文通:佐藤智子『ぜんぶ残して湖へ』感想(柳元・吉川)

柳元:佐藤智子さんの『ぜんぶ残して湖へ』(左右社・2021.11)を読んでいきます。吉川と二人でこういう形で句集を読むのは久しぶりですね。よろしくお願いします。
さて、巻末の佐藤智子さんのプロフィールを見ると1980年生まれ、2014年作句開始とのことです。栞によると、佐藤文香さんが講師をつとめていたワークショップがきっかけなのですね。そして3年後の2017年『天の川銀河発電所』(佐藤文香編、左右社・2017)に入集となっています。ややジャーナリスティックな物言いで恐縮ですが、『天の川銀河発電所』の編纂者でもあった佐藤文香さんの隠し玉的なかたちで登場した作家という整理は出来そうです。個人的には池田澄子ー佐藤文香ー佐藤智子というかたちで受け継がれているところの共通性、それから差異に興味があるわけですが、焦らずしっかり句集の話をしたいところです。
まずはお互いに気になった句について話しましょうか。

吉川:よろしくお願いします。まず好きな句を3句ほど挙げてみます。

いはむやをや塾の階段では涼む

いはむやをやって大仰に切り出した割には大したことは言わないっていうユーモアが好きですね。なんか切れ字みたいに機能してるのもおもしろい。塾と古語の相性もよいですし、学生の気だるげな感じが見えてくる。

明日降る初雪台所でしゃがむ

初雪の予報を聞くとたしかに前日から心がそわそわする。そのそわそわが、特別な動作ではなく台所でしゃがむという日常の行為に込められるのが自然で生の感触がありますし、どこか敬虔な気持ちさえ感じられる奥行きがあるのが好きですね。

食パンの耳ハムの耳春の旅

カタカナと漢字の配置で目のリズムもよいし、耳から耳へ、そしてハムから春への音とイメージの繋がりも楽しい。食パンとハムが並ぶとサンドイッチを想像してしまうのですが、耳つきの手作り感のあるサンドイッチは思いつきの気楽な一人旅を感じさせます。
口語の言いかけ感を切れ字のように使ったりと口語のリズムの作り方が楽しい句が多い印象でした。柳元はいかがでしょう。

柳元:ぼくもその3句好きですね。というか、私は句集収録の句はわりにどの句も面白がれたたちなので、格別この句が好きだということでなしに、今のコンデションの自分にフィットする句、というくらいで選びますね。そういう風にアルバムを聴くときありますよね。
まずは表題句の

炒り卵ぜんぶ残して湖へ

句集タイトル『ぜんぶ残して湖へ』は、いわばこの句の中七下五だけ取ったかたちなわけですが、集名だけ見ると煩わしい人間関係とか、仕事とか、そういうもの全てをいったん放置して、湖へ向かった印象を受けました。ただ句に即すると〈炒り卵ぜんぶ〉を残して湖へ行った可能性の方が、わりとリーダブルな読みとして立ち上がるわけです。句からとられた集名でありながら、集名は句とは別の意味として立ち上がるという、こういう集名の付け方は、楽しいなと。思えば佐藤文香さんの『菊は雪』と同じ集名の付け方ですね。

茄子漬がすこしふしぎで輝きぬ

これは写生という文体が、視点としての主体を構築するのだということを如実にあらわすなと。智子さんの句はどの句もその傾向がありますが、世界に対しての居心地の悪さ、ズレ、不思議さを抱えた主体が仮構されるつくりになっています。つまり、不思議な世界を描いているということではなくて、世界に対して不可思議さを感じる〈私〉に諸々が結果的に収斂してゆくというか。最近の小説家だと村田沙耶香さん的な感じをパッと思います。……という評に対して、〈たちくらみ不思議がりたいだけでしょう〉という句が自己言及的に周到に用意されているようにも思えました。

スニーカー適当に萩だと思う

とかも良いですね。凝視とか、観察とか、そういう極めて俳句的な視覚制度を遠く離れている感じがします。かといって、前衛のようにオルタナティブな〈言葉〉それ自体世界を志向するわけではなくて、視覚とか、思考とかの糸を緩めることでたまたま見えてくるものをその都度面白がる感じというか。
吉川は口語のリズムや機能に着目してくれましたが、ぼくは総じて、世界に対して不思議な認知をする主体、という自己演出の巧みさみたいなものを面白がったように思います。ぼくはだいぶそういうの気になるほうで、口語俳句とされるものの自己演出感はかなり苦手なんですけど、今回は全然鼻につきませんでした。むしろピュアさすら感じるというか。

吉川:挙げてくれた句の中では〈炒り卵〉の句なんかは表題句なんだけれど、表題句然とした風格をだすのではなく、「炒り卵」で少し外すその感じが良い意味で気になっていました。(句→タイトルの順なんでしょうが)
私としては口語のリズムとかよりも主体の方の話をしていきたいですね。
句集の主体に関して私が感じたことは柳元と多分同じで。句に含まれる動詞の選択から主体の存在が明らかな句は多いんですけど、そこで現れる主体はキャラを被ってる印象はないんですよね。口語と自己演出が結びつきやすい印象はあるけど、そうではない。むしろ、自分が挙げた〈いはむやをや〉の句や、〈あなミントゼリーに毒を盛られたし〉の句は古語を自己演出として意図的に使っていて。口語の方が自然体に見えるんですよね。
口語俳句の力みがない感じから、この方は文語→口語じゃなくて口語から俳句を出発した方なんだろうなあと勝手に思いました。

柳元:あ、そのキャラをかぶってないというのは面白い視点かもしれません。「キャラ(再起的同一性)」っていうのは、あくまでも再起的な同一性なのであって、他者とのコミュニケートするなかで、相互確認的に安定させるしかないものしろものと言われますよね。だからキャラを安定させるためには、他者との場に繰り返し身を投じつつけるほかないわけなんですが、智子さんの句集に出てくる主体は、どうもそういう、他者とのコミュニケーションによって、キャラを再起的に安定させなきゃ!みたいな営みを全然志向してないというか、自己同一性への欲求みたいなのが、すっぽり抜け落ちてる感じがします。そういう意味では、現代人がSNSで四苦八苦しているみたいなありようは超越している感じがするんですよね。わたしはわたしですし、というような感覚が、他者の回路を用いないでも、アプリオリにある感じがするというか。だから、キャラをかぶるかんじが無いのかもしれない。ただ、ネガティブな意味合いで言われる「他者不在」というのともまた違う気がしていて。このへんどう思いますか?

吉川:「キャラ(再帰的同一性)」についてはうすいまた聞きをしただけなので、100%同意とは言えないけれど言わんとすることはすごい分かる。この感じは佐藤文香さんが句集の栞に書いていた「お一人様でことたりる感」と通じるものな気がします。
自己同一性の確認を人間の他者に求めない場合、「暮らし」が一つの手段として考えられると思うんですね。実際「暮らし」がモチーフになっている句は多くあって、〈冬を愛すビオフェルミンのざらざら〉〈オリーブのすっぱいパスタ明日にする〉とか。「暮らし」をテーマに据えると「他者不在」に陥りやすい(私の直感ですが)。それは、生活圏内のものは「私が主体的に営む暮らし」という基準のもと、「私」に全て取り込まれ従属してしまうからだと思うんです。
この句集が「暮らし」をベースにしながらも「他者不在」な雰囲気を持っていないのは、もちろん俳句という詩形が「季語」という他者を要請するからっていうのはあって。でもそれだけじゃなくて、「私」と「句のモチーフ」の距離が他者の距離感を保っている句が多くあるのも理由なのかなと。<秋は今三十デニールくらい 川>なんかで考えると、秋を三十デニールと捉えるのは誇張して言うと「私」の思考の枠組みに「秋」を取り込むことなんだけど、「川」が挿入されることで簡単には終わらない。句に「私」という主体はいても句全体に「私」の気配が充満している句はそう多くはないというか。
かなり直感で喋りましたが、この句集の「私」の「他者」への態度というか距離感というか、それが柳元にはどう見えてますか。

柳元:なるほどなるほど。「暮らし」について補足ですが、「暮らし」という視座で俳諧、連歌や和歌などから振り返ると、基本的には古来から脈脈と「暮らし」が文芸のベースにはなってますよね。でも昔は中間共同体があったから、「暮らし」を送ろうと思ったら否応が無しに他者と交わらざるを得ないわけで、「暮らし」をしてても他者不在にはなり得ない。
でも、都市化が進んで、伝統的家業が没落して、核家族が増えて、中間共同体が没落して、となったときに現代の「暮らし」は、やっぱり吉川が言うようなものになってしまいますよね。現代の都市生活者って他者と交わらなくても、全然生きて行けるわけで。COVID-19でより実感しました。もちろんこういう現代的な暮らしは、配達員の方とか、エッセンシャルワーカーの方に支えられているわけですけど、とはいえそういう方たちも、〈顔〉のある他者というよりは、非個性的なシステムそのものと対峙してるように思えるような設計になっている。携帯の画面をタップするだけで配達員が来る時間を選べて、ドア越しに置いていってもらえるわけですから。
そう思うと、智子さんの句には、そういうシステムが人間を阻害している感じが、どことなく漂っている。〈コンビニの食べていい席柳の芽〉とか。仄かに生権力が匂う。智子さんの立てる主体が奇妙なんだ、不思議ちゃんなんだ、みたいなことでは実は全然なくて、むしろ現代「暮らし」の形式そのものが奇妙なことになってるんじゃないか、智子さんが立てる主体がむしろ正常であるゆえに、世界との出会い方が不思議にならざるを得ないというか。不思議がらないと終わりなので、不思議がって記憶することが抵抗体になってる。句集末尾を飾る

忘れない冬の眼科の造形を

とか、感動的ですよ。
他者の話に戻せば、〈他者不在〉になってるんじゃなくて、〈他者不在であること〉の奇妙さを描いてるんですかね。後者には批評性がある。だからいざ他者が登場しても、

おじいさんとわたしで食べるちいさな無

みたいなことになる。現代の「暮らし」に身を浸す主体によってそれを照射する。
まあ、現代が置かれている状況についての俗流批評にかなり引きつけてしまったけど、そういう風に同時代的な問題意識を、真摯に重ね合わせて読める句集がある、ということが、俳句においてはもはや感動的です。

吉川:現代日本の主体を描いてる句集だなという認識はなんとなくありましたけど、じゃあその現代日本の主体ってどういうものなのかを考えると確かに柳元の言う切り口はこの句集の読み解き方の1つとして考えられますね。ただその切り口一つでは捉えられない句も多いところがこの句集のおもしろさだとも思う。<昨日は雪雪の日に差した傘><バスマットとりこみクリスマスはじめる>とか。色んな句があるし、句集の表情がゆるやかに移り変わるように句が並べられてる感じもする。色んな句はあるんだけど基本的に「生活」がテーマになっている、というか逆な感じがする。「生活」にアンテナを隅々まで張るというアプローチだからこそ、コンビニという都市の風景も、バスマットを取り込むクリスマスっていう個別的な経験も同じ句集に自然に同居してしまったというか。単に時代を映す鏡であるだけでなく、そこに「私」も存在していて、更にはそこに「季語」もあってと色んな要素が縒り合わさってる感じが私にとって魅力的なんだなと気づかされましたね。

柳元:そうですね。むろん私のさっきの議論はかなり粗雑で、この句集の豊かなところを捨象してしまっています。おっしゃるとおり、「生活」にアンテナを隅々まで張るというアプローチだからこそのヴァリアントを作ってますよね。豊かで多面的です。蛇足なんですが、これで思い出すのは、劉慈欣(りゅう・じきん)のSF小説『三体』(早川書房・2019)に、「智子(ソフォン)」という超微粒子ロボットが出てくるんです。ネタバレを避けるために簡略な説明に留めますが(とはいえややネタバレになりますが)、これは異星人が、地球人を監視するために作成した智恵のある粒子状のスーパーコンピュータなんです。もちろん意識もある。この「智子」なる粒子が地球に張り巡らされ、地球人の体内に取り込まれ、いちばんミクロのレベルで、地球人の日々の生活が逐一監視されるんです。いわば密着取材ですね。で、異星人の微粒子スパコンからすれば、地球人の諸々なんて何もかもが目新しく不思議に見えるわけですよ。上手く言えないんですが、この句集、そんな感じないですかね……ないかなぁ。

吉川:『三体』今後読むつもりなので薄目で文章読んでますけど、言いたいことは分かります。この句集の観察態度をエイリアン側の視点だと思う理屈は分かるけど、かなり人間味もある句集なのでそういう表現がしっくりこない自分がいますね。

柳元:そうですね、伝えるのが難しいな。エイリアンめいていて人間味がないということでは全くなくて、キリンジの曲の「エイリアンズ」みたいなイメージですね。〈まるでぼくらはエイリアンズ〉というあのサビの歌詞は、同種の恋人同士が愛し合っているのだけれど、どこかで他者の他者性を感じている、ということだと思うんです。みんな同種で分かり合えるはず(というかたちで社会が構築され動いている)のにそもそも本質としてみんな他者という感覚、というか。だから極めて人間的なジレンマがある気がします。
まとめがこれではいけないと思うので、好きな句を引いて締めますね。〈喉きゅっとしまるほど今行きたい橋〉。こういう感情が、理性とか常識とかに抑圧されず、嘘くさくない身体性を持って知覚されることを追体験させてくれることが、すごく嬉しかったです。

吉川:自分もその句好きですね。最後の橋でそこまで閉塞感のあった句がいっきに開けてくる構成が内容とマッチしている。
まとめではないですが、天の川銀河発電所で作品を初めて拝見した時とは印象が変わりました。それは句集としてまとめられることで自分が新しい読み方を発見できたからで、句集という形式ならではの旨味を再確認しました。
語れていないトピックもありますが今回のところはここで締めとします。ありがとうございました。

空高きことにも触れて弔辞かな 松本てふこ


所収:「汗の果実」(邑書林・2019)

 瀬戸内寂聴氏の訃報に接するにあたって掲句が思い起こされたから、掲句について何がしかを書き留めたくなった。寂聴氏の命日は11月9日、季でいえば初冬であるから季語「空高し」でてふこ氏の秋の掲句を思い起こすのはそぐわないのかもしれない。とはいえ、初冬の青空もまた抜けるような高さを抱え持つものであるし、掲句が自然と思われのだという心の働きを尊重したのだと思って、諸氏にはご海容を乞いたいところである。

 さて、〈生前〉という時空間は、死者にのみ許される〈場=トポス〉であって、弔辞の読まれる場面というのは、参列者のこころのうちに、おのずと死者のその〈生前〉の在りようが、〈場=トポス〉として、思い浮かべられているはずである。場合によっては、その人に愛憎や嫉妬の入り混じった感慨を抱くものもあれば、あるいは淡い付き合いながらに何故か葬に参列することになったから、何かこう、こころもちもそれらしくしなければならないと苦労している人間もあるだろう。おそらく人が見送られるときというのは、〈生前〉にどんなに善行を積んだ人間でもそんなものであって、間違いなく、想われながら見送られはするのだけれど、どこか参列者たちの気分の中には、そぞろな気分が、濃淡のありながらも漂っていて、それが非人称的に混ぜ合わさって充満するから、葬というものは、あの、得も言われぬようなさみしさがあるのではないかしらん。

 そんなとき、弔辞が空の高さに触れるのであるから、何か膝を打つような気がしないか。その人の〈生前〉の人柄を「空の高さ」が見せてくれるということはもちろんあるのだろうが、というよりもむしろ、何か普遍的に、葬というものが、死者の〈生前〉という〈場=トポス〉を思うことを強いるときの独特の、そぞろな感覚というものに繋がっている気がするのである。参列者の注意散漫とか、そういう咎められる性質のそぞろさではない。秋の澄んだ大気の、薄く濃い青空のことに弔辞が触れるとき、その弔辞に導かれるように、参列者の皆のこころが、葬の場を抜け出して、空を一瞬あおぐような、そういう共同幻想的な体験……。

 松本てふこ氏は、昭和56年生まれ。平成12年、早稲田大学入学後に俳句研究会で俳句を始める。平成16年「童子」入会、以降辻桃子に師事。平成23年『俳コレ』に筑紫磐井選による百句入集。平成30年、第五回芝不器男俳句新人賞中村和弘奨励賞受賞。俳句結社「童子」同人。最近はゲームさんぽの動画にも出演されている。第一句集『汗の果実』(邑書林)の購入方法はこちら(購入できる書店などをてふこ氏が紹介してくださっています)。また、個人のブログにおいて数本評論が公開されており、noteから記事を移行中とのこと。

記:柳元

あばかれる秘密のように一人ずつ沼からあがってくるオーケストラ 高柳蕗子

所収:『高柳蕗子全歌集』(沖積舎、2007)

 この「ように」は妙な動きをしている。

 あばかれる秘密。核となる真実があって、それを隠すために色々な覆いがあって、秘密という物は成り立っている。それが暴かれるということは、その覆いを剥いでいく動きになる。

 その「ように」、一人ずつ、オーケストラの一員が沼から上がってくる。楽器を弾きながらなのか、黙ってぬめぬめと歩いてくるのかは分からないが(沼の中なのだから楽器はやられてしまっているだろうと思うものの、この世界ではそんな理屈は通用しない気がする)、とにかく上がってくる。そして、おそらく最終的には、このオーケストラは完成するだろう。

 秘密の方が、100有ったものから剥いでいって1にする動きとしたら、オーケストラは、1を増やして100に戻す動きのように見える。暴かれていく秘密に順当に重ね合わせるなら、オーケストラの中の一人が何らかの犯罪の真犯人で、アリバイを照らし合わせて一人ずつ候補から外していく……そんな風になるのではないか。
「のように」と言っておきながら、イメージとは逆の光景が付けられている……。
 もし、後半を活かすのであれば、建設途中のビルのようにとか、積み木を積み上げるようにとか、ジグソーパズルを作るようにとか、色々考えられそうなものなのに、である。

 ジグソーパズル。

 私は、直感で、この比喩はおかしいと思った。からこの文章を書こうと思ったわけだが、この歌に、この「ように」に全く引っかからなかった人もいるだろう。私も途中で、ジグソーパズルのことを思っていたらその読み方が分かった。
 どうしてもイメージにそぐわなかったのは、数量の意識である。「あばかれる秘密」は最終的には一つで、「オーケストラ」はすごくたくさんの人が集合している、というイメージがあった。「一人ずつ」という演出の仕方も、絶妙にオーケストラを複数のものとして想像させている。
 この大人数のオーケストラを、総体として一とすれば、納得が行く。

 ジグソーパズルはまさにそうで、ピースが複数個あつまって一つの絵が出来上がる。

 ピース間の秘密が少しずつ暴かれていって、絵、真実が明かされることになる。

 そう考えれば、この「ように」は、本当に「ように」なのだろう。
 そこで面白いのは、この歌では、何も解決していないこと。このオーケストラが完成して、何を演奏するのか、何を語るのか、分からない。何故沼から? という疑問ももちろんある。

 あばかれる秘密、の話をしていると思えば、より謎が深まっている。謎を解くようで謎を深めている良い作品だと思う。秘密が暴かれるシーンのイメージの仕方、「一人ずつ」にどれだけ重きを置いて読むかによって意外と見え方が変わってくるような気もする。
 そういえば、この「オーケストラ」の観客は誰になるのだろう? もしかして読者になるのだろうか。それは気が進まない。聞くと絶対に気がくるってしまうから。意外とふつうに綺麗な演奏が聴けたりして……それもまた怖い。

記:丸田

美容師は雪の岩手に帰るらし 中矢温

所収:角川俳句賞応募作品「ほつそりと」(以下は週刊俳句の落選展のリンク https://weekly-haiku.blogspot.com/2021/11/4.html)

美容師という人には二た月に一度自分の髪の毛を与ける割に信頼関係を築くというあいだ柄ではなくて、なにかよそよそしさの中にぼそぼそと発話を続ける他ない不思議な相手である。とはいえさまざまなタイプの美容師の方がいて、老若男女それぞれの個性のうちに技術を磨きあげている。そのことへの純粋なる尊敬が自分を彼らとのコミュニケーションへ導くのだが、とはいえ話が合うことは殆ど無いし、向こうも向こうで自分に職業上の誠実さの発露として会話を仕向けてくるのだから、どうしても虚しさが感ぜられてくる。そんな美容師が突然に私的な話を振ってくると妙に印象深い訳だが、どうやら地元に帰るらしい。しかも、一時的な帰省という訳でもなさそうで、よんどころない事情で地元へ引っ込むようである。だから担当も変わるのだ。彼の地元は岩手ということで、そう言われてみれば少しく東北の訛りが感じられるような気もしなくもない。夢を追って上京してきたのだろうか。しかし岩手へ戻るからといって夢破れた訳ではなさそうである。清々しい彼の表情からはある種の諦念もありながらに決断そのものがもたらす充実も読み取れて、岩手に行くことがあれば彼の元に寄ってみようかなとも一瞬思ったりもするが、まあ、たぶんたぶん寄ることはない。

「美容師」という現代的とも思われる素材を「雪の岩手」という擬歌枕的処理のうちに回収してゆく様が修辞的には面白く感じた。

中矢温(なかや・のどか)は平成11年生れ。愛媛県松山市出身。令和二年全国俳誌協会第三回新人賞にて鴇田智哉奨励賞受賞、第五回円錐新鋭作品賞にて今泉康弘推薦第三席、第十三回石田波郷新人賞にて大山雅由記念奨励賞。今年九月より「楽園」と現代俳句協会に入会とのこと。

ふしぎな/四次元の世界を想描する。/しづかな/ひとりの書斎である。 石原純

所収:小高賢編『近代短歌の鑑賞77』(新書館、2002)より (『靉日』大11以後)

 今となってはドラえもんを中心によく聞く単語になった四次元の世界について、「ふしぎな」と素直に述べているのが、ここでは好感が持てる。不思議以外の何物でもない。とくに石原純のこの時代にとっては、私たちがなんとなく思っている不思議さ・未知さとは数段違って濃かっただろう。
 分かち書きで、「ふしぎな」と「しづかな」がそれぞれ一行に置かれている。不思議な四次元の世界と、静かな書斎が、頭の中で繋がっていく様子が、文字の上でも表れているように思う。

 このような、書斎にいて色んな夢想に耽ったり、文机を前にしてしんとした気持ちになるといった歌をたまに見かける。空想は、どれだけその内容が過激であっても、音が鳴らない。頭の中ではなっているかもしれないが、それが自分の外へ漏れ出すことが無い。空想に耽っている間、部屋は静まり返っている。
 私は先日、きっかけは忘れたが江戸川乱歩の「白昼夢」のことをぼんやりと振り返っていて、詳しい内容を思い出そうとインターネットで検索した。すると、私が「白昼夢」という語を誤解して覚えていることが分かった。以前までは、ふつう夜に見る夢を昼にみてしまい、それはだいたい悪夢になってしまう、くらいの理解だった。調べたところ、「日中目覚めている状態で現実で起きているかのような空想や想像を夢のように映像として見る非現実的な体験、またはそのような非現実的な幻想に耽っている状態を表す」とあった。ふつうの夢とは違って、こちらには意識があって、能動性を有するということで幻覚とも異なり、とくに13歳から16歳の年頃に盛んに見られるらしい。たしかに、ただ昼に見た悪夢というより、自分から夢のように幻想に入っていく方が、乱歩の「白昼夢」には適切な気がする。

 石川純は東京帝大理科大学で理論物理学を専攻しており、〈美しき/数式があまたならびけり/その尊とさに涙滲みぬ。〉(『靉日』)などの歌を詠んだ。「四次元の世界を想描する」。たとえば私が四次元ポケットの中身を想像するような、雑なものではなくて、石川は徹底的に考えていただろう。夢想ではなく「想描」。頭の中で描く四次元。この歌の書斎は、今にも、一人の想像力と計算で破裂しようとしている。しずかで、ゆたかな書斎……。

記:丸田

蟇ねむり世はざわざわと人地獄 加藤楸邨

『加藤楸邨句集』「吹越」(岩波書店 2012)

地獄は大変だ。目が至るところにあっていつでもどこでも監視されている。ついと持ち場を離れたものなら、獄卒に追いかけられて痛い目に遭う。救いはない。というよりも救いがないから地獄なのだ。世間に人は満ちている。互いに互いをそれとなく監視して、異物があればそれとなく排除する。みずからの回りを一歩引いて眺めれば、人々が行き交いなおかつ自分もその一人と知る。否が応でも人が集まってしまう不穏さは、ざわざわと音になってどこまでもついて回る。人の世にも逃げ場はない。ところが救いは蟇にある。人も溶け入る自然の中が人の世を離れる救いになる。

記 平野

人間のいのちの奥のはづかしさ滲み来るかもよ君に対へば 新井洸

所収:『微明』1916

 これ以上言うこともない。「奥の」で立体的なイメージもしつつ、「滲み来る」で平面的な動きも想像される。「いのち」が多面的に見えてくる。
「滲み来るかもよ」というおどけ。おそらく主体は常日頃から自身の「いのちの奥のはづかしさ」(が存在すること)を認識しているのであろう。
 私の、ではなく、「人間の」にしたことで、話が大きくなっている。宗教に絡めて読むことも可能かもしれない。人間の、という話なら、「君」も、私に対うことで、それが発露してしまうかもしれない。スリリングな対面である。

 新井洸だと、〈じりじりに思ふおもひのしみうつりいかにか人に我がつらからむ〉(同書)も好きな歌だが、これらの深いところから来るやや粘着質な言い方と、背後に感じられる、どこか吹っ切れたようにさっぱりした感覚が心地よく染みこんでくる。

記:丸田

妻がゐて夜長を言へりさう思ふ 森澄雄

出典:『所生』(角川書店・1989)

妻がいて、その妻が、夜長であると言った。私もそうだと思った、と、ひとまず意味をとってみれば、そうなるだろう。

下五の「さう思ふ」という展開に驚かされるというのが初読の印象で、しかし掲句の修辞への興味が少しずつ薄れていくにつれて、次第に、上五が妙に気にかかるようになってきた。「妻がゐて」というものの言い方は尋常ではない。「妻が夜長を言へり」なら分かる。しかし「妻が『ゐて』夜長を言へり」というもの言いには、なにか、妻という存在を一度なにげなしに、ぶしつけに確かめて、かみしめてみるような、そんなところがありはしないか。

今ここに妻がいながらにして妻の不在の感覚、妻の曖昧模糊ながらに存在している印象。どんなに、今ここにおいて、近しく親しく、はっきりと居る人間でも、存在が所与のものとして抱え持っているような、ある瞬間の表情においての間遠さ、はるけさ、無限にも思える距離。

それに耐えられなくなった人間のみが、あるいはいつか妻がそのような遠さに離れてしまうことを極度に恐れている人間のみが、「妻がゐて」という言葉を用いて、無意識のうろたえのなかに、あわててその存在を確かめて、安堵するような手ざわりを書き込むのではないか。

記:柳元

では、後から前から三菱銀行あそび 江里昭彦

所収:『ラディカル・マザー・コンプレックス」(南方社、一九八三)

俳句で銀行と言えば金子兜太、波多野爽波、小川軽舟といった面々を思い出す。兜太の〈銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく〉は銀行を詠み込んだ句として著名、引くまでもなかろうが、この江里句ほど奇妙な句もそうないだろうと思う。

掲句、まず「では、」という人を食った入りに驚かされる。〈では、後から前から三菱銀行あそび〉などと言われてもそんな遊びなどこちらは知らぬ。そういう意味でこの措辞は一筋縄ではいかないが、しかし寓意や喩を抱え込んでいるであろうことは容易に感知される。例えば銀行に列をなす客のイメージやATMが吸っては吐き出す紙幣や通帳、ぎちぎちに詰まり序列なす行員の出世競争は「後から前から三菱銀行あそび」という語から喚起され得るだろうし、あるいは後期資本主義に対しての揶揄・皮肉と捉えることも出来よう。とはいえ、もとよりこの措辞が明晰さを持たないがために単一解釈をほどこすことは困難だろうし、そんなに真面目に解きほぐす必要もないだろう。舌端に転がせば可笑しい句である。このユーモアが脱コード的な読みを促す多大な動力となっている。

ちなみに三菱銀行という行名はもうない。三菱銀行は1996年に東京銀行と合併、さらに2006年にはUFJ銀行と合併し、「三菱東京UFJ銀行」(現在は三菱UFJ銀行)に行名を変更している。江里が掲句を書きつけた時代には存在していた三菱銀行という名前が消えてしまっていることも、時間を経て意図せぬ批評性を帯びているように感じられる。

江里昭彦は1950年生まれ。「京大俳句」編集長等を経て「鬣」同人。2012年には中川智正死刑囚と同人誌「ジャム・セッション」を創刊している(なお中川は2018年に死刑が執行されている)。

記:柳元

腹痛の100メートル走 いまここで青鷺にバトンタッチをしたい 水沼朔太郎

所収:「現代短歌」9月号(現代短歌社、2021)

腹をもむ いきなり宇宙空間に放り出されて死ぬ気がすんの/工藤吉生〉をとっさに思い出す。腹始まりで、後半にかけて世界が突然開けていく感覚がする。

「腹痛の100メートル走」、という言葉を聞いて、ふつうどのシーンを思い浮かべるものなのだろうか。お腹の痛みに苦しみながらいま100メートルを駆け抜けている最中か、100メートル走をすることに緊張して腹痛が始まっているところか。「いまここで」「バトンタッチをしたい」とあるが、ここまで行ってもおそらく映像は人によって異なるのではないか。走っている最中なら、50メートル地点くらいで限界が来てしまって、あとの50メートルは青鷺に頼みたい。走る前なら、緊張と腹痛が酷いから、100メートル走自体を青鷺に代わってほしい。
 別にどちらでもいいと思いはするが、その想像によって「バトンタッチ」の映像も変わってくる。自分がいま手に持っているバトンを本当に青鷺に渡すのと、「交代」の意味でつかった言葉だけのバトンタッチ。本当にバトンを渡すなら、青鷺がバトンを受けとって走る具体的な映像まで想像する必要がありそう(どうやって手? 羽? で受け取るのか、そしてグラウンドを歩くつもりなのか、飛んでも「走」にカウントはされるのか、それを快くOKしてくれそうな運営なのか……)。言葉上でのバトンタッチなら、交代するなら何でもよかったはずの主体がわざわざ「青鷺」を選んだ理由を思わせられる(青鷺を直前まで見ていたのか、急に思いついたのか……)。

「100メートル走」というと私はすっかり運動会や体育祭のイメージがある。だから無意識に、この歌の主体を高校生くらいにして読んでいる。読んでしまっている。だから、「腹痛」は運動会の緊張からだ、という読みを考慮しているわけである。
 もしこれが、30代くらいの人物であったら。40代くらいの人物であったら。酒を飲み過ぎて「腹痛」、という可能性も生まれてくる。そうすると、この「100メートル走」には競技としての側面はそこまでないのかもしれない。たとえば腹痛でトイレにどうしても行きたい、トイレに行きたいぞと思っていると、100メートル先ですと書いてある。これはれっきとした「腹痛の100メートル走」だろう。
 もしくは、運動会よりもさらに競技なのかもしれない。この主体がオリンピックの選手だったら。プレッシャーもかかるだろう。「100メートル走」の重みが変わってくる。

 ここで謎になるのが、先に触れたように、なぜよりによって「青鷺」なのかというところ。私個人の感覚から言えば、青鷺はかなりマイナーで詩的な存在である。鳥の中でもおしゃれだし、動物の中でもかなり上位に食い込む。
 これが、本当に「腹痛の100メートル走」を目にした人の発想だろうか。腹痛で苦しんでいて、思考もおぼつかないときに、ぱっと出てくるのが青鷺になるものだろうか。
 疑念を覚えるのは青鷺そのもののおしゃれさだけではない。「100メートル走」で代わりたいと思うとき、そこにはふつう、地面を速く駆け抜ける動物がくるのではないだろうか。動物でなくてもいい、とにかく速く走るもの。新幹線とか。ヒョウとか。チーターとか。せめて鳥でも隼とか。「青鷺」は速く走ってくれるだろうか。優雅に川のまんなかで静止しそうなものだ。「青鷺」と漢字なのも、やや発想に時間がかかる(慣れていたらすぐだが、ふつうは「鷺」は難読の漢字である)。

 それに、「バトンタッチをしたい」の言い方にも若干違和感を覚える。これは私だけかもしれない。「いまここで」と速い性急な言い方をしていたら、私であれば「バトンタッチがしたい」になる。とにかく代わりたいという意志で、「バトンタッチ」を強調する形で「が」を持っていくと思う。「を」だと、バトンタッチという行動、皆さんも知っていますよね、そう、そのバトンタッチを、青鷺にしてみたいと思うんです、というくらいのスローさを生むと私は感じる。一度落ち着いて主体が「バトンタッチ」というものを考えている気がする。

 この歌のどこかで、主体(あるいは作者)が、一度冷静になって、代わりたい相手を「青鷺」に変更したような印象がある。もしくは、よくよく考えて導き出した、適当に詩的な相手という印象が。

 この歌に対する全体的な私の感想を書いていなかったが、かなり好印象である。「青鷺」に対する違和感が、すごく自然だった。伝わりづらいと思うが、この歌の「青鷺」はおそらく嘘だろうし、嘘だと思われることも分かっていながらの「青鷺」だろう、そして、これが「チーター」だったらもっと「本当らしい嘘」になっていただろう、それを嫌ったんだろうな、と感じた。
 この「100メートル走」は、もう腹痛が来ている時点で負けているし、「腹痛の100メートル走」とネガティブに捉えられている時点で、勝敗の問題ではなくなっている。もしここで本当に速い動物に代わってもらってその動物が高速でゴールしたとしても、もう自分自身には関係のない話になっている。バトンタッチ先が何であっても、ゴールしてもゴールしなくても、「いまここ」の腹痛が消えてなくなるわけではない。
 だから、もはやバトンタッチなんてどうでも良いことである。主体にとって問題なのは「腹痛」そのもの。バトンタッチしたい、という適当な想像に、チーターや豹をもってきて本当らしくする必要はない、いっそぶっとんで「青鷺」とかにしておこう、という流れが見える。この変な誠実さというか、照れ隠しというか、痛み隠しというかが、私はすごくいいと思った。どこかで冷静になって、何かに気を遣って、「青鷺に」になっていった過程が、「100メートル走」みたいだと思った。

 ちなみにこの主体は、100メートル走の完走のために、「腹痛が消えてなくなること」よりも、「バトンタッチ」を選んだ。いますぐレースから抜けたいとか、死にたいとか、排泄したいとかではなく、あくまで走り切ることを想定して、バトンタッチしたいと考えている。このよく分からない謎に力強い意志にも笑いながら惹かれた。
 蛇足だが、白鳥とか鴉とか鶯とか色を持つ鳥は他にいるのに、なぜ「青」鷺なのだろう。もしかしたら、主体が今持っていたバトンの色が直感に影響したのかもしれない。この「青鷺」という言葉が即興で出てきたものか、推敲中に時間をかけて出てきたものかによっても見える景が少し変わってくるだろう。江戸川乱歩「心理試験」を思い出したりもした。

記:丸田