未来 吉川創揮

未来  吉川創揮

青楓通りて日差し折り重なり

水母から水母の機関溢れかけ

紙は這う火に折れて睡蓮開く

冷蔵庫は未来の匂い眠れない

今日夏の終わりに一人一つガム

蜻蛉の目のつやつやの落ちている

迷路なぞる目玉渦巻く秋時雨

名月の団地に電波ゆき届く

中二階雨の伴うある夜長

考えたつもり林檎を並べては

化学とは花火を造る術ならん 夏目漱石

所収:『日本の詩歌 30 俳句集』中央公論社

広く知られるように文人・漱石は俳句をなしており、そのほとんどが熊本の第五高等学校教師だった頃の作である。それらはぼくらからして決して佳句だらけというわけではないが、とはいえそれは漱石がぼくらの時代と読みのパラダイムを異にしていることによるずれが大きいのだから、漱石に責を帰しても仕方あるまい。かえって妙味のようなものは感じられて味わい深いのだし、ぼくにとって漱石俳句はかなりフェイバリットである。

さて、掲句はかなりのところ理知から構成されるものであり、化学とはたとえば花火を造る技術のことだろう、というように少しくおどけてみせる漱石流のユーモアがある。たしかに花火は金属の炎色反応を利用するものであるから化学には違いあるまいが、とはいえ化学という分野を代表すべき技術の対抗馬は他にもあるだろう。石塚友二に〈原爆も種無し葡萄も人の智慧〉なる句があるが、化学を原爆に代表させるような戦後のペシミスティックな化学観と比すと、漱石の化学観はいくぶん能天気に見える。明治の時代にいくら西洋に対していち早く懐疑のまなざしを向けた漱石といえども、この程度には明るく化学を捉えていたことも、なにとなく面白く思われる。

記:柳元

Clarity 丸田洋渡

 Clarity  丸田洋渡

月は骰子ひと睡りして賭ける

    ○

雨が好き 空気一変する感じ

バイオリンみたいな夏至のお弔い

鼓笛隊が霊柩車を横切る。

ひやかせるだけひやかして蝶は夜

ふうりんの表裏と病理 ふうりんの

白鷺大通り誰の趣味の音楽

生まれそう蜂を殺してしまえる曲

洋楽の狂ったギター/狂った秋の

憑かれた雨一人なら歩かない道

     ○

死が待ってる バス停に指からませて

廃病院→動物園前→噴水跡

近未来が楽しみな時代は終わった

夏の死去思い出せないほど激務

不凍港にはほど遠い冷蔵庫

ときに好意は昆虫の動きで起こる

秋風や霊が心臓を脱ぐとき

錯覚のあなたが錯覚に気付く

月に兎聞きあきた箴言を思う

空中にぶらんこ一つ置いてある

ひつじ雲こころ渋滞しはじめて

夢にも夢をみている町にもぼたん雪

間欠泉しぶとく生きていかなくては

    〇

あなたって誰のこと幕間の薔薇

    〇

書きながら笑いそう桜云々

善悪はほんと曖昧スワンボート

あなたから架空のメール架空の季語

月の燦流行り廃りのある言葉

文字で視る空の庭・火の劇・藻の季

おどろきの短刀で刺す花火の橋

ふるえる葉ふりきる刀ふりくる雪

大陸に雪の機巧いつになく

どこか奇妙で妙に愛おしい砂漠化

絵には絵の暗喩があるからなあ 泉

この世の文字読みすぎるのもほどほどに

    ○

平和平和で盛り上がる鍋蓋に水

錆び付いた自転車で銃撃戦を見に行く

殺人はいともたやすく春が来るはず

復たとない毒の絶頂うつくしく

今は死後忌わしいひまわりを尻目に

    ○

醒めながら痴れて古典的なダンス

夏の皮膚まだ遠い天使の出番

電波塔 立体で蘇る夜

そよかぜの長い歴史に触れている

吹けば飛ぶ四季の指環をくすりゆび

透けてくる原風景に千の錠

考えたあとは葡萄樹で休むよ

歩きだす風の教唆を受けながら

胸中を月の客船流れつく

    ○

あなたから雨になる雪が降るから

かたくりは耳のうしろを見せる花 川崎展宏

所収:『観音』(牧羊社 1982)

ロープウェイを降りるとそこは緩い傾斜になっていて、木々に囲まれたうす暗さのなかにレンゲショウマが咲いていた。ひょろ長い茎の先に、ほの白く、むらさきがかった花をつけていて「うつむく」という語が浮ぶほど弱々しかった。消え入りそうだった。一匹の蜂がやって来て、花のうちに身を収めるとポロポロ落ちるものがあった。細やかな花びらのようで、可憐なレンゲショウマの姿に気持ちを寄せれば涙に見えた。

下を向いていているレンゲショウマの表情を撮ろうとして、膝を曲げ、スマホともども両手首を返すのだったが、画角に収めてシャッターを押さなくてはならない。押すタイミングを見極めなくてはならない。というわけで角度がついて真下から花を撮れない。そこで工夫した。セルフィーモードに切り替えてレンゲショウマの自撮りを取ることにした。

掲句が口をついて出たのはこの時である。掲句はまなざしのやりとりを詠んでいるのだろう、と思った。かたくりの花は観察者を見ている。もちろん下を向いているため、注がれる視線にかたくりの花が返すのは心のまなざしである。

見せる、には二通りの解釈がある。他の花が目を合せてくれるのと違い、かたくりの花は伏目がちにうつむく、恥ずかしがりやの花だという解釈。もう一つは、おのれ自身の美しさを知り、そっけなく耳のうしろを向けるコケティッシュな花だ、という解釈。どちらを取るかでかたくりの花の印象は大きく異なるが、前者なら「うしろが見える」のほうがふさわしい気もする。ただ、二つの解釈に共通して言えるのは、観察者の視線を意識してそれに対してかたくりの花が立ちふるまっていることである。

ハタチ過ぎの男がひとりで自撮りすることにはなにかしらの痛々しさが絡みつく。耳のうしろの世間という目に見据えられている気がする。レンゲショウマにセルフィーを向けたとき、その痛々しさが蘇った。掲句にも似たような花と観察者の心理の近づきがあるのではないか。句をつくるため過剰に花を見る。そのとき心の目は外を向き、他人の邪魔になっていないか気になる。その一方で自分は句を作っているのだから多少の邪魔は許してくれという傲慢さもある。かたくりの花は、観察者と重なる。

そんなことを考えながら撮った写真のうちの一枚が今回のヘッダーの写真である。こうして見るとレンゲショウマは病臥している者の顔をのぞきこんでいるような、心細げな表情を浮べている。

記 平野

顰蹙 柳元佑太

顰蹙 柳元佑太

空の秋野球の夢を偶に見て

梨の木に林檎のやうな梨がなり

丹念に日輪太る案山子かな

殊の外顰蹙を買ふ墓參かな

寶なく古墳安けし赤蜻蜓

天體は惰性の線ぞ柿ふたつ

山猫も暑さを厭ひ月の雨

切株や月の光の熱だまり

銀河濃し蟲の世界に居候

天の川ひと筋かかる港かな

水に映れば世界はきれい蛙飛ぶ 神野紗希

所収:『すみれそよぐ』朔出版 2020

「水に映れば世界はきれい」というのはスケールが大きくかつシンプルな思考の表現だが、「蛙飛ぶ」というミニマルな季語と取り合わせることで景色としてイメージしやすくしている。私の場合、ふと覗き込んだ水たまりに映る空の美しさなどを思う。

「水に映る世界はきれい」ではなく「水に映れば」である点から、水に映っていない世界をきれいとは認識していない可能性も伺える。しかしこの句が水に映る世界へと現実逃避しているような印象を受けないのはやはり「蛙飛ぶ」による。
蛙は水から上がってきておたまじゃくしから変態する生き物であるし、成体となってからは水と陸を自在に行き来する。この句における蛙もまた「飛ぶ」ことで水と陸の境界を超えるような印象を与える。だからこそ掲句は、単に水に映る世界を愛する句であるだけでなく、水に映る世界の美しさをきっかけに実際の世界の美しさへも心を向ける句であるように思う。

俳句ウェブマガジンスピカの作者自身の書いた記事でこの句の初出が紹介されているが(http://spica819.main.jp/konosaki/16032.html)、ミスでなければ「跳ぶ」となっている。「飛ぶ」への変更には、かの有名な松尾芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」へのオマージュがあるのかもしれない。

記:吉川

君の永遠は力試しに費やしてみてほしい 飾り天使のコーラス・ワーク 瀬口真司

所収:『ねむらない樹』vol.7(書肆侃侃房、2021)

 連作「プライベート・ソウル」より。「永遠」という単語の登場からのびやかな歌かと思いきや、ぎゅうぎゅうに詰められた上の句はものすごく速く読むことを要請する。そして上の句をどういう速度やリズムで読もうかと読者が苦悶しているなか、挑発するかのように「飾り天使のコーラス・ワーク」という綺麗で分かりやすい七七が後に控えている。

 まず最初に引っかかることになるのは助詞「は」だろう。費やす、という動詞から考えれば、「時間を費やす」のように「を」が来るのが居心地が良い。「君の〇〇を費やしてみてほしい」、と簡略化すれば意味は滑らかに入ってくる。ここが「は」になっていることで、一旦文が跳ねる印象が生まれる。跳ねるという表現が合っているか分からないが、「永遠」という言葉をより強調しようとして話そうとしているのが分かる。友人と会話するときの「今日面白かった話は~」みたいな「は」に感じる。この一瞬跳ねて強調される感じが、さらになめらかさを阻害する(これは人によって受け取る印象は変わるだろう。こういう取り立てて言う「は」が自然に聞こえる人であればそこまで気にならないかもしれない)。
 なめらかさで言えば、「費やしてみてほしい」という部分も気になる。この勧誘の言い方からすると「君の永遠を(君が)費やしてみてほしい」ということになり、ここは「君は君の永遠を費やしてほしい」くらいでもよかった話である。これがぎゅっと凝縮されて(作者的には「刻んでいる」のかもしれない)、強引に「力試しに」が挿入されている。一見喋っているようであるが、ここには強い調整の力が入っているような気がする。小説の中で、登場人物が小説外の人に向かって話しかけているような妙な感じが。

「力試しに」。「君」にある永遠とはどういうことなのか、本当に永遠があるのか、一瞬に見えかくれする永遠性のことを言っているのか、それすらこちらは分かっていないというのに、永遠を費やすことが「力試し」のひとつになるという。ここでの「力試し」がどれくらいのテンションなのか(例えば、力試しで一問数学の問題を解くのか、力試しで重いものを持ち上げてみるのか……)によるが、そんなことで「永遠」を費やしてしまっていいのか、という漠然とした不安がある。これが、「永遠を費やしなさい」と命令されていれば、そういう物なんだと納得できそうだが、「力試しに」「してみてほしい」とこちらが責任を負う形でさりげなく言われると、なお不安である。
 一体永遠を費やして何が分かるのか。どうなっていくことになるのか。「君」に対して話しかけているこの人物は、既に費やしたことがある何か達観した人なのか、何も知らないのに野次馬やファンのような感覚(うちわで「ウィンクして」みたいな)で言っているのか。

 永遠は費やしても無くなることのないものなのか。

「力試し」という単語を聞くと、私はそこに他者の存在を見る。「肝試し」なら、自分がどれくらい怖がらない心を持っているかという個人の挑戦のニュアンスがある。一方「力試し」となると、他の人が複数いて、その人たちにもさまざまなレベルがあって、自分は今その人たちの中でどれくらいのレベルに位置しているのかを測る、という意味になってくると思う。学力を試すために模試を受ける、のような。
 みんなは、どれくらいの「力」があるものなんだろうか。みんなも、力試しのために、所持している永遠を費やしてきたのだろうか。

 生きている時間を大切にしなさい、とか、永遠なんてものは無い、みたいな言説が、おもいきり捻られた形で現れているように感じる。だから、「力試し」の言い方も、「してみてほしい」の優しいふりをした言い方も怖く感じる。この人物はどんな表情で言っていて、今まで何人にこんなことを言ってきたのか。

「飾り天使のコーラス・ワーク」は、急に短歌のフレーズのように聞こえる。やはり七七の影響は大きい。「飾り」という言葉も、「力試し」とほとんど同じ色である。なんだか、「飾り天使」「天使のコーラス」「コーラス・ワーク」とどの部分を取ってみてもちょっとずつ鋭さがあり、上の句を承けるには随分意地の悪い言葉である。
 下の句は、上の句の背景としてあるのか、意味としてあるのか、象徴としてあるのか、到着先としてあるのか、関係は無いが裏で繋がっている映像なのか、私には分からない。ただ私には、「費やしてみてほしい」と言っている人物の顔がうっすら笑っていることだけが、はっきりと分かった。

 この連作内での次の次の歌〈祈りまで脂まみれになっていく夜景のタワーみずからとがる〉を意識すると、より鮮明に見えてくるものがあると思う。

 かなり難解で挑発的で、速くて、かっこいい歌だと思う。「コーラス・ワーク」の落とし方も、作者の(リズムの上での)(カタカナや語の配置上の)柔軟性を感じる。

 またこの歌の話からは逸れるが、この連作はもっと多い歌数で見たかった。七首しかないとどうやっても窮屈である(短いことを分かっていながらそろえた詠草であろうから、これはこれで見ていて面白かったが)。とくに瀬口の歌は歌数が並ぶことによって生まれる加速や、速度のばらつきによって生まれる浮遊感に特長があると私は思っている。笹井賞受賞者の新作で個人賞は7首というのがなかなか渋いなあというのが紙面に対する正直な感想だった。ふつうに呼ばれた歌人の20首より、受賞者がどんな態度でこれからやっていくのか、それが示される新作の20首の方を私は見たかったかな、と思う。といっても雑誌全体では良企画が盛りだくさんであったため、これからもまた期待して見ていきたい。

記:丸田

星空を歩いて茄子の無尽蔵 谷田部慶

発表:第24回俳句甲子園

「星空を歩」くと言表するときの詩的態度の潔さに感銘した。むろん我々はここで星辰の輝きを頭上に仰ぎながら地を歩み始めるわけだが、氏の表現により天は地に、地は天に転回する。言の葉に鬼神を和する力があるというが、氏の措辞は天地を混融せしめ、あたりは漆黒の闇と星々の輝きに満たされた豊饒な空間となる。歩め、その冷え冷えとした空間を。足裏は銀河の照り返しに明るみ、如何なる星雲を目指しあるくか。

大峯あきら〈虫の夜の星空に浮く地球かな〉橋閒石〈銀河系のとある酒場のヒヤシンス〉生駒大祐〈天の川星踏み鳴らしつつ渡る〉などの先行する銀河在住者の佳句とも響き合いながら、にわかにわれわれは星空の歩行者たる様相を帯びる。

加えて、「茄子の無尽蔵」という硬質な叙情は、ともすれば甘ったるいものに陥る可能性のある「星空を歩いて」という措辞を厳しく律しつつ、消尽することなき茄子の物質性の豊饒さを獲得することによって強度あるテクストへと見事に昇華させる。茄子の深い紺が秘めるものを宇宙へ抽出拡散に成功した取り合わせと言えよう。句全体としての景としても、頭上に星空の広がる茄子畑というアリバイを仕立てていることがこの句の可読性をあげており、ぬかりなき巧みな措辞さばきがある。

生活者としてのインティメイトな魅力はないが、ここには俳句という形式の抱え持つミクロコスモスの可能性そのものがある。

掲句は第二四回俳句甲子園の優秀賞。作者は開成高校二年生の谷田部慶氏。高校生の皆様、お疲れ様でした。

記:柳元

似ている 平野皓大

似ている 平野皓大

太宰忌の火鉢のうつる鏡かな

分かれゐて脚美しや夏の雨

夏芝居人去るほうへ波は寄る

嘴が来てしつとりと蝉分かれ

魚信来る夜は天上の涼しさに

夜長人とは花びらに埋めしを

非水忌のデパートに蝶青白く

枝ぶりの幽霊に似て木皮剥ぐ

おのれから車を出して生身魂

することのなくて墓参の葵紋

虫の夜の星空に浮く地球かな 大峯あきら

所収『星雲』ふらんす堂・2009

残暑とて秋も深まれば、夜風は確実に冷ややかな硬質さを帯びてくる。となると蟋蟀、螽斯、松虫に鈴虫、おのずから様々な虫の声に気付かれるだろう。世に充ち充ちてくる虫の声ごえに没入してゆくとき、その命の音響のなかで、星空も迫りくるような物質感をもって迫ってくる。そのときふと気付けば宇宙飛行士のごとき視点から、わたくしは地球を眺めている。見上げていた星空のその星の中の一つがいつの間にか地球なのである。この視線の移動というよりも、身体そのものが宇宙に浮きあがるような感覚はやはり独特である。かような視座変換のダイナミズムを持ち合わせる句はあまり覚えがない。たとえば正木ゆう子〈水の地球少し離れて春の月〉は一点から静的に眺めているように思われる。しかし掲句は虫の声への没入を媒介として動的に地上から宇宙へと移動するのである。

大峯あきらは昭和4年(1929年) -平成30年(2018年)奈良県生まれ。生涯を吉野に暮らす。浄土真宗僧侶かつ哲学者で専門はフィヒテや西田幾多郎。俳句は高浜虚子に師事、昭和28年波多野爽波の「青」創刊に参加。昭和59年「青」同人を辞し、同人誌宇佐美魚目らと「晨」を創刊、代表同人。毎日俳壇選者。句集に『吉野』『群生海』など。

記:柳元