉千野千佳、〈おとうとに姉われ淡し年賀状〉津川絵理子、〈初春の吸物を麩の一回り〉野城知里、〈繪歌留多のねむたき色をひろげたり〉常原拓、〈邂逅や冬褐色の木をあふぎ〉依光陽子、〈明けましてじねんじょほりに忌が六つ〉ちねんひなた、〈夕べより雪の二日となりにけり〉対中いずみ等を楽しく読んだ。

 今年も帚はのんびりやっていきます。よろしくお願いします。

記:柳元

片仮名の多い詩集を読んだあと手のひらでグー・パー・グーやった 川村有史

所収:『ブンバップ』書肆侃侃房、2024

記:丸田

「あるある」には段階がある。この歌は良いあるあるを、良い言い方で言っているちょうどいい歌だと思う。
 この歌を評価するために、迂回にはなるが、「あるある」について考えてみたい。

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  今から即興で五つの例を挙げる。

 ①トマトのあるある:赤い
 これは特徴レベルで、ほぼあるあるではない。

 ②遠足のあるある:楽しみで前日眠れない
 これはふつうのあるある。

 ③真夜中の学校のあるある:怖い
 これは特殊なあるある。

 ④冷蔵庫のあるある:たまに宇宙みたいな音がしてうるさい
 これも特殊なあるある。

 ⑤短歌のあるある:夏しか詠まれない
 これは行き過ぎている・もしくは「ないない」。

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 あるあるとは、「あるある」と比較的多数が共感できる内容のことを指すため、「ない」に到達してしまうと、それはあるあるではなくなる。だから、まず、「あるーない」の軸が存在する。⑤で言うと、短歌は「夏がよく詠まれる」という言い方であればあるあるの範囲内で、「しか~ない」と断定してしまうと、そんなこともないと思われてしまって、「ない」に近づいていく。
 この「あるーない」の軸は、両端・真ん中に寄らないちょうどいい位置である必要があり、①のトマト→赤いは、極端に「ある」に寄りすぎているがために、「あるある」ではなく、特徴の説明になってしまう。全員が即答できるような事実、は、良いあるあるにはならない。

 ②遠足→前日寝れない は、比較すると一般的なあるあるだと思う。多くの人が共感できるような内容で、かつ、「みんながそうらしいということが既に流行っている」タイプのあるあるである。似たようなもので言えば、「テスト勉強をしていないと言う人ほど実はしている」みたいな。ノーマルにあるあるであり、もはや知名度の高いあるあるになっている。自分が共感できるかどうかではなく、それが既にあるあるであろうからあるあるだと納得できるという仕組み。
 一般的な会話の流れであるあるが必要になる場合は、このような知名度の高いあるあるを使用することがほとんどだと思う。皆が共感して、そこから会話を進められたらいいからである(お笑いで言うと土佐兄弟が行っているような学校あるある)。
 ただし、この知名度の高いあるあるは、共感の度合いや想起させるスピードは高いが、面白さという点には欠けている。鮮度が低い。もしより面白いあるあるを狙いに行くには、知名度の高くない、新しいあるあるを求めに行く必要がある。

 ③真夜中の学校→怖い は特殊と書いたが、何が特殊かというと、「お題が変形している」ことにある。簡単なお題に対して、ちょうどいいあるあるを言うのが「あるある」あるあるであって、お題自体が変であれば、アプローチが変わってくる。もっと極端に、「火星の病院あるある」とかを想定してもいい。
 お題自体が「ない」側に近づいているとき、あるあるのアプローチは大きく分けて二つある。一つは、完全正答を狙いに行くこと。今までの例に倣って、ちょうどいいあるあるを、変なお題に対しても見つけに行く。もう一つは、完全に「ある」に振りきること。完全に「ある」が+100、完全に「ない」が-100として、理想が80くらいだとすると、完全正答で一発で80を出すか、お題の-20に+100をぶつけて結果80くらいに見えるようにするかの二択になると考える。③でいうと、「真夜中の学校」はそもそも行ったことがない人の方が多いはずで、何を当てても共感には至りにくい。そのため、真夜中の学校の印象の+100「怖い」をぶつけて、あるあるまで持っていっている、ということである。
 ここで付け加えておきたいのが、(私の個人的な感覚として、)100「ある」で中和させるタイプは、完全正答には少し負ける。テクニックとして80に見せるのと、初めから80なのには、ほんの少しだけ差がある。

 続いて、③はお題自体の変形があったが、④は回答自体の変形、という特殊なタイプになる。冷蔵庫→ブーンと音がなってうるさい くらいが、知名度の高いあるあるの範囲内であり、「宇宙みたいな音」まで行くと、かなり内容が盛られている。よくよく考えれば、宇宙の音を聞いたこともないわけで、若干「ないない」に振れているが、⑤とは違うのは、あるあるベースで表現だけが盛られている、という点である。「宇宙みたいな音」という比喩が、「ブーン」を差していることは容易に想像がつくから、あるあるを離れすぎない。
 このパターンで発生しているのは、あるあるの伝達に加えて、「あるある」感を増幅させる形で回答者の表現上の個性が見られる、ということであり、①~③には希薄だった回答者の影が濃く見えてくることになる。

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 上記の点を整理する。あるあるには、「あるーない」の軸があり、両端や真ん中に寄らない方が「あるある」感が高い。あるあるが使われていくことで、あるある自体の知名度の高低が発生する。そしてお題が変形しているときは、回答の形は完全正答か100「ある」でぶつけて中和する方法があり、完全正答が理想ではある。回答が変形しているときは、あるあるとは別に、回答者の表現の個性を伝えることできる。

 あくまで個人的な体感によるため、この時点で誤っていると思われる方もいると思うが、一旦これで進めることにする。

 今確認した事項の他に、もう一つ、重要なことがある。面白いあるあるを目指すとき、真逆の「ないない」も面白いと感じてくる場合が時折発生する。これはどうしてそうなるかというと、「あるある」あるあるが、「ないない」に向かっていくからである。
 というのは。あるあるを考えるという行為は、ちょうどよく「ある」を考えることであるが、それは「ありすぎてもいけない」「なさすぎてもいけない」という二つの思考を同時に行うことである。だから、あるあるを考えるほど、同時に「ないない」も考えることができていて、無意識のうちに「ないない」は溜まっていっている。
 という前提に加えて、「あるある」あるある(「あるある」を考える行為そのものの「あるある」)として、知名度の高いものは使いたくない というのが生まれてくる。知名度の高いものを流用していても仕方ないから、自分でまだ見ぬものを見つけてこなければならないという感覚が、「あるある」あるあるである。
 この二つが混ざっていくと、手元に一杯溜まっている「ないない」が、面白そうに見えてくるときがある。「あまりにもない」は、「すこしくらいはある」に見えてくる。(英語で「few / little」と言うと「少ししかない」で、「a few / a little」だと「少しはある」になるのと雰囲気は似ている。)ちょうどよくある、よりも、「全くない」とかの方が潔くて面白いと思うターンがある。

 ただしこれは、「面白い」を追求した先にあることであって、共感を前提としたコミュニケーションの上ではノイズになってしまう。のんびり遠足あるあるを話している時に、「遠足あるある 車で行く」とか言い出すと、会話が変な方向に行ってしまう(遠足あるあるを考え続けていると、「車で行く」くらいのないないが面白くなってきたりする)。
 そのため、あるあるのフィールドでないないで攻める場合は、聞き手を選ぶことを覚えておくのが重要である。聞き手が、一つのあるあるに対して知名度の高い回答を多数知っている場合であれば、ないないが面白さとして力を発揮することができる。上記⑤であれば、短歌読者がみんな、「短歌→夏の作品が多い」という回答を知っており、それに飽き飽きしてきていると、「短歌→夏しか詠まれない」が面白いとされるようになる。聞き手がどこまで知っていて、どれくらい面白いものを求めていて、どれくらい知名度の高い回答に飽き飽きしているか、それらを勘案して初めてちょうどいい「ないない」が成立する
(読者不在で、伝わるだろ面白いだろという顔で「ないない」を突然投げてくるような作家はたくさんいる。それを面白がるために反対のあるあるを調べようとする良い読者もいるが、大半はぽかんとして終わりである(なぜなら、一周回っていない、ただの「ないない」だから。そのあたりに注意が必要になる。)

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 とずいぶん遠回りをしたが、それらを前提に、川村有史の表題歌を見てみる。

 片仮名の多い詩集を読んだあと手のひらでグー・パー・グーやった

「読んだあと」を一旦つなぎの言葉として(音楽の楽譜でいうタイみたいなイメージ)、「片仮名の多い詩集→手のひらでグー・パー・グー」というあるあるが書かれていると考えると、非常に特殊で複雑な操作が入っていることが分かる。
 先述した③のように、ただの詩集ではなく「片仮名の多い詩集」とお題が若干変形して細かくなっている。一見して分かる通り、まずこの書き手は100の中和は目指していない様子。完全正答を目指している(メタにいえば、下の句の行為(回答)を引っ張り出すために、それに合わせた細かいお題を作者が設定した、とも言える)。
 そして、その回答もまた、変形している。カタカナが多くて閉塞感や窮屈さを感じていて、その真逆の行動を体でしたいということなので、たとえば「お布団で大の字で寝た」とか、「ラジオ体操第一をした」とか(こうなれば大喜利になってくるが)でも意図するところは表現できた。
「からだを動かしたくなった/からだが動くか確かめたくなった」が第一の回答、その変形が「手のひらを開いて確かめた」、さらにそれを変形して、「手のひらでグー・パー・グーやった」になる。少なくとも二回の変形を受けた下の句になっている。

 先述した通り、この回答の変形には回答者の個性が出る。手のひらを開いたり閉じたりを、グーとパーに例えていること。「グー・パー」と中黒を挿入していること。「グーやった」という言い方を選んだこと。少なくともその三つが、この下の句から見える回答者を想像するヒントになる。私としては、陽気な人を想像した。そしてリズム感の良い人だなと思った。ラップとか聞きそう、みたいな(この推測には歌集タイトル「ブンバップ」が影響している。しているというか、私が影響させている。ブンバップはHIPHOPの用語で、90年代くらいのサンプリングビートのこと)。

 そして、回答をお題とセットで引いてみたとき、「グー・パー・グー」もまた「片仮名」であるということに目が行く。窮屈さからの解放かと思いきや、ちゃっかりカナの影響を受けている様子。しかもよく見ると、「グー・パー」で終わっておらず、手の形は「グー」で終わっている。手は窮屈さに戻っていく形になっている。とすると、解放というよりは、一度パーを挟むこと、手の動きが正常に行えるかどうかの確認、の方が意味合いとしては大きいのかなと想像する。

 そして、あるあるという視点から離脱したとき、タイの「読んだあと」が微妙な時間の流れを作っていることが分かる。「読んでいて」とか「読みながら」も可能ではあるが、主体は読み終えるまではその状態で耐えたことが分かる。映画のエンドロールを全て見終わってから立ち上がるように、「読んだあと」初めて、手のひらを動かした。このあたりの些細でありながら素直な言い方で、主体の動きの流れや性格がうかがえるようで、面白い。

 最後に、お題にある「片仮名」が漢字であることを考える。カタカナが多い詩集を振り返って、「グー・パー・グー」なのに、「片仮名の多い詩集」となっているのはなぜなのか。この歌でここだけは、意見が分かれるところだと思う。これは、書き手(主体)というよりは作者の個性が出てしまっていて、「カタカナ」という文字列よりも「片仮名」という文字列の方がいいと判断したのではないか。私としては、「詩集」という単語の近くにあるから漢字三文字の方が居座りがいいことと、「グー・パー・グー」に読者の視線を集中させるために余計なカナを登場させないという意図から、「片仮名」でも納得する。見ていると意外と、漢字も漢字で「グー・パー・グー」したくなる感はあるなあと思う。
 総合的に、あるあるの完全正答でありがなら、ぱっと分からないくらいの変形と、気取らない雰囲気が良質で、創作の順序は頭で追えても、自分の手ではなかなか作ることができないと思う、強い歌だと感じた。

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 短歌が共感ベースで進んでいくものとして語られることは多いが、その仕組みを大きくあるあると捉えてみたとき、共感をより煽れるのは知名度の高いあるあるということになるが、詩として面白いものを目指そうとすると、知名度の低いあるあるを見つけるか、新しく創出する必要がある。それが行き過ぎて「あるある」ではなくなってしまった場合、それは共感できないことを表し、読み手はぐっと距離を取ってしまうことになる。どこまでがあるある足りえるか、どこまで共感可能な世界として想像してもらえるかを想像することが肝心である。

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 五つの例で考えたのは、だいたいお題が与えられている場合の回答のことであって、短歌だとそのお題の設定から自分で行えるため操作できることはかなり増える。

 冷蔵庫の音か夜明けの来る音か /星野高士『残響』

 これは俳句だが、あるあるの変形と見ることもできる。例④みたいに、冷蔵庫→夜明けの来る音みたい、という回答の変形を、二択の形に持って行っている。あるあるから発想を開始して、「あるある」という形式自体の変更を行えば、わりとあらゆるタイプの作品が作れるようになる。おすすめしたい。

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 川村さんの他の短歌も、あるある視点で捉えるとよくそんな回答を持ってこれたなと思うものが多々ある。〈この海でするチル飽きてきたような気もする 鳥をぜんぶ数える〉とか、〈和らげる作用の事を指しながら柔らかく言う議員の笑いじわ〉とか、〈大理石っぽいテクスチャーのタイル 消しカスみたいなグラインド跡〉とか。大理石っぽい~の歌に関しては、お題が隠されていて、回答だけがあり、お題を後から想像する型と考えれば読解がしやすい。
 もちろんあるあるだけでは分析できない、〈次に会う時には次の良さだけどこの楽しさも固定できたら〉の「固定」みたいな選択も素晴らしいと感じた。

 良い歌の多い歌集だったと思います。読んだ後、手のひらで「グー」しました。